八郎潟
はちろうがた
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かつては日本第2位の面積(約220km²)だったが、現在では大部分が干拓されている。
狭義には、南東部の八郎潟調整池のことを指し、一般的にはこれを指す。面積は27.7km2で日本で18番目。
広義には、干拓前の八郎潟の範囲を反映した八郎潟調整池、東部承水路、西部承水路の総称。承水路は干拓前の湖の外周にあたる部分で、大潟村を囲むようにして存在している。八郎潟調整池とあわせた広義の八郎潟の湛水面積は48.3km²。
もともとは海と繋がった汽水湖であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られて、淡水湖になっている。
干拓
戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われ、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。工事は1957年(昭和32年)に着工して、1967年(昭和42年)から入植を開始した。全体の事業は1977年(昭和52年)に竣工した。
干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年(昭和39年)9月15日に「干拓式」と題する式典を吉武自治大臣、赤城農林大臣、秋田県知事らを招いて開催したのち、10月1日に秋田県で69番目の自治体として大潟村が発足した。
最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。
利用
かつては汽水湖だったため、シジミが多く採れていたが、近年は干拓とともに淡水化されたため、その収量は減少している。
冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。
反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
名前の由来
八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が作ったという伝説に由来する。
関連項目
最終更新:2013年07月02日 22:48