彼と彼の故郷について (仮題) その他人物について
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その他人物について (戦国時代編)



安国寺恵瓊
■生・不明、1600年没
■大内義隆に滅ぼされた、安芸の守護武田光広の遺児と伝えられる。幼名辰王丸。長じて京の南禅寺で修行し、安芸に帰り、安国寺の住職となる。
■武芸を好み、毛利輝元と深い交わりを結び、天正元年、将軍義昭の命で輝元が将軍と織田信長の和睦を斡旋したとき、上京して信長・秀吉と折衝したが、このとき、信長・秀吉両名のその後の運命を予言したという。
■天正10年、秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利氏と秀吉の仲介役を勤め、秀吉が天下をとると伊予6万石を与えられ、大名となった。
■関ヶ原の役では西軍に属し、敗戦後、京にのがれたが捕えられ、慶長5年10月1日、三条河原で斬られ、梟首された。
(以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997)


福島正則
■1562年生、1624年没
■正信の子として尾張に生まれる。幼名市松。左衛門大夫。桶屋のせがれ、とする説もある。
■幼時より秀吉に仕え、賎ヶ岳の合戦では「七本槍」よりも上位に相当する5千石の恩賞をうけた。
■九州征伐後、天正15年9月に伊予湯月11万石3千余石。
■文禄4年7月には24万石をうけ、清洲城主。この間、武断派の旗頭として文治派の石田光成と確執を深めた。
■慶長2年7月に羽柴の氏をさずけられて侍従。
■関ヶ原の役では、東軍の先鋒部隊主力となって働き、備後・安芸49万8千2百石に加封されて広島城をおさめた。
■だが、豊臣家の滅びゆくさまと徳川独裁に歯噛みするうち、元和5年6月、居城を無断で修築したため、武家諸法度にふれ、除封。翌月、信州川中島4万5千石を与えられた。
■寛永元年に病没。
(以上 新人物往来社 別冊歴史読本「戦国武将207傑」 1997)