東山 慈照寺 (銀閣寺)

とうざん じしょうじ (ぎんかくじ)


京都府京都市にある、臨済宗相国寺派の寺院。
東山文化を代表する。
開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政。

足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することから、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この名は近世の名所案内記などですでに使用されている。

古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。

所在地 京都府京都市左京区銀閣寺町2
料金 500円
時間 8:30~17:00(12月から2月は9:00~16:30)
URL http://www.shokoku-ji.or.jp/



歴史

室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。

1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。


伽藍


  • 庭園(特別史跡特別名勝)-錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われていると言われる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお、東方山麓の枯山水庭園は1931年(昭和6年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。

  • 銀閣(国宝)-足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、義政の祖父・3代将軍義満が建てた金閣と対比されて用いられる通称。1489年(延徳元年)に上棟されたことがわかっており、同年をさほど隔てない頃に完成したと思われる。重層、宝形造、柿(こけら)葺で、平面は長方形で正面8.2m、奥行7.0m。初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間(柱間の数が正面・側面とも3つ)の禅宗様(唐様)の仏堂である。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。鹿苑寺金閣が文字どおり金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はない。これについては「当初は名前のとおり銀を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説と義政の隠居所として設計された観音殿には、元々銀箔を張る計画はなく、当初から木肌を露出させた現在の姿が義政の構想だった、という説がある。慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が茶道趣味と禅宗文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高いと思われる。ちなみに、義政の妻日野富子はびた一文として出さなかったという話がある。

  • 東求堂(とうぐどう)(国宝)-義政の持仏堂で、1486年(文明18年)の建立。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。なお、創建当時は現在位置より南方の銀閣に近い位置に建てられていたと推定されている。



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