彼と彼の故郷について (仮題) やきもの雑記
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やきもの雑記


宮島焼-神への感謝
 神砂焼(のすなやき)ともいう。厳島神社本殿床下の神砂をまぜた楽焼で、名古屋の不二見焼に似て黄色の肌をした茶碗や皿・土鍋などで、主として土産物とされた。
 芸州(広島県西部)から旅立つ人びとが、道中安全を厳島神社に祈願して、境内の砂を神砂符(のすなまもり)とし、無事帰国すると、これに他国の砂を加えて“砂返し”をしたというならいに由来する名で、天明・寛政(一七八一~一八〇一)のころ、単なる砂返しのかわりに、土器にして供えたのが興りといわれる。
 宮島に窯が築かれたわけではなく、砂は舟で江波皿山へ運ばれた。現在の広島市江波町の江波山東南麓に築かれた窯は、浅野藩の殖産万策の一つにほかならなかった。
 宮島焼の最盛期は、天保年間(一八三〇~四四)で、京から陶工を招き、鳥居・橋・紅葉の絵柄をあしらった陶器は、神砂入りゆえに評判をあつめたが、長くはつづかなかった。
 一方、江波皿山の窯では、江波焼といわれる磁器も焼かれていた。山水図、ぼかし染付、余白ある図柄が特徴の裏白皿だが、江波村の商人・冨士屋桂斎が、宮島焼も作ったため江波焼=宮島焼の称ともなった。
 神砂焼といい、江波焼といい、工芸をめざしたものではなかったし、名ある陶工も知られていない。

(以上 集英社 日本の技8 山陽・四国 潮の技 S58.11 より引用)



松本御用窯
坂家が代々作った茶陶は武士階級が独占していた
 李勺光の弟助八が初代坂高麗左衛門に任じられたのは、勺光が姿を消してから10年ほど後のことである。
 その後、勺光の高弟たちは独立して長門市の深川三ノ瀬に窯を開く。定心坊もかつて住んでいた土地だ。三ノ瀬窯は初めから自由な制作「自分焼」が認められ自家営業を行った。
 一方、高麗左衛門の松本窯は藩の御用窯であった。ここでは、毛利輝元が利休の弟子だったということもあり、茶陶を焼いていた。
 文化・天保の頃には民間窯との区別が厳しく、松本窯の作品は武士階級の独占下にあったようだ。

萩の七化け
瀬戸内から運ばれてくる土が萩独特のやわらかみを生む
 萩焼の器は使っているうちに、その色合いが変化してゆく。「萩の七化け」といわれる理由である。
 これは陶土に浸透性があって、焼き締まりが少ないためらしい。茶がわずかにしみこんでゆき、茶碗は時とともに異なった風情を醸し出す。
 伝統的な萩焼の土は、わざわざ瀬戸内沿いの防府市近郊大道村から運ばれてくる。この辺りの地層は朝鮮半島につながっているのだという。大道土が使われ始めたのは、坂家三代目からのようだ。
 手のひらに包み込むと、やわらかな土の感触がよみがえる器ができた。

楽焼
今に伝える京都の最も古い焼きもの
 千利休の指導のもとで茶陶を作ったことで知られる陶工長次郎は、中国から来た瓦工の家に生まれた。利休との出会いが彼を楽焼の祖とし、以来400年に渡ってその伝統が楽家に受け継がれることになる。楽の名は、聚楽第の土を用いたため付けられたといわれる。土は三世代をかけてねかせておくことになっている。
 長次郎の初期は赤い茶碗、完成期には黒い茶碗が焼かれたようだが、いずれもろくろを使わず、土を手で締め上げへらで削る。ふいごを利用した特殊な窯で、一碗ずつ焼くのが大きな特徴である。

京焼その後
元禄から享保の改革へ乾山後に転機を迎えた京焼
 元禄のバブル時代が終焉し、幕府が国家体制の引き締めを始めると、京焼も大きな転機を迎えることになった。各藩の窯が殖産興業のひとつとして発展してきたため、やきものは趣味ではなく産業のひとつとなる。その頃、五条坂に住む奥田穎川が磁器の焼成に成功したのだった。
 彼の門下には青木木米などのすぐれた作家が現れ、京焼は地方をリードする新たな作品を生み出してゆく。清水の五条坂はその中心地となり、かつて対抗していた粟田口の窯は姿を消した。清水焼の名はここで一気に広まったのである。

(以上 山海堂 私の創る旅9 やきものの里を歩く~窯元と陶工たちをめぐる旅~ 2000.04 より引用)