「金毘羅往来」 考 変遷と異説
             08/08/07 創設
  このWEB内の参考項目: 原道路法変遷

<「金毘羅往来」 距離さまざま>  
  「道」調査書に依ると、往来の総距離は、
    正保四年(1647) 八里三十一町二十間
    文化十年(1813) 九里二十町
とあり、一里十一町余、つまり5K200m 程度、違うことになる。

  一方で、松島の里程標・三里(明治十五年)の示す下津井までの総距離は、十一里一町四十四間余りとなり、格段に長い。この場合は、平田(四里)を経て、羽島(五里・未現認)に迂回するルートではあるが、差は大きい。

  更に他方で、明治30年陸地測量部地形図(二万分の一)では、いわゆる庭瀬・鴨方往来の大供・石門別神社門先を通る部分では 『四国街道』 の記載が見られる。 往時の 「道路法」 を参照すると、ここで言う 『四国街道』 とは 「明治国道三十一号」 を指すと理解してよいのであろうか?

  これらのことから、「金毘羅往来」 のルートの変遷/異説を距離と径路の再検討から考察することとしたい。

  なお、ここで検討しようとする 「特定の道」 のルートの設定/変遷と、旧陸軍・陸地測量部に発する 『水準点(網)』 の設定/変遷 とは本来別のことであるが、同時進行的に起きている事柄なので、お互いに、影響がなかったとは言えない。
  水準点設定の組織的な動きは、1884年(M17)から立案され、実際の基準(東京港潮位)測定が始まって、1891年(M24)に『基準標(庫)』 が完成した。 これを 「水準点」 設営の元年としておく。