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電波男

【一般書籍】

ドニー・ダーコ

【映画】
監督:リチャード・ケリー
製作総指揮・出演:ドリュー・バリモア
出演:ジェイク・ギレンホール、ジェナ・マローン、
メアリ・マクドネル、パトリック・スウェイジ、
ノア・ワイリー、キャサリン・ロス他
(2001年/アメリカ)


大切な子の傍らで見下ろす街、灰色の空に渦巻く雲、そこに開いた世界の外へと通じる穴。反転。クライマックス直後の目の回りそうな巻き戻しの画面。これは当たり前の結末だ。どう足掻こうが、世界はぜったいに終わらない。主人公の彼の名前がヒーローのそれによく似ていたこと。それは望まざるして世界を救ってしまった彼への皮肉だったんじゃないかと今思う。
D[di;]氏によるノベライズを読んだのがこの作品に触れた最初で、実はそのときは最初のコミックを一ページと、最後の一文しか読まなかった。感想は「つまんねー。」何故って、オチがあまりにもありふれたものであるように感じたからだ。ある意味ではあの一文も正しかったのかもしれない。確かに、銀色のウサギの予言は正しかったのだ。

統合失調症(俗に言う『精神分裂症』)の感覚というのが、実はわたしには理解できない。精神的にかなり参ったことはあるけど、幻覚は見たことが無いし。よって「自分を見つめる誰かの目線」もいまひとつピンと来ない。私が主人公にそのまま感情移入できなかったのはその辺りに原因があるだろう。だから「なにやってんのこいつ」、と終始思っていた。大人たちの行動や不条理な現実に逐一感情を高ぶらせる能力が私には無い。というか、すこし後ろの方まで見て「ああ、こういうふうにしかなれないんだ」と納得せざるえない。しかし、そんな私が、終盤の『高ぶり』には激しく同調した。共感したのはただ一点、「どうして自分がこんなに『叫んで』いるのに世界はなにも動かないの!」とでも形容するような心象だ。
無神経で愚かな俗物がいる現実に苛立っても。大好きだった先生が誰かの都合で職を失っても。自分でできたと思ったことが実はなにもできていなくても。大切な人を不条理な成り行きで失っても。地球の裏側で知らない人が山のように死んでいても。テレビの中で阿呆な人間が喚き散らしていても。自分が卑しい子供。何の力も持っていない。

一度、「セカイ系という単語が流行っていたこと」について考えてみた。結論。「セカイ」という単語がサブカルチャー(死語なんだけど難しいことは抜きで)の次元で使用されるときそこには『現実』以上の意味。シンプルな例をひとつ、「××からの逃走」と言うようなとき、「××」に入る言葉が『現実』でも厭味なくらいしっくりと、意味は通じるのだ。しかし、世界に「現実」以上の広がりを見出すなんてことが出来るだろうか?いつだってうんざりな、本者も偽者も偽善も偽悪もうつくしいものも醜いものもなにもかも全て、それは私の耳に届くものであり、目に映るものであり、肌に感じるもの。唯心論者の主張が間違っていると、いったい誰に証明ができる?この映画は端々に詰め込まれたオブジェクトを通して、そんなことを語っていた。それでも、現実はもっと大きな現実のどこかに繋がっている。なのに、私たちはそれに対してどうしようもなく無力。

主人公が「死んだ」ラスト、あれはあの、ある種の『絶望』そのものの体現のようだ。でも、「それ」に呑み込まれるときというのは誰にでも訪れ得る。私もかつて呑み込まれかけた記憶があるし、呑み込まれて帰ってこれなかった人も現実にいることをわたしたちは知っている。自分がいつそうなってもおかしくないことを。