もうじき僕は歌わない。@Wiki

hinata4

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それから幾らか時は流れた。
 二十歳になっても、相変わらずぼんやりとした日々が続いていた。自宅から大学へ通い、週の半分以上はレンタルビデオショップで夕方から深夜の閉店まで働いた。何もせずに過ごすには、とても膨大な時間があった。誰かと遊びに行くわけでもなく、暇を持て余していた。大学に進学した僕に、さすがに親からの小遣いの支給は止まり、自分で働くことを余儀なくされた。アルバイト雑誌を買い、大学のアルバイト先の紹介などに一通り目を通したが、どれもピンと来るものはなかった。学校からの帰り道、レンタルビデオ店でアルバイトの募集の貼り紙を目にした。そこならば一度も利用したこともなかったし、客も顔見知りはほとんどいないだろうと思った。とりあえず履歴書を書き、先方に電話を入れた。すると店長と思しき人が電話に出て、面接の日時が伝えられた。
翌日面接に行くと、まじめそうな四十代辺りの男性が出てきた。そして店内の奥にある散らかったスタッフルームに通された。何とも男臭い部屋で至る所に物が置かれていた。商品に関する付属品らしきものや、展示用の張り紙、マジック、汚れきったエプロンと、吸殻が山盛りになった灰皿があった。置いてあるものは違うが、サークルの部室を思い出させた。ここにも混沌とした世界は存在していた。そもそも僕の暮らしそのものだって混沌たる世界ではないだろうか。世界の至る所に混沌は存在していて、僕らをあざ笑っているように思えた。
面接はすぐに終わった。あまりの早さに不採用だと思った。それくらいに、あっという間だった。店を出る前に店長は「君はきれい好き?」と僕に聞いた。その意図がわからず思わず首を傾げたが、「人並みには」と僕が答えると、「それで十分」と言ってにんまりした。実は、これにはきちんと理由があった。これまで何年も働いてきた学生が就職活動等で急に辞めてしまい、一気に人手不足へと陥っていたのだ。そして残ったのは、三名のスモーカーだけだった。彼らは誰一人灰皿も部屋も片付けなかったので、ひどい荒れようだった。だから、店長は僕に「きれい好き」かと聞いたりしたのだ。
とにかく、僕はタイミングが良かった。そして、内向きな人生を歩む男だが、掃除や与えられた仕事はそれなりにきちんとこなしていく。当たり前のことを当たり前にすることが最近はなかなか難しいようで、おかげで僕は高評価を受けたりもした。店長はもう一人くらい人員を探していたが…、かくして僕は次の日からレンタルビデオ店で働くことになり、最初の仕事はスタッフルームの掃除からだった。やれやれ、と僕はため息をついた。

アルバイトを始めたからといって、問題そのものが解決される訳ではなかった。けれども、生活はしっかりと変化していった。今までのように時間を持て余して、イヤホンを耳にあて音楽を聴いて一日が終わることは少なくなった。店内では今どき流行りのポップソングがローテーションされていた。一日いるだけで、流れている曲のほとんどが耳についてしまった。僕はそれほど愛想の良い店員ではなかったけれど、きちんと仕事はこなした。
お店は個人の経営で、他のチェーン店に比べれば店舗の規模はそれほど広くはなかった。仕事は雑務がほとんどだった。レンタルと返却のカウンター、展示用品の作成、入荷物の陳列とその準備、陳列物の整理などだった。お客への対応はあまり好まないものだったが、僕が男性だったためか相手にまったく気を使われることもなく、その分は気楽だった。さすがに夜になると、男性や若い年齢層の客層が増えた。それに比例してアダルトビデオの出入りの数もぐっと増した。これがこのアルバイトへ来て一番の驚きだった。
「アダルトビデオは大きな収入源だからね。アニメや映画のビデオなんて、それに比べれば知れたものだよ。性欲なんて、底のないような物だから、いつだって需要は生まれる」と他のアルバイトの人は言っていた。つまりは男性客さまさまという訳だ。これも円谷さんの言う「混沌」に当たるのだろうかと、ふと考えてしまった。
 深夜、閉店する少し前からすぐに帰れるように準備をした。そして閉店して三十分ほどでレジの勘定の計算も終わり、鍵を閉めて外へ出た。一時に閉店し、一時半には店を出る。そして二十分弱で家に着く。さすがに夜中の二時ともなると、皆寝静まり僕一人食事を済ました。少しぬるくなったお風呂に入り、中高年の男性のように湯船に入って体の底から疲れとともに声を出した。
 僕はこの時間が好きだった。一日のすべてが終わり、何もかも気にせずにただ眠れば良いという安堵感や開放感がたまらなく心地よかった。何よりも一日が過ぎるのが早かった。それは僕にとって嬉しいことだった。余計なことを考えなくて済んだからだ。時間を持て余して、一人でイヤホンを当てて音楽を聴いて時間を潰さなくても済んだ。店には多くの人間が足を運び、その人たちと接することも内向きな僕には大切なことだった。たとえ事務手続きにしても、幾らか言葉を交わさなければならなかった。だから、僕は誰とも話さないで一日が終わるということがかなり減った。今は逆に休みの日は誰とも話さず過ごしたい気分になることも多かった。そうすると落ち着くし、自分をリセットすることができた。こうして日々は過ぎていった。

大学に入って三度目の春が来る頃、円谷さんは大学を卒業した。
「ナガミネ、お前だいぶ変わったよな?」
円谷さんは自分のタバコに火をつけると、僕にもタバコを勧めた。
「少しは変わったかもしれませんね」
僕はタバコを一本もらい、円谷さんはタバコの先に火をつけた。それをゆっくり吸いこみ、そしてゆっくり吐き出した。このタバコも変化の一つと言えるだろう。
僕は過去の自分に少し後ろめたさを感じた。昔の僕が望んだように、今僕は少しずつ時間をかけて変わりつつある。誰もが送る普通の生活に近づきつつある。相変わらず話し相手はいないけれど、それを淋しいと思えるようになった。きちんと感じられるようになった。ぼんやりとした時間をただひたすらやり過ごしていたあの頃に比べれば、多少のメリハリはできているのかもしれない。ただ、それだけに昔の自分より、少し幸せな自分が申し訳なかった。幸せになるのに、どうして臆病になるのだろうか。それを望んでいたはずなのに…。
 円谷さんは大学を卒業して販売業に就いた。毎日が営業で出歩く日々だという。顔見知りの友人やなじみの店に顔を出し売り込む。それを毎日繰り返しているそうだ。
「よっぽどか、学生の方がマシだったよ」と僕に愚痴を漏らしていた。
時々、円谷さんから電話があり、僕は彼のおごりでご馳走になった。その分きちんと耳を傾けて愚痴を聞き、何度も首を縦に振って頷いた。
「すべては混沌から生まれる」と僕は言った。
円谷さんは、うなりながら考え込んでいた。
季節は夏が過ぎ、秋も半ばにさしかかろうとしていた。

 大学三年目の秋も、これまでの生活と何も変化はなかった。相変わらず大学で話す相手もおらず、一人で昼食を食べた。講義が終わるとアルバイトに出かけ、深夜に帰宅した。何かが変わっていると思っていた生活も、いつしか停滞し、以前に戻っているような気さえした。高校を出て、進学もした。サークルにも入った(やめてしまったけれど)。アルバイトも始めた。それなのに、僕は姉や円谷さんというわずかな話し相手しかいなかった。時間の流れを早く感じても、結局のところ虚しいのは同じだった。
 それは僕が孤独だったからだ。自分の中でさえ自分自身の存在が薄まっているように感じてしまう。それは数年前も同じだった。あまりにも他との結びつきが薄く、孤独な故に膨大な時間と当てのない未来に途方に暮れたように。
「何も変わっていないじゃないか」
心の中で大きく叫ぶと、歯を食いしばって壁を拳で打った。ジーンという痛みとともに涙が頬を伝った。何でこんなことで涙しなければならないんだ。何で、僕の人生はいつもこんなくだらないものなんだ。こんなに虚しく淋しい人生を誰が望むと言うんだ。本心でこんなもの望むものか。一人でいることが自分らしい生き方なんて、真実なハズがない。見て見ぬフリをしているだけなんだ。その方が楽だと知っているから、向き合うことから逃げているだけなんだ。言い訳をつけて逃げているだけなんだ。
 しばらくして感情の昂りも収まった。実際不満を並べたところで、その打開策などないことは以前から知っていた。それは今も同じことだった。僕は今も尚「その時」が訪れることを待ち望んでいる。小さな井戸の中で助けを求めるように…。
 しかし、感情の昂りの代償は大きかった。僕の左手は、壁に打ちつけられたことでヒビが入っていた。完治までは一ヶ月以上の時を要した。とっさに左手を選んだのは、右利きの僕にとって幸いのことだったが、それにしても馬鹿なことをしたものだと思った。おかげで周囲に目立ちやすい石膏をつけられてしまい、僕は窮屈な毎日を余儀なくされた。

人にはそれぞれ持って生まれた「運命」というものが存在するという。勿論、確認したわけでもなく根拠のないことだが。たとえば、僕がいつまでたっても同じ境遇に身を置き続けることについて。どれだけあがいても、何も変わらないのは定めのためだろうか。たとえば、有名な人気ミュージシャンたちが薄命であるのは定めなのだろうか。確かに、人生には転機や運命的な偶然(=必然)を感じさせるときがある。そして、それは人それぞれに数や時期があり、ふいに訪れる。
そして、僕にもきちんと存在していた。

冬が近づく秋の日、僕はいつもと同じように講義を受けていた。二限目の講義が終わると、教室内はあっという間に静寂を失った。椅子を動かす音や足音、話し声や笑い声が溢れかえっていた。僕はいつもと同じように、一人黙々と鞄の中にノートをしまいこんだ。人の群れで身動きが取れなくなる前に早く教室を抜け出したかった。素早く鞄のベルトを首を通して肩に掛け、その場を立ち去ろうとした。
その時、背後ざわめきに混じって僕の名前を呼ぶ声がした。僕は自分の耳を疑った。僕のことを呼ぶような人に心当たりなんてない。だいたい誰も僕の名前なんか知らないし、僕という学生がいることさえ知らない人間がほとんどだろう。その中で僕を知っている人間といえば、眼鏡男くらいしかいないはずだった。しかし、その声は眼鏡男のものとは明らかに違っていた。
そのまま足を進めると、先ほどより少し大きな声でまた僕の名前を呼ぶ声がした。ゆっくり後ろを振り返ると、彼が立っていた。彼の後ろの窓から光が差し込み、僕のところからでは彼が良く見えなかった。彼はゆっくりと僕の方へと近づいてきた。距離が縮まると、光の中から彼はゆっくりと姿を現した。細身で背が高く、髪の毛はやや長めで、少し茶色に染めていた。前髪から覗かせる瞳は二重で、きちんとした輪郭を持ちながらも優しい印象を受けた。肌は白く、中性的な顔立ちをしていた。少し淡白そうな素っ気ない雰囲気もかもし出していたが、声はそうでもなかった。決して声を張って話すような口調ではなく、やさしく語りかけるような口調であったが、きちんとした話術が備わっているようで、彼の言葉にはきちんと力が宿っているように感じた。それによって淡々としていても、言葉にどこか温かみやメリハリを感じることができた。こういう人間なら、誰からも好かれるのだろうと思えた。対面してわずかながら、一目見て、彼の話し方を見ればすぐにわかった。そして、それが間違いないことにも十分自信が持てた。
しかし、僕は彼を知らない。会ったこともない。それとも僕が覚えていないだけだろうか。彼のような人物ならば、出会っていれば忘れることはなかった。
「ナガミネ君、だよね?」
彼は僕の前まで来ると、上品な笑みを浮かべた。僕は誰ともわからない彼を目の前に、少し戸惑いながら返事をした。
彼は「始まりのための終わり。終わりのための始まり」と口にしたが、いまいちピンと来なかった。確かその言葉は、サークルの歓迎会のときに僕が円谷さんに口にした言葉だった。僕に姉が言った言葉でもあった。そしてそこまで思いつくと、何か腑に落ちないものがあった。僕は何かを見落としているのだ。一体、何を見落としているというのだろう。頭の中の回転数を少し上げて考えてみた。彼はそんな僕を答えが出るまで待っていてくれた。
「始まりのための…サークル…円谷さん…」と思いつく言葉を口に出してみた。
彼は思い出せない僕にヒントをくれた。
「新入生は三人」
そうだ。確かにあの時、円谷さんは新入生は三人だと言っていた。一人は眼鏡男で、もう一人が僕。あと一人は…答えを探していると彼と視線が合った。
「そう、僕が三人目さ。初めましてだね、ナガミネ君」
今度の微笑みは、さきほどよりも親しみの深いもので、僕にも思わず笑みがこぼれた。
これが僕と彼との出会いだった。周囲の人間は既に教室を後にして、残っているのは僕らをだけだった。僕らは教室を後にし、購買で適当に買い物を済ませ、いつも僕が昼食をとる人気のないベンチに腰をかけた。広い四角い敷地の中に、何棟もの校舎があった。正門と裏門が正反対に位置し、正門をくぐると、ある程度のスペースが設けられていた。正門前にはバスターミナルがあり、正門から五十メートルほど下り公道に出ることができた。正門を入ると左手に駐輪場が設けられ、右手には掲示板があった。構内はまるでテーマパークのように道が張り巡らされ、どこにでも通じていた。構内の中央には噴水があり、そこが広場として開かれ、人が集まっていた。僕らは裏門の左手側にある校舎の前のベンチに腰をかけた。裏門の右手にはグラウンドや体育館があり人が多く、僕はあまり近寄らなかった。
「へぇ、ナガミネくんはここでいつも食べているんだね?」
「ここは人が少ないから…」
起伏のある土地に建てられた校舎は、場所によって高低差が存在していた。僕らの居るところは、コンクリートのなだらかな階段を少し上ったところにあり、よく下の様子が見えた。
「いつも、一人で?」
「うん」
上手く言葉が出てこなかった。アルバイトもしているというのに、未だに他人と一対一で向き合うと、緊張して照れくさかった。きっと、僕がこういうことに不慣れなせいだろう。経験が圧倒的に足りないのだ。円谷さんや姉と話していたときとは異なる高揚感が、そこにはあった。それでも、彼の親しみやすさが、僕を幾らか助けてくれているように思えた。おかげで、上ずりながらも何とか話をすることができた。
 僕らはいくらか互いの情報を交換した。どんな講義をとっているか、どこに住んでいるか、昼食はどこで取るか、そういった簡単な話をした。それでも彼と話すことは楽しかった。自然に耳を傾けられたし、彼の言葉が僕の中の絡まった糸を少しずつ解いているようにも思えた。おかげで、僕は人と話すことの楽しさを感じることができたし、彼ともっと話をしたいとさえ思っていた。できれば、友だちになりたいと。
でも、彼は僕と友だちになりたいと思ったりするだろうか。彼と僕を比べると、本当に同じ年の人間とは思えなかった。僕の方が子どもで、彼はそれに比べ随分と落ち着いていた。そして、人を惹きつける何かを持っていた。現に、僕はこうして彼の引力に引かれている。それとも、僕の引力が働いているだけなのか。どちらにしても、僕のようなシスコンで、面白味のない人間には用はない。ならば、そういうことは口にしない方がいい。不用意に自分を傷つけることはない。という結論で、いつも通り落ち着きを見せた。これはネガティブと言うのだろうか。それとも現実的と言うのだろうか。
 チャイムが午後の講義の開始が近づいていることを知らせた。
「ああ、もう時間だね。次の講義は何?」
「僕は英語」
「そうか、残念だね。もう少し話せたらよかった」
彼はゆっくりと腰を上げた。突然の出来事で驚いたけれど、彼と出会えたことは嬉しかった。そして、少し寂しくなった。階段をゆっくり下り始めると、彼が僕の名前を呼んだ。
「今日は会えてよかったよ。やっぱり思った通りだった」
僕は黙って彼の言葉を聴いていた。ここできちんと僕も嬉しかったことを伝えられたら良かった。けれど、彼の言葉があまりにも真っ直ぐで照れくさくて、そして僕を圧倒していた。
少しの沈黙があった。今まで軽快に言葉を口にしてきた彼が、一瞬言葉を口にするのをためらった。それから少し控えめに、こう言った。
「君さえ良ければなんだけど、僕の友だちなってくれないかな?」
突然のことで、「いいよ」と一言返すのが精一杯だった。彼からこんな言葉を聞くなんて思いもしなった。
彼は僕の返事を聞くと、「ありがとう」と本当に嬉しそうに喜んだ。本当に嬉しそうだった。「ありがとう」なんて、僕が言う言葉なのに。
彼は軽く手を振ると、次の講義へと向かった。
僕は頭の中で整理するのに時間を要した。午後からの講義はまるで頭に入らなかった。ずっと彼と出会ったところから別れるまでを思い出していた。いくつも腑に落ちないことがあった。彼はいつから僕のことを知っていたのだろう。どうやって僕のことを知ったのだろう。彼は僕を正しく理解しているだろうか。そもそも、「思った通り」と彼は言っていたけれど、僕をどう思っていたのだろう。しかも「やっぱり」とまで言っていた。そうなると、彼の想像は彼の中では正しかったことになる。彼の想像する僕って、一体どんなものなんだ。そして、「思い通り」という言葉は喜んでいいものなのか、それともいつもと同じなのか。思い返せば、わからないことだらけだった。それでも、僕はとても幸せだった。誰かが、僕を必要としてくれた。僕が必要とする人が、僕を必要としてくれた。こういった偶然がたまらなく嬉しい。それはこれまで一人ぼっちの時間が長かった分、よくわかる。それなのに、僕は上手く言葉が出ず、彼の申し出にも「いいよ」なんて答えたりして。本当は僕と彼の台詞が逆になるはずなのに。
僕の胸の中は踊っていた。とても、講義なんて聴いている場合ではなかった。講師が怪しそうに僕を眺めても、僕は微笑み返した。何とも怪しい奴になっていた。
それはバイト先でも続き、一緒に働く年下のアルバイトの男の子は奇妙な目で僕を見た。それもそのはずだろう。年中さえない顔をして、必要な時以外話さない男が、今日はずっとにんまり笑っているんだから。妙に接客もやわらかい。
「ナガミネさん、どうかしたんですか?いいことでもあったんですか?」
「別に」と僕は嬉しさを堪えた。本当はどんなにすてきかを話してあげたいけれど、それはできなかった。嬉しさが半減してしまうし、彼らにとっては大した出来事ではないだろうから。
彼らは知っているだろうか、暗い部屋から一人外を眺める寂しさを。
彼らは聞いたことがあるだろうか、耳を塞いだときに聞こえる鼓動のいびつな響きを。
彼らは感じたことがあるだろうか、重い扉が開き、まばゆい光とともに流れる心地よい風の安らぎを。
彼らは覚えているだろうか。初めて友だちが出来たときの喜びを。
 僕にはとんとご無沙汰な出来事だった。だから、他の人にとってありふれたことでも、たまらなく嬉しい。「何かいいことないですかね」とぼやく隣のアルバイトの青年は、きっと忘れているんだ。自分が抱えているものが、それそのものであることを。何も新しい喜びを探し続ける必要はない。きちんと彼らは持っているのだから、少しだけ思い出してみればいい。そうすれば、当時の気持ちを少しだけ思い出せるから。
 自転車をこぐペダルが軽かった。流れゆく風が速かった。家に帰ると、お風呂に入りながらもう一度きちんと整理してみた。こんなに興奮しているなんて、自分らしくない。けれども喜びを迎えたとき、人はこのようにして胸が躍るのだろう。明日が来るのが嬉しかった。一人、小さな声で「YES」と叫んでガッツポーズをした。
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