沖縄戦
沖縄南部を占領した米軍
上陸中の米軍
日本軍の特攻攻撃を受け炎上する米軍空母バンカーヒル
↑が沖縄戦の画像です
交戦勢力
大日本帝国
アメリカ合衆国
オーストラリア
カナダ
ニュージーランド
イギリス
指揮官
日 牛島満陸軍中将
米 サイモン・B・バックナー
日 長勇陸軍中将
英 ブルース・フライザー
米 レイモンド・スプルーアンス
米 ジョセフ・スティルウェル
戦力
日本軍・・・116,400人 連合軍・・・548,000人
損害
|日本軍|死者|行方不明者 94,136人 |連合軍|死者|行方不明者 12,520人
|| 民間人死者 94,000人 ||戦傷者 72,012人
戦闘の詳細
沖縄戦(おきなわせん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった(唯一の地上戦と言われる事もあるが、硫黄島の戦いや占守島の戦いがあるため、正確ではない)。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英:Operation Iceberg、氷山作戦)。大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦への流れの中に位置づけられる。
沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内での最大の地上戦である。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。主戦場は沖縄本島およびその周辺の県南部の島々である。
日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。
沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット砲弾20,359発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄では鉄の雨や鉄の暴風(英:Rain and a storm of the iron)などと呼ぶ。
住民犠牲について
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。
沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤王隊など) 2万8228人
C:戦闘参加者(援護法で日本軍に協力して死んだと認定された人数[11]) 5万5246人
D:一般住民(推定)3万8754人
うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年と1946年の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとした為である。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また戦後の出生などによる増加も含まれてしまっている。
なお、沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者までも含めた数値である。
連合軍による収容下での扱い
アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している
沖縄戦(島唄)
VIDEO
+
シュガーローフの戦い
シュガーローフの戦い(シュガーローフのたたかい)とは沖縄戦における激戦のひとつ。なおシュガーローフ(Sugarloaf)とはアメリカ軍による丘の呼称で、日本側は同じ丘を安里52高地と呼称していた。この地点は日本陸軍の首里防衛線の西端に位置しており、守備隊の独立混成第44旅団配下の部隊が、第6海兵師団 (アメリカ軍)と、1945年(昭和20年)5月12日から18日にかけて、1週間にわたって丘の争奪戦を繰り広げた。日本軍側は、周辺の3つの丘からなる巧みな防御陣地を構築し、海兵隊を撃退しつづけ、丘は1週間で11回も持ち主を変えた。
この戦いで海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘疲労患者を出したとされる。日本側の損害については、この戦闘に限った統計がないため明らかではない。
なお、シュガーローフの呼称の由来は、戦いにより一帯が砂糖のように白くなったから、とも言われている
戦争:太平洋戦争(沖縄戦)
年月日:1945年5月12日-18日
場所:沖縄県
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指揮官
大日本帝国
牛島満陸軍中将
鈴木繁二陸軍少将
アメリカ合衆国
サイモン・バックナー陸軍中将
ラミュエル・シェパード海兵隊少将
戦力
大日本帝国・・・・・・・・・第32軍/独立混成第44旅団:約6000名(沖縄戦開始時)
アメリカ合衆国・・・・・・・第10軍/第6海兵師団:24,356名(沖縄戦開始時)
損害
大日本帝国・・・・・・・・・死者:不明(数千人と推定)
アメリカ合衆国・・・・・・・死者2662名・戦闘疲労患者1289名
背景
米軍のバックナー司令官は、進撃のスピードが遅いとの各所からの批判に晒されていた。このため、沖縄北部戦線を予定よりも早く完了した第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団を南部戦線に投入し西側から防衛線を突破する計画を立てた。一方で日本軍は、既に消耗していた第62師団の後方で首里防衛線の最西翼の安里地区に、知念半島で第2の米軍の上陸作戦に備えていた独立混成第44旅団を北上させて配置した。日本軍は、この場所を突破されると那覇市街を米軍に掌握され、さらに首里司令部の裏側に回りこまれて、包囲される恐れが出てきたため、予備兵力と残った砲兵力を、惜しげもなくつぎ込む体制を整えていた。
地形
戦場の地形は、防御側に極めて有利であった。シュガーローフヒルの南側には馬蹄形をしたホースショア・ヒルがあり、日本軍の迫撃砲陣地があった。窪地にあるため、米軍は直接攻撃を加えられなかった。シュガーローフの東側にはハーフムーンと呼ばれる丘があり、これらの3つの丘の防御陣地は互いに補間する形で、高度に要塞化され、地下に掘られたトンネルで繋がっていた。それに加えて、一帯は首里高地の日本軍砲兵隊から見通しが効いたため、常に激しい砲撃に晒された。攻撃側のアメリカ軍は、遮蔽物のない中を突撃し、これらの丘に攻撃を加えるしか方法はなく被害が増大していった。
+
シュガーローフの戦い・・・5月12日
安謝川の渡河後、第22海兵連隊G中隊が、安里川を目指して進撃中に、小さな丘に直面し、これを占領するために、戦車1個小隊の支援の下に、攻撃を開始した。この時点で、この丘は戦略上重要視されておらず、単に進撃途中の1拠点であった。丘に向かったG中隊は、日本軍の十字砲火を浴び、戦車隊も、激しい対戦車攻撃で、前進を拒まれ、煙幕の中を撤退せざるを得ない状況に陥った。日没までに半数以上の兵士が死傷したため、G中隊は事実上壊滅した。
+
シュガーローフの戦い・・・5月13日
この日、E中隊とF中隊の2個中隊をもって、丘を攻撃したものの、前日のG中隊と全く同じ状況に陥った。丘にたどり着いた両中隊は、激しい日本軍の十字砲火を浴びて、後退を余儀なくされた
+
シュガーローフの戦い・・・5月14日
この日、シュガーローフの攻撃を担当していた、第22海兵連隊第2大隊は、前日までに消耗していた配下のE中隊、F中隊、G中隊の全兵力を使って、シュガーローフの攻撃を敢行した。日没までにF中隊は、丘に張り付いたが、激しい日本軍の攻撃の中、大隊本部と連絡が取れなくなってしまった。大隊幕僚のコートニー少佐は、日没後、大隊の残存兵力を結集し、丘の救援に向かったが、激しい日本軍の迫撃砲攻撃で兵力は、見る間に減少していった。大隊司令部は、深夜になって、炊事兵や、通信兵、憲兵を掻き集め、丘に送り込んだものの、夜半には丘を維持できなくなり、さらに午前3時頃には、新たな増援としてK中隊を送り込んだ。しかし日本軍は攻撃の手を緩めず、頂上部では稜線を挟んで、激しい手榴弾の投擲合戦が続いた。(後に、この峰はハンドグレネードリッジと呼ばれた。)
コートニー少佐は、この晩の戦闘で戦死し、後に、名誉勲章が授与された。
+
シュガーローフの戦い・・・5月15日
夜明けと共に、第29海兵連隊のD中隊が、シュガーローフの救援に向かい、丘を維持していた部隊と交代した。しかし視界が効くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフに十字砲火を浴びせて、海兵隊をシュガーローフの周辺部からも一掃してしまった。 第29海兵連隊D中隊には、カレッジフットボールのスター選手、通称アイリッシュこと、ジョージ・マーフィー中尉がいたが、この日の戦闘で戦死した。 さらに、この朝、大隊司令部を日本軍の迫撃砲弾が直撃し、大隊長や、通信兵、戦車中隊長が戦死し、配下の中隊長も負傷してしまった。
+
シュガーローフの戦い・・・5月16日
ようやく米軍は、3つの丘からなる、日本軍の防御網の全体像を把握し始めており、3つの丘を同時に攻撃しなければ、残った丘から十字砲火を浴びて、撃退されてしまうことに気が付き始めていた。 このため、この日は、1個連隊もの兵力を動員しての総攻撃を実施した。しかし、首里高地からの砲撃も含めた、激しい日本軍の攻撃の前に、支援の戦車隊は次々と撃破され、またしても歩兵部隊は十字砲火を浴びて、撃退されてしまった。さらに撤退途中の部隊にも容赦なく銃弾が浴びせられ、死傷者は増大していった。 結局、この日も丘を掌握できずに、第6海兵師団にとって、最悪の1日となった。
+
シュガーローフの戦い・・・5月17日
この日は、第22海兵連隊及び、第29海兵連隊の部隊により、再び連隊規模の攻撃を実施した。しかし、海兵隊はまたしても日本軍の激しい攻撃により、シュガーローフを制圧できなかったが、日没までにハーフムーンの一部を掌握し、翌日の攻撃路を確保できた。日本軍も、絶え間ない艦砲射撃や空爆、あるいは夜間の斬り込み攻撃により、かなり消耗しており、陸軍の正規兵の姿は少なくなり、海軍の支援部隊や、沖縄の義勇兵が辛うじて戦線を維持している状況になってきた
+
シュガーローフの戦い・・・5月18日
第29海兵連隊は、前日の攻撃でハーフムーン北側の進入路を確保しており、有利な位置から攻撃を開始した。既に日本軍の対戦車網も消耗していたため、この日、はじめてシュガーローフの南側まで戦車隊を前進させることに成功し、一気にシュガーローフを占拠し、反対側の斜面を戦車隊が掃討し、遂に、シュガーローフが米軍側に手におちた。その後、第6海兵師団(アメリカ軍)で最後の予備部隊の第4海兵連隊が、投入され、一帯を掌握した。