彼と彼の故郷について (仮題) 戦国時代の中国地方

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戦国時代の中国地方


山口県(周防・長門)


【政治・軍事】
 周防・長門両国を基盤として周辺諸国に勢力をおよぼしていた大内政弘は、1477年の応仁の乱の終息とともに帰国し、以後多くの大内家壁書を発布するなどして領国の統治につとめた。その子義興は、1508年流浪の将軍足利義稙を奉じてふたたび大挙上京し、10年間中央政界を牛耳った。さらに大内氏は、1523年の寧波の乱で、細川氏との対明貿易をめぐる主導権争いに勝利した。
 この頃より出雲尼子氏の勢力が強大となり、中国地方の政治情勢は、両者の対立を基軸として展開するが、1541年尼子氏が安芸遠征に失敗、1543年には大内氏も出雲遠征に失敗した。そして1551年、大内義隆は重臣の陶晴賢によって自刃に追いこまれ、大内氏は滅亡した。かわって大内氏の支配権を事実上掌握した陶氏は、大友宗麟の弟晴英(大内義長)を当主に迎えた。
 安芸国人層の中核的存在であった毛利元就は、1554年石見の吉見氏攻撃中の陶氏と断交し、1555年の厳島の戦いによって陶氏を倒した。これを契機に周防・長門両国への侵攻を開始し、1557年には大内義長を自刃させて両国を制圧した。以後、山口に地域支配機構として山口奉行をおき、大内氏の領国支配を一定程度継承しながら両国への支配を深化させていった。
 1591年毛利輝元は、豊臣秀吉に安芸などとともに防長両国も安堵された。しかし関ヶ原の戦いで敗北し、旧領のうち防長の2国だけに減じられた。

【生活・産業】
 赤間関(下関市)は、瀬戸内海と日本海を結ぶ要衝である。山口県は長い海岸線をもち、西国の幹線ルート瀬戸内海を介した交通・流通、赤間関や日本海の見島などを拠点にした大陸との交易が、さまざまなレベルで盛んであったと思われる。
 また、とくに長門には、長登銅山(美東町)をはじめとする多くの銅山が存在した。さらに長門国衙鍛冶櫟木(いちき)氏・安尾氏や、防府鋳物師の活動も注目される。また、鎌倉時代初期、重源が東大寺再建で周防国佐波郡と長門国阿武郡から木材を伐りだしたように、両国の山間部には良材が多かった。

【文化・宗教】
 戦国時代の周防・長門両国には、大内氏の本拠である山口を中心に「大内文化とよばれる質の高い文化が展開していた。山口には、南北朝時代以来、多数の五山僧や公家など文化人が下向し、西の都と称せられた。たとえば15世紀後半には雪舟等楊が長期にわたって滞在し、多くの山水画と庭園を残したし、飯尾宗祇も2度山口を訪れて和歌・連歌を盛んにした。また、勘合貿易で明の文化も流入し、国際色豊かな文化をかたちづくった。
 応仁の乱以後には、荒廃した京都からさらに多数の公家が下向し、戦国時代も、遣明使節の天竜寺の策彦周良が明からの帰途に寄寓したほか、南村梅軒、南禅寺の梅屋宗香、大徳寺の玉堂宗条らが山口に住し、五山文学を広めた。天文年間(1532~55)には、明国人の張忠が儒学・医学を伝え、大内氏やのちには毛利氏に仕えた。大内氏は、これらの文化人を優遇するとともに、みずから仏典刊行と典籍収集につとめた。
 一方、1550年に、フランシスコ・ザビエルが京への途次、山口を訪れた際にも、大内氏は保護し、翌年には5ヶ月滞在して布教を認められている。


広島県(安芸・備後)


【政治・軍事】
 安芸・備後両国の戦国時代は、毛利氏の成長の歴史といえる。
 安芸は、室町時代以来、国人一揆による秩序形成がとくに重要な意味をもった地域である。戦国時代の代表的な国人領主として、毛利氏・高橋氏・両小早川氏・吉川氏・宍戸氏・熊谷氏・両天野氏・阿曾沼氏・平賀氏・野間氏をあげることができ、彼らによって構成される領主連合の自立性は非常に強かった。
 毛利元就は、高田郡の一国人領主だったが、周防大内氏と出雲尼子氏との対立のはざまにあって、1529年には、尼子方となった安芸北部・石見東部の有力領主高橋氏を滅亡させ、1541年には、山県・佐東・阿南3郡の分郡主だった武田氏を破り、支配領域を飛躍的に拡大させた。さらに、1544年と1551年には、元就の三男隆景が両小早川氏のあとをつぎ、1547年には、元就の次男春元が吉川氏をついだ。また毛利氏は、大内氏の安芸における軍事指揮官として機能し、その影響力はほかの国人領主にぬきんでたものとなった。もともと毛利氏は、国人領主連合の盟主的存在であったが、以上のような政治的・軍事的方策によって、その主導的立場をさらに強めた。また1550年には、元就が、みずからの権力を制約する有力譜代家臣井上氏一族を粛清し、家中の統制も強化した。
 1551年に周防大内氏が滅亡すると、その実権は大内氏の重臣陶晴賢に移り、1554年ついに毛利氏は陶氏と断交した。そして1555年の厳島の戦いで陶氏を破ると、その勢力を周防・長門両国へと急速に展開した。その後、毛利氏は中国地方の大半を抑え、1591年元就の嫡子輝元(私注:資料原文どおり。正確には嫡孫に当たります)は築城なった広島城をその本拠にした。毛利氏の大名化の契機をどこに求めるかについて諸説あるが、戦国期を通じて国人領主連合の盟主という側面は消えなかった。関ヶ原の戦いののち、毛利氏は周防・長門に減封、福島正則が安芸と備後を領して広島に入封した。

【生活・産業】
 瀬戸内海に面する安芸・備後両国は、製塩と造船が盛んで、製塩は沿岸部・島嶼部で広く行われた。山間地域に産する鉄を加工する鍛冶・鋳物師(いもじ)の活動も多く、安芸の三入鍛冶・廿日市鋳物師、備後の宇津戸鋳物師・三原鍛冶・三原鋳物師などが有名である。いずれも戦国時代に需要が増し、生産量も増大した可能性が高い。備後国沼隈郡城などに産する藺草(いぐさ)を原料とする「備後表」は、1460年にはじめて史料にあらわれた。

【文化・宗教】
 戦国時代の広島県を代表するものとして、厳島神社信仰と「安芸門徒」とをあげることができる。安芸国一宮厳島社は、大内氏・毛利氏の篤い保護をうけ、また多数の中央文化人が来訪するとともに、対明貿易の中継点の一つにもなって、さまざまな要素を含む厳島文化を形成した。その一方で、厳島信仰は庶民にも浸透した。
 広く庶民の心をとらえたのが浄土真宗である。中国地方に真宗を広めた明光派は、当初備後国山南村(沼隈町)に拠点をすえたが、戦国時代には安芸国高田郡へ本拠を移し、安芸での布教につとめた。やがて天文年間(1532~55)以降、本願寺勢力が伸長し、他宗から転宗する寺院が急増した。こうして、「安芸門徒」が形成されたのである。


島根県(出雲・隠岐・石見)


【政治・軍事】
 出雲国の戦国時代は、尼子氏の盛衰の歴史である。出雲守護京極氏の守護代尼子氏は、応仁の乱で海上勢力の松田氏をはじめとする西軍方国人領主の攻撃を退け、日本海水運の要衝美保関と出雲東部を支配下におさめた。1509年の京極政経の死去によって守護権限を事実上継承した尼子経久は、さらに天文年間(1532~55)の初頭頃までに、出雲最大の経済的要地である出雲平野に基盤をもち、幕府奉公衆をつとめた塩冶(えんや)氏を掌握・討滅し、出雲西部と河川の水運を掌握した。また、1543年には、三沢氏領の鉄の産地横田荘を直轄化し、最大の国人領主三沢氏の勢力を削減した。こうした着実な権力拡大によって、尼子氏は出雲を基本領国として確保し、これを基盤として活発な他国への侵攻を繰りかえした。
 戦国時代の石見は、大内氏・尼子氏両勢力のはざまにあって、国人領主連合が大きな意味をもつ地域だった。たとえば、益田氏領に隣接する吉見氏や、益田氏と同族の三隅氏は、室町・戦国期を通じ益田氏と対立関係にあったが、そのつど起請文を取りかわして紛争を解決しようとした。尼子氏の勢力は最盛時にも西部にはおよばず、大部分は大内氏勢力下にあったといえるが、1551年の大内氏滅亡で、石見の政治情勢は非常に不安定となった。
 毛利氏による石見侵攻は、陶氏滅亡後の1556年より、毛利元就の次男吉川元春によって開始された。毛利氏は早い段階で益田氏など多くの国人領主を味方に引き入れたが、小笠原氏や、尼子氏へ転じた福屋氏など、石見東部の尼子方との間で激しい戦闘をまじえた。そして、1562年6月に石見銀山を奪取して、ようやく石見を制圧した。
 ついで、7月には出雲への進撃を開始し、1566年11月に尼子氏を滅亡させ、出雲・隠岐・石見3国をその支配下に組みこんだ。毛利氏による山陰支配の担い手は吉川春元であり、「毛利両川体制」の一環として、とくに国人領主層の掌握に重要な役割を果たした。
 毛利氏による支配は、豊臣政権下においても継続された。しかし関ヶ原の戦い後に毛利氏の勢力は一掃され、堀尾氏が入部し、松江城を築城した。

【生活・産業】
 戦国時代の島根県を代表する物産は、鉄と銀である。鉄が宇竜浦(大社町)などから積みだされている事実は、この地域の鉄が日本海ルートを介して広く流通していたことを示している。出雲三沢氏や石見高橋氏・佐波氏が山間地域に本拠をもちながら、それぞれ国内最大級の勢力を有していた理由は、鉄を掌握していたからであると思われる。また、石見銀山は、1526年に博多商人の神谷寿貞が新たな坑道を開いて以降、急速に産出量がふえたと伝えられる。

【文化・宗教】
 出雲国一宮の杵築大社(出雲大社、大社町)は、国を越えて広く信仰された。戦国時代には、国造家被官である御師の活動が活発化し、大社信仰の拡大・浸透と商品流通の発展に寄与した。なお、天正年間(1573~92)に上方では、「阿国かぶき」がおこったが、その創始者出雲阿国は杵築大社の巫女であったともいわれる。
 鰐淵寺(平田市)は、伯耆大山寺とともに山陰地方を代表する、天台宗の大寺院であり、杵築大社の祭礼三月会に深くかかわるなど、同社とのつながりが強かった。一方、浄土真宗の寺院も多いが、これは備後・安芸への布教を進めた明光派の教線がおよんでいたためである。禅宗では、長く伯耆に滞在し、尼子経久と親交のあった相国寺の惟高妙安の存在が知られている。また雪舟等楊は、文明年間(1469~87)の数年間、石見益田氏のもとにあり、医光寺・万福寺(益田市)庭園をつくった。


岡山県(備前・備中・美作)


【政治・軍事】
 備前・美作は中世後期を通じ赤松・山名両氏による争奪が繰りかえされたが、山名政豊の勢力が交代した1487年以降は、赤松氏が守護職を相承していった。しかし、しだいに国内領主層の自立性が強まり、とくに1518年守護赤松義村が、守護代浦上氏攻撃に失敗し、1521年自刃に追いこまれて以来、備前の事実上の主導権は、東部一帯に勢力をもつ浦上氏が握った。
 浦上氏はその後本拠を吉井川の要衝天神山城(佐伯町)に移し、さらに勢力を拡大した。このほか、備前には西部の松田氏・伊賀氏、美作では西部の三浦氏、中部の原田氏、東部の後藤氏・江見氏などをはじめとする多数の有力な領主が蟠踞していた。
 天文年間(1532~55)になると美作が出雲尼子氏の勢力下に入り、永禄年間(1558~70)には安芸毛利氏の侵攻が強まった。やがて宇喜多氏が急成長し、両国の大部分を制圧した。宇喜多氏は、もともと吉井川河口に本拠をもつ小規模な水上勢力のようだったが、天文年間から浦上氏の配下を脱して勢力を拡大した。1566年に備中三村氏、1568年に備前松田氏、そして1577年には浦上氏をそれぞれ滅ぼした。この国の、守護赤松氏→守護代浦上氏→守護代家臣宇喜多氏、という主導権の移行は、下克上の典型を示すものだった。
 備中の守護職は細川氏が有していたが、国内領主層の自立性が強く、1491年に南部で守護代だった荘氏が反乱を起こしたほか、中部の三村氏、北部の新見氏などが勢力を強めていった。しかし、美作と同様に尼子氏・毛利氏の侵攻をうけ、政治情勢は複雑化した。
 天正年間(1573~92)には備前・備後・美作が毛利・織田戦争の主要な戦場になり、高松城(岡山市)攻防戦の最中、本能寺の変が起き、城主清水宗治の切腹を条件に和睦して戦争は終わる。この間有力な領主や土豪層の多くが滅亡した。
 豊臣政権下には、備中高梁川以西が毛利領、それ以東の備中と備前・美作は、対毛利戦で先鋒をつとめた宇喜多氏に領された。宇喜多秀家はこの時期岡山城の築造と城下町づくりに力をそそいだ。徳川政権になると、豊臣方に属した大名は一掃され、小早川秀秋、森忠政、小堀正次らが入封した。

【生活・産業】
 岡山県の中世以来の著名な物産として備前焼と長船鍛冶があげられる。戦国時代の備前焼は、茶器や花器よりも日用雑器類が主流であった。また名刀として知られた長船刀も、この時代は大量生産によって品質をおとしていたといわれる。

【文化・宗教】
 中世の岡山県は法然・栄西など著名な仏教思想家を生んだ。また備中には禅宗寺院が多く、山間部には密教寺院、備前南部を中心にした地域には、日蓮宗の寺院が多い。とくに「備前法華」といわれる日蓮宗は、松田氏・宇喜多氏の庇護によってさらに広まったと考えられ、牛窓の本蓮寺が知られる。なお、備中の大井荘(総社市)は、画家雪舟等楊の生誕地である。



講談社 クロニック 戦国全史 1995.12 より引用