もうじき僕は歌わない。@Wiki hinata5

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 次の日目が覚めると、昨日の胸の高鳴りがまだ少し残っていた。大きく一つ深呼吸をした。階段を下りて一階に行き台所に行くと、もう皆は食事を始めていた。まだ朦朧としたまま目をこすり、「おはよう」と言って椅子に座った。用意されたトーストにマーガリンを塗っていると、周りの視線が僕に集中していることに気付き手が止まった。姉は「アンタ、熱でもあるんじゃないの」と僕の額に手を伸ばしたが、僕はそれを払いのけた。熱もなければ、頭もおかしくない。 
姉は少し怒っていた。いつもは素直に好意を受け入れ、額に手を触れさせる僕が、今日に限ってそれを拒んだからだ。素早く食事を済ますと、姉に絡まれる前に早々に家を出た。両親は、常に唖然として成り行きを見ているしかなかった。何だかおかしな光景で、自転車に乗りながら笑みをこぼしている自分に気がつき、唇をかみ締めたけれどまた笑みがこぼれた。
午前中、校舎の片隅のベンチに座りながら、前を通り過ぎる人々を眺めていた。その人たちの数だけの人生が存在する。眠たそうな人、満面の笑みの人、無表情な人、実に様々な人がいた。僕は想像してみた。彼ら一人ずつの嬉しそうな顔と悲しそうな顔を、光と影を。僕には彼らの何すらわかっていないけれど、誰もが持ち合わせている光と影。それは僕も例外でなく、マコト君も同じだった。みんな同じだった。
僕は一人ずつに聞いてみたかった。君の人生はどんなんだい、と。
マコトくんは、人生と言うものは嬉しいこと半分、つらいこと半分だと言った。そのバランスが偏っているように思えるのは、受け手が偏って受け取るからだと言った。僕の場合、圧倒的につらいことや憂いの部分が多かったように思う。けれども、彼の言うとおりならば、僕の人生にはそれと同じ数だけ嬉しいことも存在してきたことになる。つまり、僕が今偏って感じてしまうのは、何かを見落としているのか、それとも悲観的に感じているからに違いなかった。けれども、どうにも僕のこれまでの人生においてはその偏りは存在していたように思う。それとも、一つの喜びが十の憂いに相当するほどの喜びなのか?これからの人生も含めて半分半分と言うのだろうか。彼は難しいことを言う、と思った。
三限目が始まると、彼の姿が教室にあった。僕と彼はこの三限目は同じ科目を履修していた。講義中、僕は何度か彼の方に目をやった。彼は僕の視線には一度も気付くことなく、講師の話に耳を傾けていた。あまりにも気付かないので、彼は意図的に僕の視線を無視しているのではないかと思った。そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。
講義が終わると、彼は少し周りにいた友だちと話をしていた。そして手を振って彼らと別れると教室には僕と彼しか残っていなかった。
「やあ」不自然な言葉しか思いつかなかった。彼は僕の顔を覗き込んで笑った。
「まだ、緊張しているのかい?」
そうだ、僕は緊張しているらしい。よく考えれば、これまでろくに人付き合いもしてこなかった人間に、突然友だちができた。それも昨日の出来事だ。僕は彼のことを何も知らないに等しい。僕らの間にはまだまだ距離があると思った。
「本当に、これまで一人でいることが多かったんだね。でも、これから深めていけばいいさ。僕と君は友だちなんだ」
嬉しい言葉だった。彼の言葉は僕に語りかけるように伝わった。けれどもその反面、彼の言葉は彼自身にも向けられているようにも感じられてしまったのは気のせいなのだろうか。ふと、そんな疑問が脳裏をよぎった。
「このあとは?」と彼が聞く。
「今日はこれで終わりなんだ」と僕が答える。
「僕もだよ」と彼は言った。
やはり、わからなかった。どうして彼が僕みたいな人間と友だちになりたがるのか。
 僕らはまた昨日と同じく裏門の左手側へと向かった。途中の自動販売機で僕はコーヒーを買い、彼はレモンティを買った。太陽は傾き、風が少し冷たくなってきていた。頬を掠める風の感触で、冬が近づいてきているのがわかった。秋の夕暮れはとてもきれいで、いろいろなものをオレンジ色に染めていった。
「僕はこの時間がとても好きだよ」と彼は遠くをじっと眺めていた。その姿を見ていると、なぜだか少し悲しくなった。彼の中にある何かがそう感じさせてしまう。そして、僕はそれを見つけてしまう。
「いいね」と僕も頷いた。
「これほどまでに世界を一色に染められるのは、夜と冬の曇りの日を除けば、秋の夕暮れくらいだろうね」
彼が言うと、それが真実のように聞こえた。それが世の理のように聞こえた。何も疑う余地のない言葉のように僕には思えた。
 僕らは日が落ちるまで、いろいろな話をした。時間が過ぎるのをとても早く感じた。やはり、どれだけ話しても話し足りなかった。話せば話すほど、僕と彼の距離が縮まって親密になっていくのがわかった。それはとても嬉しいことだった。もう久しくこんなふうに誰かといることにドキドキしたりしたことはなかった。まるで、僕は恋でもしたように興奮しているように思えた。
本当はこのまま話し続けたかったが、互いにアルバイトが入っていたので、そうもいかなかった。もちろん、たまには休んでしまうのも悪くはなかった。けれども、彼は自分で学費も生活費も稼がなければならなかったので、気軽に休むことを勧めることはとてもできなかった。もっとも彼ならば、「他の人に迷惑をかけられない」と言うに決まっているのだけれど。
 その夜、僕がアルバイト先に行くと、とんでもないことになっていた。アルバイトの間では、僕に恋人が出来たということになっていた。そして、その相手はゲイだと。なぜ、そうなるんだ…。一体、どこからそういう話がわいてくるのだろう。僕は一言もそんなことを口にしたりしていないのに。そして僕に出来たのは恋人ではなく、友だちである。ただ、友だちのことを“ゲイ”呼ばわりされることは腹立たしかったが、彼らに説明していると余計に腹立たしくなりそうだった。しかし、こんな僕でさえ彼らの噂話のネタにされるとは…。一夜でこんな話が出来上がってしまうなんて、彼は想像力を無駄に使っていると思った。

 少し、彼のことについて話をしよう。
 彼の名は蔦井真言(ツタイ マコト)といった。高校を出て大学入学と同時にこちらへやってきて、大学の付近で1人暮らしを始めた。家の方針だとかで、高校時代からアルバイトをして自分の小遣いなどは稼いでいた。大学に入ると自分で学費も生活費も稼いでいた。学費は奨学金でやり過ごしていると言う。こんな話を聞いていると、親の脛齧りの僕には肩身の狭い話だ。
「それは違うよ。僕は必要だからしているのさ。少しだけ早く僕は挑んだだけさ」
しかし、その違いは大きいと思った。その意識の違いが、人間を作る上で大きく影響をしてくる。僕は、彼と肩を並べて話す自分を恥ずかしく思った。
「僕はずっと決めていたんだ。高校を出たら、一人でやっていくってね」
彼はすばらしい人間だった。自分の欲求とやるべきことをきちんと分けて考えることが出来たし、自噴の欲に目がくらむことはなかった。きちんと自分に他人に誠実であろうとしていた。だからと言って堅苦しさを感じることもなく、他人を無碍に責めたり、傷つけたりは決してしなかった。彼はいつだってきちんと言葉に耳を傾けようとしていたし、それは誰もが好感を抱いた。そして、彼の生活は表面からは想像もつかないほど過酷なものであったが、それを表に出すこともなかった。十九歳から一人ですべてをやっていくことが容易でないことは、すぐに想像できた。自分の稼ぎですべてを賄うのはたいへんなことだった。それは時を共にするにしたがって、身にしみるほどわかっていった。
 もう一つ彼の特徴的なところは、時々「人生はすべてプログラムされている」と言っていた。彼は「プログラム説」と呼んでいた。それは、人間の人生は多少の不特定な要素を除けば、ある程度のことは誕生と同時に決まってしまっているというものだった。つまり、僕が生まれた頃には、名前も決まっていて、十代を暗く一人で過ごし、シスコンに近い人物であることも、僕とマコトくんが出会うこともすべて決まっていたというのだ。僕はそんなことを知らないから、訪れる未来を自ずと選択して切り開いたように思う。しかし、きちんと幾らかの選択肢が用意されていて、どれを選んでも最終的に行き着く先は、それほど変わらないものなのだと彼は言った。すべては必然たる偶然であるのだと。
 円谷さんが「すべては混沌から生まれる」と言っていたのを思い出した。少しそれに似ていた。一体どうしたというのだ。どうして彼らはそうやって宗教めいたことを言ったりするのだろう。
マコト君は、それを「観念」だと言った。                                                                                                                               
「人は、ルールや好み、思い込みや印象などで、可能性を自分で制限してしまう。もちろん、物事にはタブーなるものが必要であるし、カテゴリー化することは理解することを助けてくれる。けれども、それがなければ、もっと人は自由なのだということを忘れている。時に窮屈で、そこから逃げ出したくなる。けれど、逃げ出せない。人は、自分を自分で縛るのさ。がんじがらめにしてね。それに気付いても、どうすることも出来ないのは、人たるからこそさ。性格や気質、傾向なんてものは、そう簡単に修正できるものではないんだ。だから1人の人間が行うことは、その好みや傾向に合わせて偏ったものになる。それは逃れられないものなのだよ。」
すべてがもう既に決まっていることかどうかはともかくとして、確かに彼の言うことに一理あった。僕は彼の言うように、自分から抜け出せずにいた。抜け出そうとしても、いつしか元の位置に還ってきていた。それは僕たる故のことだというなら、それで説明はつく。そんなに人は簡単に変われない、変えられない。
「けれども、これも1つの観念でしかないんだ。生きていく上で必要だから、そういう考え方をするんだ。そういう捉え方で、救われている部分があるからね。それが正しいかどうかはわからない」
彼がこの話をすると、気のせいか瞳に憂いを感じてしまう。秋の夕日を眺めた時のように。彼は「生きていく上で必要だから…」「救われている…」と言っていた。つまり、彼にはその必要があって、こういう考え方を身に付けたということになる。それは彼の弱さを示すものでもあるのだと直感的に感じた。それは弱さと言え、強さとも言えた。僕には彼の中でその両者が揺れ動く様を垣間見ることが出来た。
しかし、彼は二十一歳にして変わった観念の持ち主であるが、ある程度の人間像をきちんと作り上げていた。周りの同世代を見ても、圧倒的に彼は抜け出ていた。彼はこの年にして、ほとんど彼という人間を完成させているように思えた。多少の弱さや憂いはあるにせよ、それは誰にでもあるもので、それを除けば彼は自分という人間を把握し、周囲との共存を上手にこなしていた。不完全なる要素さえも完全であるものの一部であるようにさえ感じた。
それに比べれば、僕という人間はちっぽけで虚しいものだと思った。彼の前で僕は自分の不出来さを痛感してばかりしていた。そして、いつまでも彼が僕と友だちになりたいと言ったことが信じられなかったし、その理由が知りたかった。僕という人間と繋がることを彼は望んだのか。
もっと僕が強くあれたなら、そんなことを思わずにも済んだし、素直にこの出会いを喜ぶことが出来たのだろう。そして、今とは違った現在を迎えていたのかもしれない。そうすれば、彼とはもっと早くに出会えていたのかもしれないし、彼とは出会うことはなかったのかもしれない。僕はいつだって逃げてばかりだ。自分の中に逃げ込んでしまえば、それで済むと思っている。そのくせに「寂しい」とか「こんな人生の未来なんて」と不安がってみたり、虫のいいこと言う。すべては僕の弱さから来たものだ。どんなに選択肢を強いられても、自分が選んで迎えた現在だ。自分の人生は、自分でしか責任を取れない。誰のせいでもない。両親のせいでも、姉のせいでも、他の誰のせいでもない。すべては僕自身から始まり、僕自身で終わる。
僕は彼の存在を素直に受け止め過ぎていた。彼はとてもすばらしい人物であるが、時に僕が彼より劣っていることを痛烈に感じさせられることがある。いつかそんな感情が膨らんで、間違った方向に進まないようにと願った。
 僕らは顔を合わせれば、時間の許す限りたくさんの話をした。この頃、僕の日常には彼しかいなかった。相変わらず彼は紳士的であったし、誰に対しても優しかった。そして改めて僕は彼のすばらしさを感じていた。僕が自分の不出来さを漏らすと、実に柔らかな言葉で包み、そしてきちんと向き合えるように言葉を与えてくれた。
「誰でもそう思うことはあるさ。けれども誰と何を比べても、勝ち負けなんて本当にあるのかな?君は君で、僕は僕なんだ。それでいいと思わないかい?たとえ劣っていたとしても、それだけ伸び白が多いといえないかい。それはすばらしいことだよ」
本当に言葉かけ一つで、展開や人の心は大きく違う。彼はきちんと他人の話に耳を傾け受け入れた。相手を察し、どんな言葉が効果的であるかを瞬時に判断できていた。「だから、彼は人から好かれるんだ」と思った。彼は誰からも好かれているように見えたし、彼は同じように人を大切に思っていた。彼も人並みに弱さを持ち、憂いを抱くことはあるのだろうけれど、まるでそんなものが存在しないかのように僕や周囲の人間は思い込んでいる節があった。だから、垣間見た弱さや憂いが印象的で忘れられなかった。
 誰だって淋しいと思うし、誰だって強くもあり弱くもあるんだ。
僕であっても、彼であっても。
 その年の暮れ、僕は初めて彼の家に泊まった。そもそも自分の家でないところで夜を過ごすことなんて、かなり久しい出来事だった。学校が休暇に入ると、僕らはアルバイトに没頭した。彼は年末年始も親元に帰ることはなく、アルバイトをして働くといっていた。それなら、一緒に食事くらい…と声をかけると、彼は自宅へと招待してくれた。出会って二ヶ月ほどだったが、僕らは随分と親しくなり、互いに思ったことを自由に述べることができた。そういう存在がいることはとても嬉しいことだった。
 僕らは酒屋により、お酒を適当に買った。ほとんどがビールだったが、何だか青春しているなと感じた。彼の部屋は八畳間が一つと、出入り口付近にユニットバスと簡単な流し台があった。部屋の中は思って
いたよりも物は置かれていなかった。布団とコタツくらいしかなかった。ラジカセもテレビも棚もなかっ
た。エアコンやコンロは元々ついていたし、あまり部屋にいないから余分なものはいらないのだと彼は言
った。
他人の家を訪れたり、異なる環境に身を置くと、なぜか緊張してしまう。それでも、これも僕が昔思い描いた絵の一でもある。こんな風に誰かと親しくなって打ち解けて何でもいえる関係。そしてアルコールを飲み交わしながら、時が過ぎるのを楽しむ。誰かと心が通じ合うこと、互いの存在を受け容れ合えることがすばらしいと思える瞬間だった。
次第にアルコールが回り、時計を見れば日付が変わろうとしていた。僕が時計に目をやり腰を上げようとすると、「よかったら、泊まっていったらいいよ」と彼は言った。稀の他人の家の訪問に加え、外泊とは、これは更に久しい出来事だ。きっと姉は驚くに違いなかった。けれども、僕ももうそんなことを気にして億劫になる年でもないと思った。何よりも彼の言葉が嬉しかったし、それが当たり前のように展開されることが嬉しかった。
僕は姉に電話を入れた。姉は眠たげに電話に出た。外泊すると伝えたが、予想したようには驚かなかった。相手も誰かと尋ねたりはしなかった。「あ、そう」とさらりと返事をすると受話器を置いた。僕は姉の態度に腑に落ちなかったが、とりあえず良しとした。
電話が終わると、彼は首を傾げる僕を見ていた。
「お姉さん何て?」
「別に何も」
僕はやっぱり腑に落ちなかった。いつもの姉らしくなかった。眠たげであったからだろうか。そして受話器を置いた後、会話を思い出して驚いたりしているのだろうか。きっとそれはない。どうにも腑に落ちなかった。
そして彼はそんな僕をじっと見ていた。僕はその視線に気付き、我に返って「ごめん」と詫びると、彼は苦笑いをした。
「そんなに不思議なことなのかい?」
「それはもう。だって、普段の姉では考えられないことだよ」
僕は少し興奮していた。彼は首を縦に振り、相変わらずじっと僕を見つめていた。僕は笑ってごまかそうとしたが、何だかいびつな笑みになってしまった。少しバカらしくなって話を変えようかと思っていると、彼は壁にもたれていた体を起こし、「それには訳があるのさ」と言った。
僕は眉間にシワを寄せた。それは訳があるだろう。眠いとか、聞き間違いとか。ただ、彼がそこで当然のようにその言葉を言うことが気にかかり、まるで何かを匂わすようにさえ聞こえてならなかった。少し困惑する僕に、彼は「実は言わなければならないことがあるんだ」と言った。僕は訳のわからないまま頷いた。
「実は、僕が君と友だちになるより先に、君のお姉さんと出会ったんだ」
それでも訳がわからなかった。一体、姉と彼がどこでどのように出会うと言うのだろう。そして、それが先ほどの話にどう繋がるのか、まったくわからなかった。
 彼は少し考えた後、何かを覚悟したように一つため息を吐いた。
「簡潔に言おう。それがいい。僕はお姉さんに頼まれたんだ。君の友だちになってくれないかって」
「何だって?」僕は思わず大声を出してしまった。そして言葉を失った。少しその言葉の意味を考えていると、ここまで僕の中で宙に浮いていた疑問が繋がっていった。どうして彼は僕と友だちになったのか。なぜ、彼は僕に近寄ってきたのか。すべては仕組まれたものだったのだ。僕はそれに踊らされていたんだ。僕は素直に喜んだりして、バカみたいじゃないか。何が必然的な偶然だ。運命は決まっているとは、そういう意味だったのか。何だか腹立たしくて、どこにその気持ちをぶつけたらいいのかわからなかった。彼はずっと黙ったまま僕の様子を伺っていた。
「怒っているのかい?」と彼は僕に尋ねた。
僕の中では腹立たしさとともに、失望感がただっよっていた。
「がっくりだよ」と僕は答えた。
なぜ、姉が彼に頼むか。なぜ、姉と彼が知り合いなのか。どうなれば、そんな風に結びついてしまうの
か。姉は何を彼に頼んだというのだろうか。次々と浮かび上がる疑問をよそに、姉の余計な配慮と、作られた現状に満足する自分に苛立ちを隠せなかった。彼という存在を得て僕は喜んでいたが、実はそれは面倒見の良い姉によって作り出されたものだったなんて…。
彼は僕をずっと眺めていた。そして、「怒っているのかい?」と静かに僕に問いかけた。僕は鋭い視線を彼に送った。彼も彼だ。このからくりに加担したのだから。
彼は「そうだね」と視線を落とした。しばらく考えてから「今から言うことを聞いてくれるかい?」と問い返した。僕がとりあえず承諾すると、彼は成り行きを語り始めた。
そもそも彼と姉の出会いは、姉の勤務先でのことだった。彼は清掃会社の派遣社員として姉の勤務先に配属されていた。夕方になり皆が帰宅を始める頃が、彼らの仕事の始まりの時間であった。その時期、姉はよく残業で居残ることが多かった。毎日のように顔を合わすうちに、交わす会話も一つ二つと増えていったらしい。ある日、姉が休憩がてらに彼にコーヒーを奢り、彼と話をしていた時のことだった。彼と同じくらいの年の弟がいて、友だちが一人もいないと姉は言った。そして話が進むうちに、彼と僕が同じ学校に通っていることがわかり、姉は彼に僕の友だちになってくれないかと頼んだ。それは今年の夏の出来事だったという。
「君が腹を立てるのはわかる。それに対して、僕は謝らなくてはならないね。ずっと黙っていて悪かった
よ」
彼は素直に僕に詫びた。それでも僕は自分の怒りを静められなかった。失望がきえるわけでもなかった。そして彼はこう続けた。
「確かに君のお姉さんに頼まれたさ。けれども、僕は君の話をもっと前から聞いていたよ。それは、君もよく知っている人物からさ」
最初は誰を指しているのかわからなかったが、しばらくしてそれが円谷さんを指していることがわかった。僕が円谷さんから彼の話を聞いていたように、彼もまた円谷さんから僕の話を聞いていた。ただ、彼が勿体つけるように話すのが少し気に入らなかった。
「円谷さんから君の話を聞いたとき、一度会ってみたいと思ったよ。そして何度か部室を訪れたけど、もうそのときには君はあの場所にはいなかったんだ」
それは初耳だった。円谷さんからも聞いてはいない。彼の言うとおりなら、姉に頼まれたことよりも先に、彼自身が僕と出会うことを望んでいたというのか。一体円谷さんは僕のことをどんな風に話したのだろう。どうなれば、僕と出会いたいなんて思ったりするのだろう。
「残念ながらその時は会うことができなかったけれど、君のお姉さんから話を聞いて、円谷さんとお姉さんの指す人物が君だと気付いたよ。正直、羨ましかったな」
下にあった彼の視線が僕の方を向いていた。先ほどまで申し訳なさそうに俯きがちだった顔とは違い、はっきりと意思が伺えた。しかし、一体何が羨ましかったというのだろうか。
「君には、それだけ君を思ってくれる人がいるということさ」
彼の声が僕の中でなぜか悲しく響いた。彼ほどすばらしい人物なら、僕を羨むなんて間違っていると思った。僕よりももっと幸せだと。また、姉が僕を気遣うにしたって、こんなことまでされて僕が友だちを作りたいと思うだろうか。こんなことをされて僕がどんな気分か想像できなかったのだろうか。僕は何もできない人間だと思われていることは知っていた。けれども現実に形にされると、それはひどくつらいものだった。
「もう少し話してもいいかい?」と彼は僕に尋ねた。次は何を言おうというのか。もう僕の失望や苛立ちの解消のための話というには、僕には想像もつかない展開になっていた。
「今日は話してしまいたい気分なんだ」
彼はそう言うと、話を続けた。話は彼の育ちに関するものだった。そもそも彼がどうして一人で生活しているのか。なぜ、「プログラム説」なんてものを語るようになったのか。すべてはそこにあった。
彼の父親は定職につかず、職を転々とし、ギャンブルに明け暮れた。母親は当然のように家庭に収入を入れるために働きに出かけた。それも父親が使い込み、残るのはわずかな額だけだった。給食費さえ滞納したし、服だっていつも同じものを着ていた。洗濯がまともに出来なくて、給食のエプロンのしみが落とせずに文句を言われたりもした。現在の彼から当時の生活はまったく想像することはできなかった。
当然、両親の間では喧嘩の耐えない日々が続いた。父は無責任な振る舞いを続け、よく母親を殴った。母親は自分の苛立ちを彼にぶつけた。
彼が十歳になる頃、両親は離婚をした。彼は母親に引きとられたが、もうすでにこの頃には母親は半分狂いかけていた。そして高校に進む頃には精神を患い、病院へと入院した。それから半年後、病室でシーツで首をくくり自殺しているのを発見された。父親は、この時既に消息不明になっていた。身寄りのなかった彼は一時的に施設で暮らしたが、高校を卒業と同時に施設を出てこの場所へとやってきた。よくあるドラマの中のありきたりな不幸話のようなものだった。けれど、それが彼のみに起こったことなのだ。現実に、そういうものは存在するのだと感じていた。
彼はこれまでさまざまな人間模様をその目で見てきた。不出来で救いようのない人間になりさがった父親、身を粉にして働き、最後には狂って首にシーツを巻いて死んだ母親、彼の目の前にはろくな人間はいなかった。その救いようのない日々の中で、彼は自ずといろいろなことに気付き、理解できるようになっていった。そしてその度に、こんな家に生まれてきたことを悔やんだ。両親への憎悪さえも感じた。何度か「両親とも自分が殺してしまえばこんな日々も終わるのだ」と思ったこともあった。けれども、彼の優しさがいつだってそれを思いとどまらせた。結局、そういったものは心の奥底にぐっと押し込んで、硬くその扉を閉ざした。そして、「自分はああはなるまい」と誓った。
それから彼は早く自立するために、自分のできることは家事でもアルバイトでも何でもやった。彼は良い人間であるように努めた。人の話には耳を傾け、相手の立場を思いやった。腹立たしさやつらさは、すべて心の奥底にしまいこんで忘れることにしていた。そういう時は、心にもない笑みを浮かべるようにしていた。そんな笑みは、どれほど悲しみを映し出すものだろうか。
しかし、彼は気付いていなかった。確かに良い人間になるように努め、紳士的で、思いやりのある人間であった。それは彼の努力のたまのものであったし、二十一歳のわりには随分としっかりした人物が出来上がっていた。ある程度の人格も備わり、周囲の大人たちよりもよっぽどか立派な人格者だった。
彼は、人格者になりたかったのか。そうではなかった。彼はただ、自分の暗い過去に存在した不出来な人間たちになりたくはなかっただけなのだ。彼は逃げ出したかったのだ。
彼は恐れていた。どれだけ自分が頑張っても、自分の中に流れている血は拭えない。自分の中にも彼らの血が流れている。腹立たしさやつらさ、悲しみを隠したところで何の解決にもなりやしない。頑張れば頑張るほど、心の奥底で少しずつ絶望や陰鬱な感情は膨らみを増しているように思えた。どれだけひた隠しにしても、逃れられない影がつきまとう。溜まりに溜まったものが、いつか自分の手に負えなくなることが怖かった。
そして今存在する自分は、真実の姿なのか。作り上げられた偽者なのか。自分という人間がわからず、1人悩んでいた。
彼は話し終えると、ごめんと笑みを作った。僕は突然の彼の生い立ちの話に強烈な衝撃を受け、返す言葉を失った。こんな時、どんな言葉をかければ良いのだろう。僕には見当もつかなかった。
さきほどまで僕の胸の中に渦巻いていた苛立ち、どこにも見当たらなかった。僕は自分が不幸な人間だと思っていたのかもしれない。そして、それは自分自身で不幸にしている節もあった。彼は恵まれない過去を拭い去りたくても、拭いきれなかった。だから、幸せに生きるために努力をした。彼の闇に比べれば、僕のものなど浅かった。彼は感情の起伏を見せることもなく、淡々と語っていた。ずっと窓の外を眺めたまま。
「これは君のお姉さんにも話したことはなかったんだけど」と彼はまた苦笑した。
 人の笑みがこれほどまでに悲しく見えたのは、これが初めてのことだった。そして僕が彼に垣間見る憂いがどこからやってくるのかを瞬間的に理解した。

僕らは布団を敷いて横になり、部屋の電気を消した。部屋には静寂が広がっていた。ちょっとした物音がとても大きく聞こえた。
「ナガミネ君、もう寝てしまった?」
「いや、まだ起きてる」
彼は僕の顔を見た。そして、「僕のことを嫌いになったかい?」と尋ねた。
「どうして?」
「僕がこんな人間だからさ」
僕は彼の言葉の意味がわからなかった。どうして、僕が彼を嫌いになるのだろう。彼は自分を「こんな人間」呼ばわりするが、それなら僕の方が適している自信はある。根暗で、寂しがり屋の一人好き。僕はどうしようもない奴だよ、まったく。彼にどんな過去があったにせよ、今は前向きに生きている。彼は幸せになるために生きている。心の中で陰鬱な感情を抱えていることなんて、誰にだってあるだろう。そして彼はその感情に振り回されず、きちんと自分を律しながら行動できている。もし、膨れ上がるのが怖ければ、僕に話せばいい。僕でよければ、いつだって聞こう。確かに僕と彼の始まり方には不本意ではあるが、僕は彼と出会わなければ、ずっと一人ぼっちだっただろう。こんな風に夜を語り明かすこともなかったし、分かり合えることもなかったのかもしれない。彼が言っていたように、僕は彼に出会うべくして出会ったと思いたい。
「それも含めて君だろ?君は君さ。僕は君に出会えなければ、こんな風に誰かと語ることなんてできなかったと思うよ。だからとても感謝しているんだ」
僕は心からありがとうと伝えた。
「ありがとう。君に話してよかったよ。おかげで、僕は随分と救われた気がするよ」
そういうと、彼は天井を見ていた。そこにはきっと何もないだろう。あるのは天井だけだ。彼はそこに何を映し出しているのだろうか。僕にはそれが見えなかった。
 静かな夜だった。彼の声も静けさに合わせて、ささやくような大きさだった。僕らの呼吸さえ聞こえた。鼓動が大きく聞こえた。時の感覚をなくした中で、静けさはとても奇妙な感じがした。
やがてアルコールが眠気を連れてきて、彼の声が僕を心地よい眠りの世界へと導いた。

 次の日の朝、少し遅めに僕らは起きた。彼は午後からアルバイトに出かけ、それに合わせて僕も帰宅した。そして、夜になると姉が僕の部屋にやってきた。初めて彼から成り行きを聞いた時は腹立たしさを感じていたが、今はそれもない。「友だちくらい自分で作る」と言い切りたいところだが、これまでそれが出来ていなかった僕が言っても言葉に重みがない。姉は「ありがとうは?」と当然のことのように、感謝の言葉を僕に求めた。僕は口の中をもごもごとさせながら「ありがとう」と言った。姉は「よし」と言った後、「彼に感謝なさい」と言った。
確かに…。でも、それを姉に当然のように言われるのが、僕にとって少し納得のいかないことだった。なぜなら、この一連の僕の不本意さは、姉によってもたらされたものでもあるからである。学生とはいえ、僕もいい大人だ。自分のことは自分でする。しかし、姉の余計なお節介によって仕組まれた出会いに、素直に感動し運命さえ感じた。それでも言葉がどもるのは、自分では打開できなかった現実がそこにあるからだ。その結果、自分の力ではどうすることもできなかったという無力感だけが残される。それが余計にいたたまれない。
何も言い返せない僕に、姉はグッと近づいて人差し指を立てて僕に向けた。
「そういう人の存在が貴重だってことは、もうよくわかってるわね?いい?そういうものに、きちんと感謝をなさい。そういう人がいてこそ、成り立つ関係と時間よ。それを疎かにすれば、あなたはきっとまたこの部屋で一人膝を抱えて音楽を聴いていることになるのよ。と、まあ、それは言い過ぎかもしれないけれど、要は、友だちは大切になさいってこと」
お節介はそのくらいにしておいて欲しいのだけれど…僕はのど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。これを口に出せば、僕は姉の指摘の意味をまったく理解していないことになる。それ以上に、僕は苛立ちで彼が存在してくれることの喜びを見失いかねない。そういう感情を抱くことは、決してわるいことではない。ただ、そこできちんと判断できなくてはならない。どうすることが正しいかを冷静に判断しなければならない。そうしなければ、僕の中で傲慢さは増長し、あとから後悔しても取り返しはつかない。それが大人というものだと思った。
 姉は言いたいことを言うと、部屋を出て行った。ただ、出際に「彼は他に何か言ってなかった?」と尋ねた。その表情が、いつも僕に向ける毅然としたものではなく、控えめなものだったことに違和感を感じた。僕は「何も」と答えた。姉は「そう」と気のない返事をすると、静かにドアを閉めて出て行った。
部屋の明かりを消して、布団の上に寝転がった。そして天井を眺めた。二十年も眺めてきたはずの天井なのに、僕には新鮮だった。彼は昨日の晩、何を考えながら天井を眺めていたのだろう。何を映し出していたのだろう。彼は僕が思っているよりも、ずっと強い人間だった。過去に捕らわれず、前を向いて生きている。そうしなければ、自分もまた同じ道をたどるのではないかと恐れていた。それに比べ、僕はきちんとした家庭に生まれながらも、一人殻に閉じこもってしまった。僕も彼も愛情に飢えていたのは同じだった。ただ、彼はそれを自分で補おうとし、僕はそこにあるにも関わらず目を背けた。誰かに受け入れられたかった、彼はそう言っていた。僕から見れば出来た人間のように見えるが、内面では激しく人のぬくもりを求めていた。それ故に、それを感謝することを忘れなかった。彼は現在の彼になるべくしてなった。その事実は拭いきれない過去によるもので、それを思うと少し悲しく思えた。
 部屋の中は、静寂に包まれていた。これほどまでに夜とは静かなものだっただろうか。以前1人でいた頃、部屋で膝を抱えて音楽を聴いて毎日を送っていたことを思い出した。あの時に抱えていたやりきれなさや悲しみや憂いを思い出した。思い出したくないものは、心の奥に沈めてしまえばいい。目を閉じて早く眠ろうと思った。けれどもなかなか眠れなかった。心がざわついていた。僕はそれを収める術をしらない。いつものように黙って耐えるだけだ。それなら僕の十八番だ。どれだけ時が経っただろうか。闇の中で僕の時間への感覚は完全に麻痺していた。ふと時計を見ると、二時を指していた。こんな時はどうしたら眠れるのだろうか。それからしばらくして、思い出したように僕は呟いた。
 ありがとう、と。
 すると、僕の呼吸はゆっくりとなり、静かに眠りの世界へと入っていた。

後になってわかったことだが、実は、姉の現在の恋人はマコト君だった。これを聞いた時はさすがに驚いたが、ありえない話ではなかったし、僕と彼の出会いの裏話に、彼の生い立ちも聞いていた後だったので、それほど取り乱しはしなかった。ただ、その事実を受け入れた。自分の友兄弟と友だちが恋仲になることは、不思議な感覚だと思った。しかし、それは当人同士の問題で、僕が口を出すことではない。彼という人物に不満はない。逆に、彼は謝りたいくらいだ。こんな姉でごめんと。
彼が姉のどこに惹かれたのか気になった。僕の前では毅然としている姉でも、あれでいて女性らしいところはあるようだ。もちろん、こんなこと口が裂けても言えないのだが。ただ、姉の面倒見の良いところと、誰かに受け入れて欲しいという願望を抱く彼なら、惹かれあうのも当然のことだと思った。以前、姉は僕に世界は広いと言ったが、思ったより狭いような気がするのは気のせいだろうか。