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<p><strong>概略3:豊臣政権以後</strong></p> <p>  小早川隆景は、秀吉から輝元の後嗣に木下秀俊(のち小早川秀秋。秀吉室おねの兄木下家定の子)を送り込まれようとされたとき、すでに養子は決定ずみですといってことわり、毛利の血統を守ったし、また自らの後継に秀俊(秀秋)を迎えた。しかし秀秋は関ヶ原の戦いののち岡山城で没し、小早川氏は滅亡します。その再興は明治になってからです。<br>  吉川氏は元春の三男広家が関ヶ原の難関を突破し、宗家の「毛利と申す名字」を存続させたのです。毛利輝元はその封地萩藩の支藩として長府・徳山・清末の三藩と岩国領を置いたが、吉川広家の岩国藩は成立しなかった。岩国領が藩になったのはおよそ280年後の明治元年のことです。広家は寛永2年(1625)六十五歳で亡くなりますが、岩国が藩にならなかったとき、何一つ不平を言わなかったと伝えられています。(</p>
<p><strong>概略3:豊臣政権以後</strong></p> <p>  小早川隆景は、秀吉から輝元の後嗣に木下秀俊(のち小早川秀秋。秀吉室おねの兄木下家定の子)を送り込まれようとされたとき、すでに養子は決定ずみですといってことわり、毛利の血統を守ったし、また自らの後継に秀俊(秀秋)を迎えた。しかし秀秋は関ヶ原の戦いののち岡山城で没し、小早川氏は滅亡します。その再興は明治になってからです。<br>  吉川氏は元春の三男広家が関ヶ原の難関を突破し、宗家の「毛利と申す名字」を存続させたのです。毛利輝元はその封地萩藩の支藩として長府・徳山・清末の三藩と岩国領を置いたが、吉川広家の岩国藩は成立しなかった。岩国領が藩になったのはおよそ280年後の明治元年のことです。広家は寛永2年(1625)六十五歳で亡くなりますが、岩国が藩にならなかったとき、何一つ不平を言わなかったと伝えられています。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997)</p>

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