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*福山城跡 ふくやまじょう 広島県福山市にある、江戸時代に存在した城の跡。 江戸時代は備後福山藩の藩庁だった。 |所在地|[[広島県]][[福山市]]| ---- **概要 |別名|久松城、葦陽城| |区分|[[国指定史跡]]| |城郭形式|輪郭式平山城| |遺構|櫓・門| 二重の堀や瀬戸内海へ抜ける入江があった。現在は、北側に位置する外堀の一部であった深津川など以外は全て埋め立てられ、石垣も本丸・二の丸と三の丸の一部を除き取り払われている。 現存する建造物として伏見櫓、筋鉄御門(共に[[重要文化財]])、鐘櫓(福山市重要文化財)がある。 ・天守 天守は、伏見御殿御湯殿とともに、1945年8月8日の米軍の福山空襲により焼失した。 現在の天守は月見櫓、御湯殿、多聞櫓と共に福山市市制50周年記念の事業として1966年(昭和41年)に再建された。 天守内部は福山市立「福山城博物館」となっていて天守最上階からは市街や瀬戸内海などを360度見渡せる。 ---- **歴史 1619年(元和5年)安芸・備後二国を領有した広島城主福島正則が改易となり、備後には徳川家康の従兄弟に当り当地域に精通した水野勝成が大和国の大和郡山城から移封。勝成は当初、内陸の神辺城に入城した。 神辺の地は山陽道に面した好立地ではあったが山間であり城も山城で広い敷地が得られず城下町の発展が見込めなかったのと瀬戸内海への防備も考慮し、入封早々一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例であるが当時は沿岸部で湿地帯であった現在地の常興寺山に城郭の建設と野上村に城下町の建設が始まった。 1620年(元和6年)の築城中には大水害に見舞われるなど建設場所は低湿地で工事は困難を極めた。 城の建設には神辺城や伏見城の遺材が使われた。 この時、移築された建造物としては伏見櫓や伏見御殿湯殿、豊臣秀吉公ゆかりの伏見城能舞台(江戸初期に市内鞆町の沼名前神社に移築 国指定重要文化財)がある。 また、建築資金として幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、山陽道と瀬戸内海の要衝を護る地として幕府が重要視していたことが窺える。 城下には江戸の神田上水に次ぐ、全国2番目となる上水道が敷設された。その名残が城址北側のどんどん池(深津川)付近にある。また城址北部の妙政寺・観音寺は石垣を用いた城郭建築で 城の防備のための付随施設の思惑があったと思われる。 1622年(元和8年)完成し、この地も福山と名付けられた。天守は5層6階で防備上の弱点とされた北壁には鉄砲と大砲への防御のため鉄板が張ってあった(但し現在の再建天守には無い)。 水野氏に始まり、その後、松平氏、阿部氏と続く譜代大名の居城であったが幕末の慶応4年1月9日(1868年)、新政府軍の攻撃を受け(空襲で焼失した天守には大砲の弾痕があった)城址の北側にある備後護国神社付近で新政府軍の主力である長州藩兵との戦闘があり長州藩兵3名が戦死したが福山藩首脳の奔走により(当時藩主の阿部正方は前年死去していた)幸い本格的な戦闘にはならずその後福山藩も新政府軍側に恭順した。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ  &TAGS() ----
*福山城跡 ふくやまじょうあと &FURIGANA(ふくやましょうあと) 広島県福山市にある、江戸時代に存在した城の跡。 江戸時代は備後福山藩の藩庁だった。 |所在地|[[広島県]][[福山市]]| |地図|&HTML()| ---- **概要 |別名|久松城、葦陽城| |区分|[[国指定史跡]]| |城郭形式|輪郭式平山城| |遺構|櫓・門| 二重の堀や瀬戸内海へ抜ける入江があった。現在は、北側に位置する外堀の一部であった深津川など以外は全て埋め立てられ、石垣も本丸・二の丸と三の丸の一部を除き取り払われている。 現存する建造物として伏見櫓、筋鉄御門(共に[[重要文化財]])、鐘櫓(福山市指定重要文化財)がある。 ・天守 天守は、伏見御殿御湯殿とともに、1945年8月8日の米軍の福山空襲により焼失した。 現在の天守は月見櫓、御湯殿、多聞櫓と共に福山市市制50周年記念の事業として1966年(昭和41年)に再建された。 天守内部は福山市立「福山城博物館」となっていて天守最上階からは市街や瀬戸内海などを360度見渡せる。 ---- **歴史 1619年(元和5年)安芸・備後二国を領有した広島城主福島正則が改易となり、備後には徳川家康の従兄弟に当り当地域に精通した水野勝成が大和国の大和郡山城から移封。勝成は当初、内陸の神辺城に入城した。 神辺の地は山陽道に面した好立地ではあったが山間であり城も山城で広い敷地が得られず城下町の発展が見込めなかったのと瀬戸内海への防備も考慮し、入封早々一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例であるが当時は沿岸部で湿地帯であった現在地の常興寺山に城郭の建設と野上村に城下町の建設が始まった。 1620年(元和6年)の築城中には大水害に見舞われるなど建設場所は低湿地で工事は困難を極めた。 城の建設には神辺城や伏見城の遺材が使われた。 この時、移築された建造物としては伏見櫓や伏見御殿湯殿、豊臣秀吉公ゆかりの伏見城能舞台(江戸初期に市内鞆町の沼名前神社に移築 国指定重要文化財)がある。 また、建築資金として幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、山陽道と瀬戸内海の要衝を護る地として幕府が重要視していたことが窺える。 城下には江戸の神田上水に次ぐ、全国2番目となる上水道が敷設された。その名残が城址北側のどんどん池(深津川)付近にある。また城址北部の妙政寺・観音寺は石垣を用いた城郭建築で 城の防備のための付随施設の思惑があったと思われる。 1622年(元和8年)完成し、この地も福山と名付けられた。天守は5層6階で防備上の弱点とされた北壁には鉄砲と大砲への防御のため鉄板が張ってあった(但し現在の再建天守には無い)。 水野氏に始まり、その後、松平氏、阿部氏と続く譜代大名の居城であったが幕末の慶応4年1月9日(1868年)、新政府軍の攻撃を受け(空襲で焼失した天守には大砲の弾痕があった)城址の北側にある備後護国神社付近で新政府軍の主力である長州藩兵との戦闘があり長州藩兵3名が戦死したが福山藩首脳の奔走により(当時藩主の阿部正方は前年死去していた)幸い本格的な戦闘にはならずその後福山藩も新政府軍側に恭順した。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ  &TAGS() ----

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