中山晋平

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抜粋先→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%99%8B%E5%B9%B3 1905年(明治38年)、故郷での代用教員の職を辞し上京、島村抱月の弟の縁により抱月の書生となる。1908年(明治41年)、東京音楽学校予科入学。翌1909年(明治42年)、本科のピアノ科に入る。1912年(明治45年)、梁田貞らと東京音楽学校本科卒業。東京都浅草の千束小学校音楽専科教員となる傍ら作曲を行う。島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」に参画し、1914年(大正3年)トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を作曲。『カチューシャの唄』は松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。翌年ツルゲーネフ『その前夜』公演の劇中歌『ゴンドラの唄』も大人気であった。 1918年(大正7年)島村抱月の死去により「芸術座」が解散。1919年(大正8年)斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』に童謡を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。その後暫く童謡の作曲からは遠ざかるが、代わりに佐藤佐次郎に恩師の本居長世を紹介している。1920年(大正9年)からは野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表した。他方、「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、野口雨情や西条八十、北原白秋等の作詞による、多くの曲を作った。 1922年(大正11年)千束小学校を退職。1928年(昭和3年)からは日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手 藤原義江、佐藤千夜子の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。1929年(昭和4年)西條八十とコンビで作った『東京行進曲』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録した。その後、アルト歌手四家文子、バリトン歌手徳山璉、藤山一郎(バリトン歌手・増永丈夫)ら東京音楽学校の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌った。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。 1944年(昭和19年)日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。戦後はほとんど曲を作ることは無かった。1952年(昭和27年)第2回紅白歌合戦の審査委員長を務める。同年12月2日に自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で観たがその翌日に倒れ、30日に膵臓炎のため死去。 「鹿児島小原良節」や「酋長の娘」のヒットで知られる芸者歌手、新橋喜代三(中山嘉子)は後妻。

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