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*旧岩崎邸庭園 きゅういわさきていていえん &FURIGANA(きゆういわさきていていえん) [[東京都]][[台東区]]にある庭園。 旧岩崎家住宅として[[重要文化財]]に指定されている。 |所在地|[[東京都]][[台東区]]池之端一丁目3番45号| |料金|400円(5/4みどりの日、10/1都民の日は無料)| |時間|9:00~17:00| |休園日|12/29~1/1| |URL|[[>>http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html]]| |地図|&HTML()| 2013年5月現在 三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園が公園として整備され公開されている。 洋館、大広間、撞球室の3棟ならびに宅地が「旧岩崎家住宅」として国の重要文化財に指定されている。また、洋館北面袖壁、煉瓦塀、実測図1枚が重要文化財の附(つけたり)として指定されている。 洋館と撞球室は1961年の指定で、1969年に大広間と洋館北面袖壁が、1999年に宅地、煉瓦塀、実測図が、それぞれ追加指定されている。 土地建物の所有者は国(文部科学省)であるが、管理は東京都によって行われている。[[文化財保護法]]第32条の2の規定に基づき、東京都が重要文化財の管理団体に指定されている。 ***洋館 岩崎家の迎賓館として用いられた西洋館。 お雇い外国人として来日し、独立後は三菱・岩崎家の仕事を数多く手がけた[[ジョサイア・コンドル]]の設計である。 北面を正面とし、正面玄関部分は平面四角形の塔屋となっている。 反対側の南面は1階、2階とも列柱のある大きなベランダを設ける。 晩年の作品に比べると装飾性が強く、内外装とも全体のスタイルや装飾は英国17世紀のジャコビアン様式を基調としつつ、南面のベランダにはコンドルが得意としたコロニアル様式がよく表れている。 一方、客室の天井装飾、床のタイル、暖炉などの細部にはイスラム風のデザインを施すなど様々な様式を織り交ぜている。 岩崎久弥の留学先であったペンシルベニアのカントリー・ハウスのイメージも取り込まれている。 なお、東側のサンルームは後年(1910年頃)の増築である。 内部は階段ホールを中心に、1階には岩崎久弥が用いた書斎、客室、大食堂などがあり、2階には内向きの客室や集会室などがある。 建設当時は多くの部屋や廊下の壁面に金唐革紙が貼られていたが、現在当時の壁紙は失われている。平成の修復に際して、2階の2部屋だけ金唐革紙が復元されている。 ・設計:[[ジョサイア・コンドル]] ・竣工:1896年(明治29年) ・構造:木造 ・階数:2階、煉瓦造地下室付、玄関部塔屋付 ・屋根材:スレート葺 ・外壁:下見板張り ・建築面積:531.5m² なお、1915年(大正4年)にコンドルが作成した建替計画図が静嘉堂文庫に収蔵されている。鉄筋コンクリート造3階建・建坪348坪の大規模な洋館に立て替え、和洋併置をやめて家族の居室も洋館内に完結する計画であったが実施には至らなかった[2]。 ***和館 洋館と同時期に竣工した、書院造を基調とした和風建築。 明治期の大邸宅では、洋館と和館を並べ建て、和館を日常生活空間、洋館を公的な接客空間として使い分けることが多かった。 岩崎邸においても、迎賓館としての洋館に対し、生活の場としては和館が使用された。 洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、当時の和洋折衷の生活スタイルを伝えている。村松貞次郎によると、完存していれば和館部分のほうが、洋館部分より文化財としての価値が高かったと、解体後に気がついたと言う。 長大で良質な木材がふんだんに用いられている。釘隠しなど各所に岩崎家の家紋である三階菱の意匠が見られる。 1969年(昭和44年)に「大広間」の名称で重要文化財に指定されたが、同時期に和館の大部分が取り壊された。 往時は550坪に達する大邸宅であったが、現存するのは大広間、次の間、三の間の3室と、茶室(待合室)、渡り廊下、便所のみである。 ・設計:大河喜十郎(推定) ・竣工:1896年(明治29年) ・構造:木造 ・屋根材:桟瓦及び銅板葺 ・建築面積:319.6m² ***撞球室 木造[[ゴシック様式>ゴシック建築]]のビリヤード室。 校倉造の外観はスイスの山小屋風。洋館と同じく[[ジョサイア・コンドル]]の設計である。 洋館の地下室とは地下通路で結ばれている。内壁には明治期の金唐革紙がはられている。外観のみ公開。 ・設計:[[ジョサイア・コンドル]] ・竣工:1896年(明治29年)頃 ・構造:木造 ・階数:1階 ・屋根材:スレート葺 ・建築面積:138.0m² ・江戸時代:越後高田藩榊原家の中屋敷であった。 ・明治時代初期:牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となる ・1878年(明治11年):三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入。 ・1896年(明治29年):洋館、和館竣工 ・1923年(大正12年):関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。 ・1945年(昭和20年):GHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となる(岩崎家は和館の一部に居住) ・1947年(昭和22年):財産税の物納として国有財産化 ・1948年(昭和23年):岩崎久弥一家、成田へ転居 ・1953年(昭和28年):日本政府に返還 ・1961年(昭和36年):洋館および撞球室を重要文化財に指定 ・1969年(昭和44年):和館大広間を重要文化財に指定。司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となる ・1994年(平成6年):司法研修所の移転に伴い、文化庁に移管 ・2001年(平成13年):東京都に移管、都立公園として開園 ・2003年(平成15年):洋館内部の改修(金唐革紙等の復元製作)が完了、通年公開を開始 **参考サイト [[wikipedia 旧岩崎邸庭園>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E9%82%B8%E5%BA%AD%E5%9C%92]] ---- **関連項目 #RELATED この項目のタグ  &TAGS() タグ「台東区」「歴史」がついた項目 &list_by_tagsearch(台東区,歴史,100,sort=furigana2,option=nolist,nolistspace=/) タグ「庭園」がついた項目 &list_by_tagsearch(庭園,100,sort=furigana2,option=nolist,nolistspace=/) ----
*旧岩崎邸庭園 きゅういわさきていていえん &FURIGANA(きゆういわさきていていえん) [[東京都]][[台東区]]にある庭園。 旧岩崎家住宅として[[重要文化財]]に指定されている。 |所在地|[[東京都]][[台東区]]池之端一丁目3番45号| |料金|400円(5/4みどりの日、10/1都民の日は無料)| |時間|9:00~17:00| |休園日|12/29~1/1| |URL|[[>>http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html]]| |地図|&HTML()| 2013年5月現在 三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園が公園として整備され公開されている。 洋館、大広間、撞球室の3棟ならびに宅地が「旧岩崎家住宅」として国の重要文化財に指定されている。また、洋館北面袖壁、煉瓦塀、実測図1枚が重要文化財の附(つけたり)として指定されている。 洋館と撞球室は1961年の指定で、1969年に大広間と洋館北面袖壁が、1999年に宅地、煉瓦塀、実測図が、それぞれ追加指定されている。 土地建物の所有者は国(文部科学省)であるが、管理は東京都によって行われている。[[文化財保護法]]第32条の2の規定に基づき、東京都が重要文化財の管理団体に指定されている。 ***洋館 岩崎家の迎賓館として用いられた西洋館。 お雇い外国人として来日し、独立後は三菱・岩崎家の仕事を数多く手がけた[[ジョサイア・コンドル]]の設計である。 北面を正面とし、正面玄関部分は平面四角形の塔屋となっている。 反対側の南面は1階、2階とも列柱のある大きなベランダを設ける。 晩年の作品に比べると装飾性が強く、内外装とも全体のスタイルや装飾は英国17世紀のジャコビアン様式を基調としつつ、南面のベランダにはコンドルが得意としたコロニアル様式がよく表れている。 一方、客室の天井装飾、床のタイル、暖炉などの細部にはイスラム風のデザインを施すなど様々な様式を織り交ぜている。 岩崎久弥の留学先であったペンシルベニアのカントリー・ハウスのイメージも取り込まれている。 なお、東側のサンルームは後年(1910年頃)の増築である。 内部は階段ホールを中心に、1階には岩崎久弥が用いた書斎、客室、大食堂などがあり、2階には内向きの客室や集会室などがある。 建設当時は多くの部屋や廊下の壁面に金唐革紙が貼られていたが、現在当時の壁紙は失われている。平成の修復に際して、2階の2部屋だけ金唐革紙が復元されている。 ・設計:[[ジョサイア・コンドル]] ・竣工:1896年(明治29年) ・構造:木造 ・階数:2階、煉瓦造地下室付、玄関部塔屋付 ・屋根材:スレート葺 ・外壁:下見板張り ・建築面積:531.5m² なお、1915年(大正4年)にコンドルが作成した建替計画図が静嘉堂文庫に収蔵されている。鉄筋コンクリート造3階建・建坪348坪の大規模な洋館に立て替え、和洋併置をやめて家族の居室も洋館内に完結する計画であったが実施には至らなかった[2]。 ***和館 洋館と同時期に竣工した、書院造を基調とした和風建築。 明治期の大邸宅では、洋館と和館を並べ建て、和館を日常生活空間、洋館を公的な接客空間として使い分けることが多かった。 岩崎邸においても、迎賓館としての洋館に対し、生活の場としては和館が使用された。 洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、当時の和洋折衷の生活スタイルを伝えている。村松貞次郎によると、完存していれば和館部分のほうが、洋館部分より文化財としての価値が高かったと、解体後に気がついたと言う。 長大で良質な木材がふんだんに用いられている。釘隠しなど各所に岩崎家の家紋である三階菱の意匠が見られる。 1969年(昭和44年)に「大広間」の名称で重要文化財に指定されたが、同時期に和館の大部分が取り壊された。 往時は550坪に達する大邸宅であったが、現存するのは大広間、次の間、三の間の3室と、茶室(待合室)、渡り廊下、便所のみである。 ・設計:大河喜十郎(推定) ・竣工:1896年(明治29年) ・構造:木造 ・屋根材:桟瓦及び銅板葺 ・建築面積:319.6m² ***撞球室 木造[[ゴシック様式>ゴシック建築]]のビリヤード室。 校倉造の外観はスイスの山小屋風。洋館と同じく[[ジョサイア・コンドル]]の設計である。 洋館の地下室とは地下通路で結ばれている。内壁には明治期の金唐革紙がはられている。外観のみ公開。 ・設計:[[ジョサイア・コンドル]] ・竣工:1896年(明治29年)頃 ・構造:木造 ・階数:1階 ・屋根材:スレート葺 ・建築面積:138.0m² ・江戸時代:越後高田藩榊原家の中屋敷であった。 ・明治時代初期:牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となる ・1878年(明治11年):三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入。 ・1896年(明治29年):洋館、和館竣工 ・1923年(大正12年):関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放された。 ・1945年(昭和20年):GHQが接収、諜報機関「キャノン機関」本部となる(岩崎家は和館の一部に居住) ・1947年(昭和22年):財産税の物納として国有財産化 ・1948年(昭和23年):岩崎久弥一家、成田へ転居 ・1953年(昭和28年):日本政府に返還 ・1961年(昭和36年):洋館および撞球室を重要文化財に指定 ・1969年(昭和44年):和館大広間を重要文化財に指定。司法研修所庁舎建設のために和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が約1/3となる ・1994年(平成6年):司法研修所の移転に伴い、文化庁に移管 ・2001年(平成13年):東京都に移管、都立公園として開園 ・2003年(平成15年):洋館内部の改修(金唐革紙等の復元製作)が完了、通年公開を開始 **参考サイト [[wikipedia 旧岩崎邸庭園>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E9%82%B8%E5%BA%AD%E5%9C%92]] ---- **関連項目 #RELATED この項目のタグ  &TAGS() タグ「台東区」「歴史」がついた項目 &list_by_tagsearch(台東区,歴史,100,sort=furigana2,option=nolist,nolistspace=/) タグ「庭園」がついた項目 &list_by_tagsearch(庭園,100,sort=furigana2,option=nolist,nolistspace=/) ----

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