大正10年12月の藤井清水作曲発表演奏会に先立った大阪時事新聞の記事

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 来る二十六日夜市民館の音楽堂でささやかな作曲演奏会を開く藤井清水氏は、わが大阪に恵まれた若い望み多い作曲家である。市民館が会館半歳の間に営み来った様々の文化事業中別けても目覚しく堅実な発達を遂げつつある大阪合唱団の指導者として、または若い日本の煩悶憂愁、さてはその若さのうちに醸され萌え出でんとする力を音楽の弾奏高唱の中に表現せんとする数々の歌謡の作曲家として、氏は去る八月聘せられて市民館の音楽室に入って以来この大阪のために意義深い貢献をなした人であった。氏は東京音楽学校甲種師範を大正五年に卒業し、爾来九州、小倉高等女学校の音楽教師として営々と自身の芸術の開墾養育に努力し、時折その独創的な各種の作曲を発表してきたのであったが、氏にとって今日まで三十三年の半生涯は決して光り輝くものではなかった。音楽学校在学中も氏はひたすら義太夫や都都逸に没頭し、そこから真個の日本人の旋律を求めようとし、卒業当時の如き反逆者として孤独の中に立たねばならなかった。二十六日の演奏会で氏は佐賀県鹿島女学校の権藤円立氏に氏の作品の独唱を依頼し、北原白秋氏作詞「黄昏の窓」(原題なかまほしさに)其他数種を発表する。  光輝燦爛たる音楽ではなく、一種のメロディアスな憂愁の色濃い氏の芸術の特色は必ずや何物かを大阪に与えずにはおくまい。氏はまた現に来春三月宝塚の少女歌劇で演奏される「成吉思汗」の作曲中である。

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