彼と彼の故郷について (仮題) 概略

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概略1・群雄割拠から制覇まで

 毛利氏はもともと安芸の吉田荘地頭であった。元就は大内・尼子両氏の間に介在し、三男隆景を小早川氏、次男元春を吉川氏の嗣として、安芸を中心に地歩を固めた。大内氏は義隆のとき防長両国のほか西中国から北九州にかけ七カ国の守護であった。尼子氏は出雲守護となった京極氏の一族で、出雲守護代となって経久のとき富田城に拠り、その孫の晴久にかけて、山陰に支配を広め、安芸・備後へも侵攻して大内・毛利氏と抗争した。天文20(1551)年、義隆は家臣陶晴賢のため殺され、晴賢は豊後の大友宗麟の弟義長を迎え大内氏を嗣がせたが、元就はやがて安芸厳島に晴賢を討ち、義長を滅ぼして防長両国を平定した。石見は大内・尼子両氏の角逐の場となっていて、当時開発された石見銀山もその奪取の目標ともなった。元就は防長征戦もまだ完了しないうちに、元春を石見に侵入させ、やがて永禄5年(1562)にほぼ石見を平定し、翌年尼子義久を富田城に攻めて陥れ、出雲を領国に加えた。元就死後、元春・隆景はよく輝元を助けて、山中幸盛に擁立された義久の子勝久を出雲から追い、因幡・伯耆を領国に入れ、また備中の宇喜多直家を従えた。かくて、毛利氏は山陽・山陰十カ国を領し、織田信長と対立することになる。(新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997)