781 :無名草子さん :sage :2009/03/18(水) 00:20:13日本宗教史は?
913 :無名草子さん :sage :2009/06/27(土) 01:31:12……末木文美士『日本宗教史』。『神道の逆襲』と対比させながら読むと面白い。まず著者は「日本宗教史をどう見るか」で、丸山真男による「古層」の概念を援用する。ただし、丸山が日本の古層の「等質性」を強調したのに対して、それを否定し、古層自体が歴史的に形成されたものと見る。要するに歴史とは過去の美化や捏造も含めて重層的に堆積してきたものとして見るということで、隠された深層のダイナミズムを見極めることが重要だということになる。フーコーなどを持ち出すまでもなく現在では常識的な立場であろう。当然、起源の純粋性などは否定され、神道も最初から仏教や中国思想の強い影響のもとに生成したものとされる。また「神国」の本来の意味についての解釈は『神道の逆襲』におけるそれと違っていて(必ずしも対立する説ではないかもしれないが)、「本地垂迹」すなわち仏が神の姿を借りて顕現するという点にあるとする。近世における日本仏教や神道に対するキリスト教の影響も強調されている。最終的にはナショナリズム批判につなげていこうという底意もあるわけだが、岩波にしてはそんなに露骨ではない。一般的に言えば穏当なスタンスだろうし、その姿勢にケチをつけるつもりは全くないが、微妙に引っかかる点がいくつかあった。
914 :つづき :sage :2009/06/27(土) 01:31:56例えば「キリシタン弾圧の残忍さを見れば、多神教が一神教に比べて寛容だとは言えない」との主張。キリスト教の異端審問や十字軍・魔女狩りなどに至るまで教会が主体となって行っていたのに対して、キリシタン弾圧は秀吉にせよ徳川幕府にせよ世俗権力ではないか?後の記述で近世において世俗権力と宗教が一体となっていた、とは言っているが、祭政一致ではないとも言っている。キリシタン弾圧に宗教者主体がどこまでコミットしたのかを検討しなければ、一神教と多神教は同程度に非寛容とは言えないはず。程度の差はあると言うなら、あると記述しないとミスリードになるのではなかろうか。まぁ自分はキリスト教弾圧は結果的に正解だったと思っているので、このあたりちょっと偏った感想を持ちました。大まかに言って、著者は、宗教と権力の結びつきに対して批判的で、権力に抵抗する宗教には好意的な感じ(あたりまえか)特にファシズムに対抗するためには、非妥協的な宗教の方が強いわけで、キリスト教ひいきっぽいのはその辺なのかな、と。権力に対抗できる強い宗教というのは、すなわち狂信的な宗教でもあるわけで、自分としては気持ち悪さの方が強い。もちろん著者も、崇高と平安をもたらす半面暴力の温床になる宗教の二面性についてもきちんと捉えて考察している。最終章の「日本宗教の現在」はバランスのとれた、きれいなまとめだと思う。
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