彼と彼の故郷について (仮題)

萩焼-読み物2 李勺光

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萩焼-読み物2 李勺光

-謎に包まれた初代の兄・李勺光の行方 伝統を築いた朝鮮の陶工は迷いを深めたのか迷いから覚めたのか-


囚われの身となった李勺光は一族も連れてくることに


 勺光が連れ帰ったのは、陶工とその家族11人と10歳の弟李敬である。母はすでに亡くなっていた。李敬は助八と名乗り、やがて初代高麗左衛門となる。
 秀吉に対する勺光の敵愾心は源十郎も理解できたが、よく聞くと仇討ちを考えているのではなく「己の作った茶碗で秀吉を心服させずにはおかぬ」というのだった。勺光は井戸茶碗を焼き続けた。だが、秀吉の死後は日本の窯に合ったやきものを自由に焼き始める。
 関ヶ原の後、勺光たちは山口に移った。ここで彼に悲劇が襲う。妻しずが子を産んで死んだのである。朝鮮の役で夫を失ったしずが、大阪で勺光の世話を引き受けたのは、その境遇に同情したからだろう。彼女の献身にどれだけ支えられたことか。彼の落胆はひどかったが、以前にもまして、作陶に打ち込むようになる。
 勺光が「死んだ」ことになってしまうのは、それからしばらくしてからだった。家康が秀吉から預かった陶工の話に触れたため「斬り捨てた」と毛利家が書状を送ったのである。勺光を連れ戻されないようにするための苦肉の策だった。


勺光を「斬り捨てた」ことに。毛利家が立てた苦肉の策


 関ヶ原の役(一六〇〇)後、西軍に属していた毛利輝元は、芸州藩から防長へ移封されてしまった。広島のデルタ地域に城を築いた天正十九年(一五九一)から一〇年も経たない境遇のさま変わりである。輝元は、指月山を背に、四、五年かかって萩城を造り、三十六万石の並み藩に落ちた。
 その輝元が文禄・慶長の役(一五九二~九八)のとき、朝鮮から連れ帰った李勺光を松本村中の倉に住まわせ、窯造りをさせたのは、単に茶の趣味に添わせるためだけではなかった。輝元にかぎらず、朝鮮へ出陣した九州諸藩はそれぞれ陶工たちを連れ帰り、九州の各地に窯を造らせたのであった。高取(福岡県)・上野(福岡県)・有田(佐賀県)・苗代川(鹿児島県)焼の興りである。萩焼もその一つだった。
 李勺光は、のちに長門深川の三之瀬に移ってここにも窯を拓き、中の倉の窯は弟の李敬が引き継いだ。深川萩の元祖が勺光、高麗左衛門と名を改めた李敬が松本萩の元祖である。
 三輪窯の開祖はこれら朝鮮系とは別だとする説があり、これによると天正年間よりさらにさかのぼった永正年間(一五〇四~二一)、大和(奈良県)の三輪にいた源太左衛門がはぎにきて築窯した、とされる。その孫の初代休雪から現在の十一代休雪にいたる家系である。
 御用窯のやきものは、幕府や諸藩への贈答品、家臣らへの褒賞に用いられた。茶の湯の黄金時代、「侘び茶」の流行が高麗茶碗を求めたから、朝鮮の陶工が作る陶器は李朝系のものになった。そのうち「井戸」に徹したのが萩焼の茶陶である。
 享保年間(一七一六~三六)、台道土が発見されてから、柔らかみと軽い味わいと窯変に富むこの台道土に、耐火力のある金峯土、萩の沖の見島で採掘された鉄分の多い赤土―見島土―の混合によって、一段と変化に富む萩焼が生まれた。
 台道土は焼結しにくい性質で、生地の収縮が少ない。そのため、半焼けが土の柔らかい質感を残す。生地と釉の収縮率のずれが亀裂を走らせ、“貫入”を呈する。
 ざらついた土の感触、箆(へら)跡はそのまま残るけれども、日用雑器には向かなかった。土の質が茶陶を選びとり、萩焼は茶道とのつながりに生きてきた。「一楽二萩三唐津」という茶陶器の品定めは、江戸時代から今日に及んでいるのである。


萩焼の土台を完成させた勺光はどこへ旅立っていったのか


 「窯を弟の助八に任せたい」という勺光を源十郎は戒めた。「さようなこと申してはなりませぬ」勺光は誰もが感心する茶陶を完成させている。家康が他界すれば堂々と窯の頭領を名乗れるに違いない。
 毛利家の築城場所が萩に決まった慶長9(1604)年、勺光は松本村中之倉に窯を構えた。雑器を焼いていたが茶陶もいくつか作り、善福寺の崗菴和尚に見せ批評を仰いだ。和尚は高麗茶碗を好まないという。日本的な茶碗ではないという言葉が勺光に衝撃を与えた。日本人でもなく、もはや朝鮮人でもないと考えていた彼は迷いを深める。その頃出会ったのが、定心坊という老人だった。
 現在の長門市湯本に一人きりで暮らし、気ままに器を焼く風変わりなこの人物は、武士だった若い頃、無益な殺生をしたという。勺光も自然と悩みを打ち明けた。その定心坊が死んだのである。京に骨を埋めてほしいという遺言を果たしたいと勺光は懇願し、源十郎はそれを許した。
 定心坊との短い交流の中で、勺光が何を考え、何を心に決めたのかわからない。
 京に向かった勺光は帰ってこなかった。



山海堂 私の創る旅9 やきものの里を歩く~窯元と陶工たちをめぐる旅~ 2000.04 より引用

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