彼と彼の故郷について (仮題)

毛利元就年表

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毛利元就年表

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明応六年 1497 1歳 3月14日、安芸国(広島県)吉田の郡山城主、毛利弘元の二男として郡山城内で誕生する。生母は福原広俊の娘。幼名を松寿丸といい、少輔次郎と称する。 3月15日、大内義興が筑前で少弐政資を攻め、肥前の晴気城に敗走させる。
12月22日、大和の土一揆が徳政を要求。
明応九年 1500 4歳 3月29日、兄興元の家督相続にともない、父弘元と多治比猿懸(掛)城に移住する。  
文亀元年 1501 5歳 12月8日、生母の福原氏が没する。享年34歳。  
永正三年 1506 10歳 正月21日、父弘元が没する。享年39歳。元就は猿掛城にあって父の後室大方殿(高橋氏)に養育されるが、弘元から相続した多治比の所領が後見役の井上元盛に横領されたため、辛酸をなめる。  
永正四年 1507 11歳 11月、この月の6日に元服した兄の興元が、主家の大内義興に従って上洛し、永正八年まで四年間在京したため、元就は国元で孤立無援に陥る。 6月23日、家督相続問題の紛糾から、管領の細川政元が養子の澄元や薬師寺長忠らに暗殺される。
永正五年 1508 12歳   6月8日、大内義興が前将軍義尹(義材)を奉じて入京し、義尹の将軍還補に従って管領代理となり、幕府権力を握る。
永正七年 1510 14歳   4月4日、李氏朝鮮で三浦(釜山・薺・塩)の乱が起きる。
永正八年 1511 15歳 8月に元服して元就と称する。 8月23日、細川澄元が船岡山の陣所を大内義興に夜襲され、摂津に敗走する(船岡山の合戦)。
永正十三年 1516 20歳 8月25日に兄興元が享年二十四歳で病没し、その長男幸松丸が数え二歳で跡目を継ぐ。 7月11日、伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦義同・義意父子を相模の新井城に攻め、敗死させる。
永正十四年 1517 21歳 10月22日、元就が安芸国山県郡の有田城に攻め寄せた同国佐東銀山城主、武田元繁の軍勢を城外の中井手に破り、元繁を討ち取る(初陣)  
永正十五年 1518 22歳 8月30日、備後の赤屋(世羅郡)に進撃する。  
永正十七年 1520 24歳 8月16日、安芸の壬生城(山県郡)を攻略する。  
大永三年 1523 27歳 6月13日、幸松丸を補佐して総軍四千余を率い、尼子経久の本軍と呼応して安芸四条の鏡山城(賀茂郡)を包囲する。27日に城主蔵田房信を切腹させ、翌28日、同城を開城させる。
7月15日、甥の幸松丸が吉田郡郡山城内において、九歳を一期に夭逝したのにともない、19日、志道広良・井上元兼ら老臣の懇請を容れて毛利宗家の相続を承諾する。
7月25日付になる福原広俊ら十五名の老臣連署状が届けられ、郡山入城を促されると、8月10日、吉時の”辛酉の刻”を期して郡山に入城し、宗家を相続する。所信の句は「毛利の家 わし(鷲)のは(羽)を次(継) 脇柱」。この年、長男隆元誕生。母は吉川氏(国経の娘で正室の妙玖)。
4月、細川高国と大内義興の遣明船が明の寧波で争う。
大永四年 1524 28歳 4月、尼子氏の老臣亀井秀綱らと謀り、元就の排除を画策したとされる異母弟の相合元綱を謀殺する。  
大永五年 1525 29歳 3月、このころまで尼子氏と断交して大内氏に服属する。6月、安芸の米山城(賀茂郡)主天野興定を降し、28日、興定をして毛利家老臣の志道広良と兄弟の契約を結ばせる。  
大永七年 1527 31歳 3月、大内氏の老臣陶道麒(興房)に属して武田光和の属城、瀬野鳥子(安芸郡)砦を攻める。ついで7月12日、尼子経久の部将赤穴光清と備後の和智(双三郡=三次郡)で戦う。 2月12日、香西元盛・三好勝長らが京都に進撃し、桂川原で細川高国・同尹賢の軍を破る(桂川原の合戦)。
享禄三年 1530 34歳 この年、二男の元春が吉田郡郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。少輔次郎と称す。  
享禄四年 1531 35歳   6月4日、細川晴元方の三好元長が、摂津の天王寺に細川高国を攻めて敗走させる(天王寺の合戦)。8日、高国が尼崎で自害する。
天文二年 1533 37歳 主筋に当たる大内義隆の推挙により、9月25日に従五位下に叙され、翌26日、右馬頭に任ぜらる。この年、熊谷信直を服属させる。三男の徳寿丸(隆景)が郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。  
天文三年 1534 38歳 前年の6月から提携していた安芸甲立の五龍城(高田郡)主宍戸元源を正月18日、年頭の祝賀をかねて訪問し、長女を元源の嫡孫隆家との婚儀を調え、父子の契約を結ぶ。
7月、備後の宮城(品治郡)を攻める。包囲攻撃中に城主の宮直信が病没し、子の元盛が降服する。
 
天文四年 1535 39歳 3月、備後多賀山城(恵蘇郡)主の多賀山久意が、包囲持久の兵糧攻めに屈し、開城降服する。  
天文六年 1537 41歳 12月1日、長男の隆元を証人(人質)として大内義隆の本拠地周防の山口に赴かせる。19日、山口の築山館で当年15歳の隆元の元服式が執行され、義隆が自ら烏帽子親を務める。 2月10日、駿河の今川義元が甲斐の武田信虎の娘を妻に迎え、信虎と義元の同盟が成立する。
天文七年 1538 42歳   10月5日、相模の北条氏綱・氏康父子が下総の国府台で古河公方足利義明と里見義尭の軍を破り、義明を殺害する。
天文九年 1540 44歳 6月、備後路を経由して毛利氏領内に侵入した尼子詮久(晴久)の叔父尼子国久、その嫡子誠久らの軍勢を、宍戸元源の舎弟の祝山城(岩屋城)主、深瀬隆兼の奇策で撃退させる。
9月4日、出雲の月山富田城主尼子詮久の率いる三万余の軍勢が多治比に侵入し、風越山に本陣をすえると、元就は二千四百余の精兵に領内の老若男女をも加えた総勢八千余人で大内軍の救援を待ち、郡山籠城作戦を展開する。9月12日の大田口の合戦の後、尼子軍は大内軍の郡山救援に備えて23日、本陣を城下南方の青山・三塚山間に移したため、26日には坂と豊島の間で両軍が衝突し、毛利方は敵将の湯原宗綱を討ち取る戦果をあげた。
さらに挽回を図って総攻撃をしかけた尼子軍に対し、10月11日、伏兵と呼応して挟撃し、詮久の拠る青山の本陣まで追撃して、敵将三沢為幸らの首級をあげる戦果を得た(青山土取場の合戦)。この後の12月3日に陶隆房の率いる大内軍の先鋒隊一万余が城の東南の山田中山に到着する。
 
天文十年 1541 45歳 正月11日、陶隆房が大内軍の本陣を天神山に移し、郡山城との連絡路を確保する。これに応じて13日、元就は城兵三千を率いて宮崎長尾へ出撃し、さらに隆房の率いる大内軍も青山三塚山の詮久本営を急襲して、尼子軍を撤退に追い込む。
5月13日、安芸佐東の銀山城(安佐郡)主武田信実を3月4日に続いて強襲し、城を落として信実を出雲へ追いやる(安芸の守護家、武田氏の滅亡)。この年、長男の隆元が山口より帰城する。
 
天文十一年 1542 46歳 正月11日、主筋の大内義隆が一万五千の軍勢を率いて山口を出馬し、出雲遠征の途についたのにともない、元就も長男の隆元とともに途中からこれに参陣する。
3月、上旬に石見の出羽二山に着陣。7月27日、赤穴光清の拠る出雲赤穴城(飯石郡)を攻略する。
11月、義隆が本営を出雲の由木(飯石郡)から同国馬潟(意宇郡)に移したのにともない、元就は白潟(島根郡)に布陣する。
8月23日、斉藤利政(西村勘九郎)が美濃の守護土岐頼芸を追放。
天文十二年 1543 47歳 正月20日、本陣を宍道の畝地山(意宇郡)に移して軍議を開いた義隆が、富田城の力攻めを採用して2月12日、本陣をさらに経羅木山に移すや、元就は八幡山宮ノ尾に移陣して飯梨川をへだて、富田城に相対した。そして3月14日、大内家老臣内藤興盛勢と提携して富田城麓の菅谷口に進撃し、尼子方の牛尾幸清勢を蓮池縄手で撃破した。
続く4月12日、みずから千余の将兵を率いて菅谷口から再度、富田城門目指して進撃したが、迎撃されて退却を余儀なくされた。しかし、このころから三沢為清・三刀屋久扶・本城常光ほか、芸・備・石の国衆らの尼子方寝返りが相次いだため、大内軍は義隆の命により、5月7日を期して全軍が撤退することとなった。
元就・隆元父子の率いる毛利勢は、この日(5月7日)宮ノ尾を撤収すると、星上山(意宇郡)峠を越えて熊野路に至り、古志・後浜(神門郡)を通って石見に入ったころ、大江坂の七曲で尼子方追撃軍の猛攻に遭遇した。元就自身、身代わりとなって奮闘して果てた渡辺通の働きに救われて、かろうじて虎口を脱して波根(石見安濃郡)に逃がれ、川本から吉田にほうほうの体でたどりついている。大内軍の殿軍をつとめての苦難で、一説に“元就七騎落ち”などと称される。
6月4日、米山城主の天野興定と誓詞を交換する。8月晦日、二男の小輔次郎が元服し、隆元の偏諱を受けて元春と名乗る。
 
天文十三年 1544 48歳 7月、大内軍を撤退に追い込んで意気あがる尼子勢七千余が備後に侵入し、三吉広隆の拠る比恵尾城(三次郡)に迫ったため、これを救援すべく25日、福原貞俊以下千余人の将兵を率いて郡山城を出馬し、28日に備後の府野(三次郡)に至って尼子勢と戦い、これを撃退する。11月、三男の隆景が嗣子を儲けずして病没した小早川興景の後継として、竹原(豊田郡)に入城する。当年十二歳。  
天文十四年 1545 49歳 11月晦日、正室の吉川氏(妙玖)が没する。享年四十七歳。  
天文十五年 1546 50歳 12月、家督を長男の隆元に譲るも、隠居はせず。 4月20日、北条氏康が武蔵河越城救援に出兵し、上杉朝定を討ち、同憲政を上野に、足利晴氏を下総に退ける。12月20日、義晴の子義藤(義輝)が将軍となる。
天文十六年 1547 51歳 2月21日、二男の元春を吉川興経の養嗣子とする契約が成立する。7月19日、興経が元就・隆元・元春父子に起請文を認め、他意のないことを誓約する。8月1日、元就との約定にもとづき、興経が居城の新庄火ノ山(小倉山)城を出で布川に隠退し、跡目を元春が相続する。  
天文十七年 1548 52歳 6月18日、陶隆房の率いる大内軍とともに備後に進撃し、山名理興の神辺城(安那郡)を攻める。  
天文十八年 1549 53歳 2月14日、元春と隆景をともなって吉田を出発し、山口に向かう。26日に山口に入り、3月1日、築山館に主筋の大内義隆を訪問する。
5月18日、山口浄光寺の宿所を発って帰途につくが、この間、留守を預かる長男隆元と義隆の養女(内藤興盛の娘、尾崎の局)との婚約を調え、元春の吉川氏相続の承認(4月22日)を得、さらに元春と陶隆房の兄弟契約(4月30日)をも結ぶ。大内家中の混乱(当主義隆と宿老隆房との対立)に乗じての積極外交で、毛利氏の存在を内外に印象づける。
9月4日、城主の山名理興が出雲に逃亡したのにともない、長期包囲攻撃を強いられていた備後の神辺城が陥落する。
7月3日、イエズス会宣教師シャピエル(ザビエル)が鹿児島に上陸する。
天文十九年 1550 54歳 2月6日、元春に、合わせて五百貫の地を与える。この月、元春が家臣三十六名を従え、新庄火ノ山(小倉山)に入城する。7月13日、極秘のうちに老臣の井上元兼一族を誅戮する。井上元有を三男隆景の居城竹原に、井上就兼を郡山城にそれぞれ誘き出して謀殺し、さらに彼らの居館を宿老の福原貞俊らの率いる三百騎の軍勢で襲撃させ、元兼父子以下三十余人を斬殺させたものである。事前に主筋の義隆から許可をえ、家中には事後ただちに元兼を弾劾した罪状書を公表することで、その動揺を防いだのだった。
9月27日、元春の岳父熊谷信直や天野隆重らと謀り、吉川興経の隠居所布川(安芸安佐郡)を奇襲して、興経と千法師父子を殺害する。ここに元春の吉川家督の地位が確立し、この10月、小早川氏の家督となって、沼田高山城に入城した隆景と共に毛利宗家を支えるという、毛利両川体制が成立。
 
天文二十年 1551 55歳 8月20日、安芸佐東の銀山城を攻略する。24日、陶隆房から彼と兄弟の契りを結ぶ二男の元春のもとへ、クーデター計画の通知が発給される。28日、隆房が主君義隆の本拠地山口を襲撃する。
9月1日、大内義隆が隆房の反乱軍に追われ、長門深川の大寧寺で自刃する(大寧寺の変)。元春から隆房の挙兵を知らされていた元就は、9月6日、元春に対して隆房への合力を伝える。9月4日、頭崎城(安芸賀茂郡)を攻略して城主の平賀隆保を切腹させ、のち遺領を平賀広相に相続させて、彼と隆景との間に兄弟の契約を結ばせる。
9月1日、大内義隆が老臣の陶隆房に襲撃され自殺する(大寧寺の変)。
天文二十一年 1552 56歳 3月1日、陶晴賢(隆房)の擁立した晴英が大内氏の家督となって義長と改名する。この月元就は、隆元・元春らをして安芸四条の槌山城(賀茂郡)を攻めさせ、城主の菅田宣実を屈服させる。7月23日には備後志川の滝山城(深安郡)を攻略して、城主の宮光寄を追う。 正月月10日、関東管領上杉憲政が上野の平井城を北条氏康に攻められ、越後の守護代長尾景虎を頼る。将軍義藤(義輝)が三次長慶と和し、近江の堅田から帰洛する。
天文二十二年 1553 57歳 正月22日、嫡孫の幸鶴丸(輝元)が郡山城内で誕生する。2月15日、備中に攻め入って成羽城主の三村家親を支援し、猿掛城主の穂田元資を攻めて4月5日にこれを屈服させる。
備後にあっては7月23日、祝甲斐守の高杉城(双三郡)を攻略し、10月19日に江田隆連の守る旗返城(双三郡)を陥れて隆連を追い、12月4日には冑山城(比婆郡)主山内隆通を服属させる。さらに13日、多賀山城主の多賀山通続を降服させる。
 
天文二十三年 1554 58歳 3月、大内義長を奉じて石見に入った陶晴賢(隆房)が、翌4月から吉見正頼の居城三本松城(鹿足郡)の攻撃を開始すると、5月12日、元就は晴賢と断交して三千余騎を率い、安芸国内における彼の与党の掃討に着手した。
これまでは半年以上にわたって晴賢と正頼の双方に来援希望を抱かせるという、二股外交を展開してきたのだが、「晴賢一期のうちには必ず毛利家を倒そうとするであろう」との結論のもと、彼との決戦に踏み切ったのだった。
粟田肥後入道らの守備する佐東銀山城を降し、己斐豊後守の拠る己斐城を抜き、草津城や毛利与三らのよる桜尾城をも攻略して厳島対岸の廿日市に進撃すると、洞雲寺に布陣し、草津に児玉就方、桜尾に桂元澄を配して晴賢勢への備えとした。
8月下旬、晴賢は吉見正頼と和してその包囲軍を安芸に進撃させた。宮川房長の率いる三千余はその先遣隊で、9月15日、毛利方の陣する廿日市の西方の折敷畑山に布陣してこれを牽制する態勢を整えた。これを偵察させた元就は、当日の午の刻(正午ごろ)、退路をも遮断する周到な掃滅作戦を敢行して房長ら陶方主力を壊滅させた(折敷畑の戦い)。
3月、駿河臨済寺の太原崇孚の斡旋により、甲斐の武田晴信の娘を相模の北条氏康の子の氏政に、氏康の娘を駿河の今川氏真に嫁がせ、甲駿相三国和平がなる。
弘治元年 1555 59歳 3月16日、晴賢(隆房)をして大内家中随一の名将とされた江良房栄を、岩国の琥珀院で謀殺させる。房栄内応の事実を反間を使って晴賢に密告させた結果で、労せずして敵方の帷幄を消し去るとともに、晴賢家中の結束にクサビを打ち込む効果があった。4月11日、矢野城を攻略して城将の野間隆実を降服させ、6月11日には、厳島の宮ノ尾城の完成にともなって己斐豊後守をこれに配した。
9月21日、晴賢の率いる防・長・豊・筑の四カ国の軍勢二万余が、五百余艘の警固船に分乗して厳島に渡航したことを知った元就は、27日、自ら本軍を率いて吉田を発し、28日、地御前火立岩(佐伯郡)に着陣して伊予水軍の来援を待ちながら、①第一軍が地御前の本陣から鼓ヶ浦に上陸して、宮ノ尾城籠城兵と晴賢本陣を攻める。②第二軍は塔ノ岡坂下(大鳥居)に上陸して正面攻撃を敢行する。③第三軍は小早川・村上両水軍で編成し、陶方水軍と相対するという作戦をたてた。
翌29日、河内警固衆や村上衆に対する軍令を発すると、ついに9月30日(晦日)、伊予村上水軍二、三百艘の到着に合わせ、日没後の闇夜を利用し、突発的な暴風雨もおしきって全軍渡航を命じた。
突撃の檄は10月1日の寅の刻(午前四時ごろ)である。不意をつかれたうえに、腹背から敵の攻撃を受ける破目になった陶軍はたちまち全軍総崩れとなって潰走し、総大将の晴賢も例外なく進退きわまって高安原に至り、自刃して果てた(自刃の場所については、「大江浦」や「青海苔浦」の説もあり)。享年三十五歳。10月3日には、最後まで頑強に抵抗していた弘中隆兼・中務丞父子とその将兵をも相次いで討ち取っている(厳島の戦い)。
10月8日、元就は本陣を周防の岩国に設けると、本格的な防・長経略に乗り出し、この日のうちに蓮華山城将の椙杜房康・隆康父子を服属させた。27日、大内義長に内応した鞍掛山城の杉隆泰を攻めてこれを討ち取り、閏10月28日には、小早川隆景勢に命じて由宇・宇賀島の両一揆を鎮圧させる。
 
弘治二年 1556 60歳 2月、高森城将坂元祐や三分一氏らに山代(玖珂郡)八ヶ村の一揆を鎮定させる。4月20日、熊谷信直ら五千余の将兵に、都濃郡須々万沼城への攻撃を命じる。籠城兵力は城将の山崎興盛の率いる兵士と、一揆農民ら合わせて一万余。9月22日、隆元勢をして再び沼城を攻めさせる。 4月20日、美濃の斎藤道三(利政)が子の義龍と長良川に戦い敗死する。
弘治三年 1557 61歳 3月2日、沼城の総攻撃を決行し、城将の山崎興盛をして開城させる一方、自刃を命じる。8日、富田の若山城を攻略し、城将の陶長房を自刃させる。28日、且山城(長府)を包囲攻撃して二の丸と三の丸を攻略する。ついで4月2日、且山城将内藤隆世に本丸を開城させたうえ自刃させ、ここから谷の長福院(功山寺)に移して助命を約束した大内義長をも、3日、同院において自決させる(大内氏の滅亡)。23、防府を出立して吉田郡山城に凱旋する。
11月25日、隆元・元春・隆景の三子宛に教訓状を認め、相互協力と結束を呼びかける。翌26日、三子が連署で教訓状の遵守を誓約する。以後、長男隆元の嘆きがなくなる。12月26日、防長両国の平定がなり、吉田に凱旋する。
 
永禄元年 1558 62歳 2月27日、元春・福屋隆兼の将兵が石見の出羽表において、須佐高矢倉城(出雲飯石郡)将本常光や温湯城(石見邑智郡)主小笠原長雄、それに牛尾幸清らの尼子方部将の率いる将卒と戦い、これを破る。
自ら隆元や隆景ら主力軍を率いて石見に進撃した元就は、同国の出羽で元春勢一千余と合流し、5月20日、総軍一万二千余で小笠原長雄のよる温湯城を包囲し、石見経略の緒につく。7月5日、尼子方の総帥晴久が自ら八千の軍勢を率いて江ノ川まで長雄の救援に進撃したが、増水で大田(安濃郡)まで撤退する。
この月下旬、晴久指揮下の尼子軍が大森銀山城(山吹城)を包囲して糧道を遮断する。8月下旬、温湯城の長雄が服属したが、その給与地をめぐって音明城(那賀郡)主福屋隆兼が毛利氏に反発する。9月3日、大森銀山城将の刺賀長信と高畠遠言が尼子方包囲軍に屈し、自刃する。
11月27日、将軍義輝が六角義賢の斡旋で三好長慶と再び和す。この年、邦民(日本人)が明の沿岸を侵略する。
永禄二年 1559 63歳 この年の春、元就、隆元父子が即位費用を献資する。7月、元就みずから芸・備・石三国の将兵一万四千を率いて銀山(山吹)城を襲撃し、失敗する。 2月2日、信長が上洛して将軍に謁見する。4月27日、長尾景虎が五年ぶりに上洛して義輝に謁見。宣教師ガスパル=ヴィレラが豊後府内から上洛する。
永禄三年 1560 64歳 正月27日、正親町天皇の即位式が挙行される。2月15日、献資の功により元就が陸奥守の受領と菊桐の紋章を与えられ、隆元が従五位下、大膳大夫に叙任される。21日、隆元が安芸守護職に補任される。8月8日、将軍義輝か羅元就に対し、錦直垂が与えられる。12月8日、元就と隆元が父子揃って幕府の重職である相伴衆に列せられる。24日、当面のライバル尼子晴久が没する。享年四十七歳。嫡子義久が家督となる。 5月19日、信長による桶狭間の奇襲戦で、西上の途についていた今川義元が討ち死にする。
永禄四年 1561 65歳 3月26日、長男の隆元と吉田を出発して三男隆景の居城雄高山(高山)に至る。滞在十日にして閏3月6日、吉田に帰城。元春はこれに加わらなかったが、代わりに元春の岳父の熊谷信直が参加して毛利両川のバランスが確保されているから、三家の結束を確認する意味合があったのであろう(雄高山の饗宴)。4月、改めて隆元に銀山山吹城を攻めさせたが、またしても成果を得られず。
この間、小笠原長雄の帰属を巡って元就に不満を抱いていた福屋隆兼が、款を尼子氏に通じたため、石見の形成が不穏になる。
元就は6月、「下ロ」(九州方面)に軍勢を集結させ、豊前国内において大友宗麟(義鎮)の軍勢と干戈を交えるにいたったので、石見音明城の隆兼に対しては、彼の二男の次郎を幸鶴丸(輝元)の近習に人質として差し出させることで両者の関係の修復を図った。
しかし、隆兼が尼子方の鰐走城(安濃郡)主牛尾久清に支援を求める一方、11月6日、温泉津城(邇摩郡)の湯惟宗と連携して吉川経安の守る毛利方の福光城(邇摩郡)を挟撃した。このため元就は、豊前の経略を俟って福屋攻めを行うこととし、そのための戦略として、室町幕府十三代将軍足利義輝の推進する芸(安芸)・雲(出雲)和平調停を活かし、福屋隆兼が頼みとする尼子義久(晴久の嫡子)との講和を決断した。
つまり、元就自らこの月(11月)河本(邑智郡)を攻略して矢上城(同郡)に攻め寄せ、当地において12月、豊前を平定した三男の隆景を迎え、同じく下ロに転戦していた隆元を待つ間、尼子氏との間に和平神文(講和誓約書)の交換を済ませたのだった。
9月10日、関東管領の上杉政虎(長尾景虎=謙信)と甲斐の武田晴信(信玄)が千曲川と犀川の合流地点に近い八幡原で激戦を展開する(川中島の合戦=四回戦)
永禄五年 1562 66歳 正月、矢上の陣所に隆元を迎え入れると、2月2日、本陣を三原(邑智郡)に移し、4日、隆兼の次男の二郎や尼子氏部将牛尾久清らの籠居する川上の松山城を包囲し、5日から総攻撃を加えて6日には福屋二郎(隆任)らを討ち取り、これを陥城させた。翌7日、元就は阿登ノ市(那賀郡)に進撃して隆兼の本拠地音明城(同郡)に攻め寄せ、彼を追いやって城地を接収する。
やがて将軍義輝が推進するもう一方の芸・豊(大友氏)和平の交渉が進展すると、尼子氏と締結して間もない和約を破棄し、総勢一万五千余の将卒を率いて石見から尼子氏の本領出雲に侵攻し、7月28日、赤穴(飯石郡)に着陣した。11月5日、元春に命じて毛利氏に寝返っていた本城常光とその一族をことごとく誅殺し、居城の大森銀山を奪取する。
12月4日、杵築大社に社領を寄進して武運長久を祈る一方、10日、本営を赤穴から洗合(八束郡)に移して城塁を築き、長期戦に備える。21日には、嫡男の隆元が彼の息災延命を祈って厳島社に願文を奉納する。
 
永禄六年 1563 67歳 3月、大友氏との和約が成る。8月4日未明、嫡男で当主の隆元が和智城(双三郡)主和智誠春の饗宴帰途に急病を得て急逝する。享年四十一歳。
訃報に接して弔い合戦を尼子方に挑み、松田誠保の守る白鹿城(八束郡)に攻め寄せて13日、その外郭の小白鹿丸を陥落させる。9月11日、白鹿城本丸に向けて掘削した坑道が城方の掘った横穴につながり、坑道内の戦い起こる。23日、尼子倫久(義久の実弟)の率いる一万余の白鹿救援軍の虚をつき、その背後を襲って富田城に潰走させる。
10月13日、白鹿城本丸から六、七町に位置する小高丸を陥落させる。11月10日、洗合の本営に凱旋する。15日、弓浜に入った兵糧船から物資を富田城に搬入しようとした尼子勢二千余を撃退する(弓浜合戦)。
 
永禄七年 1564 68歳 7月、上旬に伯耆の川岡城山田満重が、攻め寄せた尼子勢を撃退する。25日、豊後府内の大友宗麟(義鎮)とその老臣らから、元就・元春・隆景に和平神文(講和誓約書)が発給される(芸・豊和平の成立)。  
永禄八年 1565 69歳 2月26日、吉田郡山城内において、十三歳に達した嫡孫幸鶴丸の元服式をあげ、将軍義輝の偏諱を受けて輝元と名乗らせる。4月16日、尼子義久の本拠地富田城麓に攻め寄せて一帯の麦を刈りとらせ、翌17日、芸・備・防・長・石五カ国の軍勢をもって、三方から富田城に総攻撃を加える(輝元の初陣)。
8月6日、富田城の外郭拠点である伯耆の江尾城(江美城=日野郡)を攻略して城将の蜂塚右衛門尉を切腹させ、9月3日には同じく吉田源四郎の守る大江城(同郡)を陥落させる。20日、輝元、元春、隆景らに総勢二万五千の将卒を率いさせて富田籠城将士に圧迫を加える。
5月19日、将軍義輝が三好義継や松永久秀らに殺害される。
永禄九年 1566 70歳 兵糧補給路の遮断を徹底させる一方で富田城籠城将士に投降を呼びかけ、牛尾久清・湯惟宗・亀井秀綱らを誘降して義久を攪乱し、正月朔日(元日)、彼をして尼子家老臣の宇山久信・弥四郎父子を上意討ちさせる。この春、洗合の本営で病臥するが、京の名医曲直瀬道三の下向と診療により3月14日、全快する。
11月21日、富田城の開城と降服を願い出た尼子義久に対し、義久兄弟の除名と安芸在住を条件にこれを許す。まもなく籠城者を解放し、城地を接収。
 
永禄十年 1567 71歳 正月、末子(九男)の秀包(母は乃美氏)が誕生する。2月9日、曲直瀬道三から九ヵ条の意見書を受ける。19日、洗合の本営を撤収して吉田に凱旋する。3月7日、隆元頓死の際に随伴していた赤川元保に切腹を命じる。6月に吉田の満万願寺で幸若大夫の幸若舞を催し、11月、中旬に京都から観世大夫の宗節一座を招き、郡山城内で祝勝能を張行する。12月23日、興禅寺の境内で観世猿楽を張行して領民に楽しませる。 8月15日、織田信長が美濃の稲葉山(井ノ口)城を攻略して同国主の斎藤龍興を追放し、当地を岐阜と改称する。
永禄十一年 1568 72歳 3月から4月にかけて輝元・元春・隆景と宍戸隆家らの率いる総勢二万五千余の軍勢を伊予の道後に上陸させ、湯月城主河野通直を支援する。宇都宮豊綱勢を攻め立て、4月24日、その属城上須戒(喜多郡)を攻略し、5月には大洲城を攻め落として城主豊綱を降伏させて伊予一国を平定。
6月3日、吉田に凱旋した元春と隆景を九州に出陣させる。7月23日、配下の立花城(筑前宗像郡)が大友軍に攻め落とされる。9月、元春・隆景の軍勢で豊前の三岳城を攻略して逃走した城将の長野弘勝を切腹させる。11月6日、筑前の馬見に築城を開始し、立花城攻めの拠点とする。
9月26日、織田信長が足利義昭(義秋)を奉じて上洛をとげる。10月18日、義昭が征夷大将軍に任ぜらる。
永禄十二年 1569 73歳 4月16日、元春・隆景の軍勢四万余をもって立花城奪還の包囲攻撃を開始する。閏5月3日、大友宗麟の六万余の救援軍をも退け、城を開城させる。
6月23日、尼子氏の遺臣山中鹿之助幸盛らが尼子勝久を擁立し、出雲の忠山(八束郡)で再興を画策する。8月12日、九州立花城の陣にあった高瀬城将の米原綱寛が勝久に内応する。10月12日、毛利方の混乱に乗じ、亡き大内義隆の従兄弟で宗麟の女婿でもある大内輝弘が周防の山口に乱入する。15日、立花城にあった毛利両川軍が撤退し、渡海して18日に長府の本営に帰陣する。21日、元春勢一万を長府から輝弘攻めに出陣させ、25日、輝弘を周防の茶臼山(佐波郡)に追い詰めて切腹させる(享年五十歳)
 
元亀元年 1570 74歳 正月6日、元就が郡山城で軍議を開き、出雲遠征を決める。28日、輝元の率いる一万三千の本軍が出雲の多久和城(飯石郡)を攻略し、城将多久和大和守以下の将士を殺害する。2月14日、尼子勢を布部(能義郡)に粉砕し、翌15日、輝元・元春・隆景らが相次いで富田に入城する。4月17日、出雲の三笠山城(牛尾城=大原郡)を攻略し、城将の牛尾弾正忠らを殺害する。10月、古志重信の拠る同国の十倉城(同)を攻めて開城させ、11月2日、重信の服属を許す。12月、元春に満願寺城を攻めさせ、12日にこれを陥落させる。 6月28日、織田信長と徳川家康の連合軍が、近江の姉川畔で浅井長政・朝倉景健の連合軍を破る(姉川の合戦)。9月12日、本願寺光佐(顕如)が信長に反抗して挙兵し、諸国の門徒に檄を飛ばす。
元亀二年 1571 75歳 3月19日、元春や宍戸隆家らに高瀬城を攻略させ、城将の米原綱寛を尼子勝久の拠る新山城(島根郡)に追放する。5月、元就の病が悪化し、6月14日巳の刻(午前十時ごろ)、吉田郡山城中で没する。死因は膈疾が嵩じた結果の虫気。 3月、大村純忠が長崎を開港し、前年来航のポルトガル船に備える。9月12日、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにする。



(プレジデント社 「毛利元就」 堺屋太一、山本七平ほか 1997.02.07 より引用)

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