偉大なるロシアの英雄プーチン、大統領への道

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723 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 21:34:24 ID:HLf+7Tkz エリツィン大統領が辞めてプーチンがクレムリンの権力の中枢に至るまでの道はこうであった。 大クレムリン宮殿の改装を150年間ぶり(もしくは初)行なうこととなった。 しかし、その際に酷い汚職が発生する。 クレムリンの金庫番を勤めていたボロジン総務局長は欧米の企業と数十億ドルの契約をしたのだが、1998年スイスの建設会社との不正取引に気づいたスイス当局はロシアに対し、司法捜査をすると伝える。 (捜査関係者 カルラ・デルポンペ元スイス検事総長 ユーリ・スクラートフ元ロシア検事総長) その中でボロジン一派はマベテクス社と3億5000億ドルの契約 これは数倍程度水増しされていた。 また1998年8月にはロシア通貨危機が発生。ロシア国民は貯蓄の80パーセントを失うことになる。 これらによってロシア国民も議会もエリツィン大統領そしてファミリーの言うことを聞かなくなった。 そのためファミリーが新しい首相を画策するもすべてに反対される。 仕方なく、妥協案としてエブゲニー・プリマコフを首相に任命する。 彼は外相で共産党に顔が利き、対外情報局長官を務めるが、エリツィンが知る人物でもあった。 しかし彼は首相に就任すると、ファミリー打倒を心に秘め、ロシアの政治腐敗や経済犯罪の実情を調べるよう命令した。 そして軽犯罪者9万6000人を恩赦で釈放し、経済犯罪者の逮捕を画策する。 この結果ボロジン総務局長名義の600万ドルの銀行口座を発見する。 またマベテクス社の家宅捜索ではエリティンの娘たちにクレジットカードを発行するための書類とエリティン本人名義のキャッシュカードを発見する。 724 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 22:17:47 ID:HLf+7Tkz この行動に対しファミリーは ユーリ・スクラートフロシア検事総長を呼び出し、いうことを聞かなければお前に似た人が淫乱行為しているものを全国テレビに流すと脅す。 彼は脅しに屈さなかった。そしてエリツィンの娘の尋問と、ベネゾフスキーの逮捕を行おうとする。 従ってついにその映像が全国に報道される。 これが検事総長かどうかは世論の分かれていたが 連邦保安局長官であったプーチンが彼は検事総長だと説明する。(警察の発表みたいなもの) 結果、ユーリ・スクラートフロシア検事総長は解任され、マベテクス社の捜査は打ち切りになる。 またエブゲニー・プリマコフ首相も解任しステパーシンを首相とする。しかしプレマコフ元首相政党祖国全ロシアを結成し、その支持率はとても高かった。 またこの時期にプーチンは次の大統領候補となる。これは検事総長の一件が高く評価されたものと思われる。 (プーチン氏 KGB元大佐であったが、崩壊後、サンクトペテルブルク市長のソフチャクの元で働く。 プーチンは副市長になる。 しかし、市長は選挙に落選し、プーチンも職を失う。 その後ボロジン総務局長に雇われる。 2年後FSB連邦保安局長官に任命。) この時期にチェチェンがバサーエフ司令官を中心としてダゲスタンに侵攻する。 目的はイスラム国家の樹立であった。ウラジーミル・シャハーノフダグスタン作戦司令官 結果ロシア軍とチェチェンで戦争発生。また8月9日にプーチンを首相代行に任命され一週間後には首相となる。 当時プーチン首相は無名。プーチンはまずダゲスタン部隊に慰問した。 またその軍事文書に署名した。(一般には責任を取りたくないため口頭で命令) この時期のプーチンの支持率は3パーセント、プリマコフは20パーセント この状況を打開するため、テレビを利用した。 725 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 22:19:00 ID:HLf+7Tkz またこの時期に連続爆弾テロ事件が発生死者200名以上の大惨事。 この事件はチェチェン人武装グループといわれているがFSBという説もある。 少なくとも政治的に利用されたのは間違いないといわれている。 10月チェチェンに侵攻、プーチン支持率は15%になる。 この時期にクレムリンに選挙対策本部を秘密裏に結成。 1999年12月31日にエリツィンは大統領を辞任、プーチンが大統領代行となる。 議会選挙の2ヶ月前にプーチンのための政党(統一)を作る。 議会選挙の数週間前ロシア軍はチェチェンの中心都市グローズノイまで到達していた頃 一時停戦すべきだと軍が主張する。理由は兵役期間、天候であった。 しかし認められることはなかった。 選挙では統一が23パーセントプリマコフの党は13パーセントでプーチンの政党が勝利する。 ロシアでは議会の選挙に勝利すれば、大統領選挙も勝てるといわれており、2000年の選挙では圧倒的勝利をおさめる。 プーチン氏が大統領になれたのはエリツィン大統領に忠実であって、誠実な対応ととったことや また国民の支持を得ることを複数行ったからだといえる。 興味がある方は自分で調べてみてほしい。 728 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/30(金) 23:23:13 ID:8O4goNxO >>723-725 プーチンのエリツィンに対する忠誠は後継者の椅子を手に入れる為の見せ掛け。 大統領となったプーチンには彼の勢力を継承した為に5つのグループを抱えていたが、 (新ペテルブルグ派、エリツィンファミリー派、リベラル官僚グループ、オリガルヒ、地方有力者) 巧みに弱い所から潰し、徐々に邪魔な勢力を潰す、という方法を取ってる。 実際にオリガルヒ締め上げと国有財産奪還も成し遂げ、ファミリー派の人材も切ってる。 最終目標は、エリツィンファミリー派、リベラル官僚グループ、オリガルヒの排除。 相当綿密に練られた国家復興計画が存在しているものと思われる。 ----
723 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 21:34:24 ID:HLf+7Tkz エリツィン大統領が辞めてプーチンがクレムリンの権力の中枢に至るまでの道はこうであった。 大クレムリン宮殿の改装を150年間ぶり(もしくは初)行なうこととなった。 しかし、その際に酷い汚職が発生する。 クレムリンの金庫番を勤めていたボロジン総務局長は欧米の企業と数十億ドルの契約をしたのだが、1998年スイスの建設会社との不正取引に気づいたスイス当局はロシアに対し、司法捜査をすると伝える。 (捜査関係者 カルラ・デルポンペ元スイス検事総長 ユーリ・スクラートフ元ロシア検事総長) その中でボロジン一派はマベテクス社と3億5000億ドルの契約 これは数倍程度水増しされていた。 また1998年8月にはロシア通貨危機が発生。ロシア国民は貯蓄の80パーセントを失うことになる。 これらによってロシア国民も議会もエリツィン大統領そしてファミリーの言うことを聞かなくなった。 そのためファミリーが新しい首相を画策するもすべてに反対される。 仕方なく、妥協案としてエブゲニー・プリマコフを首相に任命する。 彼は外相で共産党に顔が利き、対外情報局長官を務めるが、エリツィンが知る人物でもあった。 しかし彼は首相に就任すると、ファミリー打倒を心に秘め、ロシアの政治腐敗や経済犯罪の実情を調べるよう命令した。 そして軽犯罪者9万6000人を恩赦で釈放し、経済犯罪者の逮捕を画策する。 この結果ボロジン総務局長名義の600万ドルの銀行口座を発見する。 またマベテクス社の家宅捜索ではエリティンの娘たちにクレジットカードを発行するための書類とエリティン本人名義のキャッシュカードを発見する。 724 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 22:17:47 ID:HLf+7Tkz この行動に対しファミリーは ユーリ・スクラートフロシア検事総長を呼び出し、いうことを聞かなければお前に似た人が淫乱行為しているものを全国テレビに流すと脅す。 彼は脅しに屈さなかった。そしてエリツィンの娘の尋問と、ベネゾフスキーの逮捕を行おうとする。 従ってついにその映像が全国に報道される。 これが検事総長かどうかは世論の分かれていたが 連邦保安局長官であったプーチンが彼は検事総長だと説明する。(警察の発表みたいなもの) 結果、ユーリ・スクラートフロシア検事総長は解任され、マベテクス社の捜査は打ち切りになる。 またエブゲニー・プリマコフ首相も解任しステパーシンを首相とする。しかしプレマコフ元首相政党祖国全ロシアを結成し、その支持率はとても高かった。 またこの時期にプーチンは次の大統領候補となる。これは検事総長の一件が高く評価されたものと思われる。 (プーチン氏 KGB元大佐であったが、崩壊後、サンクトペテルブルク市長のソフチャクの元で働く。 プーチンは副市長になる。 しかし、市長は選挙に落選し、プーチンも職を失う。 その後ボロジン総務局長に雇われる。 2年後FSB連邦保安局長官に任命。) この時期にチェチェンがバサーエフ司令官を中心としてダゲスタンに侵攻する。 目的はイスラム国家の樹立であった。ウラジーミル・シャハーノフダグスタン作戦司令官 結果ロシア軍とチェチェンで戦争発生。また8月9日にプーチンを首相代行に任命され一週間後には首相となる。 当時プーチン首相は無名。プーチンはまずダゲスタン部隊に慰問した。 またその軍事文書に署名した。(一般には責任を取りたくないため口頭で命令) この時期のプーチンの支持率は3パーセント、プリマコフは20パーセント この状況を打開するため、テレビを利用した。 725 名前:名無しさん@3周年 ◆9YzZouIJBw [sage] 投稿日:2008/05/30(金) 22:19:00 ID:HLf+7Tkz またこの時期に連続爆弾テロ事件が発生死者200名以上の大惨事。 この事件はチェチェン人武装グループといわれているがFSBという説もある。 少なくとも政治的に利用されたのは間違いないといわれている。 10月チェチェンに侵攻、プーチン支持率は15%になる。 この時期にクレムリンに選挙対策本部を秘密裏に結成。 1999年12月31日にエリツィンは大統領を辞任、プーチンが大統領代行となる。 議会選挙の2ヶ月前にプーチンのための政党(統一)を作る。 議会選挙の数週間前ロシア軍はチェチェンの中心都市グローズノイまで到達していた頃 一時停戦すべきだと軍が主張する。理由は兵役期間、天候であった。 しかし認められることはなかった。 選挙では統一が23パーセントプリマコフの党は13パーセントでプーチンの政党が勝利する。 ロシアでは議会の選挙に勝利すれば、大統領選挙も勝てるといわれており、2000年の選挙では圧倒的勝利をおさめる。 プーチン氏が大統領になれたのはエリツィン大統領に忠実であって、誠実な対応ととったことや また国民の支持を得ることを複数行ったからだといえる。 興味がある方は自分で調べてみてほしい。 728 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:2008/05/30(金) 23:23:13 ID:8O4goNxO >>723-725 プーチンのエリツィンに対する忠誠は後継者の椅子を手に入れる為の見せ掛け。 大統領となったプーチンには彼の勢力を継承した為に5つのグループを抱えていたが、 (新ペテルブルグ派、エリツィンファミリー派、リベラル官僚グループ、オリガルヒ、地方有力者) 巧みに弱い所から潰し、徐々に邪魔な勢力を潰す、という方法を取ってる。 実際にオリガルヒ締め上げと国有財産奪還も成し遂げ、ファミリー派の人材も切ってる。 最終目標は、エリツィンファミリー派、リベラル官僚グループ、オリガルヒの排除。 相当綿密に練られた国家復興計画が存在しているものと思われる。 ----

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