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*近隣の文化遺産(抜粋) **毛利博物館 : 四季山水図 雪舟筆| 「山水長巻」の名称でも親しまれている、和様の水墨画を完成させた雪舟の最高傑作。  この16m近い長大な画巻は、緑の葉をつけた木々の間を抜ける山路を、ひとりの老士が登っていくところから始まる。路は、春の野山、夏の水辺、収穫に賑わい市が立つ秋の農村を通り、山々が雪でおおわれ、人びとが家の中でひっそりと過ごす冬まで続いている。その構成のみごとさ、四季折々の景色の美しさ、そして細やかな人物描写は、まさに室町山水画を代表する作品と呼ぶに相応しい。  巻末に、雪舟は「文明十八年(1486)嘉平日、雪舟叟天童前第一座雪舟叟等楊六十有七歳筆受」と、堂々と墨書している。  応永二十七年(1420)に備中(岡山県西部)に生まれ、幼い頃から禅籍に入った雪舟は、48歳で初めて明に渡る。この巻末にある「天童前第一座」はそのとき参詣した禅宗五山のひとつ、天童景徳寺で第一座という禅僧として高い位を与えられたことによる。現存する雪舟の作品で、年齢が記されているのはこれのみ。もとは大内氏の所有であったが、のちに毛利家に移ったとされる。 : 古今和歌集巻第八(高野切本)|  本書は『古今和歌集』の巻第八を書写した完本。  勅撰当時の写本は現存しておらず、11世紀半ばに作られたこの「高野切本」が写本としては最古のものである。3人の能書家により書写されたが、この巻第八は、書風が平等院、鳳凰堂中堂壁扉画(国宝)の色紙形のものと類似していることから、源兼行の筆と推定されている。日本独自の文学として生み出された仮名書の最高峰として名高い。 : 史記 呂后本紀第九|  南宋時代、『史記』の注釈本として作られた『史記集解』の古写本。  延久五年(1073)の書写で、年代が明らかなものとしては、『史記』の最古の写本である。訓点資料としても貴重。 : 菊造腰刀 刀身無銘 伝当麻|  腰刀とは、太刀に添えて差す短刀のことで、腰の帯に差して用いた。  これは鐔のない合口造と呼ばれるもの。柄と鞘は、金の鑢粉を蒔いた上に漆をかけて仕上げた金梨地で、柄には枝菊を高彫した筒金をはめる。鎌倉時代の腰刀が完存するのはきわめてまれである。  中身の短刀は無銘ながら、鎌倉末期の大和物の特徴を伝える冠落造の当麻派の名品。  毛利家に長く伝来したものである。 **厳島神社 : 紺糸威鎧 兜、大袖付 一領|  平安時代の典型的な形式を示す鎧。胴正面の染韋に、菱襷に獅子の丸文、金物に菊形を用いている。威の糸など随所に補修のあとはあるものの、当初の面影をよくとどめている。社伝によれば、平清盛の長男重盛が奉納した鎧という。 : 浅葱綾威鎧 兜、大袖付 一領|  麻布を芯に浅葱色(薄い水色)の絹で包んだ威であったが、今は、表面の絹がほとんど失われ、麻布だけになっている。胴の弦走韋に不動三尊像の染韋を張っているのが特徴。  源義家の甲冑であったとも伝えられている。 : 小桜韋黄返威鎧 兜、大袖付 一領|  鎧を形作る札(さね)が、丈8cm、幅約5cmと現存する鎧の中でもいちばん大きい。札を上下に繋ぐ威の韋の幅も広く、豪華勇壮なおもむきがあり、『保元物語』などに記された「大荒目の鎧」にあたると考えられている。  兜の鉢は、鉄板を半球状に打ち出して筋金で補強、さらに円錐形の鋲を打った星鉢。前後の草摺は四段、胴は裾広がりとして豪壮なおもむきではあるが、威は桜の花を型染とした小桜韋で、優美な一面をあわせもつ鎧である。 講談社 講談社MOOK 国宝の旅 2001.9 より引用
*萩焼-読み物1 萩焼の土 **萩――胸をうつ枇杷色  萩の土は、周防灘にのぞむ防府・台道から運ばれた。  萩藩の御用窯時代には、役人が付き添い、毛利家の定紋を付けた馬で、あるいは海路、萩へ運ばれた。窯あけには検使が立ち会い、仕上がった品々はすべて城内へ移された。  台道から萩まで約六〇キロ。備前焼が伊部の田の土から作り出されるのと比べれば、この土運びは奇異にさえ思われる。しかも台道の土は、山と海岸線に挟まれた小郡へかけての丘陵地帯に、薄い層をなして集中している。赤土の厚い層を三、四メートル掘りのけて、やっと現れる灰色の粘土層は一〇センチに満たないとこともある。それをこそぎ取るのである。  風化した花崗岩が窪地にたまってできた一次粘土、しかも場所が限られている。昭和四十六年秋の調査によると、台道・四辻・秋穂の三角地点についていえば、埋蔵量は三万トンにすぎない。  この乏しい台道の土でなければ、あのくすんだ枇杷色の発色が得られないのである。枇杷色――「井戸茶碗」(渡来した高麗茶碗のなかで王者とされる一種)と見紛う素朴な色合いが萩焼の色なのだ。 **茶道との深いゆかり  関ヶ原の役(一六〇〇)後、西軍に属していた毛利輝元は、芸州藩から防長へ移封されてしまった。広島のデルタ地域に城を築いた天正十九年(一五九一)から一〇年も経たない境遇のさま変わりである。輝元は、指月山を背に、四、五年かかって萩城を造り、三十六万石の並み藩に落ちた。  その輝元が文禄・慶長の役(一五九二~九八)のとき、朝鮮から連れ帰った李勺光を松本村中の倉に住まわせ、窯造りをさせたのは、単に茶の趣味に添わせるためだけではなかった。輝元にかぎらず、朝鮮へ出陣した九州諸藩はそれぞれ陶工たちを連れ帰り、九州の各地に窯を造らせたのであった。高取(福岡県)・上野(福岡県)・有田(佐賀県)・苗代川(鹿児島県)焼の興りである。萩焼もその一つだった。  李勺光は、のちに長門深川の三之瀬に移ってここにも窯を拓き、中の倉の窯は弟の李敬が引き継いだ。深川萩の元祖が勺光、高麗左衛門と名を改めた李敬が松本萩の元祖である。  三輪窯の開祖はこれら朝鮮系とは別だとする説があり、これによると天正年間よりさらにさかのぼった永正年間(一五〇四~二一)、大和(奈良県)の三輪にいた源太左衛門がはぎにきて築窯した、とされる。その孫の初代休雪から現在の十一代休雪にいたる家系である。  御用窯のやきものは、幕府や諸藩への贈答品、家臣らへの褒賞に用いられた。茶の湯の黄金時代、「侘び茶」の流行が高麗茶碗を求めたから、朝鮮の陶工が作る陶器は李朝系のものになった。そのうち「井戸」に徹したのが萩焼の茶陶である。  享保年間(一七一六~三六)、台道土が発見されてから、柔らかみと軽い味わいと窯変に富むこの台道土に、耐火力のある金峯土、萩の沖の見島で採掘された鉄分の多い赤土―見島土―の混合によって、一段と変化に富む萩焼が生まれた。  台道土は焼結しにくい性質で、生地の収縮が少ない。そのため、半焼けが土の柔らかい質感を残す。生地と釉の収縮率のずれが亀裂を走らせ、“貫入”を呈する。  ざらついた土の感触、箆(へら)跡はそのまま残るけれども、日用雑器には向かなかった。土の質が茶陶を選びとり、萩焼は茶道とのつながりに生きてきた。「一楽二萩三唐津」という茶陶器の品定めは、江戸時代から今日に及んでいるのである。 **巧まざる巧みの味  「萩の七化け」といわれるのも、陶質の柔らかみを残したことからくる特質に由来している。萩は、使い込むことによって器肌の色が変わってくる。枇杷色のくすんだ色合いは茶の緑を引き立て、茶映りのよさが好まれた。茶なれが早くて、部分に墨でぼかしたような古色を帯び、「侘び」に通じる。一面、吸水性が強いから水の滲み出ることがあって、花入や水指には染め止めが必要とされる。  高台(底部の円形の台)の一部を削り取った「割高台」は、他のやきものにはほとんどみられない特色だ。高麗茶碗伝来の特徴で、いわれは謎に包まれている。御用窯てあったことから、献上品とは異なったものであることを示すためとか、古代祭器の名残説、重ねて括る際の滑り止めの方便とか、諸説はあっても矛盾は残り、美的均衡を求めての手法とみるのが妥当といわれている。“ガタガタロクロ(轆轤)”をもって最上とするのも、朝鮮伝来の技ゆえである。  仕事場は小規模、家内工業が主力で、昭和四十年には二〇余の窯が一〇年後には六〇を超えた。伝統的な手作りに対して、型抜き、量産、茶陶からの飛躍をめざす方向が現れるのも必然であった。  古萩から和風化を進めた三輪窯の三輪休和(十代休雪)は、昭和四十五年、人間国宝に指定された。陶歴六〇年、伝統を引き和の弟、第十一代休雪は、白釉をかけて“休雪白”を深め、志野ふうの紅萩を作り出し、また、日展系の現代工芸美術家協会に属する吉賀大眉は、連作「暁雲」によって昭和四十六年、萩焼ではじめての日本芸術院賞をうけるなど、陶芸の分野にも進展がきわ立っている。一方、長門深川窯の系列にある坂田泥華は、井戸茶碗の伝統に生きる名手といわれる。 集英社 日本の技8 山陽・四国 潮の技 S58.11 より引用

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