犬山城跡

いぬやまじょうあと


愛知県犬山市にある、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城の跡。

現存している天守が国宝に指定されている。
現存している中では日本最古
国宝四城の一つ。

所在地 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
地図
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天守

屋根数3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。
天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。
地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方m。
天守台石垣は野面積みで、高さは5m。
天守の高さは19m。

1階:納戸の間、東西9間・南北8間 床面積282.752平方m
2階:武具の間、東西9間・南北8間 床面積246.006平方m
3階:破風の間、東西3間・南北4間 床面積81.936平方m
4階:高欄の間、東西3間・南北4間 床面積49.835平方m

昭和36年から同40年に行われた犬山城天守の解体修理と古文献などよって、この天守は下の2重2階の主屋が1537年(天文6年)または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。その後唐破風の付加などが行われて現在の姿になったと考えられている。



歴史


戦国・安土桃山時代
  • 1469年(文明元年) :織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
  • 1537年(天文6年) :織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。
  • 1544年(天文13年) :信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる。
  • 1564年(永禄7年) :織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。
  • 以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。
  • 本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
  • 1584年(天正12年) :かつての犬山城主・池田恒興が突如、奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。
豊臣時代には石川貞清が城主となった。かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
江戸時代

石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。
  • 1601年(慶長6年) :小笠原吉次が城主となる。
  • 1607年(慶長12年): 平岩親吉が城主となる。
  • 1617年(元和3年) :親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。
近現代
  • 明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊された。
  • 1891年(明治24年):濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れた
  • 1895年(明治28年):城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。
  • 1959年:伊勢湾台風で被害を受けた
  • 1961年〜1965年:解体修理
  • 2004年(平成16年)4月:財団法人犬山城白帝文庫に移管










関連項目












最終更新:2013年06月11日 01:06