二条城跡

にじょうじょうあと

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京都府京都市にある、江戸時代に存在した城の跡。国指定史跡
古都京都の文化財を構成する17の歴史的建造物の1つとして世界文化遺産に登録されている。


所在地 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541番地
料金 600円
時間 8:45~17:00(受付は16:00まで)
休園日 1・7・8・12月の毎週火曜日 (祝日の場合は翌日)、12/26~1/4
URL http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/

城郭



文化財区分 国指定史跡
城郭構造 輪郭式平城…
遺構 御殿・櫓・門、石垣、堀、庭園



歴史


江戸時代

寛永元年から大規模な改修が行われ、尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。

創建

幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。

  • 1601年(慶長6年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始。
  • 1601年(慶長6年12月:西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
  • 1602年(慶長7年)5月:御殿・天守の造営に着工。
  • 1603年(慶長8年)3月:落成。但し、天守は1606年(慶長11年)に完成。
1603年(慶長8年) 2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、同月27日二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の1605年(慶長10年)に第2代将軍・秀忠が、1623年(元和9年)に第3代将軍家光が踏襲するが、第4代将軍・家綱以降は行われなくなった。
  • 1614年(慶長19年):大坂の役が勃発。二条城は家康の本営となり、ここから大阪に兵を進めた。
  • 1619年(元和5年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。縄張は藤堂高虎。
  • 1624年(寛永元年):家光が将軍になり、秀忠が大御所となった翌年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。
  • 1626年(寛永3年) 行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
  • 1634年(寛永11年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。
  • 1750年(寛延3年):落雷により天守を焼失。
  • 1788年(天明8年):大火の飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
  • 1625年(寛永2年): 二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
  • 1699年(元禄12年) :二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
  • 1862年(文久2年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
  • 1860年(万延元年): 京都地震発生。御殿や各御門、櫓などが傾くなど大きな被害を受けた。
  • 1862年(文久2年) :第14代将軍・家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
  • 1863年(文久3年)3月:第14代将軍・家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
  • 1865年(慶応元年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌1866年(慶応2年)夏に死去する。
  • 1866年(慶応2年):二条城では幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。
  • 1867年(慶応3年) 9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。このとき二条城には旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄・永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
  • 1868年(慶応4年1月):鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。


  • 1870年(明治3年):東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。
  • 1871年(明治4年):二の丸御殿は京都府庁舎となる。
  • 1873年(明治6年):陸軍省の所管に移された。
  • 1884年(明治17年):宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。
  • 1885年(明治18年):京都府の新庁舎が完成したため移転した後、二の丸御殿の修理が1892年(明治25年)まで行われる。
  • 1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて、京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。
  • 1915年(大正4年):大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。
  • 1939年(昭和14年):宮内省より下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、1965年(昭和40年)に庭園に変えられた。
  • 2006年(平成18年)4月6日:日本100名城(53番)に選定された。



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