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**こぼれ話2(戦国毛利家の人々) :■生涯現役|  「海の桶狭間」といわれる厳島の合戦当時、元就は五十九歳。二十歳の初陣から七十五歳の病没までの五十五年間、現役で陣屋にあり、226戦を戦い、生涯不敗であったともいわれる。 :■苦労人|  生まれは芸州吉田の小領主、大内氏と尼子氏に挟まれた場所で、兄の死後、その嗣子のわずか二歳の当主を守り、大内家の反乱軍に囲まれた有田城で、元就は一千足らずの部下で四千の敵を打ち破り初陣を飾った。その後も大内氏と尼子氏の間を右往左往しながら幼い毛利宗家を九歳で夭逝するまで守り通した。  後に毛利家が編纂した元就の略譜は「時に主、幼にして兵寡し、その命を拒めば則ち我れ先づその難を被る。これを以てかりに(尼子)経久に属す」としている。 :■真面目な仏教徒|  遺戒状を見ると、元就は真面目な仏教徒で常に因果応報を恐れていたことがわかる。従って彼は心底では人を殺すことを嫌っており、それなのに多くのものを殺さざるを得なかったことを恐れ、この応報が「元就の一世の報いに候えば」それは致し方がないとし、三子にもこの点に気をつけるように説いている。  また元就は多くの者の滅亡を見、「元就一人すべり抜け候て」生き抜いてこられたことを、「身(我)ながら推量及ばず候」と記している。元就は、「これはオレの実力だ」と誇るところがなかった。さらに毎朝必ず念仏をとなえるように言い、厳島のことは今もって不思議で「奇瑞にて候かな」と述べ、「厳島の御信仰肝心」と述べている。と同時に、隆元あてには特に「当家をよかれ」と思う者は他国はもちろん当国にも「一人もあるまじく候」と述べ、家臣の忠誠も「人により時々により候て」決して確かなものではないと述べている。 :■安芸毛利の誕生|  戦国毛利の祖先は大江広元といわれる。源頼朝を補佐して鎌倉幕府確立に貢献した人物で、その祖には、大江音人、大江匡房などがいる。  毛利姓の由来は広元が所領のひとつとして相模国毛利荘を与えられ、それを譲られた四男季光がそのまま苗字としたことに因る。季光は北条氏の他氏排斥に巻き込まれ自害に追い込まれるが、その子経光は北条氏に恭順の態度をとり、父との連座を免れ、越後国佐橋荘、安芸国吉田荘の地頭職となった。  経光の四男時親が安芸国吉田荘を分与され、延元元年(建武三年・1336年)七月、吉田荘に入った。湊川の戦いで足利尊氏が楠正成を敗死に追いやった南北朝動乱期のことだった。  時親は当時かなりの老齢にあり、毛利氏の総帥は曾孫元春が占めるようになった。のちの毛利氏の本拠となる郡山城を築いたのもこの元春であり、安芸吉田毛利氏の実質的な始祖とされている。  この後、南北朝動乱期はもっぱら足利氏に味方して活躍、所領を拡大してゆく。文明七年(1475年)豊元が子の弘元に与えた譲り状によると、吉田荘をはじめとして15あまりの所領が列記されている。この時期に一介の土豪の段階を抜け出し、安芸国の有力国人領主の仲間入りを果たし、防長の守護大名大内氏の傘下に入りながら、しだいに安芸国人衆のリーダー的地位を築いていった。 :■幼年時代|  元就が 父にも母にも死別し、兄が毛利主力軍を率いて上洛したときのことを述懐した記述。「われらは五歳にて母に離れ候。十歳にて父に離れ候。十一歳のとき興元(兄)京都へ上られ候。誠に了簡なきみなし子に罷り成り・・」  それでも父が譲り状により遺してくれた猿掛城主の座についたが、前述のように後ろ盾のない状態にあった元就は井上中務元盛という老臣に無血のクーデターを起こされ、城を追い出されてしまう。  側室の一人である大方殿に迎えられ、不遇を耐えて二年余り、元盛が病死すると、元就は猿掛城主に返り咲いた。 :■雅な家風|  公家大江を祖とする毛利家は武士化して以後も代々は伝統的に学問や文芸の習得を大切にしてきた。元就もその家風に従い、若年のころから風雅の道の研鑽につとめたが、とりわけ連歌の才能は、後年第一人者の里村紹巴から褒められたほど優れたものであったそうだ。  毛利の家 鷲の羽を継ぐ 脇柱  これは家督相続のあとに読んだ発句。「鷲の羽」は毛利氏の家紋であり、「脇柱」とは二男である自分のことを指す。 :■「百万一心」のエピソード|  毛利家当主となった元就は、吉田郡山城を大改修することにした。しかし、本丸の石垣は何度築いても崩れてしまう。そこで、工事責任者を命じられていた桂元澄は、元就に人柱を上申した。当時はよく見かけられた例であった。  その上申に対し、元就は良い顔をせず、桂元澄に「百万一心」と彫り付けた自然石を与えて人柱の代わりとするように命じたといわれる。伝説めいた話だが、この石碑は幕末近くまで城跡に現存していたとのことである。  しかし、元就は近代的なヒューマニストであったわけではない。自身の覇権維持にとって無害な者、少しでも役に立つものに対しては多少の失策をとがめず、寛容をもってのぞみ、逆の立場にある者、将来の禍根になりそうな者に対しては徹底的な殺戮も辞さなかった。生かすべき人間と殺すべき人間を峻別するという点に妥協せず、その相克のもとに死の効用を冷徹に計算して覇権維持に心を砕いていた武将なのである。 :■毛利両川体制の確立|  大内氏の援軍を得て尼子晴久を撃退し、勝利を収めた元就は、安芸国内、大内氏外様家臣団での地位を向上させた。このころから毛利氏の一枚岩体制を整え始める。  天文15年(1546年)に家督を隆元に譲って表面上の隠居をし、より大局的に毛利の興隆を総管しようとした(戦において生涯現役だった元就が実質的な隠居をしたのではないことは言うまでもありません)。山陰地方につらなる地に勢力を持っていた吉川氏を継いだのは二男の元春、瀬戸内海沿いの地を占めて水軍を要していた小早川氏を継いだのは三男の隆景、ここで毛利両川体制が確立する。  これは偶然の出来事ではなく、両家の当主が死んだり隠居したりした際に抜かりなく自分の子供を送り込んだ元就の布石によって着実に成ったものだった。 :■家中統制|  毛利家中には井上党と呼ばれる強い派閥があり権力を握っていた。元就は三男隆景に宛てた手紙で次のように嘆いている。  「われわれなどは井上の者共に興元(元就の兄)死去以来四十年、悉皆彼の者共を主人に仕り候てこらへ候(井上党の元兼は元就が毛利本家の家督を継ぐ際に功労のあった元有の後裔)。その口惜しさなどは、いかばかりかおぼしめし候や。既に四十年の事に候間、長々敷かんにん、申すもおろかに候」  「だいいち、その家の主人、内の者を失い候ことは、手足を切る似てこそ候えば、わるき事の最上にて候。よからぬ儀、これを過ぎざる事に候えども、この家の事は、かように仕り候わでは叶わざる事にて候」  家中統制のため、この井上党三十数名を誅伐、「井上衆罪状書」なる井上党弾劾の書を公開した。後世には結束力の強さを誇る毛利家臣団も、この段階ではまだ固まっておらず、動揺を抑えるためにこのような理由書を公開しなければならなかった。 :■海の桶狭間| 元就は晴賢との前面対決に先立って情報戦を仕掛けている。というのも、総合兵力は六倍余り、陸上は二万五千対四千、水軍では五百艘対六、七十という状況を跳ね返さなければ勝利がなかったからだ。このため、元就は戦の前に、史記にも述べられている「離間の計」を用い、智謀の限りを尽くして、陶方の知恵袋、毛利討伐の指揮官江良房栄の謀反などの噂を仕掛け、敵陣営の内部攪乱を図った。  元就は陶晴賢との対決の舞台に厳島を設定した。「桶狭間の戦い」では、今川義元が桶狭間を通過する際に仕掛けられた偶発的な戦いであったが、元就は、晴賢を厳島に誘い込むためにここでも重臣桂元澄に寝返った振りをさせるなど、情報戦を仕掛けている。この情報戦に引っ掛かった晴賢軍は厳島で夜の闇と風雨に紛れて上陸した毛利軍に、早朝からのまったく予期していなかった総攻撃を食らうことになる。しかも背後と正面の双方から挟み撃ちの奇襲を受け、八時間を耐えたが壊滅した。元就の策略は、謀略の成否が作戦の成否を左右するほど大掛かりで、戦国合戦史上、他に類を見ないものであると思われる(ちなみに、桶狭間で今川義元の首級を上げたのは、毛利新助という方だったようですね)。 :■家庭人・元就|  元就には九男二女の子供があるが、その母となった女性は三人。隆元、元春、隆景の母は、俗名は伝わっていないが法名を妙玖といい、元就がもっとも愛した女性だという(ちなみに元就は戦国武将には珍しく、記録に残るような側室を置いていない)。吉田郡山城内に妙玖庵という菩提寺を設け、息子達がやってくると、いかに彼女が賢夫人であったかを説き、参詣させていたという。(一部、新人物往来社 別冊歴史読本88 「疑問だらけの戦国史」を参照) :■三本の矢のエピソード 壱|  毛利といえば誰もが思い浮かべる「三本の矢」の逸話は実話ではなく、弘治三年(1557年)十一月、元就が隆元、元春、隆景に与えた「三子教訓状」をもとにしているといわれる。この「三子教訓状」は14か条からなり、三子が一致協力して毛利氏を盛り立てるようにつとめるというのが骨子になっているが、第八条には、子どもたちが力をあわせることが、妙玖尼に対する最大の供養だと明記されてもいる。子供たちもまた請書において、妙玖への孝養のためにも元就の教訓を決しておろそかにしない、と誓っている。元就の家庭の団結を説いた姿が浮き彫りにされている。  「三人心持のこと」で始まるその書簡は次のようなものであった。  「念を入れて申しておくが、毛利という名字のことは、涯分(精一杯つとめ)、末代までもすたらぬよう心がけること」  「元春・隆景は、他家の名を嗣いだ。しかし、これはまことに当座のものである。毛利の二字をあだやおろそかにせず、忘却していはならない」  「隆元は、隆景や元春を力と頼み、内外ともに申しつけよ。そうすれば、なんの問題もない。また隆景・元春は、当家(毛利本家)さえ堅固であれば、その勢威をもって家中を思い通りに仕置すればよい。当家が弱くなれば、人の心持も変わるだろうから、両人ともしっかり肝に銘ずること」  要するに、毛利家護持の一点に絞っている。  また、三子教訓に添えた極秘の書状の第一条において、元就は次のように断言している。  「当家(毛利氏)をよかれと存じ候者は他国の事は申すにあたはず、当国にもあるまじく候。当家中にも、人により時々により候て、さのみよくは存時候はぬ者のみあるべく候」  「元就のことは、諸人にうらみ(怨)られて候て罷り居る迄に候」  ただの家庭団欒の図ではないところに、元就の非凡さと用心深さを見るに至る。 :■元就の遺言|  「今、わが家には十カ国の領地がある。たとえ一度の危機を乗り切るのに半分に減らしても五カ国残る。もう一度の危機でさらに半分になっても二カ国は残る。それでも元の吉田の小城一つに比べると大きすぎるほどに大きい。」と言い聞かせ、「天下を狙うよりも、守成を重んじよ」と遺言したという。 :■毛利の高陣|  元就の戦術は非常に用心深く、陣を敷くときは常に高い山の上に位置して、容易に敵から奇襲を受けないようにしていたと伝えられている。 :■三本の矢のエピソード 弐|  天正十四年(1586年)、黒田如水から小早川隆景のところへ思いがけない相談が持ち込まれた。  「毛利家の当主輝元どのは、もう四十近いというのに後継者がいない。秀吉公の甥君、秀秋どのを養子に迎えてはいかがだろうか」  折から毛利家は秀吉方との間で行われてきた国割り(国境画定)を確定し、中国の雄には違いないが大阪に人質を送り、豊臣政権下の一大名に過ぎない位置にいた。隆景は自身が小早川家に入り、早い話がそれを乗っ取った人物である。そして、秀秋という人物には「不出来な男」という噂があった。そこで隆景は、毛利本家にそのような者を入れないために、秀秋をぜひ小早川家に、と先手を打った。  隆景は元就の四男元清の子の宮松丸(のちの秀元)を輝元の後嗣に定め、万が一輝元に実子が生まれた場合は、秀元は自分から身を引き、別家するという約束をした。また、隆景は末弟の秀包と親子の内約を結んでいたが、それを白紙に戻して別家を立てさせ、秀秋を迎えるに至った。(小早川秀秋が二十代前半で病死すると、家康は小早川家を取り潰した。) :■三本の矢のエピソード 参|  この話は実話でも毛利元就のオリジナルではなく、まったく同じ話がモンゴルのジンギス汗の母・ホエルンの教訓として「元朝秘史」にでている。(元就がこの話を知っていたのか、また、後世の人物が三子教訓状から連想して作ったものなのかは定かではない。) :■隆元への訓示|  元就の言葉を借りると、武人にとってもっとも必要な心得は、「ただただ当時の武略かた、計略かた、無稽古、無数寄にも候ては、もってのほかなる儀に候の条、能も芸も慰みも、道だても、本路たてもなにもかもいらず候。ひとえにひとえに、武略・計略・調略かたのことまでに候」とのことで、、要するに一にも二にも大切なのは、武略・計略・調略であり、当時武人の嗜みとされていた芸事などいっさい不要だという。「孫子」(「始計」第一篇)から引用した「算多きは勝ち、算少なき敗け候と申す。兵書の言葉に候」というのがその理由であった。 :■何故謗られなかったのか。|  元就の戦略は基本的に「調略=だまし討ち」といっていい。厳島の合戦、尼子攻略など、確かにそのとおりであるといえる。しかし、元就は「奸雄」とか「謀将」などの謗りを受けずに済んだのは、彼の一連の奇襲・暗殺・誘殺に、内外の人士が一定の合理性を見出していたからだろう。元就が謀った相手は、内実はどうあれ、表面的には一方的な侵略者か人倫を踏み外した主殺しの仇敵か、叛復常ない裏切り者か、君臣の道を誤った者に限られていると認識されていた節がある。  だが、「調略」をもっぱらとした元就の人物と事績の根底には、何より、母親代わりの大方殿を終世慕いつづけ、先立たれた妻の妙玖の菩提に涙しつつ、その存在を一族団結のシンボルとし、息子や孫、家臣らの健康を気遣っては、酒の飲み方、医師や薬の選び方まで細々と注意を与え、休息の必要を説くといった溢れんばかりの人間味が存在していた。  少年時代に授かったという念仏の大事を晩年まで続ける「信仰心」があり、慈仁を究める「求道心」も見逃せないが、彼の実生活をその自筆の手紙から類推すると、とにかく情けが深く開放的なのである。  嫡男隆元を諌める一方で辛抱強くその愚痴に耳目を傾け、内孫輝元の教育に腐心するばかりではない。嫁の尾崎(内藤氏)を励ましつつ、彼女を分国経営に参与させていた。しかも、その嫁をして、「上様」とか「御屋形」とか「御隠居」の通常の呼称でなく、何と「じいさま」と呼ばせていたのである。「知将」と評されつつも、それは決して、しかつめ顔の頑固一徹な武将でもなければ、策士にありがちな冷血漢でもなかった。この柔軟さ、つまり「知」と「情」のほどよいかねあいがあったればこそ、一代にして、一国人から戦国の覇者への躍進が可能になり、生涯現役の貫徹にもつながったのであろう。 :■生き残った「二代目」|  戦国時代の二代目で生き残った代表例には、西の毛利輝元と東の上杉景勝がある。毛利の生き残り方法は徹底した守りの姿勢、初めから資産と領地を減らす覚悟での専守防衛である。  輝元が偉大な祖父元就の後ろ盾を失ったのは、織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り、畿内平定から天下制覇の意図を鮮明にし出した頃だ。十八歳の輝元は、祖父の教えを守って二人の叔父を大いに尊重したので、世間ではこの二人を「毛利の両川」と呼び、事実上の毛利家の意志決定者とみなしていたほどだ。しかし、戦国時代は親子兄弟の争いも珍しくはなく、叔父達に全てを任せるのは勇気の要ることであるし、叔父達に意思決定を任せるためには、自分を捨てる覚悟がいる。二人の叔父はともに賢明で忠実でもあったが、その賢明さと忠実さを保たせたのは、二代目・輝元の絶対的な信頼だ。輝元は実に巧みに二人の叔父の勢力と発言権のバランスをとり、いずれの側にも不満を抱かせなかった。 :■高松城水攻めの決断|  輝元の時代になって大きな危機が訪れたのは、織田信長が本願寺と敵対関係になり、諸領内に一向衆徒の多かった毛利家が織田との全面対決を決めたときだった。大阪の石山本願寺に対し、毛利水軍八百隻が織田水軍二百隻を撃破し、兵糧を搬入するという事件で直接対決の幕が開ける。それでも守成に回る毛利家は華々しい戦はせず、織田に挑む勢力を盛り立て、配下(松永久秀)の反乱をそそのかせるという手段にでた。中でも見事だったのは、織田家摂津担当武将・荒木村重を反乱させたことだった。しかし、織田信長はこれらの反乱を一つ一つ鎮圧し、毛利は守成一方にたたされることになる。  一家の当主としてすぐに降服することができない輝元は投降できる条件が揃う時期を待ち、高松城水攻めという秀吉の詭計にあい、やっと講和にこぎつける。このときの条件は「五カ国譲渡」と高松城に籠った清水宗治の切腹という厳しい条件であったが、これを家中に納得させるためには高松城救援不能という極限的状況にまで事態を持ち込む必要があった。ここまで堪えることによって先代・元就の言ったとおり「領土を半分にして一度の危機を乗り切った」のである。 :■領土回復|  信長の死後、輝元は明智光秀を討ったが、柴田勝家らの強敵がいて安心できない秀吉と交渉して、先の和議で割譲した領地のうち、出雲一国と備中の足守川以西を取り返す。ここで信長死亡時の実質的な軍事境界線まで回復させたことになる。しかもこの間に領土の支配を強め、万全の態勢を整えている。  また、秀吉の九州攻めの先鋒を務めた功績により、毛利の所領・中国百二十万石とは別に、小早川隆景や毛利秀包(輝元の叔父のために、北九州に七十万石もの新領を得た。このため、秀吉の晩年には、毛利一族の所領は合計二百万石近いものになっていた(ちなみに徳川が二百五十五万石)。輝元は父の死後、親譲りの財産を50万石増やした計算になる。 :■関ヶ原の合戦の決断|  戦国武将の誰もが決断を迫られた関ヶ原の合戦時、輝元は徳川に次ぐ五万の勢力を持っていた。この勢力を豊臣・徳川双方が見逃すはずはなく、輝元は豊臣・徳川それぞれに「味方をする」という意味の誓紙を書いている。この天下分け目の戦いで輝元が求めたものは、やはりいかにして毛利家を守るかという一点につきた。毛利が大領主であるためには、ひ弱な豊臣の天下であってほしい、家康の天下となれば、認められる程度に弱体化しなければならない。輝元は潜在的意識を辿ったに違いない。西軍の総大将にはなったものの一向に動かず、毛利の一軍を率いて出陣した吉川広家も当初から徳川との単独講和を考えており、それが輝元の考えでもあると信じていた節がある。また、広家の勧めるままに大阪城を出た輝元の態度にも、上手な負け方を好んで受け入れた感じがある。  この二代目にとって不満だったのは、勝てなかったことではなく、徳川家康の戦後処分が予想以上に過酷で、毛利家の所領は百二十三万石から長門・周防の二カ国、三十七万石に減らされたことだったのであろう。それは、元就の残した「二度目の危機でさらに半分になっても二カ国残る」という言葉にあっている。 以上、プレジデント社 「毛利元就」 堺屋太一、山本七平ほか 1997.02.07 より要約引用 ()内は私見) :■五大老| 豊臣政権の最高執政機関。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(死後は上杉景勝)の5人が任命され、五奉行顧問という立場で政務の中心となった。 :■関ヶ原の戦い 西軍と東軍の主な武将とその後| <西軍> 石田三成 (敗北後、死刑) 小西行長 (敗北後、死刑) 毛利輝元 (大阪城に残留、無血開城) 上杉景勝 (敗北後、降伏) 宇喜多秀家(敗北後、流刑) 長束正家 (敗北後、自害) <東軍> 徳川家康 福島正則 加藤清正(肥後に残留) 小早川秀秋(途中で西軍から寝返り) 黒田長政 徳川秀忠 :■関ヶ原の戦い 大名達の処分| <加増> 結城秀康(10万石→67万石) 蒲生秀行(18万石→60万石) 黒田長政(18万石→52万石) 池田輝政(15万石→52万石) 福島正則(24万石→50万石) 細川忠興(18万石→40万石) <減封> 毛利輝元(120万石→37万石) 上杉景勝(120万石→30万石) 佐竹義宣(55万石→21万石) <没収> 宇喜多秀家 長宗我部盛親 益田長盛 小西行長 石田三成 以上、中経出版 戦国時代が面白いほどわかる本 金谷俊一郎 2003.05 より引用 ---- :■決して「いい人」ではなかった(これは私見です)|  どの作戦行動にもその「策士」ぶりがうかがえます。「腹黒い」「大狸」などの名前は家康が戴いていますが、元就の作戦記録を読むと、ちょっと待て、と言いたくなります。根気、持久力、そして謀略の巧みさと緻密さ、冷酷さ、時が満ちた時点の行動力などは、名将元就がもう畿内に近い場所に、もう少し遅く生まれていたら必ず天下を取っただろうと思わせるものばかり。時代と地の利に阻まれた天下への道だったのではないでしょうか。(これに関しては、確か歴史読本で元就の天下取りシュミレーションの特集号が出てます。)
**語録(史実かどうかは不明です。) :「善人を重職につけてはならない」 毛利元就|  人から善人と言われる人は、だれからもよく思われようと努力しているから善人と呼ばれている。そのため、善人と呼ばれる人は、だれからもよく思われようとするあまりに、ここ一番というときに、みんなから好かれようとして決断が下せない傾向がある。だから、善人と評判の高い人間を、重大な決定を下す必要のある役職に就けるのは危険である。そういった「事なかれ主義」が、家を崩壊させる元凶となるのだ。 :「座敷で雪合戦をしろ」 毛利元就|  毛利元就は冬のある日、家臣に「座敷で雪合戦をしろ」と言った。家臣は不思議に思いながらも座敷で雪合戦を始める。家臣にとって雪合戦は非常に楽しかったが、座敷ではどうも雪合戦がやりにくかった。そこで、家臣たちは「外で雪合戦をしよう」と言いだし、外で雪合戦を始めた。  毛利元就は、家臣が冬になって寒いために家の中に引きこもっていたのを案じていた。だからといって「寒いからと言って家に引きこもるとは何事だ!」と叱りつけると家臣は反発してしまう。そこで、「家の中で雪合戦をしろ!」という一見不思議な命令を出したのである。毛利元就の人心掌握術の一端がうかがえるエピソードといえよう。 :「春雨よ 花の散らない ほどに降れ」 小早川隆景|  隆達節(りゅうたつぶし)の小唄の文句で小早川隆景が好んで口にしていた。兄の毛利元就が死んで、子の輝元に家督が相続された。しかし、輝元は遊びにうつつをぬかし始めた。輝元は「武芸もしっかりやっているから問題はない」というが、武芸の訓練も度を越えたものであった。そこで、春雨がどんなに趣深く降っても、降りすぎて花を散らしてしまっては台無しである、何事もほどほどが肝心である、という戒めをしたのである。 以上、中経出版 戦国時代が面白いほどわかる本 金谷俊一郎 2003.05 より引用

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