国家社会主義の綱領-第ニ章-第ニ節


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第二章


第二節 教育理念


倫理規範


 明治における文明開化以後、日本人は必死で西洋の衣を纏ってはきたものの、西洋を内側から理解する試みが十分になされてきのかと言えば、それには疑問符がつきます。我々日本人が明治期に西洋から学んだものは、あくまで近代的な物質文明でした。そのため、我が国は文明開化以後、物質的には西洋文明の真似をしながら、精神的にはアジア的な風土を色濃くの残して来ました。そのため、戦前の我が国においては、国家を統合する神話として天皇制を戴いていました。しかし、もはや現代において天皇制を再び神話とするのは期待できません。なぜなら、歴史的に隔絶しすぎている上、天皇制ファシズムによる苦い失敗が過去にあったからです。そのため、現在の我が国は、内面におけるアジア的風土の喪失の中で、上辺だけで西洋の衣を纏っている状態にあります。ここに現代日本の包括的な行き詰まりの根本原因があります。
 そのため、現在の日本人は西洋の衣を纏いながら、内面の空虚を埋める理想も神話も自国に見出す事が出来ないのです。したがって、ここでいっその事、内面的な理想と神話に至るまで、西洋から求める事を私は提唱します。その西洋世界における神話とは、古代ギリシア文明です。なぜなら、古代ギリシアこそが西洋文明の原点であり、西洋社会における共通の理想像だからです。そもそも、キリスト教会が支配する暗黒の中世を経て、ルネサンス期に古代ギリシアを再評価する事で、現代の西洋文明が構築されている側面があります。そのため、我々日本人は聖書と神学に基づく世界観への理解を深める一方で、彼らが理想とする古代ギリシア的な世界観も習得せねばなりません。私は古代ギリシアを文明の理想として、祖国を復興する道を開拓すべきであると考えます。そして、学問の場では武士道や朱子学といった伝統的規範を、西洋的な理性と哲学で緻密に体系化する試みを行うべきです。こういった試みを通じ、西洋の衣を纏うだけの現状から脱し、自らの価値を自らの歴史から見出しつつ、彼らと真に価値体系を共有する道を築くべきです。

初等教育


 仮に内政面での立て直しに成功した場合には、なるべく早期に教育の再建に取り組まねばなりません。ここでは、先に教育の理念について詳細に説明させて頂きます。教育の目的とは、後継者の育成にあります。将来の日本を担う人材を育成する事で、国を永く繁栄させるのが、教育の目的です。すなわち、国を創るとは人を育てるという作業でもあります。特に、日本は加工貿易で生計を立てている資源小国なので、工業系の人材は国の要です。したがって、人材の育成には何にも増して力を入れねばなりません。
 まずは、制度面から初等教育について論じます。当たり前の事ですが、どれだけ貧しい子供でも初等教育においては平等に教育を受けられる体制を構築すべきです。それが義務教育というものなのですが、近年ではその常識さえも曖昧になりつつあります。そもそも義務教育とは国家の未来への投資であるため、老人福祉の予算を削ってでもせねばならない政策であり、防衛費よりも更に重要な予算です。したがって、制服・給食の給付は小中学校で一貫して行うべきです。言うまでもなく、教科書やノートは一律で無償配布せねばなりません。この初等教育の上で要求される最低限の予算を削る事を提案する者は、敵対勢力からの工作員だと見なすべきです。
 加えて、優秀な児童を選抜する体制も完成させる必要があります。これは悪平等を解消するために必要な教育制度です。そのため、飛び級制度を実施すべきです。また、特に優秀な児童は国立のエリート養成機関へ行く道を与えるべきです。これは志願制で運営される全寮制の教育機関で、将来を担う官僚と軍人を養成する国家機関でもあります。具体的には戦前の陸軍幼年学校を復活させ、最優秀の児童には国家を防衛するエリートになる道を与えるべきです。こういった専門的に教育されたエリートは、国民に模範を示さねばなりません。同時に、国民の側は国家のために働くエリートに対して最大限の名誉を与えねばなりません。この模範と名誉の交換条件が、軍隊と官僚機構を運営するエリートを安定供給する基礎なのです。
 次は初等教育の内容について論じます。私は初等教育においては、人間として最低限の道徳を叩き込むべきであると主張します。幼い児童はまだ社会理解が不十分であり、責任能力が認められないため、自由を与える必要はありません。したがって、小中学校とは規律と秩序を体に叩き込む場であり、自由と平等の関係論を問う場ではありません。また、規律と秩序を叩き込ませる教育とは、協力の大切さを体でおぼえさせる教育の事です。したがって、組織的分業によって仕事を効率的に処理させる習慣を、初等教育で教え込む必要があります。したがって、放課後の掃除は必ず生徒自らの手でやらせ、規則を破った者には体罰を加える事もある程度は容認すべきです。これは冗談ですが、規則を破った出来損ないの子供を擁護し、学校に苦情の電話をかけて来るような愚かな保護者には、裁判所から親権停止処分を下すべきではないでしょうか。このようにして、まだ子供が幼いうちに徹底的に厳しく躾をする事で、人生の基礎を固めさせねばなりません。これは明確に管理教育ですが、内外からどれだけ強い批判があろうとも、この教育の様式は断固として変えてはなりません。
 その上で、初等教育においては、厳しい管理下で人生の基礎となる習慣を徹底的に叩き込まねばなりません。その人生の基礎となる習慣とは、読書です。この読書の重要性はいくら強調しても足りません。そもそも人間が独力で考えるだけでは限界があるため、積極的に読書をする姿勢が大切なのです。書物には、賢者が一生をかけて考え抜いた結論が整理されて述べられています。したがって、判断に困った時には読書を通じて各時代の賢者から助言を仰ぐのは当たり前の事です。すなわち、読書とはあらゆる時代の賢者と一対一で対話する作業であると言えます。そして、読書を通じて、先代の賢者が築き上げた来た既存の知の体系を継承する事が何よりも先決です。したがって、凡庸である事は何の恥でもありません。基礎基本と原理原則を厳守し、当たり前の事を当たり前にやる事が出来なければ、高度な応用へと進む事は出来ません。一方で、読書をしない人物は、視野狭窄的な独り善がりに陥りやすくなります。なぜなら、自分一人だけの狭い思考や浅い経験を基にした判断を盲信するからです。これはすなわち、謙虚に他者の意見に耳を貸す姿勢がなく、判断に困った時に他者から助言を仰がないという事でもあります。こういった心理の根底には、自己の判断を過信する自惚れが潜んでいます。彼らは最初から書物を軽蔑し、過去の思想家を侮辱している部分があります。こういった人物は、自らの稚拙な主張を他者から受け入れてもらえない場合、相手を非難するようになります。したがって、このように全く読書をせずに自己主張する人物は、最後には世間から相手にされなくなります。
 そのため、国の将来を担う優秀な思想家と発明家を育成するためには、人生の初期における教養の詰込みが重要になります。特に重要な教養とは、国語と歴史です。しかも、最重要なのは国語です。なぜなら、言語的思考力の無い人間は、理系文系問わず、全く役に立たないからです。教養において、特に語学が重視されているのは、語学力がなければ文献が読めないからです。例えば、あのナイチンゲールは幼少期に徹底的な英才教育を施された人物です。その教育内容は、フランス語・ギリシャ語・イタリア語、ラテン語などの外国語、プラトン哲学・数学・天文学・経済学・歴史、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学などです。このように、優れた業績を残した歴史的人物は、幼少期に語学教育が徹底されている例が多いのです。したがって、日本の義務教育でも、国語力を徹底的に養うために、読書と論文を毎週宿題として課すべきです。そして、中学校の時点で芥川龍之介や三島由紀夫等の作品を強制的に読ませるべきです。また、高校生になれば、哲学書や思想書などの古典的名作を読ませる事で思考の芽を育み、将来を担う若者を育成せねばなりません。
 また、史実に基づく民族的歴史観を教える事で日本人としての自覚を構築すべきです。これは日本という共同体の一員である事への自覚を覚えさせる事です。それによって、同胞と自然に協力する姿勢を芽生えさせるのです。しかし、民族的歴史観とはあくまで史実に基づいた正確なものでなければいけません。そのため、私は単一民族史観に基づく戦前の歴史教育には反対です。なぜなら、日本の先住民はアイヌ人や琉球人に代表される縄文人であり、現在の本土の日本人は後に入植した弥生人だからです。したがって、日本は単一民族国家ではなく、縄文文化と弥生文化には歴史的な連続性は認められません。そのため、縄文人は別個の文化圏を形成した他民族であると定義し、一般的な本土の日本人は弥生人の末裔であると見なすべきです。これは差別思想を植え付けるというのではなく、アイヌ人や琉球人を一つの他民族として並列して認める文化多元主義です。仮に史実を歪めて強引に単一民族史観に基づく教育を行った場合、琉球人の自覚を否定する事につながり、それは更なる軋轢の原因になるだけです。それは将来へ禍根を遺す事にもなるため、絶対に避けなければなりません。

高等教育


 次は高等教育に関する問題です。現在は憲法上の学問の自由の規定により、大学の自治は認められています。そのため、大学は行政権や警察権が及ばない治外法権の場と化しています。確かに、刑法に触れる罪を犯せば裁判所が令状を出して介入できるます。しかし、そうでなければ大学には手出しが出来ないのです。仮に政治家が大学に手を出せば、学問の自由を弾圧するファシストだと似非学者から罵られるのが関の山です。過去にはそれらの理由から、大学が学生運動の拠点になっていました。しかし、団塊世代が学生運動に敗れた事で、大学はモラトリアムを楽しむだけの堕落した場に変わってしまいました。もはや痴呆者の楽園と化した日本の大学ですが、既に一部の私立大は定員割れで廃校寸前です。したがって、放置しておけばつまらない大学はそのまま消える運命にあります。そもそも、ずいぶん前から日本の大学教育の内容は実質的に崩壊しており、将来は学歴などは何の価値もなくなる日が来るでしょう。少なくとも、大卒者の教育水準を維持するために、大卒資格を付与する条件として、卒業前に高卒認定試験を課すべきです。
 実は、この高等教育の面でも高度経済成長の幻影によって問題が起こっています。それは専門家の過剰育成です。例えば、教職免許を持った人が余りにも多すぎるため、現在では公立高校の教師になるためには、約百倍の倍率に勝ち残らなければならない状態です。そのため、教師になるためには学校か役所の口利きが必要であると言われています。これが、人口統計を無視して過剰に人材を育成してしまった結果です。これは理系の研究職でも同様です。実は、理系の研究職では、博士号が有り余ってしまい、今では大安売りされ始めているのです。この有り余った博士号が安売りされる問題は、オーバードクターと呼ばれています。特にその弊害が顕著なのが、歯科医です。実は、歯科医の業界は二極化が進み、一部には非常に裕福な歯医者がいながら、一部には非常に貧しい歯科医がいる状態です。具体的には、歯科医の三人に一人は年収三百万円を切るほどで、歯科医の貧困が水面下で大問題となっています。また、この問題が特に深刻なのは、歯学科の多い東京と新潟です。この問題は、私立大学は歯学科を開設すれば、非常に高い学費を得ることが期待できるため、文部省に新しく歯学科を創設する許認可を求め続けたことが原因です。この歯科医の飽和については、1989年に野村證券の研究所が警告していたのですが、当時の政府は無視してしまいました。しかし、これからは人口統計を基に、専門家を育成する数を設定すべきです。
 したがって、大学は全て国立大学として、それ以外は職業訓練施設にすべきです。この教育制度はドイツの制度と全く同じものです。そして、職業訓練施設とは、主に工業系の分野を中心とします。それ以外の技術者は、人口減少で需要がどんどん減って行くため、過剰に養成すると値崩れしてしまうだけです。そもそも、日本は物作りの国ですので、物作りに生涯を捧げる職人こそが、真に尊敬されるべきであると言うのが私の考えです。すなわち、背中に入れ墨を掘った大工や、頑固な職人こそが尊敬されるべき存在です。そのため、職業訓練施設出身で、工業系の専門職の労働者には名誉ある地位を授け、彼らへの賛辞は惜しんではなりません。当然、彼らにこそ十分な収入を確保させるべきです。一方で、高学歴を鼻にきた半端なエリート崩れは唾棄すべき軽薄な存在です。
 次は留学に関しての問題です。現在の日本の教育においては、アメリカ合衆国に留学させる例が余りにも多すぎるのではないでしょうか。そのため、一時期には米国の私立大で構築されている人文科学が、絶対的真理であるかの如く崇め奉られていました。しかし、所詮はどこの国の大学も、自国に都合のいい学問を構築するものです。例えば、米国流のリバタリアニズムがその良い例です。所詮これは米国の価値観に過ぎません。(この思想を完成させたのがオーストリア出身のハイエクであるのは皮肉な話ですが)そもそも、米国は海洋国家で、外部から直接侵略を受ける心配がないので、こういった個人主義的な思想を選択できるだけの話です。したがって、リバタリアニズムはあくまで米国のお家事情から出来上がった思想でしかなく、決してこの価値観が普遍的真理というわけではありません。今後は米国が自慢して来た民主主義が自壊し始めるため、あの国の学問や価値観は世界から見放されるでしょう。そのため、これからは学問的にも斜陽化した米国への留学は見直すべきです。そして、それ以後は欧州の国立大への留学枠を拡充させるべきです。
 次は高等教育の全般的な内容に関する問題です。まず、今の暗記偏重の教育課程と徹底した競争主義の教育は、知識にだけ偏った人間をつくってしまう弊害があります。また、現在の日本の高等教育の現場は、どちらかと言えば経験主義や帰納法を重視する傾きにあります。しかし、帰納法をとるにしても、事実から一つの因果関係を導き出す作業をちゃんと教えているとは言いがたい状態です。なぜなら、現実には日本の教育現場では、大学の入学試験において高い得点を獲得する事を目的とした丸暗記主義の教育が行われているからです。しかし、知識の丸覚えをさせるだけでは、断片的な知識を詰め込ませるだけなので、統合的な認識能力を築きあげる事が出来ないのです。そのため、丸暗記の教育では論理的思考力を欠いた人材が生まれてしまうのです。何より、上から渡された課題をこなすだけの受動的な指示待ち人間が増えてしまうのです。これは覚えるだけで、考えることを否定された結果、人間としての主体性が失われてしまうのが原因です。そのため、次世代の教育においては、暗記の競争よりも、思考の協力を主軸とすべきです。例えば、議論においても勝ち負けにこだわらせるより、優れたアイディアを出しあう事を教えるべきです。また、読書をして論文を書かせる訓練をさせるべきです。そうする事で、協力して何かを建設する楽しみと、考える楽しみを覚えさせれば、勉強に対して自発的な意欲を持ち始める事が期待できます。それが建設的な精神と、知的好奇心を喚起するのです。これは北欧で近年実践され、高い業績を上げた教育の理念です。これを模範にして日本に導入すれば、現在の学力低下にも歯止めがかかるはずです。

芸術振興


 19世紀にハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国が栄えていた頃、帝都ウィーンは学問と芸術の都として全盛期を迎えました。世に言う世紀末ウィーンと呼ばれる時代です。この時代のウィーンは、パリなど足下にも及ばないほどの文化都市でした。今でもウィーンは音楽の都として世界に知られています。もちろん、我が国もオーストリアに負けないほどの文化国家です。しかし、これからは芸術振興を更に重視するべきです。そもそも、芸術の意義や目的とは何でしょうか。まず、普遍的な芸術的価値とは真善美です。そのため、美の追求は真実の究明でもあり、これは自然科学の精神にも通じるものです。すなわち、学問は真実を究明する作業であり、芸術とは真実を表現する作業であると定義できます。このように、学問と芸術は両輪なのです。したがって、文明社会の長期的な繁栄には、芸術の振興が必要なのです。
 また、優れた文化や芸術を創造する主体は、いつの時代でも才能です。芸術や学問を創造する才能は、天から授かるものです。したがって、そういった天賦の才能は、個人の私有物ではなく、国家の共有財産とみなし、国家が保護せねばならない言うのが私の考えです。これは人命を国家の共有財産とみなす思想から派生したものです。そのため、現在においても、伝統芸能を継承している人物が人間国宝として選定され、法的に保護されているのです。したがって、「私の才能だから、生かそうが殺そうが私の勝手でしょう」と考えるのは間違いです。社会に有用たる才能を出し惜しみする事は、決して赦されない罪です。そのため、本人の意志の如何に関わらず、その才能を限界まで引き出させなければなりません。人種、性別、国籍、身分などは一切問わず、才能を持つ者は国家が半ば強引に活用するべきです。例えば、先天的に卓越した画才や数学の才能等を持って生まれた子供は、国家が支援して英才教育を施すべきです。そして、その天賦の才能を限界まで引き出して、優れた芸術や学問を築き、後世に遺さねばなりません。
 加えて、元々持っている高い文化水準を更に高めるためには、無計画に文化会館等を造るばかりなく、海外からの厳粛な審査にも耐え得るだけの優秀な芸術家を育成せねばなりません。そうして国家や財閥がスポンサーとなって芸術を育成する事で、永い繁栄が約束されるのです。例えば、ルネサンス期においてフィレンツェの芸術家の後援者だったのが、イタリアのメディチ家です。このメディチ家の名は、レオナルド・ダ・ヴィンチの名と共に歴史に刻まれる事となりました。このように、芸術の投資は名誉な事なので、こういった一見無駄に見える事業にこそ、十分な予算を分配するべきです。現にオーストリアでは、国営劇場で採算を度外視して最新のオペラ作品を上演しています。もちろん日本でもそういった試みは行われているのでしょうが、これからはもっと国ぐるみで徹底した文化振興を行い、後世に誇れる優れた芸術を創造するべきです。
 また、相続主義の観点から、私は伝統文化の保護も主張します。元来、日本の伝統文化は世界に誇るべき貴重な価値を持つものです。かのヴィンセント・ヴァン・ゴッホも日本の浮世絵に心酔していたという有名な逸話があります。また、私はあらゆる芸術の中でも建築を最重視しています。なぜなら、精巧に造られた建築物は千年の時を経ても屹立し、後世の世代への遺産として継承されるからです。現に世界最古の木造建築である法隆寺は、世界遺産に指定されています。
 この伝統を重視する姿勢は、必ずしも偏狭な民族主義を指しているわけではありません。他の民族の文化であれ、それが長い歴史の中で培われた伝統文化である場合、積極的に受け入れ、自国の伝統文化と混淆させるべきです。こういった文化の混淆の中で、優れた芸術が生まれてくるのです。私が特に尊崇しているのは、ヘレニズムとルネサンスです。このヘレニズムとは、古代ギリシア、古代ローマの文化様式を指し、西洋世界の精神的な故郷であるとされています。そのため、古代ギリシアの芸術と学問が、西洋社会においては共通の教養とされています。明治時代の文明開化においては、西洋の近代文明を積極的に輸入しましたが、これからの時代は西洋の伝統文化(ヘレニズムとルネサンス)を積極的に輸入するべきです。
 そう主張すると、日本のアニミズムに、西洋の一神教的な宗教観は合わないという反論の声ものぼるかもしれません。確かにユダヤ教・キリスト教のヘブライズムの宗教観は一神教ですが、ヘレニズムの宗教観は多神教です。したがって、私は八百万の神の中に、オリュンポス十二神を加えるべきだと考えております。そもそも、このヘレニズムの主な歴史的舞台は、アレキサンダー大王が征服した小アジア、中東、北インドであるため、ヘレニズムは純西洋的でありながら、アジアとの関係が非常に深いのです。そのため、東洋大学の歴史学者である後藤明教授は、古代世界の学問の中心はエジプトのアレキサンドリアあると主張されています。どうやら、ヘレニズムとは古くはアケメネス朝ペルシアやフェニキア等とも関係があるようです。それだけではなく、古代ギリシアと古代インドには密接なつながりがあり、古代ギリシア語とサンスクリット語には数多くの類似点が見られます。そのため、古代ギリシアのオルペウス教と、古代インドの原始仏教には類似性があると指摘されています。このように、あらゆる形で古代から脈々と受継がれてきたヘレニズムを貪欲に吸収し、日本の伝統文化と混淆させる事で、新しい芸術が創造される事が期待できます。


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