もうじき僕は歌わない。@Wiki hinata8

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「何をしているのかわかっているのかい?」と、マコト君は立ち上がった。僕は静かに頷いた。
「いや、君は何もわかっていないよ」
 マコト君は横に首を振った。
「だって、そうだろ?朝子さんは、君の大好きな人じゃないか?何で別れてしまう必要があるんだい?そういう時は肩を寄せて、ともに時を過ごすべきだよ。」
 マコト君は僕を諭したが、「決めたことなんだ」と僕は首を振った。マコト君は、大きくため息をついた。
「僕は、君となら分かり合えると思ったのに。君にそんなことを言われるために、ここに来た訳じゃないんだ」
僕は冷ややかに呟いた。
「友だちが間違っていることをしているんだ。言うのは当然だろう。悲しいのは君だけじゃない。そんな君を見ている僕や、朝子さんだって悲しいんだ。誰もが悲しいんだよ」
 そんなことはわかりきっていることだった。僕が彼の部屋を訪れたのは、恋人である姉を失った彼ならば、僕の悲しみを理解できると思ったからだ。すべてが通じると思ったからだ。なのに、彼はありきたりの台詞を口にする。そんな言葉なら、朝子さんだって言っていたさ。僕が聞きたかったのは、そんな言葉じゃないんだ。
「何で僕を見て悲しくなるのさ?みんな哀れな自分に悲しんでいるんだろ?」
「違うとは言わない。孤独や、悲しみや、寂しさに涙することだってあるさ。けれども、自分に大事な人が悲しんでいたら、そういう気持ちになるのは当たり前だろ?増してや、今の君のように自分を見失っていれば、なおさらさ」
 僕が欲しかった言葉は、こんな言葉じゃない。顔を上げて前を向くことを促す言葉じゃない。この悲しみに深くすべてを投じられる言葉だった。僕が彼に求めたのは同情だった。いつもならマコト君の言葉は僕の心に心地よく響いたし、言っていることにも耳を傾けることができた。けれども、この時の僕には、それができなかった。彼の言葉はまったく響かなかった。
「君ならわかってくれると思っていたのに。まさか、君までそんな風に言うなんて、がっかりだよ」
「すべてには、きちんと意味があるんだ」
「何の意味があるって言うんだ?どんな理由で姉ちゃんは死ななくちゃならなかったんだい?どんな理由で?」
「それは今はわからないよ。もう少し時が経てば、わかるのかもしれない」
「いつもの君のアレかい?必然的な偶然とか言うのかい?お願いだから、そんなくだらない言葉で片付けないでくれないか?」
 僕は思いのまま言葉を口にし、彼は「ごめん」と悲しそうな顔をした。そしてしばらく口を閉ざした。目の前の紙コップに入ったコーヒーは、当に冷めていた。吸いかけのタバコをその中につけると、わずかにジュッと音を立てて、火は消えた。
 タバコの消える様を見ていると、すべてはこんな風に一瞬にして消えてしまうものなのだろうと思った。世界には白と黒、光と影、生と死が、背を合わせて存在している。姉が突然死んでしまったように、僕と朝子さんが今別々に暮らしているように、何でもないことで僕らはその存在を改めて思い出させられる。
 マコト君の視線に気付いて、僕は顔を上げた。彼はとても悲しそうな顔をしていた。
「君は何もわかっていないんだね」
 とても悲しい響きの言葉だった。それ故に僕はその言葉を受け容れることができなかった。今更受け容れて自分の非を認めたところで、何も変わりはしないのだから。
「大丈夫だよ。すべては繋がっているから…」
 それが、マコト君の最後の言葉になった。

 年が明けて春が来る頃、僕は大学を卒業した。
 まだ何も変わらない生活を送っていたが、マコト君にはあの日のことを謝ろうと思った。僕がどうであれ、彼には僕の非礼を詫びるべきだと思った。僕はあまりにも自分にだけ目を向けすぎ、彼のことなんて一切考えていなかった。きっと彼だって悲しかったに違いない。僕にも言い分はあったけれど、それでも謝るべきだと思った。
 けれども、卒業式に彼の姿はなかった。アパートを訪ねると、部屋の中は空っぽになっていた。表札も取れていた。家主に行き先を尋ねたが、それもわからなかった。大学に戻り、彼の就職先を訪ねたが、それも不明だった。彼は僕の知らないうちに忽然と姿を消し、どこかへと行ってしまった。
「僕らは友だちだ。僕が君を嫌うことはないよ」
 いつだったか、彼が言ってくれた言葉が虚しく響いた。せめて、一言くらい欲しかった。
すべては僕のわがままだ。姉を亡くし、自暴自棄になり、わがままを言って朝子さんを悲しませ、彼にもひどいことをした。その結果、僕は一人ぼっちになった。それは当然の結果と言えた。しかし、いざ孤独になると、いかに自分がバカなことをしたかがわかった。誰もがいることが当たり前だと思っていたのかもしれない。優しい言葉や慰めの言葉も払いのけ、他人を傷つけた。楽しい時間が続くことに何の不安もいだかなかった。人の温もりが感じられることにも慣れすぎて、その喜びも忘れてしまっていたのかもしれない。孤独が嫌で抜け出したはずなのに、そのありがたみも忘れ、僕はまた孤独に逆戻りをしているではないか。姉が僕に教えてくれた言葉の意味を、僕は忘れてしまっていた。
 そして、その代償として、僕は手に入れたわずかではあるが大切な幸せを手放す羽目になった。一度は自分で望んだことだったが、いざその場に身を置けば、それが間違いであったことはよくわかった。しばらくは自分のしでかしたことと、それでも耐えられた。けれども今度は失った痛みに、僕は身を刻まれた。すべては後の祭りだった。

 一人は淋しかった。寂しさを感じると、必ず朝子さんの泣いていた姿が思い浮かんだ。その姿を思い出すと、胸が押しつぶされそうになった。何と悲しい光景なのだろうか。僕はどうしてこんな風にむやみに彼女を傷つけたりしたのだろう。そして、すべてを自分から手放したりしたのだろうか。自分から不幸になろうとするなんて、マコト君の言うとおり、本当に馬鹿げている。どれだけ悔やんでも、何も取り戻せやしないと思った。
 こうして時の流れるとともに、僕は自分の愚かさを知り、その度に唇をかみ締めて声にならない声でひっそりと泣いた。そうすることで混乱は少しずつ収拾することができた。そして身の回りを整理していると、姉もマコトくんもいないこの場所に僕が居続ける理由はないことに気付いた。
 それから僕は家を出て、一人暮らしを始めた。

 部屋には何もなかった。テレビもパソコンもなかった。家具も生活に必要なものに極力抑えた。本当に大切なものは、すべて僕の中にある。そして、僕はいつでも好きな時に思い出すことができる。それで十分だった。 それらの記憶が僕の生きる糧だった。人は明日に期待をしなくても生きていけると思った。思い出だけを抱えて生きていこうと思った。それが僕の残された幸せだと思った。

 一人で暮らし始めて何ヶ月か経った頃、町を歩いていると円谷さんに出会った。相変わらず、営業で歩き回る毎日だとか。僕らは喫茶店に入ってしばらく話をした。
「しばらく会ってなかったな。就職したんだろ?」
「ええ、まあ」
「何だか歯切れの悪い返事だな」
 僕はこれまでの経緯を話した。すると、「自業自得ってやつだな」と円谷さんは腕組みをした。
「で、恋人とは会ってないのか?」
「会ってません。どんな顔して会えばいいのかわからなくて…」
「バカだね~。どんな顔もないだろう。そんなところで見栄張ってどうするんだよ?お前はその時、今は一緒にいられないと離れたんだろ?」
「ええ、まあ」
「なら、一度会ってみたらどうなんだ?」
「会ってどうするんですか?」
「お前ねぇ、それくらい自分で考えろよ。謝るに決まってるだろ?謝って縁りを戻すんだよ。そうしたいんだろ?」
「できれば…」
「なら、そうするしかないだろ?」
「でも、それじゃ都合が好すぎやしませんか?そもそも事の発端は僕なんですよ。僕のわがままから招いたことなのに、また僕のわがままで彼女を困らせて、悲しませて…」
「じゃあ聞くけど、お前は誰も一生悲しませないで生きていけるか?わがままで他人を振り回したりしないのか?起こったことは仕方ないさ」
 けれど、本当にそれでいいのかはわからなかった。自分のわがままで再び彼女を求めていいものか。あの時、僕が自分を見失わなければ、こんなことにはならなかった。朝子さんもあんなに涙することなんてなかった。彼女の泣いている姿は、いつ思い出しても悲しかった。
 それからしばらく僕は決断に迷っていた。何度も考えたけれど、なかなか答えが出せなかった。確かにあの時「しばらく一人にして欲しい」と僕は言った。けれども、あれから一年が経っている。何かを待つとき、とても時が長く感じられる。それが痛みを伴えば、その時間はとても長くつらいものになってしまう。この一年を彼女はどんな風に過ごしたのだろうか。彼女が少しでも幸せに近づいてくれることを祈らずにはいられなかった。
 数日後、ようやく決断をした。一度会ってみることにした。それから自分の行く道を考えるのも悪くはないと思った。いつまで考えても、きっと同じことなのだから。
朝子さんの自宅に電話すると彼女の母親が出て声を濁らせたが、彼女を呼んでくれた。たどたどしい会話だったけれど、もともと彼女の口調はそれに近いものだったと思い出した。なかなか言葉の出ない時間が続いた。僕は手短に「一度会って欲しい」と頼むと、「いいわよ」と言ってくれた。
 季節は春・夏・秋・冬と移り、あのときから一回りしていた。
 久しぶりに町へと戻ってくると、何も変わってはいなかった。何だか懐かしかった。彼女にどんな顔をして会えば良いかわからず、少し困っていると朝子さんが遠くからやってきた。彼女は少し髪を切り、毛色もわずかに茶色くなっていた。
「お久しぶり、元気?」と僕が尋ねると、「それ、電話の時も聞いてた」と朝子さんは言った。何だか上手く話せなくて困った。
「髪を切ったんだね。よく似合っているよ」
「ありがとう」
「アルバイトはまだ続けてるの?」
「ううん、今は違うところにいるの。あそこにいるのはつらかったから」
「ごめん」
「仕方ないわよ。お姉さんが亡くなったんだもの。確かにつらかったし、あなたをひどい人だとも思った。けれども、人の死にそれだけ悲しめるということは、優しい人なんだなとも最近思えるようになった」
 朝子さんは僕が思っているよりも、強く前向きに生きていた。当時の彼女を思い出すと、このまま自殺でもしてしまわないかと思ったくらいだった。だから、電話を掛けたとき、彼女が生きていることでほっとした。
 僕は、まず彼女に一年前のことを詫びた。姉の死があったとはいえ、彼女を傷つけたことには変わりなかったし、自分が強くあればこんなことにはならなかったと。今こうして会えたことが、素直に嬉しいと。
 彼女は少し唇をかんで、上目遣いで僕を見た。
「そんなこと言わないでよ」
 朝子さんの瞳が潤んで、僕の姿が滲んでいた。それが彼女がどんな思いでこの一年を過ごしたのか、すぐにわかった。きっと、今こうして僕と会うことも、本当はとてもつらいことなのだろう。僕はまた彼女を傷つけているのではないか、そう思うと何も言葉を口にできなくなってしまった。
「ごめん、気にしないで」
 朝子さんは指を目尻に当て、鼻をすすった。僕はコーヒーカップを持ったまま微かに揺れる彼女の指を眺めていた。
「元気にしてた?」
「僕は何とかまた普通に暮らせるようになったよ。今は少しここから離れたところで一人暮らしをしてる」
「そうなんだ」
「朝子さんは、今のアルバイト先には慣れた?」
「まだ移って半年くらいだけど、みんな良くしてくれる」
僕は彼女から良い返事が返ってくることで胸を撫で下ろした。時々、彼女の言葉がただの強がりで、本当はすべて嘘なんじゃないかという思いが脳裏をよぎった。それでも彼女が時々見せる笑みを注意してみたけれどわからなかった。つらそうでもあったし、割り切れているようにも見えた。
「少しは肩の力抜けた?」
観察されてたのは僕の方かもしれない。朝子さんは一つ笑みを作って、下の唇を上の唇で噛んだ。しばらく下を向いて何か考えているようだった。僕は彼女が顔を上げるのをじっと待った。そう言えば、上手くいっていた頃、バイトでもプライベートでもこうして僕は彼女が考えている時は言葉が出るまでゆっくりと待っていたことを思い出した。そういうところは今も変わらないようだ。
朝子さんは顔を上げて一つ咳払いをした。
「本当は、今日あなたに会うことは迷ってた。もうあの時のことを思い出したくなかったし、これでも少し怒っているのよ」
「ごめん」
「仕方ない。だってあなたの心は傷ついていたんだから。あのとき私を遠ざけたのは、少しは私のことも考えてのことだったんでしょ?」
「そうだね」
 僕には、何も言い返す言葉がなかった。朝子さんは一つ話すとまた考え、ゆっくりと話した。
「私が今こうしてあなたに会っているのは、あなたの友だちのおかげよ。蔦井さんっていう人いるでしょ?」
「マコトくんのこと?」
「そう。彼がね、私のところに来たの」
「いつ?」
「そうね、三月だったと思う」
 僕は驚きを隠せなかった。どうしてマコトくんが朝子さんに会いに行くのか。そして、卒業式の時にはもうアパートを引き払っていなくなっていた彼が、その時期にこの町にいることも。つまり、彼はこの辺りにまだいるのかもしれない。
「彼は何て言ってた?」僕は身を乗り出して朝子さんに聞いた。彼女は少し体を後ろにそらしながら、「落ち着いてよ」と促した。それからその時のことを話してくれた。

 三月も終わる頃、彼はスーツ姿でお店にやってくると、朝子さんが一人になるのを見計らって声をかけた。突然面識のない男性に自分の名前を言われて、朝子さんは警戒をした。マコト君は自分が僕の友人であり、僕の姉の恋人であったことを告げた。そして朝子さんに伝えたいことがあってここにやって来たのだと。朝子さんはあいにくバイト中だったので、「休憩時間まで待って欲しい」と伝えた。
 休憩時間に、店の近くにある公園に行った。
「今から僕が話すことに関して、快く思わないかも知れないけれど、できれば受け容れて欲しいんです」
そう言うと彼はスーツを正して、朝子さんの目を真っ直ぐに見た。
「ナガミネ君がいつかあなたに会いたいと言ってきたら、会ってあげてください。そして彼を許してあげて欲しいんです」
 朝子さんは少々戸惑った。僕の友人が突然現れて、僕のことを許してやって欲しいと言う。朝子さん自身はようやく普通の生活が送れるようになってきたばかり。別れも同然の僕の言葉に自分の意思を挟む余地もなく、突きつけられた現実から目を背け、やがて受け容れた。眠れない夜もあった。暗くなるのが怖くて、朝まで部屋の明かりをつけて眠った時期もあった。僕の姉がなくなってから三ヶ月が経とうとしている。
「なぜ、あなたがそんなことを私に言いに?」
「僕らは結子さんの死で大きな傷を負いました。彼は見ての通り、未だ道を見失っている状態ですし、あなたも彼と離れることを余儀なくされ、ひどく悲しんだことでしょう。僕もまた大切な人を失うことになった。僕らはそれぞれ痛みの理由は違えど、ひどく心を痛めた。僕らには、もう少し時間が必要なのかもしれません。彼から連絡があるのは、これから半年よりもっと先になるのではないでしょうか。もちろん、そのときにあなたの気持ちが彼に向いているかわかりませんが、せめて許してあげて欲しい。僕も彼を許すから」
「許すも何も、お姉さんが亡くなってのことだし…」
「出すぎたことだと思っています。けれども、今僕にできるのはこんなことしかない。彼が立ち直ったとき、前を向いて進めるように道を照らしておきたいのです」
 朝子さんは、勝手な言い分だと思った。この混乱の元である僕を、僕のために許すなんて。けれども、マコト君の一途さを前に自分の気持ちをぐっと押し殺した。
「約束はできないけれど、そうなるように祈っていてください」と朝子さんはマコト君に告げた。

 話を聞いて、彼が朝子さんの元を訪れてどうして僕を許すように伝えたのか、その理由がわからなかった。朝子さんも「私も最初はわからなかった」と言った。
「けどね、きっとその理由は、彼の言葉そのものだと思う。彼はあなたのことを本当に大切な友だちだと思っていたのよ。だから、あなたがいつか立ち直れるようにと思ったんでしょうね。後になってみれば、それがよくわかる。いいお友だち、持ったね」
 僕は改めて彼に出会えたことを感謝した。僕がどんなときでも彼は友人として誠実であり、僕を見捨てたりはしなかった。彼自身も傷ついているはずなのに、彼は僕らにその素振りをまったくと言っていいほど見せなかった。それどころか、朝子さんに僕のことを託してまで行った。
 結局、僕らは縁りを戻すには至らなかったけれど、彼女は僕を許してくれた。
「もう少し早く会えたなら、私の心も動いたかもしれない。けれども、あまりにも時が経ちすぎてしまって、あの頃のようにあなたをあれほど近くに感じられない」
 やはり直にその言葉を聞くと、胸がずしんと重くなった。けれども、それが当然の成り行きなのだろう。僕もあの時一応は自分で彼女の言葉を払ったのだから、覚悟はしていた。これで気持ちにも整理がついた。
「誤解しないで。あなたのことは今でも好きよ。あなたに会えてよかったと思ってる。私も彼と同じようにあなたのことが心配なのよ」
「ありがとう。それだけでも十分だよ。きちんと話ができて、気持ちにも整理がついたし」
「またいつか会いましょ」
「いいの?」
「あなたと話すのは嫌いじゃないから」
 それから僕らは別れた。別れ際に、朝子さんはマコト君から僕宛に預かっていた伝言を伝えた。
 終わりのための始まり、始まりのための終わり、と。

あれから更に二年が経った今も尚、僕は一人ぼっちのままだった。時々朝子さんや円谷さんと食事をしたが、ほとんどは一人で日々を送った。一度狂った歯車は、そうは簡単に修復されないようだった。

 気がつくと、もう夕日が傾いていた。どれだけの時間が経ったのだろう。段ボール箱を出して、ノートを引っ張り出していたことは思い出せる。いつ眠ってしまったかは思い出せない。せっかくの休日も、もうすぐ終わってしまう。と言って惜しむほどのものでもなかったけれど。
 夢の中で、昔姉が言っていた言葉を思い出した。
「終わりのための始まり。始まりのための終わり」
 まるで呪文のような言葉だと思った。これは僕が高校生だった頃、姉が僕に語った言葉だった。
「いつだって、やり直せるのよ」
「そんなに簡単にやり直せやしないよ」
「そんなことはないってば。何のために毎日朝に陽が昇り、夕方に沈むと思う?」
「そんなのは、地球の自転をこじつけただけじゃないか…」
「物事、理屈じゃないのよ。すべてに意味があるのだから…」
「すべてに?」
「そう、すべてに」
「僕の毎日の暮らしにも?」
「ええ、もちろん」
「嘘だよ。一体何の意味があると言うんだ」
「今はまだわからなくても、そのうちわかるようになるわ」
「わからなかったら?」
「やり直せばいいのよ」
「時間なんて取り戻すことはできないじゃないか」
「確かに失ってしまったものの多くは取り戻せないけれど、また新しく始めたらいいの。そのための始まりと終わりよ」
「そんな当てのない未来に、きっとなんて期待できないよ」
「それは違う。わかりきった未来に何があると言うの?驚きも発見もない、それは味気ない生活よ。当てがなくていいのよ。そうすれば、すべては無限に広がっているんだから」
 あの時は、ただの理屈だと思っていた。つまらない毎日に、僕自身に、存在に、世界に意味があるだなんて信じることはできなかった。僕は疑うことを止めなかったけれど、姉はその言葉を信じていた。
「いつかわかる日がくるわ」と姉はそう言った。
 いつか…、あれから八年たった今、僕は初めてその言葉の意味に気付くことができた。もう、いい加減にこんな暮らしは止めにしなければならない。僕はここに至るまで、言葉の意味に気付くまで、たくさんの犠牲を払ってきた。まずは僕のこれまでの時間。それに加え、姉に、朝子さん、マコトくん。よき理解者、恋人、友だち。後に残っているものと言ったら、 僕の時の流れや、思考、言葉、記憶くらいなものだろう。
 思わず、笑いがこぼれた。僕は失うものはないと思っていた。けれども、僕には失うものがまだ残っている。大切な記憶があり、つながりや共有のための言葉、広がりを持たせるための思考、無限に広がる可能性とも言える時の流れ。姉の言うように、すべてのものに意味があるのならば、僕はそれらの意味をまだ見つけてはいない。悲しみも寂しさも憂いも儚さも、そんなものさえ連れて、意味を探しに行こう。僕はそう思った。
 そして、残っているすべてのものと一緒に、僕はもう一度始まりを迎えようとしていた。


                                       第1部完