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*萩焼-読み物1 萩焼の土 **萩――胸をうつ枇杷色  萩の土は、周防灘にのぞむ防府・台道から運ばれた。  萩藩の御用窯時代には、役人が付き添い、毛利家の定紋を付けた馬で、あるいは海路、萩へ運ばれた。窯あけには検使が立ち会い、仕上がった品々はすべて城内へ移された。  台道から萩まで約六〇キロ。備前焼が伊部の田の土から作り出されるのと比べれば、この土運びは奇異にさえ思われる。しかも台道の土は、山と海岸線に挟まれた小郡へかけての丘陵地帯に、薄い層をなして集中している。赤土の厚い層を三、四メートル掘りのけて、やっと現れる灰色の粘土層は一〇センチに満たないとこともある。それをこそぎ取るのである。  風化した花崗岩が窪地にたまってできた一次粘土、しかも場所が限られている。昭和四十六年秋の調査によると、台道・四辻・秋穂の三角地点についていえば、埋蔵量は三万トンにすぎない。  この乏しい台道の土でなければ、あのくすんだ枇杷色の発色が得られないのである。枇杷色――「井戸茶碗」(渡来した高麗茶碗のなかで王者とされる一種)と見紛う素朴な色合いが萩焼の色なのだ。 **茶道との深いゆかり  関ヶ原の役(一六〇〇)後、西軍に属していた毛利輝元は、芸州藩から防長へ移封されてしまった。広島のデルタ地域に城を築いた天正十九年(一五九一)から一〇年も経たない境遇のさま変わりである。輝元は、指月山を背に、四、五年かかって萩城を造り、三十六万石の並み藩に落ちた。  その輝元が文禄・慶長の役(一五九二~九八)のとき、朝鮮から連れ帰った李勺光を松本村中の倉に住まわせ、窯造りをさせたのは、単に茶の趣味に添わせるためだけではなかった。輝元にかぎらず、朝鮮へ出陣した九州諸藩はそれぞれ陶工たちを連れ帰り、九州の各地に窯を造らせたのであった。高取(福岡県)・上野(福岡県)・有田(佐賀県)・苗代川(鹿児島県)焼の興りである。萩焼もその一つだった。  李勺光は、のちに長門深川の三之瀬に移ってここにも窯を拓き、中の倉の窯は弟の李敬が引き継いだ。深川萩の元祖が勺光、高麗左衛門と名を改めた李敬が松本萩の元祖である。  三輪窯の開祖はこれら朝鮮系とは別だとする説があり、これによると天正年間よりさらにさかのぼった永正年間(一五〇四~二一)、大和(奈良県)の三輪にいた源太左衛門がはぎにきて築窯した、とされる。その孫の初代休雪から現在の十一代休雪にいたる家系である。  御用窯のやきものは、幕府や諸藩への贈答品、家臣らへの褒賞に用いられた。茶の湯の黄金時代、「侘び茶」の流行が高麗茶碗を求めたから、朝鮮の陶工が作る陶器は李朝系のものになった。そのうち「井戸」に徹したのが萩焼の茶陶である。  享保年間(一七一六~三六)、台道土が発見されてから、柔らかみと軽い味わいと窯変に富むこの台道土に、耐火力のある金峯土、萩の沖の見島で採掘された鉄分の多い赤土―見島土―の混合によって、一段と変化に富む萩焼が生まれた。  台道土は焼結しにくい性質で、生地の収縮が少ない。そのため、半焼けが土の柔らかい質感を残す。生地と釉の収縮率のずれが亀裂を走らせ、“貫入”を呈する。  ざらついた土の感触、箆(へら)跡はそのまま残るけれども、日用雑器には向かなかった。土の質が茶陶を選びとり、萩焼は茶道とのつながりに生きてきた。「一楽二萩三唐津」という茶陶器の品定めは、江戸時代から今日に及んでいるのである。 **巧まざる巧みの味  「萩の七化け」といわれるのも、陶質の柔らかみを残したことからくる特質に由来している。萩は、使い込むことによって器肌の色が変わってくる。枇杷色のくすんだ色合いは茶の緑を引き立て、茶映りのよさが好まれた。茶なれが早くて、部分に墨でぼかしたような古色を帯び、「侘び」に通じる。一面、吸水性が強いから水の滲み出ることがあって、花入や水指には染め止めが必要とされる。  高台(底部の円形の台)の一部を削り取った「割高台」は、他のやきものにはほとんどみられない特色だ。高麗茶碗伝来の特徴で、いわれは謎に包まれている。御用窯てあったことから、献上品とは異なったものであることを示すためとか、古代祭器の名残説、重ねて括る際の滑り止めの方便とか、諸説はあっても矛盾は残り、美的均衡を求めての手法とみるのが妥当といわれている。“ガタガタロクロ(轆轤)”をもって最上とするのも、朝鮮伝来の技ゆえである。  仕事場は小規模、家内工業が主力で、昭和四十年には二〇余の窯が一〇年後には六〇を超えた。伝統的な手作りに対して、型抜き、量産、茶陶からの飛躍をめざす方向が現れるのも必然であった。  古萩から和風化を進めた三輪窯の三輪休和(十代休雪)は、昭和四十五年、人間国宝に指定された。陶歴六〇年、伝統を引き和の弟、第十一代休雪は、白釉をかけて“休雪白”を深め、志野ふうの紅萩を作り出し、また、日展系の現代工芸美術家協会に属する吉賀大眉は、連作「暁雲」によって昭和四十六年、萩焼ではじめての日本芸術院賞をうけるなど、陶芸の分野にも進展がきわ立っている。一方、長門深川窯の系列にある坂田泥華は、井戸茶碗の伝統に生きる名手といわれる。 集英社 日本の技8 山陽・四国 潮の技 S58.11 より引用
*萩焼-読み物2 李勺光 -謎に包まれた初代の兄・李勺光の行方 伝統を築いた朝鮮の陶工は迷いを深めたのか迷いから覚めたのか- **囚われの身となった李勺光は一族も連れてくることに  勺光が連れ帰ったのは、陶工とその家族11人と10歳の弟李敬である。母はすでに亡くなっていた。李敬は助八と名乗り、やがて初代高麗左衛門となる。  秀吉に対する勺光の敵愾心は源十郎も理解できたが、よく聞くと仇討ちを考えているのではなく「己の作った茶碗で秀吉を心服させずにはおかぬ」というのだった。勺光は井戸茶碗を焼き続けた。だが、秀吉の死後は日本の窯に合ったやきものを自由に焼き始める。  関ヶ原の後、勺光たちは山口に移った。ここで彼に悲劇が襲う。妻しずが子を産んで死んだのである。朝鮮の役で夫を失ったしずが、大阪で勺光の世話を引き受けたのは、その境遇に同情したからだろう。彼女の献身にどれだけ支えられたことか。彼の落胆はひどかったが、以前にもまして、作陶に打ち込むようになる。  勺光が「死んだ」ことになってしまうのは、それからしばらくしてからだった。家康が秀吉から預かった陶工の話に触れたため「斬り捨てた」と毛利家が書状を送ったのである。勺光を連れ戻されないようにするための苦肉の策だった。 **勺光を「斬り捨てた」ことに。毛利家が立てた苦肉の策  関ヶ原の役(一六〇〇)後、西軍に属していた毛利輝元は、芸州藩から防長へ移封されてしまった。広島のデルタ地域に城を築いた天正十九年(一五九一)から一〇年も経たない境遇のさま変わりである。輝元は、指月山を背に、四、五年かかって萩城を造り、三十六万石の並み藩に落ちた。  その輝元が文禄・慶長の役(一五九二~九八)のとき、朝鮮から連れ帰った李勺光を松本村中の倉に住まわせ、窯造りをさせたのは、単に茶の趣味に添わせるためだけではなかった。輝元にかぎらず、朝鮮へ出陣した九州諸藩はそれぞれ陶工たちを連れ帰り、九州の各地に窯を造らせたのであった。高取(福岡県)・上野(福岡県)・有田(佐賀県)・苗代川(鹿児島県)焼の興りである。萩焼もその一つだった。  李勺光は、のちに長門深川の三之瀬に移ってここにも窯を拓き、中の倉の窯は弟の李敬が引き継いだ。深川萩の元祖が勺光、高麗左衛門と名を改めた李敬が松本萩の元祖である。  三輪窯の開祖はこれら朝鮮系とは別だとする説があり、これによると天正年間よりさらにさかのぼった永正年間(一五〇四~二一)、大和(奈良県)の三輪にいた源太左衛門がはぎにきて築窯した、とされる。その孫の初代休雪から現在の十一代休雪にいたる家系である。  御用窯のやきものは、幕府や諸藩への贈答品、家臣らへの褒賞に用いられた。茶の湯の黄金時代、「侘び茶」の流行が高麗茶碗を求めたから、朝鮮の陶工が作る陶器は李朝系のものになった。そのうち「井戸」に徹したのが萩焼の茶陶である。  享保年間(一七一六~三六)、台道土が発見されてから、柔らかみと軽い味わいと窯変に富むこの台道土に、耐火力のある金峯土、萩の沖の見島で採掘された鉄分の多い赤土―見島土―の混合によって、一段と変化に富む萩焼が生まれた。  台道土は焼結しにくい性質で、生地の収縮が少ない。そのため、半焼けが土の柔らかい質感を残す。生地と釉の収縮率のずれが亀裂を走らせ、“貫入”を呈する。  ざらついた土の感触、箆(へら)跡はそのまま残るけれども、日用雑器には向かなかった。土の質が茶陶を選びとり、萩焼は茶道とのつながりに生きてきた。「一楽二萩三唐津」という茶陶器の品定めは、江戸時代から今日に及んでいるのである。 **萩焼の土台を完成させた勺光はどこへ旅立っていったのか  「窯を弟の助八に任せたい」という勺光を源十郎は戒めた。「さようなこと申してはなりませぬ」勺光は誰もが感心する茶陶を完成させている。家康が他界すれば堂々と窯の頭領を名乗れるに違いない。  毛利家の築城場所が萩に決まった慶長9(1604)年、勺光は松本村中之倉に窯を構えた。雑器を焼いていたが茶陶もいくつか作り、善福寺の崗菴和尚に見せ批評を仰いだ。和尚は高麗茶碗を好まないという。日本的な茶碗ではないという言葉が勺光に衝撃を与えた。日本人でもなく、もはや朝鮮人でもないと考えていた彼は迷いを深める。その頃出会ったのが、定心坊という老人だった。  現在の長門市湯本に一人きりで暮らし、気ままに器を焼く風変わりなこの人物は、武士だった若い頃、無益な殺生をしたという。勺光も自然と悩みを打ち明けた。その定心坊が死んだのである。京に骨を埋めてほしいという遺言を果たしたいと勺光は懇願し、源十郎はそれを許した。  定心坊との短い交流の中で、勺光が何を考え、何を心に決めたのかわからない。  京に向かった勺光は帰ってこなかった。 山海堂 私の創る旅9 やきものの里を歩く~窯元と陶工たちをめぐる旅~ 2000.04 より引用

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