ハンザ・ラゥド

  • セシリア諸島国ガエリア府エストリア市出身のレーサー。
  • レーサーでありながら公道では全く飛ばさず、警察や周囲からも評判は良かった。
  • 1994年の5月8日に行われたF1第4戦レラントンフGPで大クラッシュ、2日後に死亡。享年41歳。死因は失血死。

名前:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-
出身:セシリア諸島国 ガエリア府 エストリア市 エストリア8-2
生地:同上
生:1953年1月10日
没:1994年5月10日


生い立ち


  • 『神の手』の意を持つ名前

もともと彼の名前の『ハンザ』というのは、瀬国ガラマスカル語で『神の手』という意味のある
「Qhanzerhurdscf(ハンフェウテフ)」から来ている。
その名のとおり、幼少時代は手先が器用で、6歳の頃には一度分解したラジオを再び元に戻すなど、機械いじりが好きであった。

わずか3歳でレース界に


父親の強制的でスパルタとも言えるほどの教育は、彼は受ける。
レーサーであった彼の父、スュテンレ・ラゥドは、毎日のようにレーシングカートの運転をさせ、教育を行っていた。
それもあってか、13歳のレーシングカートのデビューレースではいきなり優勝するなどという偉業を成し遂げた。

夢の舞台へのステップアップ


初めの頃、父の厳しい特訓に嫌気が差し、何度も逃げ出そうとした彼は、この勝利で考えを改めた。
「父のやってきたことは自分にとってこんなすばらしい時のためだったんだ」と、今までの苦労を思い出に変えた。
その後、レーシングカートから国内GT、国際F2とステップアップをする。
そして1973年の6月に、セシリアでF1のエキシビションが開催されたことで、彼のキャリアは転換点を迎える。
憧れであり、ステップアップを重ねるごとにいつか戦いたいと望んでいた夢のF1レーサーとしてスポット参戦し、初参戦で5位入賞を果たす。
この頃、セシリアでF1を開催するのはほぼ不可能と言われていた時代だけあって、人々からは賛否両論だった。
しかし、彼の走りを見た人々は、セシリアン・フォーミュラブームを発展させようとの声が高まる。
結局この2年後の1975年の第5戦に、第1回セシリアF1グランプリの『F1'75 イン・セシリア』が、ジョーダン・リフスマン氏の主催で行われるとは、一体誰が予想しただろうか。

トップレーサーへ

彼のデビューした1975年、F1界は新王者誕生か、王位を死守するかの瀬戸際で戦うという年であった。
破竹の勢いで王者を追い詰める新人ジャスティン・マーレイ、そして当時最強の王者エルダ・シャンブリア・グロックの攻防戦が続く。
そんな中で、彼はF1に殴り込みをかけた。
開幕戦では7位完走という成績を収めているが、ポイント争いとは無縁だった。
まして、第4戦の4位入賞が精一杯だった。
しかし、そんな彼に、突如として勝機が訪れた。

1975年のF1GP第5戦、第1回セシリアGPで使用されたエストリアサーキット。
曇り空の下に、彼らは降り立った。
今にもスコールでも来そうなくらい、どんよりと曇っていた。
そんな中、午後1時5分に、レースがスタート。
セッティングが当たったハンザは、12位スタートにも関わらず、8周目に一気に3位浮上。
新人マーレイと、王者グロックと渡り合う。
36周目、ついに雨が降り出した。
霧のような細かい雨粒は、路面をしっとりと湿らす。
ここで何と、雨は降らないだろうと予測し、ドライタイヤを履いていた王者グロックが最終コーナーでスピンを喫し、新人マーレイはトップを快走、ラゥドも続いて2位走行。
その後も凄まじい攻防が続き、ファイナルラップでラゥドが超高速コーナー、エ・スュルフェでマーレイを危なげにオーバーテイクし、チェッカーを受けた。
初めての地元戦でもたらした、初めての勝利に、サーキットが歓喜に包まれる。
自国の旗を持って走るはずのラゥドも、感極まって泣いてしまい、走ることが出来なかったくらいなのだから…。

世界の頂点へ上り詰める


1975年は3回も勝利すると言う快挙を見せたが、3回しか勝てなかったと言う悔しさもあり、国を挙げての大総力戦となった1976年だったが、この年は結局1勝も上げられず、シーズン中最高位の2位で終えるレースが多々あった。
1977年には、前年1976年のチームメイトのジャスティン・マーレイが第6戦のエストラルGPで他車に轢かれ即死するというトラウマが圧し掛かり、シーズン最高位は4位と転落してしまう。
しかし、翌年1978年には、ようやく戦えるパッケージを手に入れ、デビュー初年度の勢いを取り戻しつつあり、勝利回数は6回になる。
それでもまだまだ上位陣で戦えるわけもなく、ラゥドと開発者との間で暗中模索が繰り広げられる。
そして遂に1979年、上位陣でも十分戦える、歴代最強のパッケージ『AX79F』を手に入れる。
この年からラゥドは、元チームメイトのマーレイのカーナンバー「12」を踏襲して戦うことになる。
当時最強のV型6気等スーパーチャージャーエンジンと、世界初のセミオートマチックトランスミッション(シフトレバー形式)を搭載したパッケージだったが、信頼性不足が悩みの種であった。
だが、いざレースが始まると、殆ど故障せずに、シーズンを戦い抜いた。
運命の1979年度最終戦のエストバニアGP、ザンドブートサーキットまでタイトル争いは持ち越され、世界最強王者のグロックと肩を並べる位置に付いた。
グロックと1ポイント差で迎えた最終戦、王座決定戦の舞台と、この年のエストバニアは盛大に盛り上がり、緊張した面持ちで迎えられた。
レースが始まり、ラゥドが少し出遅れるも、徐々に差を詰める。
最後の最後まで猛烈なデッドヒートが繰り広げられるが、最終ラップの最終コーナーで、ラゥドはグロックのインを付き抜き去る。
グロックも負けじと食らいつくが、わずかに届かず、0.1秒差という凄まじい攻防戦の末に、ラゥドがグロックを1ポイント追い抜き、初めてドライバーズタイトルを獲得した。
サーキット内は感動の渦に巻き込まれ、観客の一部は涙を流しながら、ラゥドの勝利を心から祝福した。
最後の最後まで争われた世界王者決定戦は、壮絶なレースの果てに勝利を収めたラゥドが制し、幕を下ろした。
レース後の表彰式で、ラゥドとグロックが笑顔で握手をするシーンは、当時のF1ファンの間では、一生忘れられない出来事になった。
そして、目標であるグロックに僅差で勝利したラゥドは、より高いところを目指して戦い続けた。

絶頂期に突然の事故死…最強王者の末路


(以下編集中)
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