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*やきものの歴史(室町以降の概略) **●室町時代後期~江戸時代 -自由な創造力の爆発 :日本人の日本人による日本人のための陶器は茶の湯で一気に花開いた|  桃山時代はあらゆる芸術が大きく展開した時代だった。やきものの世界では茶の湯がその舞台となる。  茶陶は以前から作られていたが、室町後期から「冷(ひえ)、凍(しみ)、寂(さび)、枯(からび)」という新しい美的価値観が生まれた。唐のやきものしか認めていなかった茶の湯の場に、日本の陶器が持ち込まれるようになる。そのスタイルを確立したのが千利休だった。  利休は茶の湯に日本の「現代美術」を取り入れたといえるだろう。京都の陶工長次郎に作らせた楽茶碗は、やきものの地位を不動のものとする。無名の存在だった陶工の名は、いわばブランドのひとつとなったのだ。  茶陶の創造力はとどまることなく加速した。瀬戸黒、黄瀬戸と流行は移り、志野、唐津にいたって絵付けの技術を獲得する。そして、さらに新たな世界を開いたのが古田織部だった。利休より22歳年下の彼は、歪んだ茶碗など眼を楽しませる造形に挑んだのである。  茶会の参加者はこれを「ヘウケモノ(剽軽)だと記したが、形だけではなく複数の釉薬を使うなど、革新的なやきものだった。  この自由奔放な創造の世界は、全国の窯へ影響を与えていく。 磁器の誕生 -ようやく訪れた磁器時代は海外からの注文に奮い立つ陶工の突貫作業で完成した  万治2(1659)年の夏、オランダ東インド会社モカ支店から伊万里に注文された磁器の数は5万6700個だった。陶工たちもこの地を治める鍋島藩も驚いたに違いない。しかし、その3ヶ月後3万個の製品を完成させ、納品している。  秀吉の朝鮮出兵で得られたものはほとんどなかったが、朝鮮の陶工たちを連れ帰ったことは日本の陶磁器発展に大きく貢献した。その一人李参平により、有田で磁器作りが始まったのは1610年代のことである。伊万里はその積み出し港だった。  初期の有田焼は古九谷と呼ばれる。その後、いわゆる「柿右衛門」が登場するのは万治2年の大量注文のころからである。古九谷は国内向けだが、柿右衛門はヨーロッパ向けであり、景徳鎮を手本としていた。明の滅亡により中国に近付けなかったオランダが、本当に欲しかったのは景徳鎮だったためだ。鍋島藩は一貫生産体制をしき、陶工たちは総力を結集させた。柿右衛門は彼一人の作品ではないのである。  やがて、景徳鎮の輸出が再開され、市場は国内となる。だが、19世紀初頭、瀬戸でも磁器が製作され始めたため伊万里は独占的地位を失った。 **●江戸時代~現代 和風の追求 -個性的な文化人たちにより一大文化センター京都から発信されたやきものの流行  千利休が見出した陶工長次郎の楽焼の他にも、京都には桃山時代から数多くの窯があった。文化の中心都市に陶工たちも集まってきたのだろう。その中から、一世を風靡する職人が現れた、野々村仁清である。  仁和寺門前に窯を構えた仁清が、ここで御室焼を始めたのは、正保4(1647)年頃だとされる。茶道具を中心とした陶器は、白い釉薬で覆われ、その上に絵付けが施された。中国の様式から離れた和風の絵は人気を博し「仁清焼」と呼ばれる。瀬戸、信楽などの写しも、仁清の手にかかると都風に洗練された作品に変化した。その弟子で尾形光琳の弟乾山も、兄と合作するなどして個性的な色絵の食器を製作している。  江戸時代の工芸の基調となった京焼は、その後も和風であることを追及してゆく。芸術美が計算され、都の雅やかさを表現したところも、明らかに桃山時代と異なっていた。  仁清、乾山の他、京焼初の磁器を製作した奥田穎川、その門下の青木木米など、作者の名前も続々と登場するが、仁清以外は職人ではなく、いわゆる文化人だった。京焼に文人趣味が濃くなるのは当然の結果で、それは明治の装飾陶磁に引き継がれた。 地方窯再発見 -民芸運動により見直された手づくりの芸と生活の匂い 人間味あふれる陶芸の魅力  明治の陶芸作品が見直され始めたのは最近のことである。当時、陶磁器は茶、生糸に次ぐ主力産業であったが、西欧の東洋趣味に合わせたため中国風の作品が多く、国内にもその数が少ない。絢爛豪華な作風もやや違和感を感じさせる。  京焼以来、作者中心となっていたやきものを、民衆の生活の中から見直そうと提唱したのは、柳宗悦たちだった。雑誌『白樺』の創刊者の一人である柳は、大正14(1925)年に河井寛次郎、濱田庄司と「民芸」という言葉を造り、活動を始める。  陶芸家の他にも、染織、木工などの工芸家が多数参加し、民芸運動は日本各地に広まっていった。彼らのおかげで復興、再発見された窯も少なくはない。  江戸時代後期、盛況だった地方窯は京焼を背景とした窯と、有田から技術指導を受けていた窯に二分される。どちらも絵付けに重点が置かれていたが、民芸運動は釉薬の装飾に注目した。技術だけではなく、手作業の芸、そして人間味あふれるやきものの魅力の復権を訴えた。  現在、陶芸の作品は限りなく多彩だが、民芸運動の精神は確実に引き継がれている。 山海堂 私の創る旅9 やきものの里を歩く~窯元と陶工たちをめぐる旅~ 2000.04 より引用
*やきものの歴史(室町以降の概略) **●室町時代後期~江戸時代 -自由な創造力の爆発 :日本人の日本人による日本人のための陶器は茶の湯で一気に花開いた|  桃山時代はあらゆる芸術が大きく展開した時代だった。やきものの世界では茶の湯がその舞台となる。  茶陶は以前から作られていたが、室町後期から「冷(ひえ)、凍(しみ)、寂(さび)、枯(からび)」という新しい美的価値観が生まれた。唐のやきものしか認めていなかった茶の湯の場に、日本の陶器が持ち込まれるようになる。そのスタイルを確立したのが千利休だった。  利休は茶の湯に日本の「現代美術」を取り入れたといえるだろう。京都の陶工長次郎に作らせた楽茶碗は、やきものの地位を不動のものとする。無名の存在だった陶工の名は、いわばブランドのひとつとなったのだ。  茶陶の創造力はとどまることなく加速した。瀬戸黒、黄瀬戸と流行は移り、志野、唐津にいたって絵付けの技術を獲得する。そして、さらに新たな世界を開いたのが古田織部だった。利休より22歳年下の彼は、歪んだ茶碗など眼を楽しませる造形に挑んだのである。  茶会の参加者はこれを「ヘウケモノ(剽軽)だと記したが、形だけではなく複数の釉薬を使うなど、革新的なやきものだった。  この自由奔放な創造の世界は、全国の窯へ影響を与えていく。 -磁器の誕生 :ようやく訪れた磁器時代は海外からの注文に奮い立つ陶工の突貫作業で完成した|  万治2(1659)年の夏、オランダ東インド会社モカ支店から伊万里に注文された磁器の数は5万6700個だった。陶工たちもこの地を治める鍋島藩も驚いたに違いない。しかし、その3ヶ月後3万個の製品を完成させ、納品している。  秀吉の朝鮮出兵で得られたものはほとんどなかったが、朝鮮の陶工たちを連れ帰ったことは日本の陶磁器発展に大きく貢献した。その一人李参平により、有田で磁器作りが始まったのは1610年代のことである。伊万里はその積み出し港だった。  初期の有田焼は古九谷と呼ばれる。その後、いわゆる「柿右衛門」が登場するのは万治2年の大量注文のころからである。古九谷は国内向けだが、柿右衛門はヨーロッパ向けであり、景徳鎮を手本としていた。明の滅亡により中国に近付けなかったオランダが、本当に欲しかったのは景徳鎮だったためだ。鍋島藩は一貫生産体制をしき、陶工たちは総力を結集させた。柿右衛門は彼一人の作品ではないのである。  やがて、景徳鎮の輸出が再開され、市場は国内となる。だが、19世紀初頭、瀬戸でも磁器が製作され始めたため伊万里は独占的地位を失った。 **●江戸時代~現代 -和風の追求 :個性的な文化人たちにより一大文化センター京都から発信されたやきものの流行|  千利休が見出した陶工長次郎の楽焼の他にも、京都には桃山時代から数多くの窯があった。文化の中心都市に陶工たちも集まってきたのだろう。その中から、一世を風靡する職人が現れた、野々村仁清である。  仁和寺門前に窯を構えた仁清が、ここで御室焼を始めたのは、正保4(1647)年頃だとされる。茶道具を中心とした陶器は、白い釉薬で覆われ、その上に絵付けが施された。中国の様式から離れた和風の絵は人気を博し「仁清焼」と呼ばれる。瀬戸、信楽などの写しも、仁清の手にかかると都風に洗練された作品に変化した。その弟子で尾形光琳の弟乾山も、兄と合作するなどして個性的な色絵の食器を製作している。  江戸時代の工芸の基調となった京焼は、その後も和風であることを追及してゆく。芸術美が計算され、都の雅やかさを表現したところも、明らかに桃山時代と異なっていた。  仁清、乾山の他、京焼初の磁器を製作した奥田穎川、その門下の青木木米など、作者の名前も続々と登場するが、仁清以外は職人ではなく、いわゆる文化人だった。京焼に文人趣味が濃くなるのは当然の結果で、それは明治の装飾陶磁に引き継がれた。 -地方窯再発見 :民芸運動により見直された手づくりの芸と生活の匂い 人間味あふれる陶芸の魅力|  明治の陶芸作品が見直され始めたのは最近のことである。当時、陶磁器は茶、生糸に次ぐ主力産業であったが、西欧の東洋趣味に合わせたため中国風の作品が多く、国内にもその数が少ない。絢爛豪華な作風もやや違和感を感じさせる。  京焼以来、作者中心となっていたやきものを、民衆の生活の中から見直そうと提唱したのは、柳宗悦たちだった。雑誌『白樺』の創刊者の一人である柳は、大正14(1925)年に河井寛次郎、濱田庄司と「民芸」という言葉を造り、活動を始める。  陶芸家の他にも、染織、木工などの工芸家が多数参加し、民芸運動は日本各地に広まっていった。彼らのおかげで復興、再発見された窯も少なくはない。  江戸時代後期、盛況だった地方窯は京焼を背景とした窯と、有田から技術指導を受けていた窯に二分される。どちらも絵付けに重点が置かれていたが、民芸運動は釉薬の装飾に注目した。技術だけではなく、手作業の芸、そして人間味あふれるやきものの魅力の復権を訴えた。  現在、陶芸の作品は限りなく多彩だが、民芸運動の精神は確実に引き継がれている。 山海堂 私の創る旅9 やきものの里を歩く~窯元と陶工たちをめぐる旅~ 2000.04 より引用

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