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*萩の偉人 :書き込みルール| でるだけ資料、更新日時を明記して下さい。記名は不要ですが、何かマークを付けておいて貰えると助かります。 wikiがよく分からない方は下の例に沿って入力し、[プレビュー]で確認してみて下さい。 -《例》 : 名前 | 内容(資料 日付) その他wiki構文については、右上の ヘルプ@wiki に記載があります。 また、このページを編集する 画面の下の方にも説明があります。 それでも面倒くさい人はコメント使って入力しちゃえ! ---- :毛利元就| ■1497年生、1571年没 ■明応6年、安芸国吉田村に生まれる。父は吉田庄地頭毛利弘元。 ■永正8年、元服して少輔次郎元就と称す。 ■永正13年、兄興元が死去し、嗣子(幸松丸)もまた夭折したので宗家をつぎ、郡山城主となる。 ■天文9年、尼子晴久の大軍を大内義隆の援兵を得て破り、義隆没後の弘治元年、陶晴賢を厳島に破って防長二国を手中にした。 ■永禄9年に富田城に尼子義久を討ち、安芸ほか十カ国を領国に収めた。長子隆元の没後は、その子輝元を中心に、次男の吉川元春、三男の小早川隆景などの協和を説き、家の安泰をはかった。 ■元亀2年、郡山城に卒す。75歳。孫の輝元が家督をついだ。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) ■詳細年表は[[こちら>http://www6.atwiki.jp/water/pages/42.html]] :毛利輝元| ■1553年生、1625年没 ■天文12年、隆元の子として生まれる。幼名幸鶴丸・少輔太郎。 ■永禄6年8月、父が備後和智で急死したため、11歳で家をつぎ、祖父元就、叔父吉川元春・小早川隆景の後見をうけた。 ■永禄8年春、尼子氏との持久戦がつづく月山富田城に参陣、翌年11月には尼子義久を降した。 ■天正5年以降、侵入をくわだてる織田信長の武将秀吉と各地で干戈を交えたが、天正10年6月、備中高松城下で停戦。12月ころから秀吉に服属し、19年に安芸・長門・周防・石見その他120万石を安堵され、父祖伝来の吉田郡郡山城から広島へ居城を移した。 ■慶長2年前後に五大老の一関ヶ原の役では安国寺恵瓊に説かれて西軍の盟主となったが、敗戦により、防長2国29万余石に減封された。 ■天正16年3月23日の町衆達の茶会記に名前が初出する。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :吉川元春| ■1530年生、1586年没 ■享禄3年、毛利元就の次男として安芸郡郡山城に生まれる。幼名少輔次郎、のち治部少輔となる。 ■天文16年、従兄の吉川興経の養嗣子。弟の小早川隆景とともに、父元就・甥輝元を助けて各地に転戦。 ■天正6年には秀吉軍を播磨熊見川に破り、上月城に籠る尼子勝久・山中鹿之介主従を討った。 ■天正9年、鳥取城の攻防では、寡兵をもって死戦を挑み、秀吉軍を後退させた。 ■天正10年、秀吉の天下掌握成ると、その下につくのを拒み、家督を元長に譲って安芸に隠居した。 ■天正14年、九州の陣に従軍したが、豊前小倉で陣没した。57歳。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :吉川広家| ■1562年生、1625年没 ■元春の三男。初名を経言。 ■天正15年、兄元長が日向出陣中に没したため家をつぎ、毛利両川の一翼をになって宗家を補佐する。翌年、従四位下・侍従。 ■天正19年に秀吉の命により毛利領内の出雲能義その他で十四万二千余国を与えられ、富田城主。 ■文禄元年、朝鮮へ渡り、門慶の戦で敵勢をけちらしたと伝わる。 ■慶長2年にも再渡海し、蔚山城救援に赴いている。 ■慶長5年、関ヶ原の役には毛利輝元の代理となって伊勢攻略、伏見城攻撃に出馬。9月15日の決戦では南宮山に陣したが、早くから家康へ内応して動かず、戦後の毛利家存続に大役を果たした。自身は毛利領内で三万石、家臣となるよう命ぜられた。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :小早川隆景| ■1533年生、1597年没 ■天文2年、毛利元就の三男として生まれる。幼名徳寿丸、通称又四郎。 ■天文12年、大内義隆の将小早川正平の後をつぐ。同13年より義隆の人質となったが、同20年大内氏が滅ぶと、甥の毛利輝元、兄の吉川元春を援けて毛利氏の版図を広げ、天正10年、秀吉が備中高松城を囲むと、その講和に努めた。 ■天正13年、四国征伐に従軍、秀吉より伊予35万石に封ぜられた。 ■文禄の役では立花宗茂らと碧蹄館に李如松らを撃破、勇名をうたわれた。 ■文禄4年、秀吉の五大老の一人となる。だが、病のために同年、家督を養子の秀秋に譲り、備後三原城に隠棲し、慶長2年6月12日、卒した。65歳。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) - [[その他人物について1>http://www6.atwiki.jp/water/pages/38.html]]:戦国時代編 - [[その他人物について2>http://www6.atwiki.jp/water/pages/40.html]]:幕末動乱期以降編 - [[こぼれ話>http://www6.atwiki.jp/water/pages/39.html]]:毛利家のあれこれ - [[こぼれ話2>http://www6.atwiki.jp/water/pages/43.html]]:戦国毛利家の人々 - [[語録>http://www6.atwiki.jp/water/pages/45.html]]:史実かどうかは不明 ---- - [[毛利姓の由来>http://www6.atwiki.jp/water/pages/47.html - [[略系図>http://www6.atwiki.jp/water/pages/37.html]]:毛利元就を中心とした略系図 ◇記入および追加をお願いします! [[彼の故郷へ戻る>彼の故郷]] &font(10px){アクセス数(&counter())【yesterday(&counter(yesterdeay))/today(&counter(today))】} ---- コメント最新10件 #comment_num2(size=60,nsize=0,vsize=1,num=10,below)
*萩の偉人 :書き込みルール| でるだけ資料、更新日時を明記して下さい。記名は不要ですが、何かマークを付けておいて貰えると助かります。 wikiがよく分からない方は下の例に沿って入力し、[プレビュー]で確認してみて下さい。 -《例》 : 名前 | 内容(資料 日付) その他wiki構文については、右上の ヘルプ@wiki に記載があります。 また、このページを編集する 画面の下の方にも説明があります。 それでも面倒くさい人はコメント使って入力しちゃえ! ---- :毛利元就| ■1497年生、1571年没 ■明応6年、安芸国吉田村に生まれる。父は吉田庄地頭毛利弘元。 ■永正8年、元服して少輔次郎元就と称す。 ■永正13年、兄興元が死去し、嗣子(幸松丸)もまた夭折したので宗家をつぎ、郡山城主となる。 ■天文9年、尼子晴久の大軍を大内義隆の援兵を得て破り、義隆没後の弘治元年、陶晴賢を厳島に破って防長二国を手中にした。 ■永禄9年に富田城に尼子義久を討ち、安芸ほか十カ国を領国に収めた。長子隆元の没後は、その子輝元を中心に、次男の吉川元春、三男の小早川隆景などの協和を説き、家の安泰をはかった。 ■元亀2年、郡山城に卒す。75歳。孫の輝元が家督をついだ。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) ■詳細年表は[[こちら>http://www6.atwiki.jp/water/pages/42.html]] :毛利輝元| ■1553年生、1625年没 ■天文12年、隆元の子として生まれる。幼名幸鶴丸・少輔太郎。 ■永禄6年8月、父が備後和智で急死したため、11歳で家をつぎ、祖父元就、叔父吉川元春・小早川隆景の後見をうけた。 ■永禄8年春、尼子氏との持久戦がつづく月山富田城に参陣、翌年11月には尼子義久を降した。 ■天正5年以降、侵入をくわだてる織田信長の武将秀吉と各地で干戈を交えたが、天正10年6月、備中高松城下で停戦。12月ころから秀吉に服属し、19年に安芸・長門・周防・石見その他120万石を安堵され、父祖伝来の吉田郡郡山城から広島へ居城を移した。 ■慶長2年前後に五大老の一関ヶ原の役では安国寺恵瓊に説かれて西軍の盟主となったが、敗戦により、防長2国29万余石に減封された。 ■天正16年3月23日の町衆達の茶会記に名前が初出する。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :吉川元春| ■1530年生、1586年没 ■享禄3年、毛利元就の次男として安芸郡郡山城に生まれる。幼名少輔次郎、のち治部少輔となる。 ■天文16年、従兄の吉川興経の養嗣子。弟の小早川隆景とともに、父元就・甥輝元を助けて各地に転戦。 ■天正6年には秀吉軍を播磨熊見川に破り、上月城に籠る尼子勝久・山中鹿之介主従を討った。 ■天正9年、鳥取城の攻防では、寡兵をもって死戦を挑み、秀吉軍を後退させた。 ■天正10年、秀吉の天下掌握成ると、その下につくのを拒み、家督を元長に譲って安芸に隠居した。 ■天正14年、九州の陣に従軍したが、豊前小倉で陣没した。57歳。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :吉川広家| ■1562年生、1625年没 ■元春の三男。初名を経言。 ■天正15年、兄元長が日向出陣中に没したため家をつぎ、毛利両川の一翼をになって宗家を補佐する。翌年、従四位下・侍従。 ■天正19年に秀吉の命により毛利領内の出雲能義その他で十四万二千余国を与えられ、富田城主。 ■文禄元年、朝鮮へ渡り、門慶の戦で敵勢をけちらしたと伝わる。 ■慶長2年にも再渡海し、蔚山城救援に赴いている。 ■慶長5年、関ヶ原の役には毛利輝元の代理となって伊勢攻略、伏見城攻撃に出馬。9月15日の決戦では南宮山に陣したが、早くから家康へ内応して動かず、戦後の毛利家存続に大役を果たした。自身は毛利領内で三万石、家臣となるよう命ぜられた。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) :小早川隆景| ■1533年生、1597年没 ■天文2年、毛利元就の三男として生まれる。幼名徳寿丸、通称又四郎。 ■天文12年、大内義隆の将小早川正平の後をつぐ。同13年より義隆の人質となったが、同20年大内氏が滅ぶと、甥の毛利輝元、兄の吉川元春を援けて毛利氏の版図を広げ、天正10年、秀吉が備中高松城を囲むと、その講和に努めた。 ■天正13年、四国征伐に従軍、秀吉より伊予35万石に封ぜられた。 ■文禄の役では立花宗茂らと碧蹄館に李如松らを撃破、勇名をうたわれた。 ■文禄4年、秀吉の五大老の一人となる。だが、病のために同年、家督を養子の秀秋に譲り、備後三原城に隠棲し、慶長2年6月12日、卒した。65歳。 (以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997) - [[その他人物について1>http://www6.atwiki.jp/water/pages/38.html]]:戦国時代編 - [[その他人物について2>http://www6.atwiki.jp/water/pages/40.html]]:幕末動乱期以降編 - [[こぼれ話>http://www6.atwiki.jp/water/pages/39.html]]:毛利家のあれこれ - [[こぼれ話2>http://www6.atwiki.jp/water/pages/43.html]]:戦国毛利家の人々 - [[語録>http://www6.atwiki.jp/water/pages/45.html]]:史実かどうかは不明 ---- - [[毛利姓の由来>http://www6.atwiki.jp/water/pages/47.html]] - [[略系図>http://www6.atwiki.jp/water/pages/37.html]]:毛利元就を中心とした略系図 ◇記入および追加をお願いします! [[彼の故郷へ戻る>彼の故郷]] &font(10px){アクセス数(&counter())【yesterday(&counter(yesterdeay))/today(&counter(today))】} ---- コメント最新10件 #comment_num2(size=60,nsize=0,vsize=1,num=10,below)

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