北海道戦争

概要

北海道戦争とは、北海道において20XX年12月8日に開始された扶桑皇国ユークトバニア極東軍の間で行われた戦争である。扶有友好条約を破棄したソ連軍による侵攻であるが、ユーク側はこれに先立つアナスタシア中尉亡命事件や奥尻島事件の段階で同条約が事実上破棄されたものとしている*1

背景

ユークトバニア連邦共和国の観光通信用語集の項目も参照。
ユーラシア連邦機構の創設を構想していたマーシャルノフ大統領は、周辺国との融和政策を図っていた。その一環として扶桑皇国との長きに渡る領土問題の解決に向けて会議が進められていた。しかし、領土返還を良しとしない軍人らが秘密裏にクーデタを行いマーシャルノフ大統領を幽閉し、返還そのものをなかったことにした。それどころか北方四島に軍事要塞が築かれるなど扶桑関係は悪化していった。
大統領が姿を見せなくなってから4ヶ月、ユーク海軍に所属していたアナスタシア・ヴァシリーシナ中尉は兄からもたらされた情報データから大統領行方不明の真相と密かに戦争を進めていることを知り、かつての仲間達と決別して扶桑皇国へと亡命。最新鋭の第6世代戦闘機Su-61に乗って函館市へ強行着陸した。ユーク政府は即時に機体とパイロットの返還を求め、多数の戦闘機や爆撃機を差し向けるも、扶桑側は「本人の意志を尊重する」と会見しユーク政府の要請を断った。このとき、アナスタシアから亡命理由を聞かされ、「決号作戦」に向けて本格的に動き出す。スペツナズ*2が「機体を強行的に取り返しに来る」や「機密保全のため破壊しに来る」との噂が広まり道民は混乱し北海道は騒然としていた。
このような緊張状態の中、奥尻島付近でTu-95と護衛の戦闘機が撃墜されたとの報告を受けユークトバニアは非常事態宣言を出し、扶桑皇国に宣戦を布告する。しかし事の真相はTu-95が領空侵犯を行い、さらにレーダー照射ロックオンしたために沈黙させたということで、すべて意図的に仕組まれていたことだった。
潜水艦隊による津軽海峡の機雷封鎖や沿岸地方、カムチャッカ半島からの大量の巡航ミサイルや弾道ミサイル、ステルス機によるAWACSやレーダーサイトの破壊、さらに一連の軍事行動の後に大規模な艦隊を展開するなどとても三日間で気付かれずにこれだけの戦力を整えれるわけもなく、すべては用意周到に仕組まれたユーク側の自作自演であった。

作戦概要

扶桑軍

事前にユーク軍の攻勢を察知した扶桑軍は、まずは内地にて潜伏場所や塹壕、部隊移動を円滑に行わせるための道路を秘密裏に施設、さらにユーク軍が侵攻してきそうな道路には対戦車地雷を敷設し、進軍を遅らせて戦力を整える時間を稼いだ。そして、扶桑陸軍は敢えて沿岸沿いの護りを棄て内地での徹底抗戦を図る。徹底持久戦によってユーク主力に大きな打撃を与え、さらに補給線が延びきったところで伏兵が逐次奇襲し後方との補給を絶たれたユーク陸上部隊の戦線は停滞、これを各個撃破して侵攻力の減じた時点で反撃に転換し撃退するというものである。

ユーク軍

北海道戦争におけるユーク軍の攻勢作戦の概要としては、第一に鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ満州・プリモルスキー地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ユーク軍は北部・東部方面においては一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって扶桑軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。その後北部・東部方面は東の戦局を見極ながらの攻撃という支援的な作戦であった。
特殊演習で集めておいた戦力をユジノサハリンスク基地やアルハンゲリスク基地などに集中させ、宣戦布告と同時に電子機器の無効化やステルス戦闘攻撃機によるレーダーサイトやAWACSの破壊後に近くに隠れていた原子力潜水艦やミサイル基地による旧型のスカッドミサイルと少数の高性能巡航ミサイルや弾道ミサイルで飽和攻撃しMAD能力を減らすことを目論んでいた。さらに津軽要塞・陸奥湾基地を電撃的に奇襲し、北海道と北扶桑地方との孤立化を計る。
参謀総局により計画の漏洩を危惧したアレクサンドル・マリノフスキー元帥は兵力を当初計画していたものよりも増加させ若干の作戦を変更する。中央部を飽和攻撃で各部隊との孤立化を計り北部・東部方面に配備されている扶桑軍を各個撃破、ある程度進んだところで反撃が本格化する前に陣地を固めた後に西部方面の上陸と共に手堅く中心部に侵攻する方針に変えている。海上においては北海道・青森付近の制海権を確保しつつ、潜水艦・機雷を用いた奇襲攻撃や伏兵攻撃、後方撹乱を念頭としている。基本的な戦術は水雷攻撃や航空戦を中心とし、初戦は艦隊決戦はなるべく避けようとしている。

戦闘序列
  • 第1極東戦線(宗谷・紋別方戦線)
    • 第316独立工兵旅団5,500名
    • 第1独立通信旅団1,500名
    • 第154独立電波技術旅団500名

  • 第1統合戦闘軍
第1極東統合師団
    • 第155独立自動車化狙撃旅団5,600名
    • 第239独立自動車化狙撃旅団5,500名
    • 第7独立砲兵旅団1,500名
    • 第79独立ロケット旅団1,500名
    • 第234補給部隊1,500名
    • 第12偵察中隊500名
    • 第530工兵大隊1,500名
    • 第921通信中隊500名

第2極東統合師団
    • 第182独立自動車化狙撃旅団5,400名
    • 第199独立親衛自動車化狙撃旅団5,500名
    • 第34独立親衛砲兵旅団1,500名
    • 第92独立ロケット旅団1,500名
    • 第903補給部隊1,500名
    • 第553偵察中隊500名
    • 第43工兵大隊1,500名
    • 第750通信中隊500名

  • 第2統合戦闘軍
第3極東統合師団
    • 第234独立自動車化狙撃旅団5,500名
    • 第291独立自動車化狙撃旅団5,600名
    • 第42独立砲兵旅団1,500名
    • 第5独立高射ミサイル旅団1,000名
    • 第956補給部隊1,500名
    • 第965偵察中隊500名
    • 第775工兵大隊1,500名
    • 第424通信中隊500名

第4極東統合師団
  • ー第23独立親衛自動車化狙撃旅団5,500名
    • 第866独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第332独立親衛砲兵旅団1,400名
    • 第8独立高射ミサイル旅団1,000名
    • 第630補給部隊1,500名
    • 第646偵察中隊500名
    • 第553工兵大隊1,500名
    • 第910通信中隊500名

  • 第5極東独立機甲軍団
    • 第4戦車師団18,000名
    • 第88独立砲兵旅団1,200名
    • 第421補給部隊1,500名
    • 第753偵察中隊500名
    • 第976工兵大隊1,500名
    • 第754通信中隊500名

  • 第6極東独立狙撃師団
    • 第77独立海軍歩兵大隊900名
    • 第13独立親衛海軍歩兵大隊1,300名
    • 第1独立親衛空挺旅団5,500名
    • 第9独立空挺旅団5,800名
    • 第897補給部隊1,500名
    • 第867偵察中隊500名
    • 第379工兵大隊1,500名
    • 第13通信中隊500名

T-90AM/MS 100両 T-95 95両 T-99 66両 PT-5水陸両用戦車47両 BMP-3歩兵戦闘車262両 BMP-4歩兵戦闘車171両 BMP-T 152両
各種装甲車両(BTR-80走行兵員輸送車 BTR-90/94/3U装甲兵員輸送車
KamAZタイフーンK MRAP BRDM-3偵察車 BMR-3地雷処理車 IMR-2装甲工兵車 BREM-84装甲回収車etc)
2S31 120mm自走迫撃砲134両 2S3 152mm自走カノン砲120門 2S5 152mm自走迫撃砲186門
2S19 152mm自走榴弾砲56門 2S7 203mm自走カノン砲28門
BM-27自走多連装ロケット砲200両 BM-30自走多連装ロケット砲150両 TOS-2火炎放射戦車148両
総数118,200名

  • 第2極東戦線(釧路・根室方面戦線)
    • 第99独立工兵旅団3,500名
    • 第70独立通信旅団1,500名
    • 第7独立電波技術旅団500名

  • 第5統合戦闘軍
第7極東統合師団
    • 第32独立親衛自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第336独立親衛自動車化狙撃旅団5,800名
    • 第29独立砲兵旅団1,500名
    • 第49高射ミサイル旅団1,000名
    • 第865補給部隊1,500名
    • 第468偵察中隊500名
    • 第245工兵大隊1,500名
    • 第864通信中隊500名

第8極東統合師団
    • 第430独立親衛自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第531独立自動車化狙撃旅団6,200名
    • 第30独立砲兵旅団1,500名
    • 第53高射ミサイル旅団1,000名
    • 第689補給部隊1,500名
    • 第956偵察中隊500名
    • 第306工兵大隊1,500名
    • 第680通信中隊500名

  • 第6統合戦闘軍
第9極東統合師団
    • 第92独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第95独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第47独立砲兵旅団1,500名
    • 第61高射ミサイル旅団1,000名
    • 第869補給部隊1,500名
    • 第997偵察中隊500名
    • 第210工兵大隊1,500名
    • 第1054通信中隊500名

第10極東統合師団
    • 第93独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第94独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第99独立親衛砲兵旅団1,500名
    • 第67高射ミサイル旅団1,000名
    • 第1025補給部隊1,500名
    • 第1530偵察中隊500名
    • 第2501工兵大隊1,500名
    • 第4339通信中隊500名

  • 第11極東独立機甲軍団
    • 第2戦車師団15,000名
    • 第34独立砲兵旅団1,500名
    • 第4201補給部隊1,500名
    • 第992偵察中隊500名
    • 第8301工兵大隊1,500名
    • 第1421通信中隊500名

  • 第12極東独立機甲軍団
    • 第6戦車師団18,000名
    • 第53独立砲兵旅団1,500名
    • 第1225補給部隊1,500名
    • 第1921偵察中隊500名
    • 第2640工兵大隊1,500名
    • 第5320通信中隊500名

  • 第13極東独立狙撃師団
    • 第6独立親衛海軍歩兵大隊960名
    • 第8独立海軍歩兵大隊1,100名
    • 第45独立親衛特殊任務連隊950名
    • 第5321補給部隊1,500名
    • 第6241偵察中隊500名
    • 第8321工兵大隊1,500名
    • 第6243通信中隊500名

T-90AM/MS 250両 T-95 85両 T-99 65両 PT-5水陸両用戦車55両 BMP-3歩兵戦闘車364両 BMP-4歩兵戦闘車263両 BMP-T 230両
各種装甲車両(BTR-80走行兵員輸送車 BTR-90/94/3U装甲兵員輸送車
KamAZタイフーンK MRAP BRDM-3偵察車 BMR-3地雷処理車 IMR-2装甲工兵車 BREM-84装甲回収車etc)
2S1 120mm自走迫撃砲167両 2S3 152mm自走迫撃砲162門 2S5 152mm自走迫撃砲160門
2S7 203mm自走カノン砲86門 2S19 152mm自走榴弾砲41門
BM-27自走多連装ロケット砲200両 BM-30自走多連装ロケット砲150両 TOS-2火炎放射戦車28両
総数128,510名

  • 第3極東戦線(苫小牧・石狩方面戦線)
    • 第89独立工兵旅団3,500名
    • 第10独立通信旅団1,500名
    • 第117独立電波技術旅団500名

  • 第7統合戦闘軍
第14極東統合師団
    • 第13独立自動車化狙撃旅団6,500名
    • 第27独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第2独立親衛砲兵旅団1,000名
    • 第71高射ミサイル旅団1,000名
    • 第179高射ミサイル旅団1,000名
    • 第5231補給部隊1,500名
    • 第6321偵察中隊500名
    • 第635工兵大隊1,500名
    • 第2183通信中隊500名

第15極東統合師団
    • 第56独立親衛自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第174独立自動車化狙撃旅団6,500名
    • 第19独立砲兵旅団1,000名
    • 第102高射ミサイル旅団1,000名
    • 第5191補給部隊1,500名
    • 第5219偵察中隊500名
    • 第5233工兵大隊1,500名
    • 第5554通信中隊500名

  • 第8統合戦闘軍
第16極東統合師団
    • 第88独立自動車化狙撃旅団6,230名
    • 第321独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第20独立親衛砲兵旅団1,000名
    • 第109高射ミサイル旅団1,000名
    • 第1402補給部隊1,500名
    • 第1299偵察中隊500名
    • 第4320工兵大隊1,500名
    • 第2412通信中隊500名

第17極東統合師団
    • 第533独立自動車化狙撃旅団6,520名
    • 第542独立自動車化狙撃旅団6,000名
    • 第32独立砲兵旅団1,000名
    • 第140高射ミサイル旅団1,000名
    • 第5139補給部隊1,500名
    • 第5102偵察中隊500名
    • 第3232工兵大隊1,500名
    • 第2153通信中隊500名

  • 第18極東独立機甲軍団
    • 第1戦車師団18,000名
    • 第234独立砲兵旅団1,500名
    • 第6208補給部隊1,500名
    • 第5421偵察中隊500名
    • 第9191工兵大隊1,500名
    • 第2919通信中隊500名

  • 第19極東独立機甲軍団
    • 第5戦車師団15,000名
    • 第29独立親衛砲兵旅団1,500名
    • 第1152補給部隊1,500名
    • 第2842偵察中隊500名
    • 第2189工兵大隊1,500名
    • 第2030通信中隊500名

  • 第20極東独立狙撃師団
    • 第31独立親衛空挺旅団5,000名
    • 第88独立親衛空挺旅団5,000名
    • 第7125補給部隊1,500名
    • 第4100偵察中隊500名
    • 第5192工兵大隊1,500名
    • 第8829通信中隊500名

T-90AM/MS 183両 T-95 80両 T-99 57両 T-14 56両 BMP-3歩兵戦闘車389両 BMP-4歩兵戦闘車240両 BMP-T 344両
各種装甲車両(BTR-80走行兵員輸送車 BTR-90/94/3U装甲兵員輸送車
KamAZタイフーンK MRAP BRDM-3偵察車 BMR-3地雷処理車 IMR-2装甲工兵車 BREM-84装甲回収車)
2S1 120mm自走迫撃砲194両 2S3 152mm自走迫撃砲205門 2S5 152mm迫撃砲248門
2S7 203mm自走カノン砲46門2S19 152mm自走榴弾砲76門
BM-27自走多連装ロケット砲300両 BM-30自走多連装ロケット砲200両
総勢131,950名

  • 第4極東戦線(室蘭・大樹方面戦線)
    • 第173独立工兵旅団3,500名
    • 第5独立通信旅団1,500名

  • '第9統合戦闘軍
第21極東統合師団
    • 第53独立親衛自動車化狙撃旅団6,800名
    • 第12独立砲兵旅団1,000名
    • 第202高射ミサイル旅団1,000名
    • 第203高射ミサイル旅団1,000名
    • 第6781補給部隊1,500名
    • 第6348偵察中隊500名
    • 第3091工兵大隊1,500名
    • 第5290通信中隊500名

第22極東統合師団
    • 第78独立親衛自動車化狙撃旅団6,600名
    • 第27独立砲兵旅団1,000名
    • 第224高射ミサイル旅団1,000名
    • 第5111補給部隊1,500名
    • 第6320偵察中隊500名
    • 第7752工兵大隊1,500名
    • 第5501通信中隊500名

  • 第10統合戦闘軍
第23極東統合師団
    • 第94独立自動車化狙撃旅団6,430名
    • 第43独立親衛砲兵旅団1,000名
    • 第289高射ミサイル旅団1,000名
    • 第5510補給部隊1,500名
    • 第6291偵察中隊500名
    • 第2239工兵大隊1,500名
    • 第3210通信中隊500名

第24極東統合師団
    • 第312独立自動車化狙撃旅団6,430名
    • 第66独立砲兵旅団1,000名
    • 第297高射ミサイル旅団1,000名
    • 第4510補給部隊1,500名
    • 第9632偵察中隊500名
    • 第1221工兵大隊1,500名
    • 第2049通信中隊500名

第25極東独立機甲軍団
    • 第3戦車師団15,000名
    • 第256独立親衛砲兵旅団1,500名
    • 第20親衛ロケット旅団500人
    • 第3294補給部隊1,500名
    • 第6827偵察中隊500名
    • 第2102工兵大隊1,500名
    • 第220通信中隊500名

第26極東独立機甲軍団
    • 第4戦車師団15,000名
    • 第3独立新鋭砲兵旅団2,000名
    • 第26ロケット旅団500人
    • 第2421補給部隊1,500名
    • 第1920偵察中隊500名
    • 第9432工兵大隊1,500名
    • 第441通信中隊500名

第27極東独立狙撃軍団
    • 第56独立親衛空挺旅団5,200名
    • 第148独立親衛空挺旅団5,000名
    • 第補給部隊1,500名
    • 第6821偵察中隊500名
    • 第2117工兵大隊1,500名
    • 第3321通信中隊500名

T-90AM/SM 94両 T-14 65両 BMP-3歩兵戦闘車226両 BMP-4歩兵戦闘車177両 BMP-T 140両
各種装甲車両(BTR-80装甲兵員輸送車 BTR-90/94/3U装甲兵員輸送車
KamAZタイフーンK MRAP BRDM-3偵察車 BMR-3地雷処理車 IMR-2装甲工兵車 BREM-84装甲回収車etc)
2S1 120mm自走迫撃砲242両 2S3 152mm自走迫撃砲220門 2S5 152mm迫撃砲254門
2S7 203mm自走カノン砲55門 2S19 152mm自走榴弾砲90門
BM-27自走多連装ロケット砲300両 BM-30自走多連装ロケット砲200両
総数129,960名

※その他に、各旅団に組み込まれた対テロ特殊部隊やゲリラコマンド、対ゲリラ部隊とは別に、パルチザン掃討用として特別任務部隊や犯罪者などで構成された懲罰大隊、督戦隊などが各戦線ごとに6個大隊ほど組み込まれているが、人道的な面や公には公表できない特殊任務性から表記されない。

  • 北方艦隊:戦艦4隻、空母3隻、軽空母4隻、巡洋艦4隻、駆逐艦22隻、フリゲート30隻、潜水艦30隻
  • 太平洋艦隊:戦艦4隻、空母6隻、軽空母4隻、巡洋艦4隻、駆逐艦25隻、フリゲート36隻、潜水艦30隻
  • 次世代試験艦隊:空母4隻、駆逐艦16隻
次世代試験艦隊は太平洋方面の哨戒のため実戦に参加せず
  • 国境警備隊:空母2隻、ヘリ空母2隻、揚陸艦2隻、大型巡洋艦4隻、軽巡洋艦6隻、フリゲート32隻、補給艦8隻
総戦力:戦艦8隻、空母13隻、軽空母8隻、大型巡洋艦4隻、巡洋艦8隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦63隻、フリゲート98隻、潜水艦60隻

  • 第301統合戦闘航空団
  • 第302統合航空戦闘団
  • 第304統合航空戦闘団
  • 大306統合航空戦闘団
  • 第309統合航空戦闘団
  • 東部軍管区警戒飛行空団
  • 東部軍管区電子作戦航空団
  • 東部軍管区軍事輸送航空団

経過

極東特殊大演習

ユーク軍が実施した大規模な対扶作戦準備。一応の名目上は8月末に行われるとされている「大演習」に向けて極東軍管区を中心にユーク各地から部隊を一気に寄せ集めた。極東軍管区は、沿岸地方で幾度か軍事演習を実施していたが、中でもヴァシリーシナ中尉亡命事件以後に始まった直後に行なわれた特種演習は、実際には単なる軍事演習ではなく、極東軍管区による対扶連開戦を見据えた軍備増強政策だった。
軍事演習の事前通告を受けた扶桑軍は、前線警戒のために海護総隊や偵察機数機を送り込み警戒に当たらせていた。そして万が一に進軍した場合に備えて部隊の移動を開始できるように部隊配置も整えている最中であった。
しかし扶桑軍が予想するより20日ほど早く、ユーク軍侵攻部隊は全軍一斉に動き出したため、十分とは言い切れない状態で開戦を迎えることになる。

対扶参戦~北海道空襲

ユーク軍は北海道に限らず、北陸地方北部など全戦線において午前0時をきして一斉に砲門を開いた。千歳でも宗谷でも圧倒的な砲撃と爆撃が実施された。第五方面軍司令部は総作本からの命令を受け、隷下兵団全てに対して「決号作戦発令」を下令。全軍が戦闘状態に入った。
初日、ユーク軍は多数のサイバー攻撃部隊を動員し、扶桑側の電子機器を一斉にシャットダウンする。軍事用の無線は生き残ったものの、携帯電話が2時間ほど作動しなくなり、民間人の間で混乱が発生した。
これと同時に、ユーク軍はシリア内戦で活躍し、ウクライナの軍事クーデタで離反部隊を迅速に殲滅した功労者である「クラスハ4電波妨害システム」を、北ではクリリオン岬(扶桑名:西能登呂岬)基地、東ではクナシル島(扶桑名:国後島)基地にて一斉作動、半径350km圏内にある電子機器を全て無力化した。
ステルス戦闘攻撃機によるAWACSの撃破や津軽海峡の機雷封鎖の後、レーダーが効かなくなりWW2時代に遡りした北海道に対して、オホーツク海や扶桑海、北太平洋に潜んでいた原潜やクリル諸島・本土に位置するミサイル基地からの大量の巡航ミサイルや弾道ミサイルによる無差別都市爆撃や飽和攻撃によって大湊基地や千歳基地など各主要施設の破壊活動を行った後、海軍歩兵や陸軍によって宗谷・紋別に上陸する。さらにあらかじめ内部に潜んでいたスペツナズが主要道路や鉄道などの破壊工作を行い、地域住民の混乱による部隊移動の停滞や指揮系統の混乱を目論んでいた。そして見事目論見は功をなし、予想以上に迅速な動きと電波妨害による伝達手段の無力化、そして避難民の混乱によって部隊の動きは停滞し、想定以上に侵攻部隊の侵入を許してしまうことになる。
さらに迅速に設置された対空レーダーの存在によって扶桑航空軍は上陸した部隊に有効な打撃を与えることが出来ず、そのほとんどが対空ミサイルと直衛の航空隊によってほとんどが撃ち落された。
ユーク太平洋艦隊は北扶桑海沖やオホーツク海沖、千島列島沖に戦力を展開し、制海権を確保し始めていた。しかしアナスタシア中尉が持ち込んだ戦争計画データのおかげで扶桑側は一大反撃の準備ができた。ユーク側は北海道に展開する主力戦力を十分にことができず、また陸奥湾に攻撃した艦隊も、扶桑側の主力艦隊は移動したあとであったため戦局を覆すにはいたらなかった。

津軽・陸奥湾空襲

12月8日、北海道空襲と同時に海軍も北陸の部隊の動きを制限するためにイトゥループ島カサトカ湾*3にて空母6隻、戦艦2隻を中心とした第1航空機動部隊を出航、ザハルチェンコ提督の「これまでの訓練は、今日という日のためにあったと思え」という訓示のもと、第一波攻撃は戦闘機94機、攻撃機89機で津軽海峡にある要塞や軍港の破壊に向かう。主力艦隊がいないことは事前に偵察衛星や潜水艦部隊の諜報によって知らされていたが、北海道方面と北扶桑方面を孤立化させる目的で行われている。戦闘隊は攻撃機の護衛と陸地にいる航空機を、攻撃隊は艦船及び航空基地を目標としていた。無敵を誇った津軽要塞と陸奥湾基地に対しては、正面から挑んだら全滅すると判断されて燃料気化弾頭が搭載された巡航ミサイルや1t級の通常爆弾などで攻撃している。
第二波攻撃隊は戦闘機90機、攻撃機81機の計171機で攻撃したが、態勢を立て直した扶桑軍側の反撃は凄まじく、第一攻撃隊よりも被弾や撃墜数が多かったと報告されている。航空攻撃のほかに湾内に潜航していた原子力潜水艦5隻も攻撃に参加している。
しかし、戦果だけで見ればこの戦いはユーク軍の圧勝で幕を閉じたといっても過言ではなく、難攻不落といわれた津軽・陸奥湾両要塞は数時間の戦闘で壊滅、機能不全となった。
この戦い以降扶桑軍は東北地方と北海道南部をつなぐ補給線をたたれ、一時的にユーク海軍に北海道沖の制海権を明け渡した結果となる。ちなみにこの戦いでは、海上護衛総隊の主力艦艇となる護衛空母4隻と軽巡洋艦や駆逐艦など合計10隻以上の損害と200機近い航空機を喪失したのに対して、ユーク側が失った戦力は僅か21機となっている。

千歳基地攻防戦

開戦と同時にユーク空・海軍が室蘭に上陸する第三極東戦線の支援を名目に千歳基地に対して行った攻撃。初期の攻勢としては非常に大規模なもので、第303統合戦闘航空団、第307統合戦闘航空団、そして主力の第309統合戦闘航空団がこの戦闘に参加している。巡航ミサイル潜水艦による基地の攻撃後にユーク空軍が攻撃、扶桑航空軍と交戦に入る。4世代機や4.5世代、5世代機を中心とするユーク軍にとって第6世代機を保有している扶桑軍に敵うはずがないとされていたが、ステルス機探知能力やECM、サッチウィーブ戦法の取り入れ、そしてユーク軍が保有する少数の第6世代戦闘機の活躍もあって拮抗している。

北海道上陸作戦~内部侵攻

  • 北海道上陸初戦
扶桑陸軍は敢えて上陸阻止戦を放棄し、内陸部で戦う作戦を立て、戦闘部隊や遊撃旅団を海岸線から離れた箇所に配置していた。水際での扶桑軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、上陸部隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。これによって容易に上陸し各重要拠点に橋頭堡を確保したユーク軍は初日こそ警備部隊から多少の損害を受けるも翌朝には体勢を整えて大規模侵攻を開始する。扶桑軍沿岸部の部隊は何もしていなかったわけではなく地下坑道の中で射撃に耐え、機をうかがっていた。沿岸で本格的な迎撃をしなかったのも、硫黄島や沖縄などの戦いで平行世界上の日本軍から学んだためであった。
しかしユーク軍の圧倒的な数の暴力の前では堅牢な要塞群も足止めにすらならず、扶桑陸上部隊は各地で玉砕、遁走するなどの事態が発生した。一日足らずで宗谷・根室の2つの統合振興局を失うことになる。
さらに、驚異的な輸送能力によって大陸ほどではないがユークお得意の大部隊による機動包囲戦を持ち込むことに成功し、本土と離れているといえども本領を発揮したユーク軍の内地侵攻は早かった。航空支援も満足に取れず、先の飛行場砲撃と先行してきたユーク空軍によってあらかた撃破されるか交戦中で陸軍の支援が出来ず、唯一まともに戦えそうな航空戦力は、北海道防空の中核を担う千歳基地をはじめとする中央部と、それなりに戦力が整っていた各地方の基地のみであった。それ以外の航空軍基地は、大量の巡航ミサイルと絶え間なく迫り来る攻撃機・爆撃機部隊の猛攻にさらされ、迎撃機もユーク空軍の数の暴力の前に屈してしまった。
機甲師団は世界有数の快速戦車を持つ機甲部隊にふさわしく、全車両が最新の改装をされたT-90戦車と最新鋭T-14戦車を中心に編成されており、後続に自走砲と多連装ロケットランチャー、攻撃ヘリ、対空ランチャー、航空支援機などが続いてく。この際、上陸して進軍から既に2時間あまりが経過しているが、ここまで師団に対して1発の銃弾さえ飛んでこない状態にユーク兵は謎の恐怖感を感じ取ったという。進軍してから数時間がたった後、連絡も取れず連携できない状態であった扶桑軍陸上部隊と会敵しこれを鎧袖一触で各個撃破する。
警備隊や前衛につくはずであった部隊が次々と後退してきており、ユーク軍の侵攻状況の報告がポツリポツリと入ってきていた。この報を受けて扶桑軍は迅速に迎撃体制を整え、ユーク軍との決戦に挑む。各地に潜伏していた扶桑軍の包囲網に入るや否や突如扶桑軍からの猛烈な反撃を受ける。電子機器が不能という圧倒的不利な状況の中でも、持ち前の錬度と士気で侵攻部隊に多大な損害をあたえる。しかし、冬戦争やアフガン紛争で何度も痛い目を見ているユーク軍は同じ徹を何度も踏まなかった。UAVによる高度な赤外線追跡による情報収集で大方の位置を予測したユーク砲撃部隊は、先方を一時停止させ、突入させる前に自走砲やロケット砲による前進支援射撃を開始する。砲撃終了後、本隊が再び前進し、果敢に立ち向かう残存兵力を各個撃破していく。

各方面の戦い

  • 奥部の侵攻
したたかなユーク陸軍は、北海道の各要所に強力な戦闘部隊と規模を有していることを熟知しており、主力と正面からぶつかる事を極力避けながら主要都市の攻略を行った。特に第1・第2極東戦線の進撃は目にも留まらぬもので、ユーク陸軍の勇猛さを改めて全世界に知らしめた。
ユーク侵攻軍の勢いは衰えることを知らず、流動的な機動戦術と絶え間ないピストン輸送、圧倒的な後方以遠火力で巧みに扶桑陸軍を短期間で内陸部に追い込み札幌・旭川方面を包囲し篭城させるに至る。扶桑側もユーク軍の予想外の展開速度に対応することが出来ず、各地で敗走、壊滅を繰り返すことになる。
また、ムジャヒディン相手に泥水をすすってまで闘い勝利したアフガン帰還兵らを中心に編成された対ゲリラ戦部隊の掃討作戦やコマンドゲリラの破壊工作の活躍もあって後方の被害は比較的最小限に抑えられている。
第866自動車化狙撃旅団長で第一極東戦線で戦ったヴォルギン大佐によると、「基本的に北海道での戦闘はアフガンでやってきたことと同じような作業だった。上陸を許した時点で勝負はあらかた決まっていたといってもいい」と語っている。
一方、扶桑側との航空戦はどの戦線でも苦戦していると誰もが自覚していた。扶桑機の性能及び搭乗員の錬度はユーク軍機と比較して飛びぬけて優れているわけではないのだが、どの戦線から出された攻撃隊も扶桑機はレーダー情報に基づいているのか、必ず我に数倍する戦闘機を集中的に待ち受けさせ、常に優勢な体勢から迎撃をしかけてきており、その迎撃戦法も徹底した1点集中迎撃戦法である。
その為、扶桑軍の迎撃機に遭遇しない攻撃隊は殆ど未帰還機を出さずに基地に戻れるが、その逆に敵からの迎撃に合った攻撃隊は絶望的な損害を受けていた。この徹底的な1点集中迎撃を受け続ける事によって、各戦線の、特に攻撃機の損失は想定以上に増え続けていたのである。ミサイル兵器が軒並み無力化されたといってもエスコンみたいに至近距離ならば誘導機能はある程度は復活するし、機体のステルス性までも失ったわけではないため発見されなければ格闘戦に持ち込める。何より扶桑航空軍は近距離及び格闘戦において無類の強さを誇ったのである。そしてユーク軍側の油断と慢心も手伝って敢えて格闘戦で挑む機体が初日に多くいたため、大きく隔てられた戦力差は瞬時に縮められてしまった。
この戦法で、2日間の攻撃で繰り出した攻撃隊の中で8個攻撃飛行隊が迎撃を受け、ユーク軍の攻撃機は52機の未帰還機と損傷機が出るという大損失を被った。それに対して、攻撃隊は扶桑飛行場群の攻撃を集中的に実施しているものの、1つづつの飛行場群の規模も大きく、また偵察機の報告によると敵は大型作業車ブルドーザーを各飛行場群に配備しているらしく、いくら滑走路を機能不全にしても作業車と膨大な人海戦術によって破壊された滑走路を速やかに修復していると言う。
また、東北地方各地に配備されていると言うステルス戦闘機の飛行場群攻撃の為、ウラジオストクから発進させた攻撃隊120機も、東北上空において優勢な扶桑戦闘機の迎撃を受けて24機もの爆撃機が撃墜されてしまっていた。その為、極東方面航空軍では戦力のバランスを整える為、現在各飛行団の戦力移動と各戦隊の編成見直しに取りかかっていたのである。

道北方面の戦い

  • 旭川攻防戦
第1極東戦線の快進撃は連携が取れない扶桑軍部隊を各個撃破し、旭川まで迫っていた。ここでこれ以上進軍させないためにも、旭川基地や千歳基地から多数の航空機が出動し、陸上における大規模な空戦が勃発した。
ユーク陸軍は扶桑軍航空機からの攻撃を予想して、上空援護の戦闘機の随伴を受けていた。援護戦闘機隊指揮官機は扶桑側の大編隊を目にした瞬間、第2直戦闘機隊に対して発進命令を要請したのは言うまでもないが、扶桑側の桁外れの大編隊に大いに驚いた。
先行してきた扶桑側戦闘機はほぼ同数。優先的に地上目標の撃破を命じた扶桑軍とは対照的に、ユーク軍の護衛戦闘機隊指揮官は迷わず空戦命令を出した。
ユーク航空団指揮下のパイロット達は実戦経験豊富で操縦技術も高い者が多く、未知の機体である扶桑航空軍戦闘機の性能をじっくりと観察する余裕を持てるパイロットも多くいたし、その点は扶桑側戦闘機搭乗員と互角の腕前と言えよう。この後も続く空の覇権を争う両軍戦闘機隊の戦いはほぼ同性能の機体で、熟練搭乗員が互角に戦う何ともレベルの高い航空戦が展開され続けられていくのである。
扶桑軍はまず前線に展開していた第4戦車師団に対して3度の爆撃を実施した後、後方に展開する機械化部隊の隊列上空にて乱舞を開始する。殿を務めていたシモノフ大尉率いる第32戦車中隊の咄嗟の判断と優れた操縦技術によって無誘導爆弾をギリギリのタイミングで回避、全滅は免れるも旭川攻略部隊の機甲部隊の1割が壊滅、さらに航空支援に前線部隊と共に出撃した攻撃隊の損害は計り知れないものとなっている。
結論から述べると戦闘機対戦闘機の戦いとは違って、戦闘機対爆撃機の交戦結果は想定通り扶桑側の圧勝となり攻略不能と判断したスヴェルドロフ少将は撤退を命じ周辺地域にて陣地を固め再度攻略の機会をうかがった。また、第1極東戦線に投入された空軍戦力は早くも壊滅状態に陥った。
ただ、その代償として扶桑側の迎撃部隊が全く接触していない他方のユーク攻撃編隊群が多く侵入しており、それらは扶桑側の迎撃を全く受けずに、扶桑軍飛行場群や歩兵陣地、そして千歳基地に対しても強烈な爆撃を実施させ、悠々と編隊を整え直して全くの無傷で帰還して行った。以後、旭川をめぐる攻防戦は北海道戦争でも一、二を数える激戦となり、双方とも夥しい死傷者がでることになる。

道東方面の戦い

  • 釧路総合振興局での戦局
第2極東戦線では当初、根室から夜間歩兵部隊の強襲をもって渡河作戦を実施させ、まずは橋を確保。その後機甲部隊を対岸に渡らせると共に、渡河地点を拡大していき扶桑軍要塞を後方から回り込んで攻撃する計画を立てていた。
しかし、黎明までの3度の突撃にもかかわらず扶桑軍陣地、特に要塞陣地ではなく平野部に造成されているトーチカ陣地をどうしても抜く事ができず、40人程度の死傷者を出して一時後退している。これ以上の歩兵単独での侵攻は無理と判断した軍司令部は、ついに装甲の厚い重戦車を先頭に攻撃軍に配備されていた戦車約80両をもって、橋の正面突破を実施してきたのである。
軍では当然扶桑軍側による橋の早期爆破を想定していたものの、反抗作戦時に渡河できる橋がないということで扶桑軍は中々これを爆破しようとない。それならばと言う事でユーク軍は戦車部隊を押し出せさたというわけである。
ユーク軍にしてみれば、もしも橋を破壊されずに通過できたなら、わざわざ敵の陣地やトーチカから狙い撃ちされる渡河作戦など実施する必要はなく、戦車部隊をもって橋を確保し占領範囲を広げていけば、その橋から数万もの歩兵部隊を難なく渡せる事ができる。もちろん街道を挟んで立ちはだかる各要塞陣地に後方から回りこみながら攻撃も可能なのである。

  • 釧路湿原の戦い
この頃、扶桑東部守備陣地は重大な局面を迎えていた。防御線である札幌の対岸の十勝~根室までの400km地点の東方100km地点で敵の侵入を許してしまった。扶桑軍では敵はそのまま南下するものと見て、手当てに向わせた第12師団と第11旅団はそれぞれがユーク部隊南下に備えて急造陣地を造り、防御線を設けようとしていたのだが、釧路川を渡河してきたユーク機甲部隊主力は逆に北上を開始し、弟子屈・小清水に陣を構える第8師団、第12師団の背後を突くような構えを見せ始めたのである。両師団とも当然前面に歩兵部隊を、その後方に直接支援の迫撃砲陣地、そして更に後方に野砲陣地を設け、最後方陣地に支援重砲部隊が配置されている態勢にある。その陣地に対して、ユーク機甲部隊は後方を回りこむように機甲部隊を先頭に機械科歩兵団が接近しだしており、北部の両師団は現在大急ぎで陣地の全面配置転換中との事であった。更に渡河地点を確保したユーク軍は扶桑軍の逆襲に備える為に、その占領地点にドシドシ歩兵部隊、工兵隊、砲兵部隊を展開させ始め占領地帯拡大を進めていた。ユーク軍にしてみればこのまま南下して釧路を攻撃する手もあるのだが、それよりも北部の扶桑軍を壊滅させるか包囲しておけば、道北方面東部に進出した第1極東戦線が攻撃している紋別方面の部隊の背後からも攻撃をかけられる事にもなる。そうなれば最東端国境陣地において頑強に抵抗している釧路を完全に孤立させる事もできるとの判断でもある。
扶桑航空軍は決号作戦の作戦要綱に従って兵力の小出しをきらい陸軍の緊急支援要請を断ったが、数度の激論の末に数個攻撃部隊の派遣を決定、最精鋭の202/203戦隊を中心とする数個戦隊向かわせた。
一方、ウラジオストク総軍司令部から出発して根室に上陸、早朝大規模な扶桑軍の航空攻撃を主力機甲部隊が受け、少なからずの損害が出た事の報告を受けていた。先遣隊は機甲師団が釧路川を渡河するために仮設橋を建設していたところを攻撃した。この攻撃は結果的には上空から爆撃体勢で突入した爆撃機19機の内、投弾前に撃墜された機が6機。それに何と地上の対空砲火によって撃墜されたのが2機。更にはユーク軍機の執拗な追跡を受け機体の損傷激しく退避した機が4機出て、結局急降下爆撃に成功したのは7機のみ。目標の仮設橋は意外と細く、命中は1発だけであった。
しかし別働で河沿いに低空で侵入した2個中隊22機は、1機だけの損失で見事に目標の仮設橋を粉々に粉砕し結果的には作戦を成功させた。ただ、その犠牲は大きかった。特に直援任務を担当した2個戦隊(202.205)に未帰還機が多く出ており、202戦隊に至っては出撃41機に対して未帰還11機 損傷8機という大損害を出していた。
ただこの多くの犠牲を払った攻撃も結局は何ら意味の無い攻撃であった。ユーク軍は破壊された架設橋の代わりをたった1日ですぐ近くに造り上げたのである。

  • 釧路攻防戦
道東陣地は完全に孤立してしまっていた。釧路湿原経由で釧路川を渡りきった機甲部隊は、歩兵車両を率いて一気に街道を伝って釧路市街に突進。道東陣地はユーク歩兵が後方に大きく回りこみ、脆弱な後方から潰され始め、守備隊との間で激戦が交わされていたが、攻めるユーク軍兵力20,000名に対して扶桑軍は右翼の警備隊残存約900名と左翼の第11旅団残存2,400人程の守備兵力だけである。
しかもユーク軍は後方の支援砲兵陣地、迫撃砲陣地、兵站倉庫等を急襲し、これを早々と占領していた為、背後から攻め寄せるユーク軍に対して、殆ど火力無しの状況での陣地戦となっていた。また弟子屈から増援として出発させた第12師団は、進行の出鼻をユーク攻撃機から執拗なミサイル爆撃を受けて大打撃を蒙り十勝に後退してしまう。その第12師団が後退した1時間後に主力部隊、いわゆる戦車約80両ほどと50両ほどの自走砲に軽火器大隊(迫撃砲など)、そして主力の歩兵部隊約20,000が接近してきたのである。
第2極東戦線は第一段作戦目標である帯広占領に向けて、未だ抵抗が激しい釧路の街を占領するべく市街を完全に包囲。機甲部隊に遅れて到着する火砲500門にBM-27/BM-30ロケット砲車約120両の到着を待って、陽が暮れる前に釧路市街の占領を目差し一斉に砲門を開く予定である。
北部方面隊の他兵団は全て道北方面の防御に出しており、道東方面にはユーク軍の侵攻を防ぐ手立てがない。軍司令部はいち早く西方の帯広に向けて後退移動。釧路市に残された第11旅団に対して「死守」命令を無責任にも下令して遁走してしまった。
一方釧路市に敵接近の報告を受けた北方方面隊は大いに慌てた。北方、宗谷の奪回もままならず、ユーク軍の侵入を止められないまま交戦中の道北が最も危険だと判断されていたものが、それよりも先に道東の部隊が崩壊する危険性が高い。このまま何も手当てをしないままだと、網走~釧路以東の部隊は完全に孤立してしまう恐れもある。東方面に伸びた防御線の南北の中心部辺りにユーク軍が楔を打ち込むように侵入してきており、このまま放置するわけにはいかないと判断した北部方面隊は、早急に帯広周辺に後退させ、ユーク軍の東側からの圧迫に対抗させることにした。そして、当初は大きな打撃を与えるどころか被害を被り戦果も著しくない航空攻撃に対して反対的であったが、帯広へ部隊を集結させるためにも、釧路に陣を張っている部隊が時間を稼ぐことが重要であると認識した航空軍は、部隊後方に待機しており護りも前線と比べて堅くないユーク軍戦力をたたく方針を可決した。後続の戦力を失えば市街地での占領及び長期戦等は出来ないだろうという考えである。

  • 扶桑軍の一斉反撃
ユーク軍が目標とする扶桑航空軍の本拠地である千歳まで230kmほどに迫っていた。軍団の先頭を進むのはT-90AMを主力とする快速機甲部隊。それに続いてT-95/99重戦車部隊、150mm級の大型砲を搭載する自走榴弾砲部隊、更には敵の攻撃ヘリや航空機の出現を想定して大量の支援攻撃機や制空戦闘機、BMP-T支援戦闘車、そして機甲部隊直卒の機械科歩兵が乗車する歩兵戦闘車、装甲輸送車などが続く。それから更に後方に支援火力部隊である重砲、野砲、カノン砲、ロケット砲車部隊が牽引車両に引かれながら続き、軍団最後尾に狙撃師団と補給部隊が続いていた。
扶桑航空軍は最新鋭のステルス戦闘機及び爆撃機で電子の目を欺き、後尾にて控えている歩兵部隊と補給部隊に対して猛攻撃を開始した。ユーク軍の電波妨害のために巡航ミサイルは使えず専ら機銃攻撃と無誘導爆弾のみの攻撃となったが、三度の攻撃で後方部隊の3割の損害を与え一時的に侵攻を断念させるに至った。さらにユーク航空機11機を撃墜するという戦果を挙げた。
しかし扶桑側の損失も目立ち、先の2日間の戦闘で痛い目を見たユーク軍は長距離からの射撃と一撃離脱でなるべく格闘戦を避け、格闘戦をする際にも3機で1機を攻撃する戦法を心がけた。これまでの戦闘とは違い、落としにくくなったユーク航空機の前に第四次対地攻撃は断念、扶桑側も損失が目立ち始めこれ以上この空域にいては大損害になると判断したため早々に離脱していった。また、参加兵力は一部の迎撃戦闘機戦隊を外して道東に存在するほぼ稼動全機をもってしかけた一大攻勢に対しては損失は軽微なものであり、事実根室に展開していた部隊を移動させ、夜が明けないうちにユーク軍は攻勢を再開した。

  • 十勝方面侵攻
先ほどの地上戦で航空戦力を脅威に感じたユーク軍は一旦釧路に篭城する部隊を市街地戦闘に長けたスペツナズ数個大隊に対応させることにして、大半の兵力を一気に十勝総合振興局に投入、前線哨戒基地や警備部隊を破竹の勢いで打ち破り、足寄群付近に位置する第1防衛線まで迫り来ていた。
帯広を含むと十勝総合振興局には最精鋭を誇る第1戦車師団のほかに第28師団や帯広の守りを固めるために釧路方面から後退してきた第8師団、第12師団が未だ健在であり、激戦が予想された。しかし帯広にいる一部の航空軍部隊が謀反の兆しありと情報部から伝えられた十勝方面の部隊は、ユークに内通しているクーデタ部隊の早期鎮圧と部隊長の裁判と組織の改変などの対応に追われ、とても満足に迎撃できるとはいえなかった。とはいえど扶桑軍は第1戦車師団を差し向け、ユーク精鋭の第2戦車師団と対峙することになる。
この陣地を攻撃するのは、第2極東戦線に属する2個狙撃旅団を主力とする歩兵主体の軍であるが、それでも砲兵3個旅団(155mm榴弾/迫撃砲.122mm迫撃砲.76mm大隊砲)611門、その他狙撃旅団付属の82mm~120mm迫撃砲を運用する4個砲兵大隊116門に、攻撃ヘリ2個大隊52機を配備している。
それに今この陣地に対して圧倒的な制圧力を発揮して扶桑軍守備兵を沈黙させ続けている、BM27/30ロケット砲車3個大隊66両が扶桑軍第一防衛戦線陣地より遥か距離をおいて、広く横隊に広がって砲列を作っており全ての砲兵が忙しく動いていた。さらにTu-160やTu-95による巡航ミサイル攻撃によって、扶桑軍が事前に用意した強固なトーチカや塹壕は壊滅、ついに第1防衛戦線陣地を突破したのである。
第一線に3個大隊を配置し、第二線に2個大隊を配置してるが、その守備地域約150kmに対してユーク軍は重砲から迫撃砲、対戦車砲まで含めると800門以上の火砲を並べている。しかもBM27/30ロケット砲だけでも1台で12~16発の220mm及び300mmロケット砲を次々と撃ち込んできており、更に付け加えるならばユーク軍には152mm砲を搭載している自走砲2個大隊54両までもが砲列に加わっていた。因みに火砲、ロケット砲車、自走砲の定数に欠損があるのは昨日、今日と航空軍からの攻撃による損害や牽引車両喪失の為、戦列につけなかった事による減少である。定数で計算すれば1,000門近い火砲になる筈だったのだ。したがって航空軍でもそれなりの成果は挙げていたのである。
当初の見込みがはずれ、地雷も吹き飛ばされるか周りの土ごと掘り返され、有刺鉄線も功を成さなくなり、何の損害もなく第1防衛戦線内に侵入してきた先遣部隊との戦闘となったが、90式/10式搭乗員の錬度をもってしてもユークの強固な戦車の装甲に有効な損傷を与えることは出来なかった。ミサイルで攻撃しても「コンタークト5」やその派生「リレークト」、「エラヴァ」、「ニージェ」、「カークトゥス」などの爆発反応装甲で防がれ、主砲が直撃しても爆発反応装甲の下にある複合装甲自体も非常に強固で、地雷もたいした損傷を与えることは出来なかった。履帯及び車輪の破壊による停止がせいぜいであり、足止めできた車両が十数両、中でも完全に破壊できたのも数両あるかないかといった具合である。

十勝平野の戦い
第12師団が守備する第一防衛戦線陣地はユーク第10師団の主力兵団と激突。一度は第一線陣地の幾つもの地点を敵に占領されたがその後、後方の予備連隊を投入し砲兵隊の支援を受け、再度陣地を奪回。ただ、もう第一線陣地には敵を迎え撃つべく壕も少なく、再度逆襲してきたユーク砲兵部隊からの砲撃と戦車、そして数倍の歩兵に押されてしまい、結局残存兵力を集結させて第二線陣地に後退していた。
右翼の第28師団は依然第一線陣地を敵に譲り渡しておらず敢闘中。左翼の第8師団は、その左翼に隣接して陣をとっていた第12師団の無断後退の煽りを受けて、ユーク機甲部隊に後方に回り込まれており、前後から激しい攻撃に晒されている。また、戦車第一師団を木っ端微塵に撃破したユーク軍第1戦車師団は、後退中の第12師団と交戦中であり、その援護として総軍予備の北部混成団が並列してユーク軍機甲部隊の侵攻を辛うじて阻止していた。
ところが午前3時すぎになって退却もできずに孤立していた第12師団の前面に新たなる敵部隊、それもこれまで交戦していた部隊の数倍の戦力を擁する大機甲軍団
(第11独立機甲軍団)が出現したのである。これは、道東東部において制空権を確保したユーク空軍の庇護の下、鼠輸送方式で大量動員されたが為に成せる荒業である。さらに例のロケット砲車が200両以上機甲部隊の後方に車列を敷いているとの事が報告された。制空権が形成されつつある中では航空軍の支援も望めず、その威力と制圧力の凄さを第一線陣地で体験していた第1防衛線の将兵は、絶望的なあきらめ感を心の底に持っていた。
しかしここであきらめる扶桑軍ではなかった。勝ち目がない正面戦線を壊滅していない段階で敢えて放棄し、中央に機甲部隊が侵入しやすい状態を作り上げたのだ。何も知らないユーク軍はいち早く深部に侵攻、工兵隊本部がある陣地に向けて戦車を走らせていた。最後尾の輸送トラックが到達すると、突如として数km幅に渡って後部の平原を、とてつもなく大きな爆発の連鎖と火柱、土砂を噴き上げさせて行き、凄まじい地鳴りが響くと共に数kmに渡って大きな爆発の連鎖を一直線に立ち上げさせて行った。その途方も無い長さに渡る、一瞬の炸裂の連鎖が終わった時、炸裂の後にはまるで散兵壕のように深さ3mほど直径5mほどもある爆発跡が並ぶように空き続けられており、その爆発跡は第8師団陣地の方まで続いていた。
扶桑陸軍が長年計画していた対ソ戦計画「砲兵師団作戦要綱」は、正にこの状況を作り出す事であった。予め敵の侵攻地点を想定(ヤマ勘)し、運よくそこに入り込んだ敵機甲部隊をまず正面から両翼を囲みこむように対戦車壕を設けて進撃を止めさせる。更に敵機甲部隊の反転後退を阻止させる為に、敵の後退路に対して海軍の51cm榴弾砲を退路を塞ぐように埋設、爆発させこれの退路を絶つ。そして砲兵火力を集中的に投入し、予め発射諸元が整っている制圧地帯に入り込んだ敵機甲部隊を徹底的に砲撃させる。もちろん側方にある陣地には歩兵部隊、速射砲中隊、高射砲中隊を配備させ、徹底的に機甲部隊の1群を殲滅させると言う計画であった。
しかしながらこの「制圧計画」は広い北海道の防衛線の何処に設けるかによって全く無駄になってしまい、空振りに終わってしまう危険性もある。大々的にその準備を開始してもユークの工作員に露呈してしまい、その仕掛けの内容や位置が敵に見破られる危険性もあった。ただ、北方司令部ではその為に常に敵機甲部隊の動向と侵攻方向の確認をさせる為に航空軍に対して夜間、日中を問わず偵察機を可能な限り張り付けさせており、万が一敵機甲部隊の侵攻方向が「制圧地点」に入り込まないような想定が察知されれば、そこに配備されている砲兵部隊はすぐに機動移動を成し、敵侵攻正面に砲を移動させる事になっていた。
扶桑軍は感慨に浸る暇もなく、迅速に次の指令を出した。まずは前面ユーク機甲部隊にたいして第8師団の歩兵部隊と速射砲、高射砲部隊への攻撃開始命令、ユーク機甲部隊主力正面に陣地を置く第21工兵連隊後方に支援部隊として出した高射砲1個中隊への砲撃命令。そして最後に手薄な右翼方面へのテコ入れとして、これまで戦力を失わせないよう温存していた第1戦車師団への進行命令である。
しかしアフガン紛争でパンジシール渓谷の戦いで辛酸をなめ続けたユーク軍の建て直しは早く、また、後方に待機していたロケット砲隊は依然無事であったためにユーク軍も即座に反撃を開始、結果は一時的に足止めした程度で殲滅することはできなかった。さらに、高度20kmで10cmの物体識別が可能な無人偵察機による情報収集によって、事前に扶桑陣地の塹壕に対してサーモバリックやら通常砲弾やらの砲撃を行いあらかた殲滅した後の進軍であったため対向できる兵・兵器の数が不足して効果的な反撃が出来なかったことも要因である。さらに、右翼方面に設置していた爆弾は何故か不発したためにユーク部隊の進撃を許し、扶桑軍は逆包囲の末に各個撃破され遁走を余儀なくされた。

  • 帯広市街戦
第2極東戦線が上陸から三日目、道東方面の戦況はさらに悪化し続けていた。結局、弟子屈に陣地を構える2個兵団は優勢なユーク軍に包囲されたまま身動きもとれず、第五軍残りの3兵団は十勝川の渡河を許した味方陣地内の渡河点奪回支援の為、歩兵部隊を主力として突撃を繰り返し、大きな損害を出し続けていた。
扶桑軍弱しととったのか、第2極東方面軍は、第11独立機甲軍団を主力とする部隊が戦車、自走砲約700両と機動火砲約6,000門、3個師団を集結させ未明から一気に攻勢をかけ始めたのである。
第1防衛戦線を突破したユーク軍は第2防衛戦線の中心である帯広周辺にて戦力を展開していた。奥地に進軍するとなると、扶桑軍の兵力はたくみに隠蔽されてきており、UAVや偵察衛星を使った情報収集だけでは正確な戦力を把握することが困難になってきた。帯広正面に陣を構える扶桑軍に対して帯広市街、及びその郊外周辺に小部隊を複数進出させ、街中を移動させたり停止させたりして威力偵察をするも、扶桑軍は動きを見せなかった。それどころか、後方に待機している戦力に被害が及び始めたため悠長にことを構えている場合ではないと判断した上層部は武勇に勝る第336独立親衛自動車化旅団と、これとは別に懲罰大隊一個部隊を投入し大きなリアクションをとらせ、戦力に応じて臨機応変に対応する方針を決定した。
砲兵隊の支援砲撃によって主陣地前に丹念に設置された地雷地帯や有刺鉄線を吹き飛ばし、さらに扶桑航空軍の猛烈な迎撃を生き延びた対地支援航空隊や攻撃ヘリによる攻撃が功をなし、大量の兵がなだれ込んできた。事前に用意していた囮用の車両に攻撃を加える機体もいれば前線に兵を送るために移動している車両に気付いてこれらに攻撃を加える機体など、ユーク攻撃機部隊は帯広に存在する全ての扶桑兵に対して攻撃を加えていた。また、ユーク軍砲兵部隊の精度の良い制圧射撃は、前面陣地周辺に留まらず扶桑歩兵部隊全体が援護に向かおうとしている一帯に対しても、次々と必殺の砲弾が落下しては炸裂し、完全に歩兵の前進を止めさていた。また、扶桑軍も負けじと支援砲撃を開始し、ユーク歩兵部隊は数個特別任務大隊を扶桑陣地に取り残したままで何も出来ない状態がしばらく続いた。

道央方面の戦い

  • 苫小牧の戦い
先遣隊としてユーク精鋭無比の戦車隊として名高い第1戦車師団が上陸、橋頭堡を確保し上陸兵力が整った後に侵攻を開始するという手はずであった。上陸していても攻撃してこないという第1、第2極東戦線の報告から第3極東戦線の将兵はどこか楽観視していたが、第1戦車師団の師団長ニコラエフは部下に有事の際にいつでも動けるよう待機命令を下していた。深夜3時、これまでの扶桑軍とは違い突如奇襲攻撃を仕掛けてきたため上陸部隊は混乱するも、ユーク第1戦車師団だけは迅速に事態に対応することができ、扶桑第一戦車師団の侵攻を阻止することが出来た。しかし、ニコラエフの独断で攻撃ヘリの出撃を禁じ、あくまで戦車戦での決着をつけるよう指示したため、近代戦のような戦車同士の大接戦が行われた。
この戦いでは扶桑側は4個戦車連隊付属10式戦車300両に対して上陸してまだ間もなかったためか、最新鋭とはいえT-14 57両で5倍近い戦力差で迎撃することとなった。両将とも優れた戦術家であり、戦いの勝敗は戦車の統合性能で決着がついたといえる。扶桑側の戦果は一部の隊が陣内への突破に成功、砲兵部隊の一部と弾薬庫1か所を吹き飛ばし、他にも工兵隊所属の地雷処理班への狙撃で、対爆スーツを着ていたため致命傷には至らなかったものの、それなりの戦果をあげている*4。また、扶桑側が戦車30両を撃破となっているが、これは砲塔側面や上面にべたべたと貼られたユークなどの東側国家特有のERA*5の効果によって誤認されたものであり、直撃しても平然と射撃を続けているうえに問題なく走行もしていた車両が多数あった。これは直撃弾を受けると、爆発することによってその弾の貫通力を相殺する仕組みの増加装甲板である。しかし、真のユーク戦車の恐ろしさはERAの下に隠されている複合装甲で、あのオーシアのM1A2エイブラムスに匹敵する装甲をもっている。仮にERAが爆発して使い物にならなくなっても、通常通り戦闘を続けることが出来る代物である。折角の命中弾も車体前面のERAを削りとったり、複合装甲に砲弾が弾かれたりと決して有効弾と言える結果は得られなかったのである。実際、ほとんどの車両が被弾したが、完全に撃破できた車両は一桁くらいであった。

  • 後方でのユーク側の戦術
後方での扶桑軍の執拗なゲリラ戦術に対してユーク陸軍はアフガン紛争などの幾度もなく行われた対ゲリラ作戦の一環として「戦場監視システム」をもって応えた。これは、テレビカメラ、赤外線カメラ、戦場監視レーダー*6、無人偵察機、それに振動や話し声や体臭を感知する小型センサーを、ネットワークで結んで、広範囲に昼夜を通して監視を行うものである。ヘリや航空機の偵察なら、天候に影響されることもあるが、この戦場監視システムなら、天候の影響は最小限に激減することができる。指揮官は偵察部隊をだすことなく、自分の担当地区の変化*7を常時監視できる。当然ながら、従来のようにパトロール部隊を派遣するというリスクもなくなり、味方の兵士が行動中に敵に狙撃される危険も激減する。
このシステムは、民家の少ない山間部で行えば、市民と兵士を分離させることも可能になる。また夜間外出禁止令をだし、夜間に移動するものはゲリラと特定しすると、攻撃がしやすい環境が生まれる。民間人の犠牲を少なくするのも、アフガン紛争で得た重要な教訓のひとつである。
さらに各地のセンサーが感知したデーターは、後方の司令部を通じて、そのまま攻撃部隊に伝達される。上空で待機中の攻撃機に、「000峠の近くにある座標234-123-876の地点を、敵の部隊が移動中、進行速度は東南東に時速24km、勢力は車3台に68名が乗車、軟目標、クラスタ爆弾3発を投下せよ」。「攻撃命令了解、2分30秒後にクラスター爆弾3発を投下する。着弾は4分45秒後」。こうして攻撃機は目標の15km手前の上空で爆弾を投下する。この距離なら扶桑ゲリラコマンドに航空機の爆音は聞こえない。爆弾は投下後に小さな翼を開いて滑空を始める。誘導は爆弾先端に組み込まれたGPS装置が行う。車のカーナビと同じものだ。誘導データーの入力は、司令部から送られた目標データーを入力する。滑空する爆弾は目標上空でいったん破裂して数百の子爆弾を放出する。扶桑ゲリラコマンドが自分たちが攻撃されたことに気付くのはこのときである。しかし数秒後には、空中に放出された子爆弾が地上すれすれで一斉に爆発する。パチンコ球ほどの鉄球と爆風が付近の地表全体に襲い掛かる。その後、上空を無人偵察機が飛来し、赤外線カメラで体温(生存)があるものと、無いもの(死者)の数を数えて戦果を確認する。
このように各種の戦場監視機材が情報ネットワーク化され、その情報が指揮管制センターに送られる。さらに指揮官の判断で、後方で待機中の攻撃部隊に爆撃や砲撃が命じられる。もし悪天候なら、航空機にかわってクラスタ弾頭をつけた砲弾や、ロケット弾が撃ち込まれる。そのようネットワーク化された警戒・情報・指揮・攻撃システムが「RMA(Revoution in Military Affairs)」なのである。「戦場無人化計画」と呼ばれたこともある。
このような機械化された戦場監視システムを有しているのは冬戦争のモッティ戦術や対扶参戦のゲリラで痛い目を見てきたユーク陸軍のほかに、同じくゲリラに辛酸をなめ続けさせられたオーシア陸軍が該当し、こちらはユーク陸軍よりもより洗練されたものとなっている。
また、このシステムがまだ行き届いていない最前線に対しユーク軍は、扶桑軍が潜伏していそうな戦地においては次のような戦法を採った。
夜間にトラックできたユーク軍の兵士が、周囲の主要な道路や川に配置される。そして迫撃砲や榴弾砲も包囲した周囲に配置される。その次の段階は、特別な訓練を受けた兵士(特殊部隊:以下スペツナズ)が、単独とか数名で包囲の中に忍び込む。彼らは戦闘が目的ではない。あくまで偵察である。ゆっくり、ゆっくり見つからないように、扶桑軍が潜伏していそうな場所に接近してくる。そして適当な場所に隠れるのである。すると扶桑軍が動き始めたとする。彼ら潜んでいるスペツナズは、無線で包囲線に布陣している味方の砲兵に砲撃を要請する。すると扶桑軍の頭上に砲弾が落下してくる。扶桑軍兵士が隠れても、逃げても、砲弾は誘導されて正確に着弾する。幸運な兵士の中には、砲弾の標的から逃れて、山や森林などの潜伏場所から逃げ出すことに成功するが、そこには最初に包囲した伏兵が待ち構えている。あわてふためき逃げてくる扶桑兵に銃弾を浴びせる。そのような一連の攻撃が終わると、ユーク軍は段段と包囲網を狭めていくのだ。
そして潜入したスペツナズも、攻撃を誘導しながら扶桑軍の本拠地に迫っていく。こうして最後は扶桑軍の拠点を陥落させ壊滅させるという戦術である。ユーク軍はこれを対ゲリラ包囲殲滅戦と名前をつけており、両アフガン紛争やチェチェン紛争などでゲリラ部隊に猛威を振るった。
ちなみに扶桑軍はこの包囲殲滅戦にあうと、攻撃を受けてもパニックにならず、まずはユーク軍の偵察員(スペツナズ)から見を隠す。反撃の体制を整えて、包囲網が狭まってくるのを待ち受ける。そして包囲網の弱いところを一気に攻撃して脱出する対抗策しかなかったといわれている。

岩手沖海戦

扶桑遠征艦隊着任後、メドヴェージェフ太平洋艦隊司令長官は扶桑第二艦隊が千歳を目指していることを知り、用意周到な罠を仕掛ける。まず、潜水艦部隊を使って執拗に雷撃を繰り返すことで扶桑第二艦隊の損耗を狙い、強制的に航路を変更させる。行き先の途中に訪れるであろう岩手県沖海域周辺の5つのポイントに艦隊を配置、そこから機雷網へ誘い込む。機雷網に引っかかった扶桑第二艦隊を捕捉次第、遭遇した部隊が足止めを行い、残る全部隊が終結して包囲、撃滅するというものであった。
この作戦は最初までは図に当たっていた。岩手沖を通過することをも見込んだ艦隊配置は的確なものであった。ユーク太平洋艦隊は運よく、扶桑第二艦隊と遭遇した。すぐに集結命令を出すと同時に、別働隊の試験艦隊で扶桑第二艦隊の後方から接近し包囲する。残る自分の部隊を真正面に配置することで、強制的に第二艦隊を自分の方向へ追い立てて包囲殲滅しようとした。
しかし、東北地方やその他航空隊から集められた航空軍の圧倒的な戦力差によってユーク太平洋艦隊の航空戦力の主幹となる第二航空戦隊は516機中443機が未帰還となった。善戦するも衆寡敵せず、「栄の二航戦」と呼ばれた機動部隊は壮絶な最後を遂げた。直衛機がいなくなった太平洋艦隊に航空軍が襲い掛かるが、太平洋艦隊は円陣を組むことで陣形を強固に保ち、逆に扶桑軍機に対して凄まじい防空火力で圧倒し、逆に幾許かの機体を落とすことに成功。戦艦4隻、巡洋艦4隻に16式航空魚雷が760発、50隻近い駆逐艦とフリゲートにASM-3が380発ととんでもない数のミサイルが飛来するもこれを全て迎撃、防空網を掻い潜った16式185発が着水、ASM-3の生き残り46発がシースキミングに入るも、16式はRBU-6000/12000の迎撃魚雷で全て撃ち落し、超低空飛行状態の対艦ミサイルも短SAMと近接防空火器で全て迎撃する。世界一の艦隊防空能力を持つオーシア海軍も真っ青な戦果を上げた。
しかし圧倒的な数の暴力には成す術もなかったようで、第二波攻撃で弾薬が尽きてしまい、近接防空火器で対処するも絶え間ない攻撃で沈没・離脱する艦が増えていった。扶桑側も損傷艦や撃沈艦を出すが、作戦を続行できるほどの戦力を残しており、真正面からの勝負には勝ち目が無いと判断した太平洋艦隊は一度戦力を整えるために戦闘海域を離脱する。しかし、ここで扶桑艦隊を通したことによって後にユークは手痛い損害を被ることになる。

  • 参加戦力
扶桑側

ユーク側

  • 第2戦隊
第4水上打撃師団:ウポール級<ウポール><エスターフィイ><イオアン・ズラトウースト><ポチョムキン・タヴリンスキー>
第12防空駆逐師団:ストロジヴォイ級<レトゥーチイ><ソブラジーテリヌイ><プロゾルリーヴイ><ストラーシュヌイ><スポソーヴヌイ>
第29防空フリゲート旅団:アドミラル・グリゴロヴィチ級防空フリゲート4隻
第34防空フリゲート旅団:アドミラル・グリゴロヴィチ級防空フリゲート4隻
  • 第7戦隊
第2巡洋艦師団:キーロフ級<キーロフ><フルンゼ><カリーニン><ユーリ・アンドロポフ>
第18フリゲート旅団:アドミラル・ゴルシコフ級フリゲート4隻
  • 第2航空戦隊
  • 第1分隊
第2海上航空師団:クズネツォフ級<アドミラル・クズネツォフ><リガ><ヴァリャーグ>
第13防空駆逐師団第1分隊:ストロジヴォイ級<ポドヴィージュヌイ><スヴィレープイ>
第30防空フリゲート旅団:
  • 第2分隊
第4海上航空師団:ウリヤノフスク級<ムルマンスク><オデッサ><マガダン>
第13防空駆逐師団第2分隊:ストロジヴォイ級<スタートヌイ><スコールヌイ><ソヴェルシェンヌイ>
第31防空フリゲート旅団:アドミラル・グリゴロヴィチ級防空フリゲート4隻
  • 第5駆逐戦隊
第2対潜艦駆逐師団:ウダロイ級<アドミラル・スピリドフ><アドミラル・トリブツ>ミサイルが命中、沈没<マルシャル・シャポシニコフ><セヴェロモルスク>
第11対潜フリゲート旅団:ネウストラシムイ級フリゲート4隻
  • 第6駆逐戦隊
第8対潜駆逐艦師団:カサトノフ級<アドミラル・イサコフ><アドミラル・イウマシェフ>
第12対潜フリゲート旅団:ネウストラシムイ級フリゲート4隻
  • 第7駆逐戦隊
第3水上艦艇駆逐師団:ソヴレエンヌイ級<オクルィリョーンヌイ><ブーンヌイ><ヴェドゥーシチイ><ブイストルイ>
第19フリゲート旅団:アドミラル・ゴルシコフ級フリゲート4隻
  • 第28駆逐戦隊
第5防空駆逐師団:プロヴォールヌイ級<グネーヴヌイ><グロジャーシチィ><ゴールドィイ><ステレグシチィ><スメトリーヴイ>
第2防空フリゲート旅団:アドミラル・ゴルシコフ級防空フリゲート4隻
  • 第10航空戦隊
第19海上航空師団<カリーニングラード><ナホトカ>
第26水上艦艇駆逐師団<スモレンスク><ノヴァヤゼムリャ>
  • 第11航空戦隊
第20海上航空師団<ロストフ・ナ・ドヌ><カムチャートカ>
第27水上艦艇駆逐師団<モンチェゴルスク><スネズノゴルスク>
  • 第36駆逐戦隊
第28水上艦艇駆逐師団<アレクサンドル><ブレスト><ゼレノドルスク>
第60防空フリゲート旅団 クリヴァク型防空フリゲート<アジダーニイ><プリーハチ><サチウーストヴァイ><タスカー>
  • 第37駆逐戦隊
第29水上艦艇駆逐師団<ダニーロフ><アレクシン>
第61防空フリゲート旅団 クリヴァク型防空フリゲート<ストラーフ><インチリエース><サトルーディニチストヴァ><リツィミエーリイ>
  • 第38駆逐戦隊
第30水上艦艇駆逐師団<カルミキア><アストラハン>
第62防空フリゲート旅団 クリヴァク型防空フリゲート<ファンターズィア><ムゥチェーニイ><ヴァルチャーニイ><プリェズリェーニエ>
  • 第39駆逐戦隊
第31水上艦艇駆逐師団<ヴォルゴドンスク><ボロフスク>
第63防空フリゲート旅団 クリヴァク型防空フリゲート<イリュージヤ><シシアーシチィ><ラスカーヤニエ><リゥバウピーツトヴァ>
  • 第40駆逐戦隊
第32水上艦艇駆逐師団<スヴァボードナヤ・ユーク><ブデノフスク>
第64防空フリゲート旅団 クリヴァク型防空フリゲート<ヴァストールク><エグザリターツィヤ><ドゥシャー><グルースチ>

  • 被害
扶桑側
沈没:戦艦<水戸>、重巡<磐木>、駆逐艦<夜霧><夕霧>
大破:戦艦<志摩>
中破:護衛艦3号

ユーク側
沈没:巡洋艦<ユーリ・アンドロポフ>、駆逐艦<ポドヴィージュヌイ><スコールヌイ><ソヴェルシェンヌイ><アドミラル・トリブツ><ゴールドィイ><アドミラル・イウマシェフ>、フリゲート4隻
大破:フリゲート1隻
中破:戦艦<ポチョムキン・タヴリンスキー>
未帰還機:443機

第一次道南沖海戦

千歳方面に展開するユーク第4極東戦線をたたくために出航した扶桑第二艦隊を食い止めるべく、岩手沖海戦の損害から部隊を整えた太平洋艦隊は道南沖にて夜戦を仕掛け砲撃を阻止することを企む。海上からの巡航ミサイルの攻撃を防ぐために高濃度ECMを展開、あえて扶桑の十八番である砲雷撃戦で挑む。ミサイル艇部隊が護衛部隊を引き付けている間に駆逐戦隊が奥まで侵入し戦艦部隊がそれを艦砲射撃で支援するという戦術であった。世界標準的から見て、砲雷激戦が高い水準にあってそれなりに腕に自身があったユーク艦隊であったが、扶桑艦隊のそれは次元が違った
常に動き回って的確な場所に攻撃を加えてすぐに離脱するという戦術を駆使して一糸乱れぬ包囲網を構築するも、ユーク駆逐戦隊は長射程と迎撃困難を誇るシクヴァル魚雷を使った雷撃の際にたった一回の雷撃戦で扶桑第七艦隊に一方的に砲撃されて全滅、ミサイル艇部隊は数の差で第六駆逐隊を翻弄するも第六駆逐隊によって全艦沈没、戦艦部隊に至ってはユーク側が照準に捉える前に直撃弾を与えFCSが故障、ご自慢の精密レーダー射撃を活かす機会もないまま完膚なきまで叩き潰された。こんな結末、認められるかよぉーっ!!
あまりにも一方的とも言える華々しい戦果は世界最強、無敵皇軍の扶桑艦隊だからこそ出来た芸当であり、いくらユーク側の戦闘能力に自信があったといえど扶桑艦隊と比較すると、それこそ天と地ほどの開きがあった。実力的には北方艦隊と然程代わらないとされているユーク太平洋艦隊の敗因としては、まずはECM作動かでレーダー射撃が有効に効かなかったこと、さらに有効射程距離が扶桑側の方が長かったこと、そして第一斉射~第二斉射で奇跡的に戦艦部隊すべての艦に火器管制レーダーが破損したため碌に反撃できなかったとされており、目測射撃や夜戦にたいして不慣れな感じはあったもののなんとも運が悪い戦いとなってしまった。情報収集衛星?魔女の目?ナンデスカソレハというよりも純粋な砲雷撃戦に劣ることが露呈してしまい、世界(主にオーシア)から冷笑や嘲笑を浴びせられた。
今回の指揮を執ったメドヴェージェフ太平洋司令長官はユークでも名が知れた提督ではあったが、過信し天狗になって慢心していたことが彼を破滅に追いやったといえる。しかし、本来の目標であった第4極東戦線の撤退までの時間を稼ぐことには成功しており、当初の目標は達成できたとされている。なお、太平洋艦隊旗艦である戦艦「ウポール」が修羅の如く活躍し、大破と引き換えに扶桑戦隊にある程度の損害を与え、このときに負った損傷は第二次道南沖海戦で大きなハンデとなる。ちなみに大破していたが沈んでいない模様で、戦後にリストアされている。
一説には、海軍と対立している陸軍・空軍出身の者が多い参謀本部情報局や統合作戦本部が海軍の勢力を削ろうとして偽りの情報を流したために惨敗したとも言われている。


  • 参加戦力
扶桑側
  • 第一戦隊 戦艦<尾張><近江>
  • 第二戦隊 戦艦<常陸><駿河><若狭>
  • 第三戦隊 戦艦<出雲>
  • 第六戦隊 重巡<筑波><十勝><吾妻>
  • 第七戦隊 重巡<浅間><高妻>
  • 第一水雷戦隊 軽巡<阿武隈>
第六駆逐隊   <暁><響><雷><電>
第十一駆逐隊  <朝霧><天霧><秋霧>
第十三駆逐隊  <有明><夜霧>
第二十七駆逐隊 <雲霧><狭霧><初霧><冬霧> 
  • 第三護衛艦隊 護衛駆逐艦6隻

ユーク側
  • 第2戦隊
第4水上打撃師団:ウポール級<ウポール><エスターフィイ><イオアン・ズラトウースト>
第12防空駆逐師団:ストロジヴォイ級<レトゥーチイ><ソブラジーテリヌイ><プロゾルリーヴイ><ストラーシュヌイ><スポソーヴヌイ>
第29防空フリゲート旅団:<><><><>
第34防空フリゲート旅団:<><><><>
  • 第7戦隊
第2巡洋艦師団:キーロフ級<キーロフ><フルンゼ><カリーニン>
第18フリゲート旅団:
  • 第5駆逐戦隊
第2対潜艦駆逐師団:ウダロイ級<アドミラル・スピリドフ><マルシャル・シャポシニコフ><セヴェロモルスク>
第11対潜フリゲート旅団:5隻
  • 第6駆逐戦隊
第8対潜駆逐艦師団:カサトノフ級<アドミラル・イサコフ>
第12対潜フリゲート旅団:5隻
  • 第7駆逐戦隊
第3水上艦艇駆逐師団:ソヴレメンヌイ級<オクルィリョーンヌイ><ブーンヌイ><ヴェドゥーシチイ><ブイストルイ>
第19フリゲート旅団:
  • 第28駆逐戦隊
第5防空駆逐師団:プロヴォールヌイ級<グネーヴヌイ><グロジャーシチィ><ステレグシチィ><スメトリーヴイ>
第2防空フリゲート旅団:

扶桑側(予定)
沈没:重巡<高妻>、駆逐艦<暁>
大破:戦艦<出雲>
中破:戦艦<近江><駿河>、駆逐艦<響><天霧><有明>

ユーク側(予定)
沈没:巡洋艦<カリーニン>、駆逐艦<アドミラル・スピリドフ><マルシャル・シャポシニコフ><ブイストルイ>、フリゲート2隻、032型ミサイル艇10隻
大破:戦艦<ウポール>、<エスターフィイ>、巡洋艦<キーロフ>、駆逐艦<オクルィリョーンヌイ>、フリゲート4隻
中破:戦艦<イオアン・ズラトウースト>、巡洋艦<ユーリ・アンドロポフ>、駆逐艦<セヴェロモルスク><アドミラル・イサコフ>、フリゲート1隻

第二次扶桑沖海戦

千歳基地を援護するため第二艦隊と共に北上した第五艦隊と第五水雷艦隊を迎撃しにきた北方艦隊との間で起こった海戦。まずはトハチェフスキー級4隻による精密艦砲射撃で斉射を行った後に航空攻撃で側面から集中攻撃、突破口を開いた後に水雷戦隊が突入し奥深くから撹乱するというユークの基本戦術がようやく発揮できた戦闘といえるだろう。といっても、今回はECM散布の必要性がなかったことと、なによりもトハチェフスキー級が桁違いの射程距離を持っていたことが勝因の一つとして数えられている。第一次道南沖と打って変わって一方的な砲撃を繰り出しており、扶桑艦隊に再起不能なレベルまで痛めつけている。
水雷戦隊同士の戦いでも世界最強と呼ばれた第五水雷艦隊相手にユーク側は始終優位を誇り、100年前に行われた扶桑海海戦の雪辱をようやくになって果たしたと見る専門家もいる。東の惨敗がまるで嘘のようだ。
特に駆逐艦「マルシャル・ワシレフスキー」の活躍は特筆すべきものである。まずは距離5000の位置から駆逐艦「海風」に砲撃を開始、そばにいた駆逐艦「山風」を巻き込んで二隻を炎上させる。さらに集中砲火に晒され、燃料タンクと魚雷発射管を失うも、残った魚雷を山風と駆逐艦「沢風」に一斉発射し、山風を撃沈・沢風も航行不能(翌日この雷撃が元で沈没)に追い込む。 だが奮戦虚しく集中砲火で撃沈寸前まで追い込まれる。これを受けて、一矢報いんとばかりに戦艦「和泉」に向かって最期の砲撃を敢行。和泉の電気回路にダメージを与え、副砲を機能不全に追い込む。その後駆け付けた味方によって、艦長含む乗員の8割以上が生存し、全員の避難が終了したのを見守っていたかのように、ひと際大きな爆発を上げて沈没した。 後に「道南沖の悪夢」の異名をもつ「セヴェロモルスク」と並んで「扶桑海の鬼神」の異名で呼ばれた。
補足までに、扶桑軍は太平洋戦争の戦訓で長距離での当たらない撃ち合いより中~近距離での戦闘を重視しFCSはそんなに凝らなかった。一方ユーク軍はアウトレンジで初弾命中なんて常識だろな感じで射程とFCSにこだわった。その結果が第二次扶桑沖海戦での一方的な結果になっとされている。特に、ユーク艦が損害を出し始めたのは艦隊距離一万を切ってからで、この距離に近づくまでに扶桑艦隊は重大な損耗を被っていた。時代の最先端を切っていたオーシア連邦と互角に渡り合っていたユークトバニアとの軍事技術の差、そして戦術的見解の相違によって勝敗が着いたといえよう。
後に、今海戦に参加し先陣を切った第10独立巡洋艦師団のプーシキン提督は「扶桑海軍恐るるに足らず。しかし…なんと容易のない。鎧袖一触とはこのことか」と述懐した。

  • 参加兵力
扶桑側
  • 第三戦隊 戦艦<秋津洲><和泉> 
  • 第四水雷戦隊
第十九駆逐隊  <秋風><谷風><旗風>
第十八駆逐隊  <萩風><舞風>
第七駆逐隊   <波風><梅風><夏疾風><玉風>
第二十四駆逐隊 <海風><山風><島風>
  • 第十戦隊 重巡<伊吹><鞍馬>
  • 第十一戦隊 重巡<祇王><乗鞍><穂高><戸隠>
  • 第二水雷戦隊 軽巡<物部>、駆逐艦12隻
  • 第六水雷戦隊 軽巡<>、駆逐艦8隻

ユーク側
  • 第1戦隊
第1水上打撃師団:トゥハチェフスキー級<ミハイル・トハチェフスキー><ヴァシリー・チュイコフ><ニコライ・ヴァツーチン><コンスタンチン・ロコフスキー>
第10防空駆逐師団:ストロジヴォイ級<ストロジヴォイ><セルジートィイ><リホーイ><ストーイキイ><シーリヌイ>
第33防空フリゲート旅団:
第38防空フリゲート旅団:
  • 第6戦隊
第1巡洋艦師団:ユジノサハリンスク級<ユジノサハリンスク><ペテロパブロフスク><ポルタヴァ><セヴェストポリ>
第28防空フリゲート旅団:
第15フリゲート旅団:
  • 第1航空戦隊
第1海上航空師団:ツァネフ級<アドミラル・ツァネフ><アドミラル・スタグノフ><アドミラル・ザドルノフ>
第3海上航空師団:ウリヤノフスク級<ウリヤノフスク><アルハンゲリスク><サンクトペテルブルク>
第11防空駆逐師団:ストロジヴォイ級<スムィシューリョーヌイ><ポレーズヌイ><スラーヴヌイ><スメールイ><スローヴィ>
第27防空フリゲート旅団:
第32防空フリゲート旅団:
  • 第10独立巡洋艦師団:ボロディノ級<プイトリーブイ><ラードヌイ><プイルキー><カリブル>
  • 第5航空戦隊
第12護送航空師団:バレンツ級<バレンツ><ベーリング>
第14対潜航空師団:ウラル級<ウラル><エルブルス>
  • 第1駆逐戦隊
第1対潜艦駆逐師団:ウダロイ級<ウダロイ><ヴィツェーアドミラル・クラコフ><マルシャル・ワシレフスキー><アドミラル・ザハロフ>
第9対潜フリゲート旅団:
  • 第2駆逐戦隊
第1水上艦艇駆逐師団:ソヴレメンヌイ級<ソヴレメンヌイ><オッチャーヤヌイ><オトリーチュヌイ><オスモトリーテリヌイ>
第16フリゲート旅団:
  • 第15駆逐戦隊
第6水上艦艇駆逐師団:スラヴァ級<スラヴァ><アドミラル・フロタ・ロボフ><チェルヴォナ・ウクライナ><マーシャル・ウスチーノフ>
第23フリゲート旅団:
第41水雷コルベット大隊:


  • 被害
扶桑側(予定)
沈没:軽巡<由良>、駆逐艦<浦風><沢風><川風><海風>他五水艦の駆逐艦6隻
大破:戦艦<和泉>、重巡<穂高><戸隠>、駆逐艦<波風>、五水艦の駆逐艦2隻
中破:戦艦<秋津洲>、重巡<祇王>、軽巡<物部>、他五水艦の駆逐艦1隻

ユーク側(予定)
沈没:巡洋艦<ラードヌイ>、駆逐艦<マルシャル・ワシレフスキー>、フリゲート1隻
大破:巡洋艦<ペテロパブロフスク>、駆逐艦<アドミラル・フロタ・ロボフ>
中破:戦艦<ミハイル・トハチェフスキー>、巡洋艦<ユジノサハリンスク><ポルタヴァ>、駆逐艦<アドミラル・ザハロフ>、フリゲート2隻

第二次道南沖海戦

ユーク海軍は北方海軍を主軸とする連合艦隊を編成、補給のため一時後方に引き上げるも、それが扶桑海軍の苫小牧進撃に繋がった。一方で、岩手沖海戦、第一次道南沖海戦で被害を受けつつも陸軍を援護するため進撃を続けた扶桑軍は、ユーク海軍の包囲網を突破してついに苫小牧の橋頭堡を目視できる位置まで進撃、強行突破する。 第3極東戦線が確保していた沿岸部へ猛烈な砲撃を開始、それを阻止するべく追いついてきたユーク潜水艦隊やユーク太平洋艦隊との戦闘が始まった。
その間、延べ2日間に渡ってユーク攻撃機から8回もの攻撃を受けた。初日こそ扶桑側迎撃戦闘機の機数も揃えられていたものが、2日目には未帰還機、損傷機、整備機などが増え続け、段々と扶桑航空軍の稼働機数が目減りしていった。
それにも増してユーク空軍は激減しつつある戦闘機/攻撃機の穴埋めに「内地にいる部隊は今作戦では使用しない」という発言を撤回し、長大な航続距離を持つSu-27系統の機体を1,000機以上をも北海道に送り込んできたのである。3日目にはついに攻撃を耐えきれず、沈没していく艦が続出。ここにきて渋谷提督は作戦続行を断念するも、もはや扶桑第二艦隊には満足に戦える戦力は残されていなかった。
最終的に旗艦である戦艦<尾張>にはミサイル14発、魚雷13発が命中、期待を受けた新鋭戦艦は目と鼻の先にある内地にたどり着くことはできず初陣で苫小牧の沖に没することになった。
沿岸付近に展開していた部隊も一筋縄でやられてはくれなかった。ユーク沿岸部隊は苦肉の策として、前代未聞の「戦車・自走砲を沿岸砲台として使用する」という打開策に出、戦場は異種格闘戦を催すこととなった*8。当然ながら一方的に砲撃に晒されながらも各隊散会しつつ進撃を開始、数を減らしつつも主砲射程内に迫っていった。数十分後に本命の地対艦ミサイル隊と多連装ロケット砲隊が続々と到着、先制攻撃していた戦車隊と共同で攻撃を開始し、後続車両も随時攻撃に参加していった。
こちらは戦艦に対した損害は与えることが出来なかったものの、巡洋艦以下の艦艇には有効打を与えることが出来たらしく、戦艦にしても火器の損傷など決して無視できない損傷を与えることに成功した。
なお、連続の戦闘で弾薬も底を着き航空攻撃と陸上からの砲撃に晒されて残存戦力も戦艦などの大型艦しかいなくなったところで、ユーク海軍が湾内にいる扶桑艦隊を砲撃し、ユーク海軍は本格的な構成を開始、威力偵察として駆逐戦隊を投入しまずまずの戦果を挙げる。そして頓挫して動けなくなった<尾張>を撃沈したのは、第一次道南沖海戦で無残に敗走した太平洋艦隊の駆逐戦隊の司令官を務めたボロジノフ提督で、たった4隻で渦中に飛び込み、「まず何から撃とうかしら?」と言わんばかりに攻撃を開始する。結果報告では、彼の乗艦だけでも久慈型防空巡洋艦および筑波型巡洋艦各1隻轟沈、防空巡洋艦および重巡洋艦各1隻大火災、駆逐艦2隻火災という大戦果を上げる。最終的には全滅してしまうも、倍以上の艦隊を相打ちに近い損害にまで持って行っていることから、彼の非凡さも見て取れるかもしれない。
なお、この一連の作戦にはユーク陸軍と海軍、さらには空軍を巻き込んだ派閥争いが関わっており、前回の第一次道南沖開戦での参謀本部情報局や統合作戦本部の失態に対しての復讐と見て取れる。
これに限らずとも、扶桑軍がガチガチに固めているところへ突っ込んでいっては夥しい戦死者を出したユーク軍の無茶振りな作戦はたいていこの政争が絡んでくる。まるでWW2時のアメリカ軍みたいだ
さらに運が悪いことに、戦闘の主幹となる次世代艦隊はオーシア、エルジア、ブリタニアなどの海軍列強を威嚇すべく南洋方面の派遣を命じられ、ただでさえ数少ない戦力を割かなければならないという事態に陥った。極東艦隊も中国海軍の牽制のため出動できず、最終的に残った戦力は正規空母4隻に戦艦4隻、重ミサイル巡洋艦2隻、防空巡洋艦1隻、防空駆逐艦4隻、防空フリゲート4隻、水雷駆逐艦3隻、フリゲート5隻、コルベット8隻しか残らなかったという。
普段なら大統領が両軍の調停役として機能するのだが、この時は大統領が無能秘密裏にクーデタを実行した正式な大統領ではない(表向きは、大統領不在による大統領補佐官が臨時に勤めた)ために、このような派閥争いが勃発したといわれている。

扶桑側(予定)
沈没:戦艦<尾張><駿河><若狭>、重巡<十勝><吾妻>、軽巡<阿武隈>、駆逐艦<雷><初霧><冬霧>、護衛艦14号、25号
大破:戦艦<近江><常陸>、重巡<浅間>、駆逐艦<電>
中破:駆逐艦<雲霧>

ユーク側(予定)
沈没:空母<アドミラル・ザドルノフ>、駆逐艦<アドミラル・フロタ・ロボフ>
大破:軽空母<バレンツ>(戦線離脱)<エルブルス>(戦線離脱)、巡洋艦<ポルタヴァ>
中破:戦艦<ニコライ・ヴァツーチン>、駆逐艦<オスモトリーテリヌイ>

宗谷突入作戦

第二次扶桑海海戦において、第五水雷艦隊の指揮権を大河内提督に預けた菊地提督は、乱戦の最中に揮下の第十戦隊の伊吹型重巡2隻を率いて海域を離脱。  途上、ある程度察知した星井提督の命により初戦の陸奥湾空襲を生き延びた大湊警備隊*9並びに戦艦<水戸>を護衛していた駆逐艦<時霧><時雨>と合流。 この戦力で1軍を形成した菊地提督は、苫小牧の制海権を握り続ける第二艦隊を尻目に一路26ノットの速力で宗谷湾に上陸していた敵船団を目指して北上を開始した。
艦隊は運が良かったのか侵入航路がよかったのか、何故か偵察衛星に捕捉されず哨戒中のAWACSや警備艦などにも発見されることなく上陸船団と奇襲的に会敵する事ができた。まさしく僥倖であろう。予備兵力として後方に待機しておいた国境警備隊や錬度がユーク軍と比べて大きく劣るキターイスク共和国海軍の二級戦力しか存在していなかった。菊地提督の艦隊はまず突進してきた駆逐艦を正確無比なる砲撃でもって撃破。正しく鎧袖一触。その勢いのまま上陸地点に突入し、豪勢にも敵輸送船に対して駆逐艦は魚雷を惜しげもなく打ち込んだ。 外洋に逃げる艦も護衛艦部隊がこれを逃がさず追跡し、殆どを撃沈させた。
<伊吹>らは観測機を打ち出し、陸上の物資集積所に対して砲撃を開始。 宗谷湾上空のユーク軍機はほぼすべての目が第二艦隊に向いていたため一切おらず、観測機の適切な指示をもって有効な砲撃を続ける。外洋に追跡していた駆逐艦も戻り、ミサイル艇らも砲撃に参加しだし物資集積所はもちろんの事、敵砲兵陣地、車両、歩兵陣地などに対しても砲門を向け、これを砲撃し続けた。
居座る事2日。陸上の戦闘状況が少しづつながら扶桑軍に優勢に変わり始めた。その日の夕刻には、完全にユーク軍上陸部隊の侵攻は止まり、逆にユーク軍は橋頭堡確保の防御戦に入るはめとなる。艦隊は砲弾補給の為、一部の艦艇を残し一旦大湊に帰還するべく宗谷を離れ南下し始めるが、小樽西方30マイル地点においてちょうど燃料の切れかかった観測機の収容の為、<伊吹>が速度を落としそれの収容作業中、ユーク軍潜水艦からの雷撃を受け2発の魚雷が命中。その結果、<伊吹>は大破し艦を傾けながらも何とか近くの小樽に入港する事になる。
<伊吹>が2度と海上に出る事はなかったが、彼女らが実施した2日間にわたる艦砲射撃の効果は絶大であり、結局その4日後、宗谷方面に展開していた第一極東戦線は多くの捕虜を出して第五師団に対して降伏する事になる。これは、第一極東戦線の5分の1ほどの戦力を一気に失うことになる。
その際、降伏したユーク軍指揮官は扶桑軍の兵力の少なさに驚いたと言う。結局ユーク軍は補給が枯渇し、沿岸一帯の部隊は降伏するのだが、もしも<伊吹>らの艦隊が現れなければ宗谷半島の戦いは全く逆の結果になっていたのは言うまでもなく、守備兵団長名において連合艦隊司令部に対して『感謝電』が打たれた。
菊地提督の艦隊を見落としたことは、第二次扶桑海海戦で武勲を立てたパブロヴナ提督唯一にして最大のミスであると言われている。

第二次宗谷上陸作戦

宗谷湾海戦での敗戦を経て、空軍に続いて海軍司令部は重い腰を上げ太平洋艦隊とサハリン方面部隊の全ての戦力を投入、北海道海域の制海権・制空権を本格的に取ろうと画策する。また、深部まで侵攻し旭川を包囲していた部隊の補給網を再確保すべく第8駆逐戦隊、第17駆逐戦隊、第23駆逐戦隊、第27駆逐戦隊の4個駆逐戦隊からなる哨戒艦隊を急遽編成、周辺海域を警戒しつつも宗谷湾突入作戦に参加した艦艇の掃討戦に移行する。湾内を警備していた扶桑駆逐隊を長距離対艦ミサイルの集中砲火で沈黙させ、再び宗谷湾付近の制海権を得た。その後、駆逐隊はAGS砲が誇る長距離射程と巡航ミサイルによる精密射撃で揚陸部隊を支援、空軍からもSu-24とKa-52が扶桑軍陣地にてロケット爆弾による打撃を与える。宗谷を奪還し防衛陣地を築きあげていた扶桑陸軍は、急すぎる来襲によって混乱する。体勢を立て直し応戦するも、潜水艦から上陸した海軍スペツナズによって沿岸ミサイルを確保し対艦ミサイルを無力化、さらに一斉射撃火力反応システム 「BM-21グラード」は扶桑軍の自走榴弾砲陣地や歩兵陣地、戦車部隊に大規模な火力打撃を与えた。
その後、高速揚陸艇とヘリMi-8MTShによって地雷原を切り崩し、海洋揚陸部隊の上陸を保障するための海軍歩兵工兵部隊の障害除去グループが上陸する。除去後に大型揚陸艦3隻に分乗した主力部隊(海軍歩兵部隊と陸軍戦車中隊)が上陸し、無事宗谷沿岸沿いの再占領を果たす。このときに空中から揚陸部隊をKa-52攻撃ヘリが援護し、扶桑歩兵や車両、補給物資に安定した攻撃を継続して行い、捕虜収容所に収容されていた兵士を救出することに成功した。
戻ってきた扶桑重巡に対してクリリオン岬基地にて地対艦ミサイルや大口径沿岸砲を集中配備し万全の体制を整えた。
その後、キターイスク共和国や南コリア自治共和国からごぼう抜きした新たな上陸師団を投入、再び攻勢を開始する。錬度においてはユーク正規軍と比べるまでもないが、戦力の増強に一役買った。しかし半ば強行的にされたためキターイスク共和国や南コリア自治共和国の反感は強く、正規軍と比べて錬度も高くないため各地で玉砕する部隊が相次いだ。士気も当然低いため投降する部隊や持ち場を勝手に撤退し戦線が崩壊しつつあり、ユーク本国から督戦隊を送り込んで逃亡兵を容赦なく射殺する光景が見られるようになった。
後にユーク政府に対してクーデタが勃発し、それにあわせて中国軍が宣戦布告したため、この作戦はユーク軍が敗れる要因を作ったといえる。

北海道航空戦

決号作戦が失敗し、残った艦隊もあまり数が無い扶桑皇国海軍は一縷の望みをかけて太平洋に展開していた第3艦隊と第4艦隊を北海道に派遣、艦載機による最終決戦を目指していた。一方でユーク軍も初戦で海軍航空隊の大半を失っており、真っ向からの勝負は勝ち目が無いと見て潜水艦隊による捨て身の一撃離脱戦法や奇襲を仕掛ける。見つかったら生きて帰れる望みは無い中で護衛戦力を確実に削っていくも、本命の機動部隊には目だった損害を与えることが出来ないままでいた。しかし、このまま手をこまねいているというわけではなく、潜水艦隊が命がけで機動部隊を足止めしている間にも道東~道南海岸、クリル諸島に、重厚な対空防衛網と長射程対艦ミサイルの配備を終えていた。
短期間でこれだけ万全の体制を整えたといえど、ユーク軍に勝機の望みは薄かったといえる。要の第2航空戦隊を主軸とする海軍航空隊は岩手沖の戦いで壊滅、空軍の戦闘機は北海道制圧の際に3割弱の損失を出しており、現在のユーク空海軍には400機(推定)近い戦闘攻撃隊を食い止めるには不十分といえた。
そこで、ユーク軍上層部は、一個飛行師団に匹敵する性能を持つレーザー砲搭載型次世代制空戦闘機30機による特別攻撃隊を編成、出撃できる航空機を合わせて400機の編成でこれを迎え撃つ。本国で採用されている広範囲航空防衛戦術と呼ばれる多重防衛思想を取り入れ、航空機による劣勢を打開しようと画策していた。
海軍は、青森沖から千島列島にかけて150海里離れた位置で布陣を取り、迎撃の構えを見せる。

小清水の戦い

中破して艦隊から離れた超戦艦<ヴァツーチン>の艦砲支援の下、第1極東戦線と第2極東戦線による南北にかけての一斉攻勢が開始される。射程延長弾による200km越えの長距離射撃と61cm砲から放たれる3tの砲弾による凄まじい破壊力は、一縷の望みをかけて再集結した道東方面軍を壊滅させるには十分すぎる火力を叩き込んだ。桁違いの破壊力によって防衛陣が粉砕されるも扶桑陸軍は奮戦し、四日間の激戦の末にユーク軍に少なくない損失を与えた後に降伏した。
この戦いによって、扶桑軍は道東方面における勢力圏を完全にユーク軍に明け渡すことになり、以降扶桑軍は起死回生を狙った苫小牧奪還作戦を行うことになる。

北太平洋海戦

扶桑第二艦隊の任務を引き継ぐべく、南洋から扶桑機動部隊の根幹を担う第三艦隊と第四艦隊を向かわせた。しかし、北太平洋海域はユーク軍の制海権となっており、海中はユークの通常動力潜水艦が跋扈する魔の海域となっており、道中で護衛駆逐艦と補給艦を失うことになる。
扶桑機動部隊がユーク機動部隊と交戦可能な距離まで近づくと、扶桑機動部隊は各個撃破されることを覚悟で少数の航空機による波状攻撃を提案し、第三四三航空戦隊の支援の元、攻撃を行う。
ユーク海軍航空隊は多勢に無勢で、岩手沖海戦の航空戦の痛手を回復し切れていないこともあって始終扶桑航空隊に押されることになった。しかし、ユーク航空隊は「寡兵よく大軍を破る」の諺どおり、96機もの大軍で攻撃してきた最精鋭と名高い第三四三航空隊を33機の新型制空戦闘機で打ち破ることになる。結果、11機の損失を被るも第三四三航空隊に24機の損害を与えることに成功した。
また、艦爆隊の猛攻もこのとき使用されたのが対艦ミサイルではなく長距離航空魚雷だったため、迎撃が容易だったとされている。しかし、六回にわたる攻撃は流石のユーク軍もこたえたのか、要の防空駆逐艦2隻と駆逐艦2隻を損失する。

第三次道南沖海戦

ユーク海軍の総司令官であるパブロヴナの思惑としては、後方から艦隊を突撃させることで航空戦力を分散させることにあった。しかし、既存のユーク艦隊が扶桑艦隊と比較して水上打撃能力が高くとも、これらの機動部隊に対して水上戦を挑むということは無謀を通り越して自殺行為といわれても仕方がないほど無茶な作戦であった。また、この作戦は扶桑軍に事前に察知されており、第三艦隊と第四艦隊の空母を集結させ輪陣形を編成し、さらに機動部隊を囮にして数少ない戦力で包囲するつもりでいた。
しかし、射程に関してはユーク側にアドバンテージがあり、さらに扶桑艦隊の動きは偵察衛星によって事前に察知されていたため扶桑海軍の目論みは功を成すことはなかった。
けれども、輸送艦に上陸した水陸機動弾の活躍のおかげで、道南う何沖にいたユーク軍を撤退させることに成功し、さらに億部まで浸透しユーク軍の防空レーダーサイトの破壊に成功、結果としては東北・関東方面からの増援が容易になり、北海道戦争において扶桑が勝利する分水嶺となった。

陸奥湾沖海戦(総括)

天海提督の着任と扶桑艦隊の一大攻勢作戦を耳にしたパブロヴナは、扶桑艦隊の残存兵力の掃討を目標に、他国からの干渉を受けないよう短期決戦を臨んだ。ユーク太平洋艦隊全ての艦艇を動員したこの戦いは本戦争の中で最大の戦いである。
パブロヴナは本国にいる太平洋艦隊と極東艦隊から増援艦隊を呼び寄せ、戦艦9隻、空母12隻、大型巡洋艦8隻、防空駆逐艦23隻、ミサイル駆逐艦31隻、防空フリゲート28隻、フリゲート35隻、コルベット43隻、ミサイル艇24隻、海上警備艦36隻もの大艦隊と航空機1,000機近くのを動員する。扶桑軍の狙いはイトゥルップ島(扶桑名:択捉島)にある海上油田基地及び大型軍港であるとよんだパブロヴナは、道東沖にこれらの艦隊を配置した。
イトゥルップ島を拠点にパブロヴナ率いる本隊を中心に右翼にプラトーノフ機動艦隊と太平洋増援艦隊、左翼にチェーホフらと極東増援艦隊との連合艦隊、後方にザハルチェンコ機動艦隊、予備兵力に国境軍海上警備艦隊、前衛にボロジノフ率いる旧太平洋艦隊を並べ、総数249隻の大軍で陣を敷いた。一方天海提督率いる扶桑艦隊は総数80隻という、圧倒的兵力差を前に戦うこととなった。
しかし、これらの情報は天海提督の策略で、扶桑軍の真の狙いは宗谷市の対岸に位置するクリリオン要塞の陥落と、それによる道北からの補給線を断つことであった。扶桑軍が扶桑海沖にいないことを把握していたユーク軍は油断しきっており、4隻の警備艦と数隻の3隻の駆逐艦、6隻のフリゲートを置いて全ての海上戦力を道東沖に展開したのであった。
天海提督はこの戦いを「大人の宴会」と称し、30歳未満の未来ある若い士官の参戦を認めなかった。また、海護総隊を連合艦隊に組み込むよう命令を下した。

会戦までの経緯

クリル諸島イトゥルップ島海軍基地を軍事拠点としていたパブロヴナ提督は、中期的戦略の立案において、全軍を以って天海艦隊を叩き北海道全体の制圧にとりかかるべきか、帝都東京を進撃し官庁を占拠、一気に敵の戦意を挫く積極論を採るべきか結論に至らないまま活動を停止していた。帝都進撃案は、これほどの大艦隊を首都に向かわせれば天海艦隊も出て来ざるを得ないだろうとのことで最有力候補であったが、天海艦隊がこれを無視して北海道を攻撃してくる可能性も捨てきれず、さらに帝都を攻撃した場合扶桑との全面戦争は避けきれないと判断されたため、最終的にこの案は却下された。尚、後に天海提督とパブロヴナ提督との間で行われた会談で実際にこの作戦が実行された場合、天海提督は戦力的に自軍が不利であると分かりつつもパブロヴナ艦隊の迎撃にあたったであろうと語っており、そもそも総理を辞任してまで戦争に参加した天海提督が扶桑を見捨てることはしなかったと後世の歴史家は語っている。もしこの作戦が決行されていたらまた違った歴史になったであろう。奇しくも、パブロヴナ提督の思惑とは違った形で本作戦が実行され、最終的に彼女の命を救ったことは歴史の皮肉であろう。
そのような状況の中で採択されたのは、「ユーク軍が東北地方方面以南の軍事基地に一斉攻撃をすると見せかけて戦力を分散し、本隊が手薄になったところで天海艦隊を引きずり出して戦域に留まらせているうちに分散させた艦隊を呼び戻し包囲殲滅する」という案であった。
「積極的な攻勢を仕掛け、自軍に有利な戦局を相手に強制させ勝利を掴む」ことを得意とするパブロヴナ提督らしからぬ防御を基本とする作戦であったが、これは天海総理が艦隊司令官に赴任するという想定外の事態から天海提督の心理分析が不十分であったことと、何よりもカディロフ提督が死亡してからまだ日が浅く従来通りの運用がまだできていなかったことが起因していると考えられている。

一方扶桑側は天海提督が本格的に扶桑海軍運用の全権が委ねられ、ユーク海軍の迎撃に当たることとなった。そして、3月11日、扶桑海軍は「紅号作戦」を発令、北陸地方の海域を部隊に活動を開始する。

オホーツク海方面の戦闘

大湊基地から出撃した菊池中将率いる第二艦隊が、前回の宗谷湾へ突入板時と同じ針路で北上したことを格に印する。前回の戦闘で傷ついた戦艦3隻と軽空母を主力とした奇妙な編成に戸惑いつつも、宗谷対岸のクリリオン基地守備隊や航空隊を主力とした波状攻撃を敢行した。なお、本艦隊は先の戦闘の補給のため、4日ほど動けない状況であった。
後備えとして主力の大半が北海道にいるため数少ない戦力で防衛することになったが、延べ3日にわたる猛攻により第二艦隊の機動戦力を削ぐことに成功した。
菊池提督はユーク本艦隊が動きだすことを予見し撤退を開始。扶桑側は航空機26機と軽空母2隻、駆逐艦4隻を失ったが、ユーク艦隊が陽動だと気付いたころには天海提督は大湊基地を出航していた。

ウラジオストク・マガダン基地の戦い

菊池提督の撤退とほぼ同時期に、天海提督率いる第一艦隊がユーク極東管区の本拠地であるウラジオストク海軍基地とマガダン海軍基地を強襲。
遠く離れた本拠地に来ないであろうと慢心していたユーク軍守備隊は、極東艦隊不在ということもあり天海提督の猛攻に碌な抵抗も出来ずに敗退する。この戦闘により海軍元帥以下海軍幕僚のほとんどが戦死しほか、ウラジオストク方面における補給計画を狂わせた。作戦継続能力が大幅に低下することとなった。
この戦闘の結果に対しパブロヴナ提督は危機感を覚えるも、咄嗟に機転を利かせ、彼女は扶桑艦隊を撃滅する機会だと考え、天海艦隊が大湊基地に帰還するまであえて放置した。
この間にユーク軍参謀本部はパブロヴナ提督に、今戦争で動員されている全艦隊運用の全権を委ね、扶桑艦隊の迎撃にあたらせることとなった。

津軽海峡の戦い

パブロヴナ提督は、扶桑艦隊が大湊基地に帰還し補給を行う時を見計らい、津軽要塞に強襲を仕掛けた。手始めに扶桑海側に配置していた潜水艦隊による機雷封鎖を敢行、敷設型機雷のほか、津軽暖流を用いた浮遊機雷を200基を敷設し、扶桑艦隊の動きを封じた。
そして、大湊基地攻撃隊と三沢基地攻撃隊の二手に分かれ、合計500機近い大部隊が連日爆撃した。
扶桑側は初日は有効的な反撃ができなかったものの、体勢を立て直し数日間の猛攻から艦隊を護りきった。
この戦闘の結果、双方の航空戦力は失われ、ユーク側は防空艦3隻、フリゲート4隻が沈没した。扶桑側もある程度の艦艇に損耗が出た他、ドックや弾薬庫、レーダーサイト等を潰され、大湊基地は基地として機能しなくなった。
また、三沢基地も管制塔や武器庫、滑走路を破壊され、壊滅的な状況に陥り、扶桑航空軍は松島基地まで後退することとなった。

陸奥湾沖海戦(本戦)

  • 前哨戦
ここに至って、パブロヴナ提督は自身が直接出陣しての天海提督との直接対陣することを決意。自身の持つ戦力を一個艦隊相当の直属部隊(北方艦隊)にまで手薄にすることで天海艦隊を誘出することを企図した。麾下の艦隊に対し津軽要塞攻略時に大湊基地にいなかった第二艦隊と規模が把握しきれていない第三艦隊の襲撃に備え艦隊を偽装分散させた。
そして各方面に分散した各艦隊は時期を図って一挙反転、戦場に駆けつけ天海艦隊を包囲殲滅することとされていた。
しかし、ユーク艦隊が本隊の孤立を偽装した罠を仕掛けてくることをすでに予測し、分散したユーク諸艦隊が本隊からもっとも離れたタイミングで本隊との戦闘に突入、反転した諸艦隊の到着までに撃破するプランを組んでいた。
各分艦隊の航路上に潜水艦戦隊を複数配備し本艦隊との合流を遅らせるように動いた。ここまではユーク分艦隊も織り込み済みで対潜戦闘を開始した。しかし想定外だったことはまさか民間船舶や標的である輸送艦まで戦闘に直接加わってくるだったことであり、対応に手間取ることで本艦隊との合流が大幅に遅れてしまった。
尤も、ユーク側も輸送艦の武装化は北海道戦争の初期に実施していたことであり、戦争序盤の作戦が見事に回収された形となった。

  • 経緯
扶桑側は先遣偵察隊を展開して情報を収集・分析した一方、ユーク軍も先行偵察衛星と早期警戒機からなる索敵網によって進路の偵察を実施した。
両軍の索敵行動が30時間に及んだころ、海域FO2においてユーク軍主力部隊を発見。ユーク軍も時を同じくしてFO2にて扶桑先遣偵察隊を探知し、迂回航路をとって帰投する先遣偵察隊の進路から扶桑軍主力の位置を解析。対応にあたったマスロフスキー艦隊司令部を通じて総旗艦に通報された。
両軍はそのまま接近を続け、ついに正面決戦に突入する。

  • パブロヴナ提督の思惑
この会戦において、ユーク軍の勝利は、扶桑軍を包囲殲滅すべく反転したユーク海軍諸艦隊が到着するまでの間、天海艦隊の攻勢をユーク海軍本隊が迎え撃ち戦線を維持し続けることができるかどうかにかかっていた。そのためにパブロヴナ提督が発案した戦術が、機動的縦深防御と称される、戦史上にも類例のない遅滞防御戦法である。
その内容は、部隊を分割して複数の横列陣を形成し、本隊の前方左右に展開するもの。これによって前面の戦況を直接把握しつつ、必要に応じて左右の横列陣をスライドさせ迎撃陣として運用、迎撃陣との交戦を繰り返させることで攻勢に出る扶桑軍に物的・心理的に圧力を加えてその勢いと戦力を次第に減衰させ、ユーク海軍諸艦隊の到着までその鋭鋒を押しとどめることを目的としていた。加えて、突破された迎撃陣が統率を保ったままユーク軍両翼の外側を迂回し、陣形を再編しつつ横列陣の最後尾につくことで再度迎撃陣として運用することができるようになっており、用意された迎撃陣24段に留まらない無数の迎撃陣が天海艦隊の前に立ちはだかることとなった。

  • 戦闘序盤
3月24日14時20分、扶桑軍による一斉射撃をその幕開けとして両軍は戦闘を開始した。開始時点では両軍の司令官はともに相手に先制させてその出方を見るという方針で一致しており、開戦は極めて正統的な形のものとなった。しかし、開戦後30分程度のうちに前線は両司令官どちらにとっても不本意な形で無秩序な激戦へと雪崩込み、両軍はその収拾に精力を傾けざるをえなくなっていく。
激戦が続いた後、ユーク軍では指揮の不徹底から第一陣の突出に第二陣のカヴェーリン艦隊が後続する形となり、秩序を失った両部隊には大きな混乱が生じた。パブロヴナ提督は指揮統制の再復に努めたが、これに乗じた天海提督は巧妙な指揮によって凹形陣の焦点にカヴェーリン艦隊以外のユーク軍前方部隊を誘引、一斉砲撃をくわえて大打撃を与えた。しかし最終的には、なし崩し的に消耗戦へと落ち込むことを避けるため、両者ともに戦線の収拾に努めることとなった。
3月27日にはいると、扶桑軍は混沌としていた前線を整理して艦隊を再編成し、円錐陣をもって正面からの速攻に打って出た。迎撃の命を受けたユーク軍前線部隊は星井艦隊が得意とする火力の一点集中により一挙に撃ち崩され、ユーク軍前線は同盟軍によって完全に突破されることとなった。しかし、前述したようにユーク軍は複層的な防御陣を用意しており、突進する扶桑軍は30分足らずの間にユーク軍第二陣の迎撃を受けた。扶桑軍は菊池提督の部隊を最先陣として突破に成功したが、間をおかずしてユーク軍第三陣が出現。以後、ユーク軍防御陣の出現と扶桑軍による突破が繰り返され、3月29日には第九陣の迎撃を受けることとなった。
このころになると流石に天海提督以下首脳部も違和感を感じるようになる。 一度艦隊を引いて戦列を立て直し、中央に第一艦隊、右翼やや後方に第三艦隊、左翼に第二艦隊という布陣でユーク艦隊と睨みあうこととなった。 

  • 戦闘中盤
3月30日、扶桑軍は進撃を中止し、そのまま240km後退して陸前丘陵の蔭に入ると、武装商船を自軍右翼方向へと振り向けた。ユーク軍艦艇のレーダーはこの部隊を50隻弱の艦艇と誤認したため、ユーク軍はこの兵力が主力であるか囮であるかを確定できず困惑することとなった。しかし最終的にパブロヴナ提督はこれを囮と見せかけた実兵力であると判断した。
ユーク軍は、戦力の分散を避けつつこの兵力を撃滅するため、本隊直属を除く主力艦隊を再編成し左翼方向へと前進を開始。扶桑軍第三艦隊はその隙をみて武装商船隊を突っ切り突如として突撃を開始し、ユーク軍主力の後方をユーク軍本隊めがけて猛進する。一方接近したことで囮に気づいたユーク軍主力も、本隊を護るべく扶桑軍武装商船部隊からの攻撃を無視して急遽反転し、扶桑軍主力右側面に迫った。これを予測していた天海提督は、ユーク軍の攻撃に合わせて扶桑軍主力中央部を左側に湾曲させることで艦列の崩壊を擬装、扶桑軍主力を横撃したというユーク軍諸提督の錯覚を利用し、変形凹形陣を形成してユーク軍主力をその内側へと引きずり込んだ。
この結果、ユーク軍主力は武装商船部隊と合流した扶桑軍の完全な包囲下に置かれて本営から切り離され、全方位からの攻撃により掃滅の危機に瀕することとなった。ユーク軍本隊にも扶桑軍の砲火が迫り、4月2日にはパブロヴナ提督に旗艦<ニコライ・ヴァツーチン>からの退艦が進言されるほどの危機的な戦況に至ったが、そこにユーク軍にブラーギン艦隊が来援して扶桑軍横面に猛砲撃を加えたため、ユーク軍本隊は一度危地を脱することができた。

  • 戦闘終盤
ブラーギン艦隊の参戦はユーク連合艦隊全滅の危機を回避したが、強行軍によって多くの戦力を脱落させており、当時司令官ブラーギン准将の指揮下にあったのは一個艦隊に大きく足りない6隻前後の防空駆逐艦とフリゲートに過ぎなかった。
天海提督にとってブラーギン艦隊が来援することは計算外のことであり、扶桑軍は作戦の再編を余儀なくされることとなる。加えて、長く続く激戦により航海燃料や弾薬の残存量にも限界が見えつつあった。
いっぽうユーク軍は、来援に勢いを得て解囲攻勢へと打って出た。扶桑軍の前衛艦隊が増援艦隊の苛烈な攻勢の矢面に立ったが、わずか一時間の交戦で多くのの艦艇を失う凄烈な損耗にさらされ残存兵力はかろうじて天海提督の直属部隊へ合流している。
ユーク軍本隊と同扶桑軍主力のあいだに割り入った増援艦隊の攻勢は勢いを増し、同盟軍に対し明らかに優位に立ちつつあった。しかし依然扶桑軍による包囲下にあるユーク軍主力の戦況は対照的で、まる一日以上の包囲攻撃により完全に潰乱しつつあった。ガイドゥコフ中将、アザロフ中将の部隊はもはや原型をほとんど留めず、かろうじて戦線を維持していたカヴェーリン中将、マスロフスキー中将、グラツキー中将、チスチャコフ中将の部隊もブラーギン艦隊の攻勢に呼応するだけの余力を失っていた。

  • 戦闘終盤
この状況下で、クラコフ少将が一点集中攻勢によって内側から包囲網突破の賭けに出る。これを感知した天海提督は、一挙に戦局を転回させるべく、包囲網の内外から圧力を受ける一角にあえて穴を空けさせた。そして、これを脱出の機と欣喜雀躍して解囲部に殺到したユーク軍主力と、包囲下にある味方を救援すべく解囲部への突入を図るブラーギン艦隊が集中したところに、菊池艦隊による一点集中砲火が襲い掛かったのである。
ユーク軍の戦線は天海提督・星井提督両艦隊の驚異的なまでに強大苛烈な火力を前にして瞬く間に崩壊し、クラコフ少将は戦死した。ブラーギンも激戦のさなかで被弾した旗艦の放棄を余儀なくされる状況となり、指揮座を四度移しながらも、総旗艦<ニコライ・ヴァツーチン>の盾として勇猛果敢に戦闘を指揮し続けた。
しかし、このようなの勇戦をもってしても戦況はもはや覆しようのない段階にあった。こうした状況下の4月5日22時40分、<ニコライ・ヴァツーチン>を射程におさめる直近にまで迫った扶桑軍は、乱戦の最中ブラーギン艦隊より放たれた対艦ミサイルによって、ついには扶桑側の突撃戦力が枯渇してしまう。
さらにユーク軍諸艦隊は続々と陸奥湾海域に駆けつけ、19時時点で200隻におよぶ無傷のユーク軍艦艇が扶桑艦隊艦隊を取り囲むに至った。
空母<鳳翔>はパブロヴナ提督をあと一息の所まで追い詰めながら降伏を余儀なくされ、最後は引き返してきたユーク艦隊の手で撃沈させられた。
天海提督は退艦を拒否し運命をともにしようとするも部下に説得されて退艦。後にユーク軍によって救助されている。
事ここに至って勝利を得られることができなくなったと判断した扶桑艦隊は高垣提督の指揮のもと撤退を開始。 最も作戦行動期間の長かった艦においてはなんと2週間にも及んだこの大海戦はこうして幕を閉じた。この海戦以降扶桑艦隊が外洋に出ることはなく、その間に北海道戦争は大きな転換点を迎えることとなる。

東京急行0326

極東連邦管区の都市であるウラジオストクとマガダンへの攻撃により焦ったユーク極東方面参謀本部は、パブロヴナ提督の思惑とは別に独立次世代艦隊に特命し東京急行を実行させる。扶桑政府を降伏させ、天海提督および扶桑軍へと停戦を命令させるべきであるという初期の構想を容れてのものであった。大型空母1隻を主力とする次世代艦隊は、自前のステルス性を活かして密かに東京に向かっていた。
扶桑軍の索敵網に入らないように大回りな海路で進行したため攻撃が遅れるが、扶桑艦隊は北陸方面に集結していたため、ユーク艦隊を遮るものはいなかった。
5個航空中隊と海兵大隊4個を載せた次世代艦隊は、ウラル級情報艦による広範囲ジャミングと同時に攻勢を開始する。
機動戦力のほぼすべてを北方へ向けていたため海上での邀撃こそできなかった扶桑軍であったが、扶米戦争時に横須賀を奇襲された経験のある扶桑軍は警戒を怠っていなかった。 ジャミングと同時に警急体勢に入っていた765戦隊と戦闘機1個戦隊がスクランブル発進、果敢に立ち向かった。関東一円の飛行場が破壊され不時着によりほぼ全機の戦闘機を失うものの、その戦いぶりは敵将をして称賛せしめた。

上陸を果たした海軍歩兵大隊4個のうち、2個大隊が皇居と国会議事堂まで到達。扶桑政府に終戦を迫るも代理をつとめていた秋月副総理はどこその煽動政治家とは違い天海提督が勝利を得るまで徹底抗戦することを決断。近衛師団と海軍歩兵大隊が激戦を繰り広げるが、そのさなかに天海艦隊敗北の知らせが届きついに扶桑政府は停戦を決断する。
なおこの時の海軍歩兵部隊の生き残りがゲリラとなって破壊工作を行うといった出来事が戦後数年にわたって発生し、政府は首都機能を京都へうつす決断をすることになる。

過去ログ

詳しくは北海道戦争コメント欄を参照

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最終更新:2020年05月06日 08:50
添付ファイル

*1 Tu-95と救援に来たMiG-29が撃墜された事件。ユーク側の自作自演であることが後に判明した。なお、観通では時間上この事件については割愛させていただく

*2 ユーク特殊部隊の総称。

*3 扶桑語:択捉島単冠湾

*4 このとき、地雷処理班はCoD:MW2で登場した、みんなのトラウマことジャガーノートの元となったスーツを着用している。もちろん彼の重装甲歩兵は各戦線にて多数が投入されている。

*5 爆発反応装甲、T-90とかの砲塔についている特徴的なアレ。通称:ホタテ

*6 山頂に設置すれば、人や車など、動くものだけを探知する小型の対人/対車両レーダー

*7 敵の動き

*8 APFSDS弾を発射できるような戦車砲の砲口初速は毎秒1,800mと高いため、当たるかはともかくとして30km以上の射程を誇る。

*9 海防艦3隻、ミサイル艇2隻