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<p><strong>こぼれ話:</strong>人物評その他</p> <ul> <li>毛利家の健康管理と死因について<br> <br>  平常から健康管理に注意したのは毛利元就である。長子隆元や孫の輝元に対して、節酒の必要を常に説き、自分が長寿を保てたのは下戸で酒を飲まないためであるとまでいっている。元就は永禄9年2月(70歳)、出雲出陣中に大患に罹った。京都から曲直瀬正慶が呼び寄せられ、診療に当たったのがこの時で、『雲陣夜話』が著された。が、病名は判然としない。この病気は3月14日に全快し、翌年正月には末子秀包が誕生している。永禄12年4月に下関で軍務を鞅掌しているが、軽い異常状態にあったようで、「元就事所労之儀とは申しながら・・・」という文面が書状にみられる。元亀元年2月には吉田郡郡山城で臥床するに至り、11月に一時的の軽快状態になったが、翌年6月には衰弱の一途をたどり、6月14日に死去した。多分に老衰条件が加わっているが、直接の病名そのものは判然としえない。<br>  彼の次子吉川元春は強健な体質であるが、永禄5年5月28日には医師の診療を受け、治療に約三週間を要している。天正6年には瘧(おこり)を患い、約三、四週間の服薬灸治を行っている。天正14年、豊臣秀吉の九州出兵に参加して、10月に小倉城を攻略したが、癰瘡(ようそう)を患った。10月15日、病を押して黒田孝高を接待したが、患部が悪化し、57歳で死去した。<br>  元就の三男小早川隆景は、慶長3年(1597)6月12日の死去であるが、午後二時頃までは書状に自ら署名しているから元気であったが、その後午睡し、めざめて桂三郎兵衛・兼久次郎兵衛と談話中に突然劇しい吐瀉を催し人事不省になり、医師の来診も間に合わず絶命しているので、卒中か蜘蛛膜下出血であったのだろう。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997 「武将と病気」)</li> </ul> <hr> <ul> <li>御真旗<br>  真正、式正のものということであろう。戦の神八幡大菩薩や、その家の守護神を勧請した旗で、毛利元就のように、九万八千軍神二千八百四天童子・八幡神・摩利支天、下に一文字三星紋を記したものもある。多くは白麻布・生絹製、二布、下部五分のニほどは縫い合わさず、菊綴で止めた幡型式で、神の降臨、怨敵降伏の意をこめて、文字は上方よりしだいに小さく書かれており、細川・毛利・島津・佐竹・大内家などの旧族に用いられ、新調の節は吉日を撰び、祈祷のうちに長時日をかけてつくる。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997 「戦国武将の旗指物と家紋」)</li> </ul> <hr> <br> <p><br></p>
<p><strong>こぼれ話:</strong>毛利家のあれこれ</p> <ul> <li>毛利家の健康管理と死因について<br> <br>  平常から健康管理に注意したのは毛利元就である。長子隆元や孫の輝元に対して、節酒の必要を常に説き、自分が長寿を保てたのは下戸で酒を飲まないためであるとまでいっている。元就は永禄9年2月(70歳)、出雲出陣中に大患に罹った。京都から曲直瀬正慶が呼び寄せられ、診療に当たったのがこの時で、『雲陣夜話』が著された。が、病名は判然としない。この病気は3月14日に全快し、翌年正月には末子秀包が誕生している。永禄12年4月に下関で軍務を鞅掌しているが、軽い異常状態にあったようで、「元就事所労之儀とは申しながら・・・」という文面が書状にみられる。元亀元年2月には吉田郡郡山城で臥床するに至り、11月に一時的の軽快状態になったが、翌年6月には衰弱の一途をたどり、6月14日に死去した。多分に老衰条件が加わっているが、直接の病名そのものは判然としえない。<br>  彼の次子吉川元春は強健な体質であるが、永禄5年5月28日には医師の診療を受け、治療に約三週間を要している。天正6年には瘧(おこり)を患い、約三、四週間の服薬灸治を行っている。天正14年、豊臣秀吉の九州出兵に参加して、10月に小倉城を攻略したが、癰瘡(ようそう)を患った。10月15日、病を押して黒田孝高を接待したが、患部が悪化し、57歳で死去した。<br>  元就の三男小早川隆景は、慶長3年(1597)6月12日の死去であるが、午後二時頃までは書状に自ら署名しているから元気であったが、その後午睡し、めざめて桂三郎兵衛・兼久次郎兵衛と談話中に突然劇しい吐瀉を催し人事不省になり、医師の来診も間に合わず絶命しているので、卒中か蜘蛛膜下出血であったのだろう。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997 「武将と病気」)</li> </ul> <hr> <ul> <li>御真旗<br>  真正、式正のものということであろう。戦の神八幡大菩薩や、その家の守護神を勧請した旗で、毛利元就のように、九万八千軍神二千八百四天童子・八幡神・摩利支天、下に一文字三星紋を記したものもある。多くは白麻布・生絹製、二布、下部五分のニほどは縫い合わさず、菊綴で止めた幡型式で、神の降臨、怨敵降伏の意をこめて、文字は上方よりしだいに小さく書かれており、細川・毛利・島津・佐竹・大内家などの旧族に用いられ、新調の節は吉日を撰び、祈祷のうちに長時日をかけてつくる。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997 「戦国武将の旗指物と家紋」)</li> </ul> <hr> <br> <p><br></p>

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