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「例えば私がローソクを見ているとする。そのとき見る主体は私であり。見られている大賞はローソクであって、そこには何のまぎれもない。だが、私がそのローソクに手をかざす時、果たして<熱い>のは私の手か、それともローソクの炎か。この紛れは、すぐさま前者にも拡張される。すなわち、見られている炎が<赤い>のか、それとも見ている私の網膜が<赤さ>を感ずるだけなのか。答えは二様に分れる。<熱さ>や<赤さ>を対象の客観的性質として炎の側に帰属させる道と、それを私の知覚する主観的性質とみなす道である。だがマッハは、この二様の答のいずれも拒否する。彼の答はこうである。そこには<熱さ><赤さ>という<要素>あるいは<感覚要素>が直接現前しているだけだ、と。」
野家啓一『世紀末の認識論 エルンスト・マッハと「ウィーンの精神」』

マッハにとって存在するのは、相互の多様な函数的依属関係のうち現れてくる<感覚要素>だけであり、<熱さ>や<赤さ>を担う実態的<物体>の存在など必要ではない。

「物体」とは比較的恒常的なな要素複合体に与えられた「名称」(AE4)にすぎない。感覚の背後に<物自体>とか<実体>と言った形而上学的現像を想定することは混乱をまねくだけのことである。だが、それにしても、その<赤さ>を見、<熱さ>を感ずるのは、<私><自我>でははないか。そうなれば、これはバークリー流の主観的観念論ということにはなりはしないか。これに対してマッハは<自我>もまた「比較的強固に関連しあっている要素群」を指す「名称」(AE22)、「暫定的概観のための実用的統一」、「観念的な思惟経的単位」(AE18)にすぎない、これを実体化するのは形而上学的幻想だ、と主張する。