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<p><font size="3">里程標 距 岡山元標二十里 09/07/29 開設  同日 宿替え<br /><br /> 09/07/28に、「距 岡山元標二十(推定)里」 の画像が、ころっとのお宝の中から、再発見された。<br /> 奇しくも、丁度2年前に、旧新郷町の神代小学校への取材の中で撮影され、既に、掲載公開されていた。<br /><br /> この標柱の出現は、幾つかのの理由で興奮に値するものであった。<br /><br /> 大きい命題としては、<br />  1)明治初期~中期の「道路行政=統治機構」解明の実物による裏付けに資すること。<br />  2)更なる探索で、岡山-新見間、さらにその先のラインを読み得ること。<br /></font><font size="3">があり、小さい 「里程標」 システムの内部命題として、<br />  A)新見方面に、わずか2本(高松・加茂の三里、高梁の拾壱里)しか確認できていなかったところに出現したこと。<br />  B)高梁の拾壱里の正当位置が、成羽を目指すか新見を目指すか、の議論の決着のアシストになり得ること。<br />  C)新見の先に出現したこと。<br />  D)二十里(の推定が正しいとして)は今までで最遠の数値であること。<br />  E)ラインとして、東城=県境・二本松を目指すか(現国道182号)、日南=県境・谷田峠を目指すか(現・県道8号)が、新しい疑問として生じたこと。 (付加情報:二本松のの碑は「国境碑=藩制時代」で、銘文には距離情報なし/高山市・杖立はラインが違う[県道9号]が、ここには明治18年建立で、岡山元標十八里二十九丁の県境碑)<br />  F)高梁・津川に類例があったとする口承(高梁市中央図書館の示唆)が検討に値することのなったこと。</font></p> <p> </p>
<p><font size="3"><strong>里程標 距 岡山元標二十里</strong> 09/07/29 開設  同日 宿替え<br /><br /> 09/07/28に、「距 岡山元標二十(推定)里」 の画像が、ころっとのお宝の中から、再発見された。<br /> 奇しくも、丁度2年前に、旧新郷町の神代小学校への取材の中で撮影され、既に、掲載公開されていた。<br /><br /> この標柱の出現は、幾つかのの理由で興奮に値するものであった。<br /><br /> 大きい命題としては、<br />  1)明治初期~中期の「道路行政=統治機構」解明の実物による裏付けに資すること。<br />  2)更なる探索で、岡山-新見間、さらにその先のラインを読み得ること。<br /></font><font size="3">があり、小さい 「里程標」 システムの内部命題として、<br />  A)新見方面に、わずか2本(高松・加茂の三里、高梁の拾壱里)しか確認できていなかったところに出現したこと。<br />  B)高梁の拾壱里の正当位置が、成羽を目指すか新見を目指すか、の議論の決着のアシストになり得ること。<br />  C)新見の先に出現したこと。<br />  D)二十里(の推定が正しいとして)は今までで最遠の数値であること。<br />  E)ラインとして、東城=県境・二本松を目指すか(現国道182号)、日南=県境・谷田峠を目指すか(現・県道8号)が、新しい疑問として生じたこと。 (付加情報:二本松のの碑は「国境碑=藩制時代」で、銘文には距離情報なし/高山市・杖立はラインが違う[県道9号]が、ここには明治18年建立で、岡山元標十八里二十九丁の県境碑)<br />  F)高梁・津川に類例があったとする口承(高梁市中央図書館の示唆)が検討に値することのなったこと。</font></p> <p> </p>

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