もうじき僕は歌わない。@Wiki hinata6

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



 年が変わり少しの間学校に通うと、再び長い休暇の時間が訪れた。僕もマコト君も相変わらずアルバイトに精を出していた。彼は春休み中をここぞとばかりに働いた。僕は人手不足のためにフル稼働を余儀なくされていた。もちろん休みになっても、何もすることはないのだから構わないけれど。開店から閉店までいることも稀ではなかった。店長も少しは給料を弾んでくれたが、それは微々たるものだった。そして目の前の光景は、一日中眺める光景にしてはあまりにもつまらないものですぐに退屈した。店内で流れる最新ヒットチャートも二時間で一周することがわかったし、たいがいの曲は覚えてしまっていた。裏のスタッフルームには先日入荷したばかりのアダルトビデオが山積みにされていた。女性の裸やセックスシーンが散りばめられたカバー用の紙を使って、パッケージを作った。最初はその過激さに目を奪われたり、驚きもしたが、そんなものはすぐにどこかへ消し飛び、事務的にただただ作業をこなして行った。実にくだらない作業だった。意味を問い始めたら、きっと投げ出してしまうに違いなかった。世の男どもの欲求を満たすために、僕がどうしてこんなことをしなければならないのか。それが仕事なのだから仕方のないことだった。そして、僕もその「世の男ども」の一員であるのには違いはなかった。やれやれ、とため息をついた。
しかし、人の欲求というものは恐ろしいものだと思った。夜になると、店内の奥は人口密度がぐんと増した。会社帰りのサラリーマンから、部屋着にサンダルの中年男性、当に定年を迎えた老人、髪を染めて如何にも軽そうな話口調で連れ立って来る未成年、さまざまな男性がこの場所へと足を向ける。時々、気付かずに入り込み、頬を赤らめて出てくる女性客もいた。きっと、女性たちにはアダルトビデオの魅力などわかりはしないだろう。「世の男性にとって、アダルトビデオはバイブルですよ」と若いバイト君がきっぱりと言い切っていた。
彼が言う通りだった。多かれ少なかれ、セックスの魅力や興奮、スタイル、好みなど、多くのことをアダルトビデオから学ぶ。つまり、カップルのセックスに、アダルトビデオが貢献していると言えるだろう。そして、現実では叶わぬ願望も、擬似的に満たしてくれる。それはジャンルこそ違えど、小説やアニメなどの2次元の世界でこそ可能であり、魅力であった。そして刺激や興奮にも勿論繋がるのだろうが、だからと言って、たまにアダルトコーナーに入っていくカップルのその心理はイマイチわからなかった。そして、そのうちの半分以上の女性は場違いに明るい。居合わせる男性たちは、恥ずかしいやら気まずそうやら、不快そうやらと、その反応は見ていて面白かった。僕の横でバイト君は「本当にレンタル屋なんて、エロビあってこそですよ。ただの映画とかのビデオなんて知れてますし、場所取るだけで金にもなりませんよ。そう意味じゃ、僕らの給料もアイツらの煩悩に賄われている部分も多いわけですがね」ときっぱりと言い切った。僕は彼の傲慢な態度はあまり好まなかったが、彼の指摘は確かだった。つまりは、煩悩万歳ということだ。煩悩万歳。
僕は春休みの半分近くのアルバイトを、この若いバイト君と過ごす羽目になった。彼の名前は飛田(とびた)と言った。昨年の春に大学に入ったばかりの十九歳で、僕と二つしか変わらなかった。彼は大学入学後からアルバイトを始め、もうすぐ一年になる。仕事の覚えは早かった。そして手の抜きどころを覚えるのも早かった。よく店内の女性を物色しては評価していた。好みじゃないとか、ブスだとか、ひどい言葉をはばかることなく僕の耳元で漏らしていた。
「見てくださいよ、ナガミネさん。あの女の人の胸、すごくないですか。揺れてましたよ」
君の好みなど知るものか。胸が大きかろうが、小さかろうが、僕には関係ないから黙っていてくれと思った。最初は彼のいい加減さや、はばかることのない傲慢さに苛立ちを感じた。どうして毎日のように僕が彼の好みを聞き続けなければいけないのか、と。けれども、そこで怒りをぶちまければ、これから先がやりにくくなる。こういうタイプは懲りやしないし、手のひらを翻すようにして極端に態度を変え、僕が仕事をやりにくくなるだけだということは想像がついた。それとなく注意しながら、あくまで僕は何も言わずに彼の言葉を聞き流した。それが大人というものだ。
けれどもよく考えれば、彼がアルバイトの中で一番僕に話しかけてきた。僕は一度彼に聞いてみた。どうして、そんなに僕に話しかけてくるのか。僕に話しかけても何も楽しくはないだろうし、君以外の人はほとんど僕と話なんてしないのに、と。
彼はその質問にとても困っていた。本人にはあまり自覚のないことだったので、理由を聞かれても答えようがなかったようだった。
「まあ、言われてみればそうですね。でも、他の人が話しかけないのは、ナガミネさんが誰かと話をしたがらないのと同じですよ」と彼はヘラヘラと笑っていた。崩れた敬語に直感に任せて話す彼だったが、それでもどこか憎めない部分があった。そして、もう一人この時期に長く時間をともにしたのが朝子さんだった。
 この頃、僕がこの店にやってきた頃と比べて、バイトの面々は大きく変わっていた。僕もいつしか古株になり、女性二人に男性四人の計六人で働いていた。そのうち飛田君と朝子さんと、僕の三人が大きな働き手となって、春休みを通してこの三人で時間を共にすることが多かった。
 朝子さんがこの店にやってきたのは、昨年の夏頃のことだった。僕の姉と同じ二十六歳で、僕とは五つ離れていた。長い黒髪を後ろでくくっている姿と、赤いふちの眼鏡がとても印象的だった。身は細く背も高かったため、実際の身長よりも随分と背が高く見えた。決して派手さはなく、どちらかといえば地味な印象を持ったし、服装もグレーや黒や紺といった色が多かった。何よりも僕が惹かれたのは彼女の口調だった。物静かで声を張らない話し方は、物腰の柔らかさを感じた。きちんと自分の魂を持ちながらも人に優しくできる人というのが、語り方から感じた朝子さんへの初めての印象だった。彼女は自分から積極的に話すよりは受身の方が強かったので、よく会話はぷつぷつと途切れた。言葉のない時間が続くと沈黙に耐えられない人も多かったが、僕にはそれが特には気にはならなかった。僕も自分から積極的に話をするタイプの人間でもなかったし、一人の時間が長いと沈黙にだって慣れる。彼女の呼吸に合わせて耳を傾けて、言葉を待ち言葉を返す、その穏やかな会話が不思議と心地よかった。飛田君は七つも離れた彼女には興味はなく、どこか地味で暗いとさえ言った。それよりはもう一人のアルバイトの女の子の方が好みだと言っていた。僕はどこかで彼と好みが合わないことに胸を撫で下ろし、誰も彼女の輝きに気付かないことが不思議だった。
飛田君は「ナガミネさんって、結構変わってますよね?」と言った。僕は胸の中で「君ほどではない」と思ったが、口には出さなかった。こんな風にして何だか奇妙なつながりを僕らの間で感じながらも、僕らは日々を共に過ごした。

 春休みも終わりが近づくある夜、閉店後の片づけを終えて店を出ると、雨が激しく降り出していた。そこにいる誰もが傘を持ってはいなかったので、しばらく雨脚が弱まるのを待つことにした。僕は店の外の自販機で缶コーヒーを三つ買った。明かりを落とした店内で、僕らはしばらく時間を過ごした。
 沈黙が続いた。誰も話さず、コーヒーをすする音だけが誰もいない店内に響いた。飛田君はどこか遠くを見ていた。朝子さんも缶コーヒーの開け口ばかり眺めていた。僕はそんな二人を見ていると、何だかおかしくなってきた。思わず笑いがこぼれる僕に、二人は不思議そうに僕を眺めた。「何でもないんだ」と僕は笑いを堪えた。僕を挟んで、二人はまるで水と油のように一向に交わろうとしない。しかし、よく考えれば、この場所に今こうして三人の人間がいることはとても不思議なことだと思った。数年前の僕からは、とても想像できなかったことだ。縁のない人間がこうして同じ場所にいる。当たり前のように存在する事実を、僕はやはり不思議だと思った。
 飛田君は「確かにそうですね」と気のない返事をした。
「ああ、やっぱり不思議だよ」と僕は言った。
 コーヒーが冷めて、僕らはようやく腰を上げた。どれだけ待ってもしばらくは止みそうにはなかった。忘れ物で預かりの傘が一本だけ店内には置かれていた。飛田くんはバイクで帰るのでと、傘を僕らに譲ってくれた。僕と朝子さんの二人になったところで、僕も家が近いからと朝子さんに半ば強引に傘を譲ると、そのまま雨の中を自転車で帰った。家に着く頃、雨脚は随分と弱まっていた。すぐにお湯を温め直してお風呂にはいったが、なかなか寒気は収まらなかった。春も近いというのに、雨はとても冷たく体の芯から僕は凍えていた。お風呂から上がると、今度は寒気とともに頭がだるくなり、体が熱り始めていた。そして次の日、僕は見事に風邪を引き、三十九度の高熱を出してバイトを休む羽目になってしまった。
翌日、何とか熱の下がった僕はお店に行くと、まず急に欠勤したことを二人に詫びた。まだ、鼻声が残り、気だるさが残っていたが、何日も休むわけには行かなかった。飛田君は僕の早い復帰を心から喜んでくれた。
「ナガミネさんがいないと、市野さんとの間が持たなくて息が詰まりそうでした」
彼は本当に僕を心待ちにしているようだった。ぼんやりと僕のいない間に無言で仕事をする二人の姿を思い浮かべることができた。さぞかし、彼には苦痛だったことだろう。何せ飛田君には朝子さんでは相手にならないのだから。
一方、朝子さんはなぜか口を利いてくれなかった。僕が欠勤を詫びても視線は逸らしたまま、言葉だけを返した。僕はどうして朝子さんが不機嫌なのか理由がわからず、とても困った。僕がいない間に何かあったのだろうか。それとも嫌なことでもあったのだろうか。それとも僕が何か悪いことをしたのだろうか。その日はずっとそんなことを考えていた。そして結局その日は、朝子さんは口を閉ざしたままで、話をしてくれなかった。彼女が返却分のビデオを棚に戻しに行くと、飛田君が僕に擦り寄ってきた。
「ナガミネさん、何したんですか?」
そう言われても心当たりがなかったので、なぜ彼女にこのように扱われるのかが僕にもわからなかった。
「そういう時は胸に手を当てて考えてみてください」
彼の言うとおりに胸に手を当ててみたが、それでもわからなかった。
「どうでもいいけど早く終わらせてくださいね。余計に気まずいです」
本当に僕のせいかと彼に疑いの眼差しを向けてみたが、彼はきっぱりと「僕は最初から相手にされてませんから大丈夫です」と言った。そんなに自信を持って言うなら、僕に向けて話す言葉の幾らかを朝子さんに回して、相手にされる努力をしろと言いたかった。
次の日はアルバイトが休みだったので、夕方にマコトくんと一緒に食事をした。マコト君にこのことを話すと、彼は笑った。アルバイトで一緒の飛田君が愛らしい人だと言っていた。
「それはきっと君のせいだね」
「どうしてさ」と僕は彼に尋ねても、彼はずっと笑みを浮かべていた。
「君は本当にわからないのかい?」と彼は僕を覗き込んだ。
僕はわからないから彼に尋ねたのだ。そうでなければ聞いたりしない。彼は少し向きになる僕を抑えると「それは彼女がとても優しい人だからさ」と彼は言った。
どうして朝子さんが優しい人だと僕は嫌われるのか。一体何について言われているのか、それだけでもはっきりさせたかった。本望ではないけれど、僕は誰かから嫌われても仕方のない人間だろう。それがマコトくんなら、それは本当に仕方がないと諦めきれるかわからないけれど、それでもきっと諦めるだろう。また元に戻るだけだ。ただ、自分が人から疎まれるとき、せめてその理由くらいは知っておきたいものだ。
「それはよくない考え方だよ」と彼は怖い顔つきで僕を睨んだ。
「ネガティブになるのはわからないでもないけれど、どうして僕が君を嫌うのさ?僕が君のことを嫌うはずがないじゃないか」
絶対という言葉なんて存在しない。そういう可能性だって十分にある。
「君はそういうところを直したいんだろ?自分の弱さと向き合いたいんだろ?それなら、そういうことは言っちゃダメだよ。自分をこんな人間なんて…卑下したりしちゃダメだよ。君は僕に言ってくれたよね?僕も君もこの世に一人しかいないんだって。だから、かけがえがないんだって。あの言葉は嘘だったのかい?」
僕の心のどこかにある不安や脆い部分が、傷つくのを恐れて自分を守ろうとしている。だから、予め不幸な展開を予想して、それに少しでも耐えられるように準備してしまう。それは僕の弱さに他ならなかった。
「だからこそ、信じることが大切なのさ」
彼の言葉はいつだって魂がこもっている。だから聞いていて、彼の言うことがもっともだと思ってしまう。それが真実であると。
帰り際、マコト君は例の一件についての彼なりの推測を教えてくれた。
「僕の考えが正しければ、その人はとても優しい人なんだね。君の話だけで推測するなら、やっぱり彼女は君に対して怒っているのだろうね。君にだけ、そんな態度をとるのだから。理由は、きっと傘のことだと思うよ。彼女は自分にだけ傘を渡して、君が傘もなしで冬の夜に雨にぬれて風邪を引いたことを怒っているんじゃないかな?しかも、一番腹立たしいのは、自分さ。どうして怒るのかは想像に任せるけれど、一緒に働いている飛田君なら、きっとそれには薄々気付いているよ」
 僕にはわからなかった。傘が一本しかないのなら、彼女に譲るのが礼儀だし、それは間違いではないだろう。それで風邪を引いても、それは僕の責任であって彼女の責任ではない。そこでなぜ、朝子さんが自分を責めるのか。どれだけ考えてもどうしてそういうことになるのか、わからなかった。
 次の日、飛田君に朝子さんの怒っている理由を知っているかと尋ねると、「何気に」という答えが返ってきた。どうやらマコト君の言うとおりのようだった。しかし、どうしたものだろう。僕はどうすればよかったのだろうか。真剣に悩んでいると、飛田君はクスッと笑った。
「そんなの簡単じゃないですか。2人で一緒に帰ったらいいんですよ」
彼は簡単に言うが、そんなことを夜も遅く雨も降っていて、それほど親しくもないのにできるわけなかった。
「頭固いっすね~。なら、途中のコンビニで傘買ったらいいじゃないですか?」
確かに彼の言うとおりだった。そういう方法も存在した。
「ナガミネさんは、鈍いですよ。ま、そういうところも好きですけれどね」
僕は彼に好かれたくなかったが、彼は彼なりに僕を良く評価してくれているようだった。実際彼がアルバイトの中で、一番僕に気軽に話しかけてくる人間だった。その気軽さは崩れた敬語に遠慮のない言葉と、僕には容赦がない。
「それは、愛嬌ですよ。愛嬌。でも最近、ナガミネさん少し変わりましたよね?何か丸くなったというか、何と言うか…」
彼の言いたいことは何となくわかった。それは僕がマコト君と出会ったからだ。僕は彼と出会ったことで随分と助けられている。人間は一緒にいる人間によって、その姿を変えることもできる。相手の影響を受け、それ自分に取り込んでいく。それが言葉や仕草になる。つまり、僕はマコト君と出会ったことで彼の影響を無意識に受け、反映させていたのだ。それはほとんど自分では自覚することができなかったが、それでも心の中で何か変化が起きているのは感じられた。
その日は新作が続々と入荷し、その対応といつもより多い客足に僕らは忙しく汗を流していた。そんなこともあって、結局その日も朝子さんとは話ができなかった。そして、僕の中には居心地の悪さが残った。すぐに元に戻るだろうと思った。けれどもそれを待つより、こういうことは早めに解消しておく方が良いと思った。
店が終わると、僕は朝子さんに声をかけ、明かりを落とした店内で話をした。入り口の横にあるカウンターの上には暖色灯がともされ、ほのかに辺りを照らしていた。
僕は缶コーヒーを二つ買って、一つを朝子さんに手渡した。
「怒っているんですか?」と彼女に尋ねてみた。彼女は「怒ってはいない」とは言ったが、そうでないことはわかりきったことだった。僕はマコト君が推測してみたことを彼女に話してみた。「それでも、僕にはどうしてあなたがそんなに怒るのか、わからないんです」と正直に伝えた。朝子さんは何も言わず僕を見ていた。
 本当は僕が何も気にせずに日々を過ごせば、きっと元のように戻るのだった。こうして改めて取り上げたりしなければ。取り上げて問題を浮き上がらせることは、彼女はきっとあまり望んでいなかったと思う。忘れてしまえば済むことだったし、目くじら立てるほどでもなかったのだ。それでも、やはりあの日、自分だけ傘を指して帰り、結果として僕が風邪をひいてしまっていることに、彼女は苛立ちを感じざる得なかった。そんなことで自分を責めてしまう彼女がいじらしかった。そして彼女は、自分が誰かを犠牲にして救われるような人物ではないと言った。その言葉を聴くと、胸が締め付けられるような思いがした。僕はマコト君に「こんな自分」と言い、マコト君はそんな言い方はしない方が良いと諭した。誰もが自分を小さな存在と思う。そして必要以上に自分を見下げてしまう。たとえ自分という人間が誰かが犠牲になって救われるような人間ではないとしても、僕らは日々誰かに助けられながら生きている。それはきちんと確認できるものであるかもしれないし、そうでないものもある。たとえば、家族、友だち、そういった親しい存在や、自分とは違う他の人間の存在が自分という人間を確かに感じさせ、知らないところで支えられている。金八先生が言っていたが「人は一人では生きてはいけない」のだ。極論に近い言葉であるかもしれないが、僕らは誰かに助けられて、誰かにすがって生きている。たとえば心の中に、記憶の中にいる誰かの存在をずっと抱えもって安定を保つように。それは僕や朝子さんにも言えることだった。どれだけ本人が否定しようとも、孤独な時間を送ろうとも、この世界に生を受けるものすべてのものにそれは言えた。だからと言って、僕は彼女に恩を着せるつもりもない。僕は自分自身が正しいと思うことをした。自分を犠牲にしてというよりも、自分よりも他人につらい思いをさせてはいけないのだ。それは姉からの教えだった。
「私がここに来た経緯、以前に少し話しましたよね?」
 彼女がここに来て店の雰囲気にも馴染んだ頃、彼女はふとこれまで彼女がどんな風に生きてきたかを少しずつ話してくれていた。
「専門学校に二年通って、そのあとすぐに就職しました。会社はそれほど大きくなかったけれど、人の数もそれなりにいましたし、何とか大丈夫だと思いました。けれども、そこで働く一人の女子社員に嫌われるようになってからというもの、仕事場ではいつだってつらい思いをしました。彼女は社内で人気のある女の子でしたし、私は普段から仕事がのろかったりもしましたから、自然とみんな彼女の言うことを信じていきました。ナガミネさんの言うとおり、人は一人では生きていけません。けれども、それはつらいことでもあります。人と自分を比べて優越を感じて自己を満たしたりします。彼女の場合、優劣は外見でも一目瞭然でしたが、それ故に、自分のそばに居る私という劣った存在が腹立たしかったのかもしれません」
 確かに人は他人と比べて何かと優劣を求める傾向はある。それは本当に様々で、日常の細かなことにまで及んでいる。そして、時に人はそのことに気付いてはいない。自分が他人より勝っていることで納得し、劣っていることで苛立ち嫉妬する。何て悲しい生き物だろうと思った。偏りが過ぎれば、独りよがりな人間を作り出してしまう。それは僕にだって、誰にだって可能性は存在しているのだ。
「結局二年で仕事をやめました。それからまた違う会社で働いたけれど、上手くいきませんでした。たぶん、それには私自身にも何らかの原因があるんだと思います。けれど、私が会社を辞めるときに言った彼女の言葉が、今も忘れられないんです」

 あなたなんて、どこに行っても同じよ。

「それからなかなか上手くいかなくて、家にこもるようになってしまいました。仕事もしませんでした。母はそんな私を見かねて、去年の夏に母の知人の店にアルバイトに行くように勧めました」
「それがここですか?」と僕が店の床を指差すと、彼女は頷いた。
「この店の人は優しかったです。おかげで何とか半年続けることができました。でも、心の中では自分が今でもダメな人間だって思っているんです。きつく当たられても、それはきっと自分が悪いからだと思うし、だから自分のために誰かが犠牲になるなんて信じられませんでした」
 暖色灯の明かりが朝子さんの瞳に伸び、潤んでいるのがわかった。そしてそこから彼女の思いを知った。人は理由や程度は違うけれど、やはり同じように弱さを持っている。そして、その弱さはいつだって自分を苦しめる。救われるのはその弱さを誰かに受け容れてもらえた時。人はありのまま受け容れられることで心が満ち足りる。
 僕は朝子さんに、僕がマコト君に出会ったことを話した。自分にもこんな人が存在してくれると知ったときは嬉しかった。誰かと気持ちが通じ合うことが嬉しかった。誰かを必要とし、誰かに必要とされることが嬉しかった。淋しいと思えることが嬉しかった。いろいろなことに感謝をした。そして姉や彼がいてくれたおかげで僕は救われ、今のように人に囲まれながら生活している。決して人付き合いは上手くはないけれど、それでも何とか暮らしている。
「だから、誰かに自分のことで真剣に怒ってもらえるなら、それもまた嬉しいことなのかもしれない」と僕は言った。
「飛田さんの言うとおりですね。やっぱりナガミネさんは変わってますね」と彼女は鼻をすすりながら笑った。僕は彼女の笑みに安堵しながらも、自分が「変わった人間」と評されることに少し不満だった。それはさておき、もう1つ気にかかっていることがあったので、それを告げてみた。
「僕に敬語を使うの、やめてもらえませんか?年齢では僕の方が下な訳だし」
それを聞くと、彼女は少し膨れていた。
「年齢は関係ないんです。私が後から入ってきて、ナガミネさんが先にいたんですから当然なんです」
「そうですか」と僕はすぐに提案を断念した。

 このことで、僕と朝子さんは互いの意識の距離を縮めた。単純に誰かと分かり合えるのは嬉しかった。そして、やっぱりマコト君の言うとおり、朝子さんは優しい人だと思った。きちんと心の痛みや人を傷つけることの痛みを知っている。相手を思い、胸を痛めることができるし、それに対して自分を諌めることもできた。それはとても素敵なことだと思った。
 次の日、飛田君は関係を修復した僕らを見て、胸を撫で下ろした。そういう一面を見ると、彼も憎めない存在だと思うこともできた。

 それから間もなく、僕は朝子さんをデートに誘い、二人でプライベートでも会う回数が増え、そして梅雨が来るころには僕と彼女は恋を育む仲になっていた。