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ライムライト

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匿名ユーザー

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(1)
 夜明けの時を過ぎて空は青い涼やかな輝きを深めて行き、地平のワインレッドは少しずつ酔いを醒ましていった。夜中に街を通り過ぎた雨の残した空気は鮮度の高いキウイフルーツのようにひんやりとした汁気を含み、早起きの鳥は誰にも邪魔されない孤高を翼に掲げて野生の歌を天高く響かせる。
 僕はすでに荷造りを終えて駅へ向かうタイミングを計るように時計と空模様を見比べていた。この街の今日の天気がどんな風になろうともう僕に関係は無い。僕はこの街を出て行きそして二度と戻らぬからだ。
 僕は僕の全てが詰まったと言うにはあまりに小さな荷物を横目で確認した。本当にこれだけしか持って行くものはない。部屋を見渡しても残っているのは皮を剥がされ肉も内臓も持ち去られ、骨組みだけになった本棚や衣装掛けくらいだった。部屋は僕が生活を始めた日の状態に戻ってしまっていた。
僕は暖気の無い部屋で白い沈黙を吐きながらそんな殺風景を眺めている内にちくりとした思いが小骨のように胸に支えた。ラジカセが残っていれば好きなバラードでも聴きながら好きなだけ感傷に浸れるのだろうが、ラジカセは他の家具や電化製品と一緒に叩き値でリサイクルショップに売り渡してしまったし、そもそもそんな事をしている時間だって無い。そろそろ駅に向かわなければ。
初春のまだ肌寒い風に吹かれて駅に向かう間、あの部屋で過ごした3年間を思い出した。僕は人口10万人足らずのこの街に職を求めて移り住み、あの部屋で3年という月日を過ごしたのだ。単純作業と退屈な生活を旗を折るように順序正しく繰り返し続けた。朝が来て太陽が昇り、夜が来て月が輝く。雨が降り日が照り雪だって降った。春の次に夏が来て、何もしないうちに秋、そして冬。雪が溶けて春が来ても何も変わらない。聞き古しのレコードの針を最初に戻すだけだ。そんな三年間だった。
 駅が見えた。部屋から駅まで歩いて5分。ただしこの街から出ていく事などほとんど無く、その便利さは僕にとっては三年前の到着の日と出発の今日この日だけ意味があった。
 もう列車は来ていた。空港へと続く鈍行列車。途中で特急に乗り換える事も出来たが、最後くらい各駅停車で行きたかった。この街との別れの事ではない。貧乏暮らしとのお別れだ。僕は座席に荷物と体を投げ出すとはしゃぎ出す気持ちを抑え切れなかった。
 宝くじで1000万円当たったのだ。その大金は僕の生活に強烈な影響を与えた。可能性の枠が一夜にして無限に近く広がり、想像力と現実が親密にコネクトし始めた。込み上げる欲望と希望の衝動は新山を創り上げるまで隆起し続け、その為には工場にもこの街にも別れを告げる必要があった。
僕は外に顔を向けながら、静かに窓を流れていく見納めの眺めなど実際にはどうでも良く、東京で待つオール電化の部屋と新調した家具と新しい生活への期待と狂喜で気が狂いそうだった。小学生の時にトランポリンに乗ってポヨンポヨンとずっと弾んでいた時の記憶を思い出した。落ち着こうとしてもとても抑える事が出来ない歓喜が体中に充満していた。
 列車と時間はゆるやかに流れて行き、鈍行の刻む緩慢な揺れに抱かれて浅いまどろみを揺蕩いながら、僕は過去と今と未来の混濁した不思議な感覚に包まれた。味のしない消しゴムを齧るようだった僕の人生に突如舞い降りた幸運が僕の未来を鮮やかなバラ色のカクテルライトで照らしてくれた。
僕は今新しい人生へと向かっている。今までの辛かった思い出とこれからの幸せな生活のイメージが映画のフィルムのように僕の中で一本に繋がり流れていく。宝くじの当選を転機に始まる幸せな人生・・・。夢見心地でそのハッピーエンドのフィルムのメリーゴーランドに揺られていると、突如暗転、僕を包んでいたほんわりと暖かいピンク色の世界がまるで灯りを一斉に消したように全て暗闇になった。そして突如足元が崩れ、終わりの無い深い闇の底に落ちていく感覚・・・。僕は声にならない叫び声を上げた。
 列車はがたんと揺れ、僕はぎょっと目を見開き慌てて辺りを見回す。周りにはくすんだ鈍行列車の車内風景があった。夢か・・・。僕はほっと空気の塊を小さく吐き出す。シャツの背中が冷たい汗で滲んでいた。
 大丈夫、僕はただ幸福に慣れていないだけなんだ。この生活に慣れれば幸福などお気に入りのシャツを着るように当たり前に馴染むはずだ。僕は何かを確かめるように小さく唾を飲み込んだ。大丈夫。
 列車は空港への距離を順調に縮め、澄み渡る空にぽつりと掠れた残月が無表情に列車を見下ろしていた。
(2)
 空港に直結された駅の改札をくぐり抜け、空の駅に足を踏み入れると背中に翼が生えた様な気持ちが込み上げた。搭乗手続きを済ますとフライトまでまだ二時間以上あり、僕は一番上の階にある展望台へと歩を向けた。
 空港内では縦横に張り巡らされたエスカレーターやエレベーターが休む無く動き、まるで巨大な工場の内部に居る様だった。ポーターやアテンダントがそれぞれの役割を担って血液のように駆け回っている。ビジネスマンらしきスーツ姿の男達が直線的なラガーマンの突撃のように脇目もふらずに僕の横を過ぎ去っていく。何だか自分が不正に自由を得ているようで肩身が狭かった。僕がやった事なんていつもの買い物の帰り道に宝くじを買っただけなのだ。
 展望台は家族連れが多く小さな子供達が走り回っていた。近くの売店から焦げたソーセージとケチャップの匂いがした。僕はコーラのラージサイズとホットドッグを買い求め、ウインナーソーセージの上にケチャップとマスタードの見事なツートンカラーを描いた。
手近なベンチに座りゆっくりとシネラマのような景色を味わう。列車から見上げたよりも空を高く広く感じた。太陽と空と僕と飛行機。そんなタイトルの絵の中にいる様な錯覚を覚えた。だけど、その絵に僕が入る資格なんてあるだろうか。太陽は地上の生物に恵を与え、空は優しくそよ風を送る。飛行機は遠い場所へ人々をその翼に乗せて運び届ける。僕はただベンチに座ってコーラとホットドッグを飲み込んでいるだけだ。誰にも何も与えていやしない。
 僕がもっと下衆で愚鈍な人間であれば振って沸いた幸運を大手を振って受け入れて我が世の春とばかりに楽しむのだろうが、僕はそうはいかない。別に高級ぶっている訳ではなく、僕は僕なりの秩序立てられた自分だけの世界を持っていて、その世界のルールと現実とのコネクトを必死にやり繰りして来たのだ。
それを一千万円という金で簡単にぶち壊されてしまった様な気がして悔しさすら感じている。僕が三年間のルーチンワークの中で築き上げたものが一千万円で根底からスポイルされてしまったのだとしたら余りに悲しい。
一千万円を手に入れる事が悪い訳が無い。だけど、その一千万円を大切に預金通帳にしまって元通りの生活を続けるという選択もあったのだ。
 低い呻りを上げて大型の旅客機が飛び立っていく。飛行機は太陽を浴びてきらりとウインクするように輝くと白く明るい光の中へ消えていった。そうだ、僕もこれからあんな風に新しい世界に飛び立っていくんじゃないか。すでに通り過ぎた事でいつまでもうじうじとしてどうする。それに、僕だって何の覚悟も無く東京へ向かう訳ではない。大金とはいえたかが一千万円だ。何もしなければすぐに底を尽く金額だ。実際、部屋の確保と家具と引越しの費用だけですでに50万円ぐらい飛んでいた。
今の所新しい就職先の当ては無い。いくつか資格を持っているので何らかの食い扶持は見つかるだろうが、それなら冴えなくも慣れ親しんだ街に別れを告げる必要は無かったのだ。もうルーチンワークの安定に戻りたくは無かった。その為の東京なのだ、その為の大都会生活なのだ。
 気が付いたらフライト時刻まで一時間を切っていた。その間に何機もの飛行機が旅立って行き、また何機もの飛行機が旅を終え大地に降り立った。風は心地よく流れ、太陽は変わらず陽気だった。
 僕はゆっくりとベンチから体を引き剥がし、空港内に戻りエスカレーターを降る。空中に浮かぶマジックショーのような姿の僕が向かい合わせの窓に映っている。物体が空を飛んでいく場所だけあって全く非現実的な空間だ。僕が清潔で無駄が無く無味乾燥な工場内で見てきたのは「現実」だった。そこには一つ一つの機械に存在理由があり、一つ一つの工品に目的があった。僕達は工場内に実に計画的に配備され、本当に何一つとして不要なものは無かった。僕はその完結した世界で歯車の一つとしての無力感と、誇りを持って働いていた。たかが歯車一つ、されど歯車一つだ。
 この空港という場所は本当に巨大でそしてあまりに雑然としていた。きっと最初はシンプルな機能として安全に飛行機を飛ばす事のみを求められ、そこに付随する欲望や需要に懇切丁寧に応えていく内にこんな馬鹿馬鹿しい程のスケールの複合施設となったのだろう。この空港内に本当に必要なものがどれくらいあるのだろうか。考えても分かる訳が無かったし、それに出来てしまった物に対して必要不必要を論じても仕方が無い。本当にそれが不要であればいずれ自然淘汰されるのだ。
 僕は空港内の売店で海外作家の短編集のペーパーバックを一冊買い、流行のプレミアム・ビールとカルパスという袋詰めされたドライ・ソーセージを買った。昼間から全くいい身分だなと自分でもちょっと呆れたが、新天地へ赴く祝杯代わりという事にした。
 工場では辞表を出してからさほど残務整理も無く一週間程度で退職したため、急な別れとなり送別会も特に無かった。それに小さな街なので僕が宝くじで大金を手に入れた事は薄々知れ渡っていたらしく、同僚の態度は皆冷たかった。然るべき努力をして手に入れた成功ならともかく、他人の幸運に抱く感情なんて嫉妬と憤懣ぐらいのものだ。僕だって他人事なら同じような反応だっただろう。だから特に薄情とも思わず、やるべき引継ぎを機械的にこなして自分が居た場所を次に来る誰かのために綺麗に整理して去っていった。
 それでも仲の良かった2,3人とは今後も連絡を取り合う事を約束して新住所等を教えておいた。まぁ東京に遊びに来た時の宿代わりのつもりかもしれないが、それでも全ての付き合いが切れてしまうのも寂しかったので連絡先を聞かれた時は嬉しかった。僕はこの三年間の一切合財を捨て去りたい訳ではないのだ。質素で色気の無い時間だったが、僕なりに人生を楽しみ学び味わった三年間だったのだ。
(3)
 搭乗口には既に人が溢れていて多くの人がスーツを羽織りネクタイを締めていた。缶ビールとつまみをぶら下げてのんびり景色を眺めている奴なんて60を過ぎた老人と僕ぐらいかもしれない。みんなあと10分程度で飛行機に乗り込むというのに、携帯電話で何かを話していたりノートパソコンを広げてカタカタと情報と格闘していたりと忙しなかった。これが東京で僕が目指すべき生活なんだろうか。
 搭乗のアナウンスが流れ、自動改札機みたいなチェックイン機にチケットを通すと飛行機へと連結された蛇腹のトンネルをくぐり抜けて体内へと潜り込んだ。僕は窓側の席だったので、荷物を座席上部のキャリーボックスに押し込むと、早速ビールのプルタブを開け、カルパスを一本齧った。
静かな歓びがじんわりと麻酔のように広がっていき、やや固いシートに僕は王様のようにもたれ掛かるように座り直した。これが自分の人生に起こっている事だなんて本当に信じられなかった。何度でも頬を引っ張りたい気分だった。夢じゃない事を分かっているからこそ。
隣の座席に誰かが座った。見ると、若い女の子だ。ピンクの小さなリボンで飾られたポニーテールにややつり上がった切れ長の目元が印象的だった。横顔を眺めていると女の子はちらりと僕に視線を向け、ちょっとビールの缶を見て「ふ~ん」と言うように口元を小さく開けるとまた視線を前方に戻した。きっと酔っ払いの隣に座っちゃったぐらいにしか思っていないんだろう。僕も「ふん」と小さく口の中で呟くとビールを傾けた。さっきより少し味を苦く感じた。
 飛行機は全ての準備を終えると、滑走路をゆっくりと走り出し、速度に乗って大地を蹴り宙へ浮上する。加速度のベクトルは上空へ向きを変え、広がった翼は力強く羽ばたいて僕達を一気に空の彼方まで運び上げた。何層も雲を突き抜けても飛行機はまだ太陽を求めるように上昇していく。
 雲の海を眼下に広げながら飛行機は空の上にある世界を悠然と飛び続けた。太陽と空と雲と飛行機だけの世界。窓の外には絵に描いたような自由があった。僕は涙が出そうになった。僕が工場で丁寧にはんだの溶接具合を確かめている時にこんな景色を眺めている人もいるんだ。
 僕は景色を子供みたいに眺めていたが、さすがに少し飽きてさっき買ったペーパーバックを読み始めた。「カーヴァーズ・ダズン」という短編集で、僕の好きな村上 春樹が訳をしていたので買ってみた。好きな作家が訳した本というだけで興味を持つ。本当に一つの事柄は色んなものへとコネクトされている。村上 春樹という作家を読み始めただけで僕はジャズを聴く様になり、スパゲティーに凝り出し、そしてレイモンド・カーヴァーを読むようになった。何事もきっかけだなと思う。
 僕は缶ビールを片手に「僕が電話をかけている場所」という作品を読みふけった。駄目なアルコール依存症が人生をやり直そうと懸命にアルコール中毒者の療養所で治療をしている話だ。平凡なストーリーで特に何かが起こる訳でもなく、最後に離れた場所にいる妻に電話で「僕だよ」と言うだけの話なのに、僕はその作品を読み終えて涙が溢れてくるのを止められなかった。主人公の姿を自分に重ねてしまった訳ではない。僕よりも駄目な筈のその男が眩しくて羨ましかったのだ。
僕は一体何をしているんだ。三年間かけて築き上げた生活を簡単に手放して、今や濡れ手で粟の幸運に酔いしれて昼間からビールを飲んでいる。自分が取り返しのつかない間違いを犯してしまったような恐怖に襲われて僕はひどい悪寒を覚えた。
 目の前に差し出されたハンカチに気付くのに時間がかかり、さらにその意味を飲み込むのに時間を要した。隣に座った女の子が僕の顔を笑顔で覗き込んでいた。
「あ・・・。」
僕は擦れた声を出してそのハンカチと女の子を見比べた。
「使って。」
女の子はそう言いながら僕の目元にそっとハンカチを押し当てた。柔らかい香りが鼻をくすぐった。その女のこの香りなのかハンカチに残っていた柔軟剤の匂いなのかよく分からなかった。
「ありがとう・・・ございます。」
僕はどうお礼を言っていいのかも分からずそれだけ言うと俯いてしまった。女の子の目を見るのが怖かった。もともと女性と話すのには慣れていない上、大の男が本を読んで泣くなんて格好悪すぎる。大体僕は感動して泣いたのではないのだ。
「レイモンド・カーヴァーを読んで泣くなんて純粋なのね。」
女の子は大人びた笑みを浮かべくすくす笑った。これじゃどっちが年上だか分からない。
「格好悪いよね・・・。」
僕は顔を上げられず、視線を下に向けたままぼそりと言葉を押し出した。
「そうかしら?私は表情も変えずに読む人の方が気持ち悪いわ。レイモンド・カーヴァーの小説はタウン情報誌じゃないのよ。」
彼女の言葉は力強くて温かく、僕は彼女ともっと話したいと素直な渇望を覚えた。
「君もレイモンド・カーヴァーが好きなの?」
「詩織。」
「え?」
「私の名前。ポエムの「詩」に織田信長の「織」、詩織。あなたの名前は?」
「貴志。新田 貴志。貴族の「貴」に「志(こころざし)」で貴志。」
「貴志君はレイモンド・カーヴァーのどの作品が好きなの?」
僕はそう聞かれてうっと詰まった。さっきの質問の仕方はまずかったかも知れない。僕が好きなのは村上 春樹であって、レイモンド・カーヴァーは今日始めて手に取った作家なのだ。僕は何か気の利いた答えを探したが、結局正直に言う以外思い付かなかった。
「ごめん、実はレイモンド・カーヴァーを読んだのは今日が初めてなんだ。村上 春樹が翻訳していたから興味を持って。」
僕はそう言いながら彼女の顔が失望で曇るのを恐れてちらちらと目線を上げたり伏せたりした。しかし彼女の笑顔は窓の外の景色のように何一つ変わらず、
「いい事だわ。好きな作家を持つ事は人生を色々と豊かにしてくれる。あなたは村上 春樹と出会えなければ、レイモンド・カーヴァーを手に取る事も無く、私と会話する事も無かった。」
と言い、結んだ口元ににこりと笑みを広げた。
「それに「僕が電話をかけている場所」を読んで泣いたのは感動したからじゃなくて、惨めになったからなんだ。」
僕はなぜか彼女に対して馬鹿が付くほど正直に話したくなりそう続けた。今度は彼女は少し顔が曇るのが分かった。僕はその表情に胸が小さく痛むのを覚えた。だけど、それでも最後まで正直に自分の内情を吐露し伝えたいと思った。この出会いを飛行機を降りるまでの当たり障りの無い世間話で終わらせたくなかった。
「僕は東京へは新しい生活を始めるために向かっている。だけどそれは僕が努力をして勝ち得た場所じゃないんだ。後ろ指を指される様なずるをした訳じゃないけど、正規の手順を踏んだ訳でもない。ただ単に僕は幸運だっただけなんだ。
「僕が電話をかけている場所」の主人公みたいに人生と懸命に向き合っている訳でもなく、向かうべき人生の目的が明確にある訳でもない。そんな自分がひどく情けなく惨めに思えて泣いてしまっただけなんだ。」
僕はありったけの言葉を吐き出してしまうと、急激に強い後悔の念に襲われた。何を言ってるんだ俺は。たまたま機内で隣り合わせただけの初対面の女の子にこんな無様な内面を曝け出して何のつもりなんだ。慙愧によるどす黒い思念の霧が僕の心を暗く覆った。沈黙が怖かった。彼女が僕を無視し赤の他人に戻って着陸までの時間を過ごす事になるのが怖かった。沈黙が続く事はすなわち彼女が僕に愛想を尽かしていく過程なのだ。
 しかし、彼女の言葉は僕が喋り終えてすぐに発せられた。まるでキャッチボールで狙いの狂った球を何でもないとあっさりキャッチして投げ返すように。
「いい話じゃない。きっとレイモンド・カーヴァーも喜んでるわ。自分が書いた作品で前途ある若者の未来に素晴らしき影響を与える事が出来たんだから。」
今度は僕がぽかんとしてしまった。彼女はどう見ても僕より年下だが話しぶりはまるでお姉さんだ。
「レイモンド・カーヴァーの作品ってどれくらいあるの?」
「短編ばかり50くらいかな。後は詩とかエッセイも残しているわ。」
「残しているって・・・もう死んでいるの?」
「ええ。50ちょっとで亡くなったわ。その早すぎる死には母国のアメリカを始め世界中が惜しんだものだわ。」
「ふ~ん・・・。」
僕はレイモンド・カーヴァーという作家がこの世にいない事を知り、この作品集を彼の残した天啓のように感じた。
「私は「ささやかだけど、役にたつこと」が好き。子供を亡くした夫婦とパン屋の話だけど、暗くて救いが無い話なのに読み終えてとても胸が暖かくなるの。そういうのって凄いと思わない?」
「きっと凄い事なんだろうね。」
「ああ、ごめんなさい。貴志君はまだ読んでないんだもんね。」
「僕は本当に色んな幸運に恵まれ続けているな。気まぐれに立ち寄った空港内の売店でこんな本に出合えた上に詩織さんにも出会えた。」
僕は言い終えてから自分の台詞に自分でも驚いた。彼女はちょっと目を丸くして頬が微かに赤らんでいた。少なくとも僕の言葉に不快や嫌悪は感じていないようだった。

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