もうじき僕は歌わない。@Wiki

hinata1

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 冬の訪れは、心を小さく揺すった。どこか遠くで泣く鈴の音が、かすかに耳に届くように。その音色が淋しければ淋しいほど、心の琴線はきれいに鳴り響いているように思えた。どうして淋しいほどにきれいに鳴り響くのだろうか。町を歩いても、ふと足を止めてしまう。そして周りを見たとしても、誰にもその音色は届いてはいないことを知るだけだった。それはきっと他の誰にもわからないのだろう。僕にしかわからないものだろうと思っていた。

 崇高なる孤独よ、それは寂しさの深さに比例する。

 電気屋の前を通ると、ウインドウにあるテレビには、マイナス三十度の日々が続くロシアが映っていた。町には、色とりどりのマフラーやコートを装う人たちが行き交っていた。口からこぼれる息が白かった。手が冷たくて、ポケットに突っ込んでもなかなか温まらなかった。
 あのぬくもりが懐かしい。僕がこれまで感じた中で、最も温かなものだった。これほどまでに人のぬくもりをあれほど温かいと思ったことはなかったし、感謝したことも、欲したこともなかった。こぼれる吐息は僕のちっぽけな心を優しく包んだ。重ねた頬が柔らかくて心地よかった。きれいな曲線は形容することができず、肌は絹のようになめらかでやわらかかった。思い出すだけで胸がじーんとした。そしてその思いはやがて、「なぜ僕はそんなに大切なものを失ってしまったのか」という後悔に掏りかえられていた。そうなると、僕はいたたまれなかった。もう二度と戻らない過去、失った痛みを抱える現在、どうにもならないものがそこにあった。思い出す度に、痛みや悲しみは何度でも蘇り、心深くまで広がっていく。いろいろなものが色褪せるこの季節には、その様がしっくりと馴染んでいるように感じた。

 外出から戻ると、扉に背を預けた。目の前にはがらんとした暗がりが広がっていた。吐息が目の前にぼんやりと広がっては、くすんで消えていった。僕はドアの前で暗がりを眺めながら、吐息のように何もかもがこの暗がりに飲み込まれて行くのではないかと思った。この闇と同化して、気付かないうちに僕の存在もゆっくりと静かに消えてゆくように。そうすれば、少し先の未来に「きっと」と期待することも、誰かにぬくもりを求めることもできなかった。
僕には友人と呼べる人間も、ガールフレンドと呼べる人間もいなかった。それは孤独であり、同じ時間の連続でしかなかった。曜日の感覚や時間の感覚も鈍るときだって少なくはなかった。いっそ、このまま消えてしまってもいいと思った。どうせ、それと大して変わりのない日々の繰り返しなのだから。そんなことは随分前に始まったことで、今さら嘆くことでもない。当の昔にその孤独にも慣れてしまい、いつしかそれが僕のスタイルになってさえいた。この世界で僕の存在は、あってないようなもの。僕という人間が生きていることを知る人間が、どれほどいるだろうか。僕がいなくなっても、何もこの世界は変わりやしない。僕がいなくなって悲しむ人間がどれだけいるだろうかと考えてみた。思いつく人間は片手で十分足りていた。それくらいの人間だ。僕という人間の存在は、僕の中や記憶の中で確認することが出来た。それ以外のすべてのものは、僕の存在を証明するには現実味の欠けるものばかりだった。

 手足の先の痺れるような痛みで、僕は我に返った。暗がりにも目は慣れて、部屋の中の輪郭がしっかりと見ることができた。それでも目蓋を閉じれば、先ほどまで目の前に広がっていた闇がそこにはあった。僕は闇に取り込まれることもなく、今もきちんと存在をしている。吐く息が白い。手足が寒さのあまり鈍い痛みを感じている。それが僕という人間が存在している証の一つ。淋しいものだと思った。
靴を脱ぎ部屋の明かりをつけ、暖房のスイッチを入れた。そして部屋が暖まるまでの間、やかんを火にかけてお湯を沸かした。手を火にかざしながら体を震わせていた。手足の指先は凍りつくように冷え切っていて、何度も鈍い痛みを感じた。
しばらくすると、八畳ほどの部屋を暖かな空気が流れ始めた。体は芯から冷え切っていたため、僕は震えを止めることができなかった。タバコを吸おうとしても、手が悴んでなかなか思い通りに動かなかった。仕方がないので口でタバコをくわえて、タバコの先をガスの火まで近づけた。そうやって何とかタバコを吸った。以前にもこんな風に寒さに身を震わせていたことがあったことを思い出した。いつのことだったかすぐには思い出せず、そこで思考は止まった。
 お湯が沸くとコップに注ぎ、できあがったコーヒーを飲みながら部屋を見渡した。この部屋で暮らすようになってから三年が経つが、相も変わらず殺風景な部屋だった。洗濯機や暖房は最初から備え付けられていた。僕が持ってきたものと言えば、衣類や布団、灰皿と卓上コタツに少しの食器類だった。他にはわずかな文庫本と筆記用具、ウォークマンにカセットが何本かだけだった。テレビもなければ、コンピューターもなかった。ほとんど余分なものは置かれてはいなかった。一人暮らしで滅多に来客のない身においては、それで十分だった。
それでよかった。余分なものを飾ったり、身の回りに置いたりする必要はなかった。そうでもしなければ、人はいろいろなものを溜め込んでしまう。そして一度手に入れたものは、なかなか手放しづらいものだ。使いもしないのに、いつまでも残しておく過去の遺物のように。割り切らなければ、いつまでも抱え込んでしまう。そんなことを誰もが経験したことはあるだろうし、僕にもその傾向はあった。
 そして、ある類のものにおいては、一度得たものを失うことの痛みに比べれば、初めから存在しないことへの寂しさの方がずっとマシだった。喪失による穴を補うことよりも、手に入らず何かを代わりにして済ます方がよっぽどか楽だった。人は感情的な生き物だから、どうしても感情を傾けてしまう。愛情を注げば、どこかでその見返りを求めてしまいがちである。だから喪失や裏切りといったものは大きな痛みを伴い、心をあらんばかりの力で粉々にしていくのだ。神経は「これでもか」とばかりにすり減らされ、感情は行き場所もなくさまよう。しかし、どれだけ感情を何かにぶつけても、逃げたりしても何も解決はしない。結局は、黙って時が過ぎるのを待つ以外に乗り越える方法はなかった。そういうものは時間をかけて少しずつ、ゆっくりとゆっくりと痛みが和らぎ、どこか目のつかない奥の方へと隠しておく。簡単に見つかったりしないように。不用意に見つけて思い出すことで、僕が再びつらい目に合わないように。それでも、時々思い出してしまうことだってある。そこから逃れられずに、とどまり続けてしまうことだってある。僕もそのくちだった。
 そのせいもあって、僕は家に独りでいることを避けていた。平日は朝から夜まで働き、休日は簡単に掃除を済ますと外へ出た。映画を見たり、ブラブラと町を歩いた。そしてお腹が減ると、適当に店に入りタバコを吸いながらお酒を飲んだ。そして軽くご飯をお腹に入れると店を出る。そして家に帰るとまたビールを飲みタバコを吸って、少しだけ目を閉じた。心地よい気だるさの中で、遠くの方で何かが誰かが僕を呼んでいた。少しの間感情の赴くままに記憶をたどり、思い出に浸った。そんなときはいつだって鼻がつーんとなるくらいに悲しくなって、ずっと昔に感じた思いが静かに蘇った。そして次の朝が来るまで眠った。

 次の朝は、必ずやってきた。変わり映えのない一日がまた始まろうとしている。そう思うとため息が重かった。

 終わりのための始まり、始まりのための終わり。

 どちらでも良いことで、気に留めるべきことでもなかった。ただ、昨日の夜に思い出した過去の思い出を除いては。
口に出してみた。
 終わりのための始まり。始まりのための終わり。その言葉を思い浮かべると、小さな井戸の底から空を眺めるような気分だった。
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