「犬山城跡」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

犬山城跡」(2013/06/11 (火) 01:06:52) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*犬山城跡 いぬやまじょうあと &FURIGANA(いぬやまじょうあと) #REF(http://art56.photozou.jp/pub/293/106293/photo/111333313.v1322749500.jpg) [[愛知県]][[犬山市]]にある、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城の跡。 現存している天守が[[国宝]]に指定されている。 現存している中では[[日本最古>日本一]]。 [[国宝四城]]の一つ。 |所在地|[[愛知県]][[犬山市]]大字犬山字北古券65-2| |地図|&HTML(<iframe width="490" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&vpsrc=6&ctz=-540&brcurrent=3,0x6004bad5499332e7:0xeb5fa65d181541a7,0&ie=UTF8&msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac2657e86b20693f&t=m&ll=35.394927,136.944151&spn=0.024489,0.042057&z=14&iwloc=00048ac269146cfb9da6a&output=embed"></iframe><br /><small>より大きな地図で <a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&vpsrc=6&ctz=-540&brcurrent=3,0x6004bad5499332e7:0xeb5fa65d181541a7,0&ie=UTF8&msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac2657e86b20693f&t=m&ll=35.394927,136.944151&spn=0.024489,0.042057&z=14&iwloc=00048ac269146cfb9da6a&source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">愛知県</a> を表示</small>)| **天守 屋根数3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。 天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。 地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方m。 天守台石垣は[[野面積]]という積み方で、高さは5m。 天守の高さは19m。 1階:納戸の間、東西9間・南北8間 床面積282.752平方m 2階:武具の間、東西9間・南北8間 床面積246.006平方m 3階:破風の間、東西3間・南北4間 床面積81.936平方m 4階:高欄の間、東西3間・南北4間 床面積49.835平方m 昭和36年から同40年に行われた犬山城天守の解体修理と古文献などよって、この天守は下の2重2階の主屋が1537年(天文6年)または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。その後[[唐破風]]の付加などが行われて現在の姿になったと考えられている。 **歴史 戦国・安土桃山時代 ・1469年(文明元年) :織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。 ・1537年(天文6年) :織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。 ・1544年(天文13年) :信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる。 ・1564年(永禄7年) :織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。 ・以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。 ・本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。 ・1584年(天正12年) :かつての犬山城主・池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。 豊臣時代には石川貞清が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。 江戸時代 石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。 ・1601年(慶長6年) :小笠原吉次が城主となる。 ・1607年(慶長12年): 平岩親吉が城主となる。 ・1617年(元和3年) :親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。 近現代 ・明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊された。 ・1891年(明治24年):濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れた ・1895年(明治28年):城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。 ・1959年:伊勢湾台風で被害を受けた ・1961年〜1965年:解体修理 ・2004年(平成16年)4月:財団法人犬山城白帝文庫に移管 ---- ---- **関連項目 #RELATED ・タグ  &TAGS() ----
*犬山城跡 いぬやまじょうあと &FURIGANA(いぬやまじょうあと) #REF(http://art56.photozou.jp/pub/293/106293/photo/111333313.v1322749500.jpg) [[愛知県]][[犬山市]]にある、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城の跡。 現存している天守が[[国宝]]に指定されている。 現存している中では[[日本最古>日本一]]。 [[国宝四城]]の一つ。 |所在地|[[愛知県]][[犬山市]]大字犬山字北古券65-2| |地図|&HTML(<iframe width="490" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&vpsrc=6&ctz=-540&brcurrent=3,0x6004bad5499332e7:0xeb5fa65d181541a7,0&ie=UTF8&msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac2657e86b20693f&t=m&ll=35.394927,136.944151&spn=0.024489,0.042057&z=14&iwloc=00048ac269146cfb9da6a&output=embed"></iframe><br /><small>より大きな地図で <a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&vpsrc=6&ctz=-540&brcurrent=3,0x6004bad5499332e7:0xeb5fa65d181541a7,0&ie=UTF8&msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac2657e86b20693f&t=m&ll=35.394927,136.944151&spn=0.024489,0.042057&z=14&iwloc=00048ac269146cfb9da6a&source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">愛知県</a> を表示</small>)| **天守 屋根数3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。 [[天守]]南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、[[入母屋]]2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。 地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方m。 天守台石垣は[[野面積み]]で、高さは5m。 天守の高さは19m。 1階:納戸の間、東西9間・南北8間 床面積282.752平方m 2階:武具の間、東西9間・南北8間 床面積246.006平方m 3階:破風の間、東西3間・南北4間 床面積81.936平方m 4階:高欄の間、東西3間・南北4間 床面積49.835平方m 昭和36年から同40年に行われた犬山城天守の解体修理と古文献などよって、この天守は下の2重2階の主屋が1537年(天文6年)または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。その後[[唐破風]]の付加などが行われて現在の姿になったと考えられている。 **歴史 戦国・安土桃山時代 ・1469年(文明元年) :織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。 ・1537年(天文6年) :織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。 ・1544年(天文13年) :信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる。 ・1564年(永禄7年) :織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。 ・以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。 ・本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。 ・1584年(天正12年) :かつての犬山城主・池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。 豊臣時代には石川貞清が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。 江戸時代 石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。 ・1601年(慶長6年) :小笠原吉次が城主となる。 ・1607年(慶長12年): 平岩親吉が城主となる。 ・1617年(元和3年) :親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。 近現代 ・明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊された。 ・1891年(明治24年):濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れた ・1895年(明治28年):城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。 ・1959年:伊勢湾台風で被害を受けた ・1961年〜1965年:解体修理 ・2004年(平成16年)4月:財団法人犬山城白帝文庫に移管 ---- ---- **関連項目 #RELATED ・タグ  &TAGS() ----

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: