サブノート

「何を構造主義として認めるか」(ジル・ドゥルーズ『無人島』)

第一の規準:記号界


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Jacques Lacan 1901-1981

「生き延びるためのラカン」斉藤 環


今の社会には、ラカンでなければ解けないことが多い。ラカンの言葉は、ときに悲観的でニヒリスティックに響く。けれど「癒し」も幻想なら、「絶望」も幻想である。ラカンの仮説は、虚構・幻想である世界に取り込まれずに物事を考える出発点として悪くない。
心は、言葉で出来ている。
心は言葉でできている。そのために途方もない自由を得たけれど、果てしない空虚さも抱え込んだ。
言葉にはもともと意味などなく、ひとまとまりの音にすぎない。「犬」という言葉は、犬に直接には結びついていない。「犬」は、「猫」「馬」「牛」といった、他の言葉との関係性のなかだけで成立する言葉だ。「あらゆる言葉は、ほかのすべての言葉とのつながり、ネットワークの中に位置づけられて、はじめて成り立つ。意味を決定づけるのは、その言葉ではなく、言葉どうしの関係と、その背景にある「文脈」の作用である。(工事中)

千夜千冊 松岡正剛 ジャック・ラカン『テレヴィジオン』より抜粋

Jacques Lacan : Television 1974/藤田博史・片山文保訳/1992 青土社

ラカンは世界のあれこれの情報の中から“最も大事な類比関係”を摂取しつづけた編集的独学者だった。

【わたしのディスクールは、人は何を知りうるかという問いを認めません】
ラカンの精神分析には独特の方法があった。「中断」である。ラカンは患者セッションを、しばしば突然の中断によって終わらせた。「中断された活動は、完結した活動よりも連想的な素材を生み出す」。未完成な部分を残すことは、かえって全体の輪郭と内容を深く暗示する。ラカンはこういうことを意図的に実験しつづけた異才だった。

【人間は、ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです】
ラカンを有名にしたのは、「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」というテーゼである。ランガージュは言語活動一般をさすが、ラカンがいうランガージュはもっと独特なものである。つまり、誰かが何かを言語を用いて「話す」ことではなく、任意の寄るべなき誰か(主体)が、他者たちによって「話される」という言語活動なのである。それが当人の無意識をあらわす根源的なランガージュそのものにあたるということである。ラカンのいう無意識は、自分の中にだけにある無意識ではなく、他者たちとともにある無意識なのだ。
自己としての誰かは、いつも自分で自分のことを語っているつもりになっている。しかしながら、自分のことを語ろうとすればするほど、そのランガージュはいつまにか他者を語っている。なぜなら自己というものは、もともと他者との比較においてしか芽生えない。一方、「他者の語らい」は、自分のことを語っているらしいという他動的なランガージュの印象になる。いいかえれば、「語られている他者としての自己」にこそ無意識があるということになる。すなわち自己と他者の“切り分け”の具合にのみランガージュとしての無意識があるということになる。これが「人間は、ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考している」という意味である。

【思考というものは魂に対して不調和なのです】
誰もが自分を知りたい。しかし、自己への接近が他者とのあいだの無意識に介在されているとなると、思考が自己に近づくことは到底ムリだということになる。むしろ「他者の欲望」に接近することこそが自己に接近する近道なのである。「他者の欲望」、例えば性欲、憎悪、親近感、所有欲…、しかし最も大事なことは、それらもたいていは言語意識によって表明されるということである。何かが欲しければ、何かを言うか、その欲望にもとづいた行動をおこさなければならない。(表明や行動をしなくとも、これらはアタマの中での言語意識になっている。)すなわち、ラカンにおいては「自己に近づくには他者になる」ということである。だとすれば、「自己接近」と「他者欲望」とのあいだには何らかの意味のつながりがある。
ラカンには初期から「シニフィアン連鎖」という見方があった。心や魂というものが、どんな見取図からもはみ出していることをラカンは見抜いていた。
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ラカンが「グラフ」を思いついたのは、フロイトの『機知――無意識との関係』の文章に注目してからである。機知というものは、自分の意識の見取図をはみ出して他者に向かっている。たとえばジョークや軽口は、あきらかに他者のためにあるもので、しかも、自己と他者をつなぐためにある。その機知のありかたをヒントに、ラカンは自己と他者のあいだにつながるシニフィアンの連鎖を辿ろうとした。そして自己は「他者の欲望」を媒介にしてかろうじて自立するのだということに気がついた。思考が魂に対して不調和だというのは、以上のような意味をもつ。

【魂は、身体に対する無意識の機能の総計による仮設なんです】
ラカンの「鏡像段階」仮説は、1936年に自己(自我=私)の機能を構成するものとして“発見”された。
「彼自身の映像と世界の映像の光学的な関係による諸知覚を処理して、彼自身の像を世界の中での特権的な地位を占めるものとして認知する」

こうして視覚が先取りした映像の上に、あとから自己の能動性の中心が仮託され、そこに「私」という自己中心が発生する。この「鏡像段階」仮説をラカン自身は以下のように意味づけている。

1.われわれは幼児期のみならず、つねに身体的な未統合状態にいる。
幼児期の知覚のアンバランスから生じた自己映像性の漠然とした確立は、その後の自己形成のモデルとして大きく作用し、よくいえば、自分の欠陥やアンバランスを克服して理想的な自己像を求める意識を発達させる。けれどもこれは実際の自己像とのあいだに亀裂があることを確認することにもなり、何度も挫折するうちに、かえって自己像そのものを喪失しかねない。母親の体との相対的比較や、両親兄弟親戚の言葉による自己映像の予想なども次々に加わって(つまりいろいろな鏡像が加わって)、自己鏡像はますます虚の次元に確立されていく。

2.自己(自我)というものは最初から社会関係の中に組み込まれている。
無垢の自己など最初からありはしない。社会的関係によって疎外されるということが自我をつくる。

3.他者との関係が自己像の本質である。
一方、人間というものは他者に見えているだろう自分自身の像を否定したくなることがある。いわば“真実の自己”の“復権要求”である。むろん、「本来的な自己」などというものはありえないし、自己像は他者との関係の中以外にはない。それゆえ自己像の過度の復権要求は、その当人にパラノイア的な苦悩をつきつけることになっていく。しかもそれが幼児期このかたの鏡像段階をスタートにしているがゆえに、ついついつい虚像として出てしまう。ラカンはこの「虚像としての自己」の出現に注目した。

【意味というものは、多義か、隠喩か、あるいは換喩なのです。その連合(アサシアシオン)なのです】
隠喩や換喩。ラカンはその中に意味の本質を見いだした。省略・冗語・転置・兼用・逆行・反復・同格などはシンタックスの移動によって、隠喩・濫喩・換喩・諷喩・換称・提喩などはセマンティックな圧縮によっておこる。
ラカンは象徴界と想像界を区別した。そのうえで、引用と暗示を駆使する独特の「スタイル」を作り出した。
「スタイルとは人間そのものである。もっぱらこの定式を拡張して、ここでいう人間とは言葉をさしむけられる人間であるという定式に賛同しようではないか」。(『エクリ』)

言葉を徹底して考えようとする人間にこそスタイルが生まれるというこのラディカルな定式は、ラカンの思想の全域で表示されていった。そしてそこから、次のようなメッセージも生まれてきた。
「言語においては、メッセージは他者からやってくる。これを徹底的につきつめれば、言語は逆転した形でやってくるということになる」(『エクリ』)

【大事なことは、暗号化されるものがあるということではなくて、暗号を解かれるものがあるということです】
ラカンはフロイトに戻れと言う。フロイト解釈者たちの誤読によるフロイト主義は、暗号になったもののほうばかりを気にする。そうではなく、暗号が解かれる方向に何かの本来の問題があるとラカンは直観した。意識も無意識も、エンコードよりデコードをするときのリリースの方向がずっと重要である。そしてラカンは、精神分析から「情動」をはずしてしまうという、モーセの脱出に似た計画を思いついた。

【つまり、情動は置き換えられている(デプラセ)、ということです】
ラカンには「言い換え」こそが意識と無意識の橋掛りであることがわかっていた。そのうえで、フロイト主義者がこだわった「情動」をそこで固定せず、自在に言い換えたのである。

【抑制を生じさせているものが抑圧であるということから、問題を立ち返らせねばなりません】
ここには抑圧も無意識も、主体を構成しようとする作用の痕跡が生んだものにすぎないという言明が隠れ見えている。
人間というものは“イメージの虜”になるものであり、言葉そのものも抑圧なのだということである。言葉はアタマの中ではつねに多数の並列状態になっている。そこからある言葉を選んで発話するということは、それ以外の言葉を抑圧していることになる。
さらに言葉というものは、アタマの中でたえず意識化されているわけではなく、大半はどこかに貯まってストックされている。そこでは言葉の多くが休んでいるか、死んでいる。そのうちのいくつかは夢で喚起されたり、精神病で暴発するものの、だいたいは無意識に近いところに貯められている。ということは、ランガージュそのものが無意識としての構造をもっているということをあらわしている。つまり、「無意識は言語のように構造をもっている」わけなのである。*1

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最終更新:2005年11月23日 00:45
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*1 この主張を発展させると、精神医学者としてはフロイトとラカンだけが喝破した“あること”につながっていく。それは「負の存在」に対する感覚の作用こそが存在の証明をなしとげるであろうという予測である。