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酷評お願いします0628

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 この玩具のような列車がふうふう息を切らしてよじのぼっているのは、ヒマラヤ連峰のはしっこに続く、それ程標高のない――また有名でもない――とある山だった。はるか昔、このあたりで採れる紅茶の葉を目当てにしたイギリス人たちが鉄道を通し、ついでのことに、この辺鄙な土地にある、この国にしては比較的ゆるやかな登りでのぼりつける山頂に保養所やら療養所やらを開いた。当時はそれなりに人が訪れて栄えたものの、現在ではすっかりさびれはてている。気軽な旅行の目的地にするにはあまりにもヨーロッパから離れすぎているし、いまどき探検行に出ようとするものもおらず、第一この登山列車の沿線から上れる位置には、シェルパを雇ってのぼるような高峰はなかった。ジープを使ってもっと北まで入り込まなければ、このあたりに有名な山はないのだ。大戦前ののんびりした時代に、本国から放り出されて植民地にひまをもてあまして死ぬほど退屈している金持ち連中くらいしか、わざわざこんな辺鄙な場所で休暇をすごそうという変わり者がそれほど多いはずがなかった。
 ウゴリーノは、昔から休暇のたびに多少行き慣れていた山歩きを、この機会にすこし本格的にやってみようと思って、便の少ない不便な鉄道を延々と乗り継ぎ、このインドの山奥までやってきたのだった。たった一人で、暇はあるけれども金はなく、またヒマラヤの高峰を制覇するには程遠い素人のウゴリーノは、なんということもなくただ友人がこれもアジアへ旅行したさいの心覚えに教えてくれたこの路線の名前をたよりにここにやってきたのだった。友人の言う辺鄙で不便で退屈だという目的地は、ウゴリーノの今の心にぴったりかなっていた。彼はまず何よりも、日常の環境から遠く離れて、退屈と言うことをしてみたかった。若い彼の両頬は健康そうに日焼けして輝いていたが、心中はもう少し複雑だった。考えねばならぬことは多く、日常の雑事に気をとられずに、一人になることが今は必要だった。この休暇に山歩きを目的にしているのも、これは彼の貧乏根性と言うべきで、本当は登山などしてもしなくてもよく、本当は旅そのものが目的の旅、日常から離れることを目的とした旅なのである。
 
 ウゴリーノはぼうっとカップをもてあそびながら、もう一方の手で、金茶の巻き毛に取り巻かれた額を小さく掻いた。彼の前には、三ヶ月、少なく見積もっても二ヶ月という時間が開けていた。これほど長い期間を何もせず過ごすのは、ウゴリーノには初めてのことだった。はっきりした予定というほどのものは何もなく、ただ例の何となくぼんやりとした目的地があるばかりだった。気が向かなければ、直ぐに引き返して他の国に出向いてもいいし、別に山など登らなくても誰もかまいはしない。
 旅に出てから四日という時間は、ウゴリーノを既にきまりきった長年の習慣から切り離し、妙に高揚した気分にさせていた。ましてや故郷からこれほど離れた異国の地に来ていれば。長い移動に感じる筈の疲労も、若く頑健なウゴリーノにはそれほどのことでもなく、むしろ旅の高揚を更に持ち上げるのに役立った。インドはすべての点で、彼の知っているいかなる場所とも異なっていた。それが面白くもあったし、少々疲れもしたが、これから先の旅程を考えると思い煩うべき数々の事柄にもかかわらず、妙に心は踊った。
 
 
 
 汽車は汽笛をぴいっと鳴らしながら原住民の集落を横切り、ウゴリーノはまた窓枠にぶつかるカップを押さえた。古ぼけた車体はもうだいぶんがたが来ていて、床のワニスなどはもうとっくの昔にはげ落ちている。ウゴリーノの座る二人がけの座席は、もうひとつ、同じ形の座席と向かい合わせになっていた。座面は、元は赤いびろうどだったものがすっかり毛がすりきれ日差しに色あせて、今は白茶けたなんとも言いがたい色になっている。窓枠はがたがた鳴る重い鉄枠で、ふちに近いところが茶色っぽく変色して全体にくすんだ、分厚い透明ガラスがはめこまれていた。ウゴリーノがカップと文庫本を放り出しているテーブルも、黒い鋳鉄に木板を嵌め込んだものだった。こちらはニスがはげるどころか、どうやら木の芯が腐っているようで、黒っぽい辛気な色をして表面はささくれていた。
 実に実に、百年以上前にイギリス人たちがこの鉄道を敷いた時以来、この客車は部品一つ取り替えられていないに違いない。ウゴリーノは足下に置いた大きな荷物の上に足を載せなおしながら、呆れたような、感心したような面持ちで、ぐらついている窓から外を見下ろした。当然冷房などあるはずのない車内の、むっとする熱気を逃がすために、車内の窓はほとんどが開け放たれている。時折あらわれる短い隧道をくぐる度に、黒煙が窓から入ってきて閉口する。既にウゴリーノの日によく灼けた顔は、幾分か煤で薄汚れているようだった。
 恐ろしいほどの狭軌の鉄道は、今では数も少なくなった、原始的な機関車に引っ張られていた。玩具のような小さなタンクに、やたらせわしげに煤混じりの煙を吐き出す短い煙突をせせこましく押し込めた、ウゴリーノの見たこともないような古い型の機関車が、三両ほど繋がれたこれも玩具のような客車を、ぽうぽうと煙を威勢良く吐き出しながら、のんびりとした調子で引っ張っていく。ウゴリーノの乗っているのは一等で、これは彼の他には退役軍人らしき老人とその連れの老婦人が乗っているきりでがらんとしていたが、後ろに繋がれている二両の三等客車は、それなりに人が詰め込まれていた。大声でがやがやとなにかしゃべっている黒い顔の家族やら、窓から身を乗り出して、道を行く知り合いに何事か怒鳴っている近隣の農夫らが、賑わしく元気よく、天井の低い客車にひしめき合っている。
 
 大体この国は人が多すぎる。ウゴリーノはまたぼんやりと思い、黒煙を吐き出す前方に向けていた目を、周囲の風物に向け直した。汽車は山間部の細い道を走っていた。山岳鉄道を通す技術がまだ十分でなかった時分、イギリス人達は随分と工夫して、この狭軌鉄道を元からある山道の上に通したらしい。こんな山の上にもいくつもの集落があり、かなり多くの人間がそこで日々の生活を営んでいた。登山列車の軌道は人々と山道を共有している以上、錆びたレールは、汽車の通らない時間には人間や山羊の引く荷車を載せたり、車輪つきの荷台で遊ぶ子供等のすべり台になったりしているものらしい。今もひっきりなしに鳴らす汽笛を聞いて、枕木の上に敷いた筵をみすぼらしい商品ごと抱えあげて脇にのけるのにおおわらわな老人がはるか向こうに見える。一日一本の汽車が走るその横を、荷車に大量の荷を積んだ老婆がこともなげな顔をしててくてくと登っていく。目も眩む高さの崖っぷちにへばりつくように建てた小屋に、何をしているのかきせるをふかしながらのんびりと座り込んでいる痩せた男がいる。頭の上に壷を載せた女たちが列車と行き違う。わっと叫びながら子供たちが列車を追い越して、道の端にある大岩によじ登って機関車の男たちに駄賃をねだる。
 その道の向こうは遙かな絶景だった。カトマンズの高地が遙か彼方に白く空と溶け合い、切り立った尾根は永遠の氷河を載せて、アジアの激しい太陽に高々ときらめく。こんな彼方を走る汽車の窓からでも認められる大きく裂けたクレバスの黒い淵。空の青よりなお青い、宝玉のように輝く聖なる湖。白々と輝く山肌に埋め込まれたトルコ石は、太陽の輝きを地上に映したように燦々と輝いていた。低速で走る汽車は、狭く赤錆の浮いた線路の直ぐ脇に生える、小さな珍しい花の花弁に触れることさえ許してくれる。窓の外から聞こえてくるがやがやと人のしゃべり合う声と相まって、この光景はウゴリーノに異国に、彼が生まれ育ったヨーロッパから遙かに遠く離れたアジアの地、旧約にうたわれたガンガーの岸辺に来ているのだという感慨を深く抱かせた。

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