彼と彼の故郷について (仮題) 毛利姓の由来

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毛利姓の由来


<概略>


相模國愛甲郡毛利庄より起こる。この地は一に森に作り、東鑑、養和元年正月十八日條に「相模國毛利庄住人印景を学道となす。此の兩三年・南都に在り。彼の滅亡に依りて帰國云々」とあるを初めとし、建久五年八月、将軍家・相模日向山参詣條に、「因幡の前司(大江広元)・下毛利庄に於いて、駄餉を献ず」ともありて、大江広元・此の庄を知行し、其の三子四郎将監季光に傳ふ。(中略)猶ほ之より前、平治物語に「陸奥六郎義隆は源義家の子にて、毛利冠者と称したり」とも云い、又東鑑、治承四年八月に、毛利太郎景行、建保和田乱の時、毛利小太郎、同小次郎などを載せたり。
建久年中に至り、広元・毛利庄を知行し、之を其の子西阿入道季光に譲り、季光・宝治元年、三浦黨に興して自殺したれば、其の領庄の興奪も如何なりしか詳かならず。また五雑俎に此の庄の寺僧定心・西土へ渡り、宋朝嘉定八年に死せるを録し「相州行香縣上守郷元勝寺僧云々」とあり。下りて天正、慶長中の文書に多く森庄と云へり(新編相模風土記、地名辞典)と。


<安芸毛利の祖とされる大江姓からの系譜>

相模國愛甲郡の毛利庄より起る。前に云へり(※概略参照のこと)。その系は大江氏系図に「広元-季光-(毛利四郎、安木守、左近将監。尊卑分脈には安芸介、法名西阿、号毛利入道、従五下、関東評定衆と)-<系図省略>と載せ、又藩翰譜に「毛利中納言輝元入道宗瑞は、参議大江朝臣音人十代の孫、前陸奥守正四位した広元の後胤なり。家の系図には『平城天皇の皇子阿保親王の御子、備中守本主の子、音人初めて大江の姓を賜ふ』としるせり。新編纂図も是れに同じ。ただ『本主に姓を賜ふ』を記るせるのみ異なり。本朝皇胤紹運録には、音人を阿保親王の御子の列に載せたり、然れば大江の姓は阿保親王の御末と見えたり。されども、公卿補任には『大江朝臣音人は備中介正六位上本主が男、先祖本姓は土師なり。延暦天子の外戚を以って改めて大枝となる。音人に至って、枝を改めて江となす。母は中臣氏、阿保親王の侍女云々』と。拾芥抄に『大江は右京の人土師の宿祢浄継、大枝の朝臣の姓を賜ふ。貞観八年三月二十二日、大江とす』と。此の二書に依れば、大江はもと土師姓なり。新撰姓氏録に、土師は天穂日命十四世の孫、野見宿祢の後也とあり。されば大江の先は天穂日命より出で、平城天皇の御裔にはあらず。江談抄を見るに『菅家は土師姓なれば子孫多けれども、官位至らず』とて、土師姓の事を誹りてしるす事あり。江師・自ら土師の子孫たらんには、おのが先祖の事、かくはなどいひけん。公卿補任には『母は中臣氏、阿保親王の侍女』とあれば、もしくは音人・実は親王の御子なるを、本主が子とせしにや、覚束なき事なり(大江條を見よ ※ここには載せません)。
広元・初め鎌倉右大将家の政所の別当となり、頼経の時に至って、四代将軍の遣老、当代の有識にて、凡そ将軍家の例式、多くは此の人の撰み定めし所なり。広元の四男毛利左近将監季光(秀光)、始めて安芸介に任ず。季光を新編纂図に季元につくる、又毛利を名のる事、東鑑を按ずるに、広元・相模國毛利の庄を領せしと見ゆ、子息等初めて、かくは名のりしにや、」と見ゆ。
又、経光の男に左近大夫時光(因幡守、熱田大宮司)、政光、時親の子に貞繁あり。


角川書店 姓氏家系大辞典第三巻 ナ-ワ S38.11(初版) H7.6(12版) 引用
(旧字体を一部新字体に改めました)