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*讃岐うどん さぬきうどん &FURIGANA(さぬきうとん) &REF() [[香川県]]で食べられているうどん。 **特徴 **歴史 ***江戸時代以前 典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適しており、古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。 やがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。 ***江戸時代 商品作物が奨励され、米・小麦以外にも様々な作物が生産されるようになり、少雨の気候は製塩に適するため19世紀初頭から坂出に塩田が開発された。 醤油の生産はそれより古くから小豆島や引田で行われていた。しかし江戸以前は醤油は高級品であり、産地の庶民が気軽に地元消費していたとは考えにくく、讃岐におけるうどんの形がどのようなものであったか(或いは他所との違いは無かったか)は不明。 ・元禄末(18世紀初頭):金毘羅門前町の活況を描いた「金毘羅祭礼図屏風」に、200軒あまりの建物の中に3軒のうどん屋が描かれている。 ・江戸時代後期:金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。うどん屋の店頭には釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 ***明治時代 夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていた。箱の下部にはどんぶりや湯沸かしを入れ、総重量は60-70kgだったといわれる。 20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。うどんは鰹節とだしを掛けたぶっかけ。夜なきの行商人は生麺の卸売業者(玉卸し屋)と契約して道具を借り、営業を行っていた。当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係を基に3系統に分かれ、終戦までこれが続いていた。昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。 農村部では水車の動力を利用した製粉業が盛んになり、粉を仕入れる小規模な製麺業者も増加した。 1930年代にはエンジン式の製粉機が普及し始め、20世紀後半には完全に水車に取って代わっている。同時期には機械式製麺も全国に広がったが、香川県では手打ちの製麺所が残った。 20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われ、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。 **第二次世界大戦以後 第二次世界大戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。小麦粉の供給は、1949年ごろから闇市を中心に回復してきた。 うどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や中華料理店を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかった。 1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場。 1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった。飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。 1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったがうどんは前例がなかった。まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。 1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして讃岐うどんが供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、知名度も上昇していった。 1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、製造・販売を開始。しかし、品質面において讃岐うどんの特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、1976年にリニューアル発売した。1978年にはキンレイが讃岐うどんのコシを目指して再現したアルミ容器入り冷凍鍋焼きうどんを発売。 ブーム 1980年代末頃より、香川県のタウン情報誌「月刊タウン情報かがわ(TJかがわ)」で連載された個性的なうどん店の紹介企画「ゲリラうどん通ごっこ」が評判となる。県内で「うどん屋探訪」がレジャーとして盛んになり、味に加えて個性的な店自体を楽しむ客が大きく増えた。 1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。 これ以降、主にTJかがわ編集部とその周辺のコミュニティによって、県内のみならず全国に向けたうどんブームの「仕掛け」がなされていった。 まず、在京テレビ局のグルメ番組で、1992年頃より武田鉄矢や吉村明宏といったタレントと穴場うどん店を巡る番組が放送され始め、それは一過性のものに終わることなく引き続いていく。近隣の地方局でも情報番組などで穴場うどん店紹介を頻繁に取り上げる。 やがて90年代後半には料理対決番組でのうどんVSそば、テレビ東京「TVチャンピオン」での「讃岐うどん王選手権」の定期開催など、うどんと穴場うどん店にまつわる露出が加速していった。 また出版物においては1993年に上記連載の単行本「恐るべきさぬきうどん」がホットカプセル(TJかがわ出版元)より県下で発売、後に新潮社より全国発売される。これは何巻にも渡って刊を重ねた。並行して、雑誌「レタスクラブ」「DIME」「Hanako」「AERA」などへの寄稿・アドバイスを精力的に行う。これらの書籍・記事に触発されたうどん遠征記なども書籍化された。公告プランナー佐藤尚之(さとなお)の「うまひゃひゃさぬきうどん」(1998年)もその初期の一つである。 これらの仕掛けは奏功し、1990年代後半からは県外からもうどん屋巡りを目的に香川へ出向くという観光スタイルが広がっていった[54]。また同時期を通じて、香川県のうどん生産量は倍増し、田舎の「穴場店」に観光客が行列を作る光景が見られるようになった。ブームの「仕掛け人」とされるTJかがわ編集長・ホットカプセル社長(当時)田尾和俊は一躍文化人の仲間入りを果たし、多数の受賞のほか2003年には四国学院大学の教授職に迎えられた。 田尾の成功譚を翻案した映画「UDON」が2006年に公開された。 ブームの回数と発生年 香川県農政水産部は、20世紀後半から4度の讃岐うどんブームが起きたとする。田尾は第3次と第4次を連続したブームとしている[55][54]。ブーム発生の年は以下の通り。 第1次:1969年 最初の注目。立ち食いうどん、大阪万博への出店や金子正則知事によるトップセールスなどによる。当時香川県はPRのためキャラバン隊を組織していた。 第2次:1988年 瀬戸大橋の開通を受けて四国全体の観光客が増加し、うどん店への客も増加した。一部の店が値段を高騰させるなどの問題も生じた[56]。橋の開通が好影響を及ぼし、冷凍讃岐うどんの売上が急増し[48]、全国的に手軽な讃岐うどんとして普及していった[57][58]。 第3次:1995年 田尾らの仕掛けによる香川県内のうどん店を巡る客の増加。引き続く全国区への「怪しい店」露出による県外からのうどん店目的の観光客の増加。 第4次:2002年 香川県外でのセルフうどん出店増加により、讃岐うどんを認知し、実際に食べる機会が増えた[57]。 セルフうどんの県外進出 丸亀製麺 松戸二十世紀が丘店 「セルフうどん」(セルフサービスのうどん店)は香川県外ではあまり見られなかったが、2002年にこのセルフ方式のうどん店が首都圏に開店したのを皮切りに、日本各地で同様のセルフうどんが次々とオープンした。背景として「外食デフレ」の時代に合致した低価格路線の商材であったことや、スターバックスやドトールコーヒーショップなどセルフ方式を導入したコーヒーショップの普及で、飲食店におけるセルフ方式の懸念が払拭されたこと、B級グルメブームが挙げられている[57]。この最初の出店ラッシュは2005年頃には一段落したが、その頃には廉価・手軽なファーストフードの一つとしてある程度定着し、ショッピング街やフードコート、主要な街道沿いなどで見かけることが珍しくなくなった。 香川県外のセルフうどんは、既存の外食産業企業グループの多角化の1つとしてのチェーン・フランチャイズ展開が牽引しており、零細店舗がしのぎを削る香川県内とは様相を異にしている。そのため県外資本の讃岐うどん店チェーン企業は、本場香川県への逆進出に慎重である[59]。 2000年代後半より、セルフうどんチェーンの一つ丸亀製麺が出店攻勢をかけ、はなまるうどんを抜き店舗数首位に躍り出た[60]。2000年代半ばをピークとして国内全体の麺類生産量が下落傾向である中、セルフうどんはなお右肩上がりで成長している。香川県外資本の讃岐うどん店チェーンは、さぬきうどん振興協議会によると「13」(2012年時点)に上る[59]。 讃岐うどん店チェーンは日本国外にも展開している。2010年、上海国際博覧会にはなまるうどんが出店(期間出店)。2011年には上海(はなまるうどん)、ハワイ(丸亀製麺)に、それぞれセルフうどんの常設店が開店した。 うどん県 2010年の香川県観光交流局の調査によれば[3]、観光客は香川県の魅力としてうどんを69.0%でトップに挙げ、2位の豊かな自然や景色 (37.1%) を大きく上回っている。旅行先として香川県を選択した理由のトップもうどん(43.2%、2位名所旧跡は23.9%)、観光客飲食状況も66.4%がうどんを食べた、など、名実ともにうどんは観光の目玉となっている。 しかし香川県イコールうどん、とあまりにもイメージが固定化しており、そんなうどん以外の観光資源が注目されない状況を打破しようと、香川県および香川県観光協会は2011年10月、「うどん県。それだけじゃない香川県」プロジェクト特設サイトを開設し、うどんをきっかけに他の地域産品も知ってもらえればと企図した。香川県が「うどん県」に改名したという設定で、要潤を副知事役に、香川出身のタレントを動員した地域紹介動画を公開したところ、たちまち注目を浴び、一時サイトに繋がりにくくなるほどのアクセスが殺到した。またTwitterやブログなどでもうどん県の話題が激増した[61]。 現実のフェリーやバスの行先表示や、本物の県知事の名刺に「うどん県」と表示する[62]、実際に日本郵便にうどん県宛の年賀状の配達を申し入れ快諾を得るなど[63][64]、フィクションの枠を飛び出すほどのインパクトを生み出したが、肝心のうどん以外の産品のPRとしては課題が残り[61]、香川県観光振興課では2012年度もうどん県PR予算として7250万円を計上した[65]。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ &TAGS() ----
*讃岐うどん さぬきうどん &FURIGANA(さぬきうとん) &REF() [[香川県]]で食べられているうどん。 **特徴 **歴史 ***江戸時代以前 典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適しており、古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。 やがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。 ***江戸時代 商品作物が奨励され、米・小麦以外にも様々な作物が生産されるようになり、少雨の気候は製塩に適するため19世紀初頭から坂出に塩田が開発された。 醤油の生産はそれより古くから小豆島や引田で行われていた。しかし江戸以前は醤油は高級品であり、産地の庶民が気軽に地元消費していたとは考えにくく、讃岐におけるうどんの形がどのようなものであったか(或いは他所との違いは無かったか)は不明。 ・元禄末(18世紀初頭):金毘羅門前町の活況を描いた「金毘羅祭礼図屏風」に、200軒あまりの建物の中に3軒のうどん屋が描かれている。 ・江戸時代後期:金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。また参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。うどん屋の店頭には釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。 ***明治時代 夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていた。箱の下部にはどんぶりや湯沸かしを入れ、総重量は60-70kgだったといわれる。 20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。うどんは鰹節とだしを掛けたぶっかけ。夜なきの行商人は生麺の卸売業者(玉卸し屋)と契約して道具を借り、営業を行っていた。当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係を基に3系統に分かれ、終戦までこれが続いていた。昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。 農村部では水車の動力を利用した製粉業が盛んになり、粉を仕入れる小規模な製麺業者も増加した。 1930年代にはエンジン式の製粉機が普及し始め、20世紀後半には完全に水車に取って代わっている。同時期には機械式製麺も全国に広がったが、香川県では手打ちの製麺所が残った。 20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われ、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。 **第二次世界大戦以後 第二次世界大戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。小麦粉の供給は、1949年ごろから闇市を中心に回復してきた。 うどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や中華料理店を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかった。 1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場。 1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった。飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。 1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったがうどんは前例がなかった。まもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。 1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。また、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。 この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして讃岐うどんが供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、知名度も上昇していった。 1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、製造・販売を開始。しかし、品質面において讃岐うどんの特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、1976年にリニューアル発売した。1978年にはキンレイが讃岐うどんのコシを目指して再現したアルミ容器入り冷凍鍋焼きうどんを発売。 ブーム 1980年代末頃より、香川県のタウン情報誌「月刊タウン情報かがわ(TJかがわ)」で連載された個性的なうどん店の紹介企画「ゲリラうどん通ごっこ」が評判となる。県内で「うどん屋探訪」がレジャーとして盛んになり、味に加えて個性的な店自体を楽しむ客が大きく増えた。 1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。 これ以降、主にTJかがわ編集部とその周辺のコミュニティによって、県内のみならず全国に向けたうどんブームの「仕掛け」がなされていった。 まず、在京テレビ局のグルメ番組で、1992年頃より武田鉄矢や吉村明宏といったタレントと穴場うどん店を巡る番組が放送され始め、それは一過性のものに終わることなく引き続いていく。近隣の地方局でも情報番組などで穴場うどん店紹介を頻繁に取り上げる。 やがて90年代後半には料理対決番組でのうどんVSそば、テレビ東京「TVチャンピオン」での「讃岐うどん王選手権」の定期開催など、うどんと穴場うどん店にまつわる露出が加速していった。 また出版物においては1993年に上記連載の単行本「恐るべきさぬきうどん」がホットカプセル(TJかがわ出版元)より県下で発売、後に新潮社より全国発売される。これは何巻にも渡って刊を重ねた。並行して、雑誌「レタスクラブ」「DIME」「Hanako」「AERA」などへの寄稿・アドバイスを精力的に行う。これらの書籍・記事に触発されたうどん遠征記なども書籍化された。公告プランナー佐藤尚之(さとなお)の「うまひゃひゃさぬきうどん」(1998年)もその初期の一つである。 これらの仕掛けは奏功し、1990年代後半からは県外からもうどん屋巡りを目的に香川へ出向くという観光スタイルが広がっていった。また同時期を通じて、香川県のうどん生産量は倍増し、田舎の「穴場店」に観光客が行列を作る光景が見られるようになった。ブームの「仕掛け人」とされるTJかがわ編集長・ホットカプセル社長(当時)田尾和俊は一躍文化人の仲間入りを果たし、多数の受賞のほか2003年には四国学院大学の教授職に迎えられた。 田尾の成功譚を翻案した映画「UDON」が2006年に公開された。 ブームの回数と発生年 香川県農政水産部は、20世紀後半から4度の讃岐うどんブームが起きたとする。田尾は第3次と第4次を連続したブームとしている。ブーム発生の年は以下の通り。 第1次:1969年 最初の注目。立ち食いうどん、大阪万博への出店や金子正則知事によるトップセールスなどによる。当時香川県はPRのためキャラバン隊を組織していた。 第2次:1988年 瀬戸大橋の開通を受けて四国全体の観光客が増加し、うどん店への客も増加した。一部の店が値段を高騰させるなどの問題も生じた[56]。橋の開通が好影響を及ぼし、冷凍讃岐うどんの売上が急増し[48]、全国的に手軽な讃岐うどんとして普及していった[57][58]。 第3次:1995年 田尾らの仕掛けによる香川県内のうどん店を巡る客の増加。引き続く全国区への「怪しい店」露出による県外からのうどん店目的の観光客の増加。 第4次:2002年 香川県外でのセルフうどん出店増加により、讃岐うどんを認知し、実際に食べる機会が増えた。 セルフうどんの県外進出 「セルフうどん」(セルフサービスのうどん店)は香川県外ではあまり見られなかったが、2002年にこのセルフ方式のうどん店が首都圏に開店したのを皮切りに、日本各地で同様のセルフうどんが次々とオープンした。背景として「外食デフレ」の時代に合致した低価格路線の商材であったことや、スターバックスやドトールコーヒーショップなどセルフ方式を導入したコーヒーショップの普及で、飲食店におけるセルフ方式の懸念が払拭されたこと、B級グルメブームが挙げられている。この最初の出店ラッシュは2005年頃には一段落したが、その頃には廉価・手軽なファーストフードの一つとしてある程度定着し、ショッピング街やフードコート、主要な街道沿いなどで見かけることが珍しくなくなった。 香川県外のセルフうどんは、既存の外食産業企業グループの多角化の1つとしてのチェーン・フランチャイズ展開が牽引しており、零細店舗がしのぎを削る香川県内とは様相を異にしている。そのため県外資本の讃岐うどん店チェーン企業は、本場香川県への逆進出に慎重である。 2000年代後半より、セルフうどんチェーンの一つ丸亀製麺が出店攻勢をかけ、はなまるうどんを抜き店舗数首位に躍り出た。2000年代半ばをピークとして国内全体の麺類生産量が下落傾向である中、セルフうどんはなお右肩上がりで成長している。香川県外資本の讃岐うどん店チェーンは、さぬきうどん振興協議会によると「13」(2012年時点)に上る。 讃岐うどん店チェーンは日本国外にも展開している。2010年、上海国際博覧会にはなまるうどんが出店(期間出店)。2011年には上海(はなまるうどん)、ハワイ(丸亀製麺)に、それぞれセルフうどんの常設店が開店した。 ---- **関連項目 #RELATED ・タグ &TAGS() ----

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