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*清水山 観世音寺
かんぜおんじ
&FURIGANA(かんせおんし)
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[[福岡県]][[太宰府市]]にある天台宗の寺院。
本尊は聖観音。[[開基]]は天智天皇。
7世紀後半に造営が開始された、九州を代表する古寺。
|所在地|[[福岡県]][[太宰府市]]観世音寺五丁目6番1号|
|地図|&HTML()|
**歴史
・661年(白鳳元年):斉明天皇が没する。子の天智天皇が母斉明天皇のために観世音寺の建立を発願し、ほどなく造営がはじめられたと推定される。
・746年(天平18年):完成
・761年(天平宝字5年):鑑真によって戒壇院が設けられる。
・平安時代以降:たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失う。
・1064年(康平7年):火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。
・1102年(康和4年):大風で金堂、南大門などが倒壊。金堂はその後復旧。
・1143年(康治2年):火災で金堂が再度焼失。
・1630年(寛永7年):暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、廃寺同然となる。
・1631年(寛永8年):金堂が、藩主黒田家により復興。
・1688年(元禄元年):講堂(本堂)が藩主黒田家により復興。
・1703年(元禄16年):[[戒壇院]]が観世音寺から独立。
・明治時代:平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、天台宗寺院となる。
・1913年(大正2年)~1915年(大正4年):傷みの激しかった諸仏の修理が行われる。
・1959年(昭和34年):鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成。寺院の文化財収蔵庫としては早い時期につくられたもの。
**境内
創建当初の伽藍は東西93メートル、南北78メートルの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。
これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。
金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。
かつて存在した門、回廊などは失われている。
県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。
この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。
また、寺の西に隣接して[[戒壇院]]が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。
***南大門跡
参道両脇にいくつかの礎石が残っている。礎石自体は創建当初のものと推定されるが、当初の位置を保っていない。
***中門跡
金堂、講堂の建つ広場の手前の石段のあたりにあったと推定されるが、礎石などの遺構は残っていない。
***金堂
境内の西側、創建時の金堂の跡に建つ。
1959年に宝蔵ができるまでは、堂内中央に本尊阿弥陀如来坐像、その左右に四天王像、北の壁際には十一面観音立像、大黒天立像、地蔵菩薩半跏像、阿弥陀如来立像、南の壁際には吉祥天立像、地蔵菩薩立像、兜跋毘沙門天立像、聖観音立像が安置されていた。現在は宝蔵等へ移動され、堂内には不動明王坐像のみが安置されている。
・建設年:1631年(寛永8年)
・屋根形状:入母屋
・屋根材:瓦葺
***講堂
本堂ともいう。境内正面奥の一段高くなった位置に建つ。
1959年に宝蔵ができるまでは、堂内中央に本尊聖観音坐像、左に十一面観音立像(像高5メートル)、右に不空羂索観音立像、東の壁際には十一面観音立像(像高3メートル)、西の壁際には馬頭観音立像が安置されていた。現在は宝蔵へ移動され、堂内にはもと金堂にあった聖観音立像を安置する。
堂の周辺に残る礎石は平安時代以降のもの。
堂の左手前には奈良時代のものと伝承する石臼(碾磑)がある。
・建設:1688年(元禄元年)
・屋根形状:入母屋二重
・屋根材:瓦葺
***塔跡
鐘楼前に塔の心礎が残り、直径約90センチメートルの柱穴がある。発掘調査の結果、この心礎は当初位置から動いていないことが確認されている。
***僧坊跡
講堂の背後にある。「延喜五年資材帳」にみえる僧坊の跡で、南北10メートル、東西100メートルの規模があった。現在地表にある礎石は実物ではなくレプリカである。
***伝玄昉墓
講堂の西、道路を隔てた民家の脇に立つ浮彫の宝篋印塔。
奈良時代の僧・玄昉の墓と伝承されているが、塔自体は中世のものである。
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参道
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講堂
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金堂
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**関連項目
#RELATED
・タグ &TAGS()
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*清水山 観世音寺
かんぜおんじ
&FURIGANA(かんせおんし)
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[[福岡県]][[太宰府市]]にある天台宗の寺院。
本尊は聖観音。[[開基]]は天智天皇。
7世紀後半に造営が開始された、九州を代表する古寺。
|所在地|[[福岡県]][[太宰府市]]観世音寺五丁目6番1号|
|地図|&HTML(<iframe width="485" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="https://maps.google.co.jp/maps/ms?msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac505cd5a8cc32b7&hl=ja&brcurrent=3,0x3541817af77eb125:0x97a20ffb4a51384d,0&ie=UTF8&t=m&ll=33.522292,130.526247&spn=0.025044,0.041628&z=14&iwloc=0004cbd554807e0ebe98c&output=embed"></iframe><br /><small>より大きな地図で <a href="https://maps.google.co.jp/maps/ms?msa=0&msid=205510817128870103752.00048ac505cd5a8cc32b7&hl=ja&brcurrent=3,0x3541817af77eb125:0x97a20ffb4a51384d,0&ie=UTF8&t=m&ll=33.522292,130.526247&spn=0.025044,0.041628&z=14&iwloc=0004cbd554807e0ebe98c&source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">福岡県</a> を表示</small>)|
**歴史
・661年(白鳳元年):斉明天皇が没する。子の天智天皇が母斉明天皇のために観世音寺の建立を発願し、ほどなく造営がはじめられたと推定される。
・746年(天平18年):完成
・761年(天平宝字5年):鑑真によって戒壇院が設けられる。
・平安時代以降:たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失う。
・1064年(康平7年):火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。
・1102年(康和4年):大風で金堂、南大門などが倒壊。金堂はその後復旧。
・1143年(康治2年):火災で金堂が再度焼失。
・1630年(寛永7年):暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、廃寺同然となる。
・1631年(寛永8年):金堂が、藩主黒田家により復興。
・1688年(元禄元年):講堂(本堂)が藩主黒田家により復興。
・1703年(元禄16年):[[戒壇院]]が観世音寺から独立。
・明治時代:平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、天台宗寺院となる。
・1913年(大正2年)~1915年(大正4年):傷みの激しかった諸仏の修理が行われる。
・1959年(昭和34年):鉄筋コンクリート造の宝蔵が完成。寺院の文化財収蔵庫としては早い時期につくられたもの。
**境内
創建当初の伽藍は東西93メートル、南北78メートルの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。
これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。
金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。
かつて存在した門、回廊などは失われている。
県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。
この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。
また、寺の西に隣接して[[戒壇院]]が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。
***南大門跡
参道両脇にいくつかの礎石が残っている。礎石自体は創建当初のものと推定されるが、当初の位置を保っていない。
***中門跡
金堂、講堂の建つ広場の手前の石段のあたりにあったと推定されるが、礎石などの遺構は残っていない。
***金堂
境内の西側、創建時の金堂の跡に建つ。
1959年に宝蔵ができるまでは、堂内中央に本尊阿弥陀如来坐像、その左右に四天王像、北の壁際には十一面観音立像、大黒天立像、地蔵菩薩半跏像、阿弥陀如来立像、南の壁際には吉祥天立像、地蔵菩薩立像、兜跋毘沙門天立像、聖観音立像が安置されていた。現在は宝蔵等へ移動され、堂内には不動明王坐像のみが安置されている。
・建設年:1631年(寛永8年)
・屋根形状:入母屋
・屋根材:瓦葺
***講堂
本堂ともいう。境内正面奥の一段高くなった位置に建つ。
1959年に宝蔵ができるまでは、堂内中央に本尊聖観音坐像、左に十一面観音立像(像高5メートル)、右に不空羂索観音立像、東の壁際には十一面観音立像(像高3メートル)、西の壁際には馬頭観音立像が安置されていた。現在は宝蔵へ移動され、堂内にはもと金堂にあった聖観音立像を安置する。
堂の周辺に残る礎石は平安時代以降のもの。
堂の左手前には奈良時代のものと伝承する石臼(碾磑)がある。
・建設:1688年(元禄元年)
・屋根形状:入母屋二重
・屋根材:瓦葺
***塔跡
鐘楼前に塔の心礎が残り、直径約90センチメートルの柱穴がある。発掘調査の結果、この心礎は当初位置から動いていないことが確認されている。
***僧坊跡
講堂の背後にある。「延喜五年資材帳」にみえる僧坊の跡で、南北10メートル、東西100メートルの規模があった。現在地表にある礎石は実物ではなくレプリカである。
***伝玄昉墓
講堂の西、道路を隔てた民家の脇に立つ浮彫の宝篋印塔。
奈良時代の僧・玄昉の墓と伝承されているが、塔自体は中世のものである。
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参道
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金堂
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