水城跡

みずきあと


福岡県大野城市・太宰府市にある、7世紀中頃に構築された山城の跡。

特別史跡に指定されている。
史跡指定面積15万0805.80平方メートル。

所在地 福岡県大野城市・太宰府市
地図
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歴史


『日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並々ならぬ懸念があったことが分かる。
663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。
当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。
翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。
その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。
後年、1274年の文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。

構造と用途

博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。
土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていた。
土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っている。
南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(こみずき)と呼ばれる長さ80メートルの土塁がある。これは、主要部の水城と合わせて大宰府を防御するための施設だと考えられている。




関連項目














最終更新:2013年06月06日 21:59