エストリアサーキット

1972年にガエリア府エストリア市の郊外に建設された、セシリア随一の超高速サーキットだった。
現在ではヘアピンやシケインが追加されたり、様々なコース改修がなされているため、高速テクニカルサーキットとなっている。
コース改修は1992年と2016年に、チェザリエ・ネルソン氏が手がけている。

コース概要



グランプリ概要


1973年:F1世界選手権・セシリアエキシビション(第3戦)
勝利者:エルダ・シャンブリア・グロック -Erda Chambrea Glock-(TAN)

1975年:第1回F1世界選手権・イン・セシリア(第5戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR) !

1976年:第2回F1世界選手権・イン・セシリア(第5戦)
勝利者:カースティ・フォンデス -Kirsty Fondes-(VEN)

(1977年はコース改修のため、第5戦にナーグス市街地にてセシリアグランプリが決行、勝利者はウォーレリア人ドライバーのジャスティン・マーレイ)

1978年:第4回フォーミュラ1世界選手権・セシリアGP(第5戦)
勝利者:エルダ・シャンブリア・グロック -Erda Chambrea Glock-(TAN)

1979年:第5回フォーミュラ1世界選手権・セシリアGP(第5戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR)

1980年:第6回フォーミュラ1世界選手権・セシリアGP(第8戦)
勝利者:シナトラ・エイダー -Thinatora Eidar-(ESR) !

1981年:第7回フォーミュラ1世界選手権・セシリアGP(第8戦)
勝利者:ファン・ヒェイマル・トルカシュライフェ -Jan Heimar Torcascheleife-(CND) !

1982年:コーラルフリート・エアー・第8回セシリア・エストリアグランプリ(第8戦)
勝利者:ファン・ヒェイマル・トルカシュライフェ -Jan Heimar Torcascheleife-(CND)

1983年:コーラルフリート・エアー・第9回セシリア・エストリアグランプリ(第8戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR)

1984年:セシリアグランプリ・10thアニバーサリー・メモリアルグランプリ・イン・エストリア(第8戦)
勝利者:カネーレ・ガルト -Canelles Garto-(EST)

(1985年はコース改修のため、第12戦にトライスター市街地にてセシリアグランプリが決行、勝利者はエストラル人ドライバーのトーマス・リスター)

1986年:コーラルフリート・エアー・第12回セシリア・エストリアグランプリ(第12戦)
勝利者:ファン・ヒェイマル・トルカシュライフェ -Jan Heimar Torcascheleife-(CND)

1987年:パルクメイデン・第13回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:トレガンテス・ドッペンガルマー -Tregghantest Doppengalmar-(AMR)

1988年:パルクメイデン・第14回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:カネーレ・ガルト -Canelles Garto-(EST)

1989年:パルクメイデン・第15回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR)

1990年:パルクメイデン・第16回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR)

1991年:パルクメイデン・第17回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:ハンザ・ラゥド -Qhanzer Lewd-(CSR)

(1992年はコース改修のため、開幕戦にグランゼラム市街地にてセシリアグランプリが決行、勝利者はセシリア人ドライバーのソラーレ・エンメリッヒ)

1993年:パルクメイデン・第19回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第12戦)
勝利者:エド・ライコネン -Edo Raikkonen-(FIN) !

1994年:セシリアグランプリ20thアニバーサリー・ハンザ・ラゥド・メモリアルグランプリ(第16戦[最終戦])
勝利者:ファン・ヒェイマル・トルカシュライフェ -Jan Heimar Torcascheleife-(CND)

1995年:パルクメイデン・第21回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第10戦)
勝利者:マイケル・アンダーソン -Michael Andersson-(LEL)

1996年:パルクメイデン・第22回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第10戦)
勝利者:ビンセント・マクラーレン -Vincent McLaren-(ESR)

1997年:パルクメイデン・第23回セシリアグランプリ・イン・エストリア(第10戦)
勝利者:マイケル・アンダーソン -Michael Andersson-(LEL)

1998年:東洋セラム・24thセシリアグランプリ・エストリアサーキット(第10戦)
勝利者:ブラン・カラム -Branc Karam-(WRL)

1999年:東洋セラム・25thセシリアグランプリ・エストリアサーキット(第10戦)
勝利者:ブラン・カラム -Branc Karam-(WRL)

2000年:東洋セラム・26thセシリアグランプリ・エストリアサーキット(第10戦)
勝利者:ブラン・カラム -Branc Karam-(WRL)

2001年:東洋セラム・26thセシリアグランプリ・エストリアサーキット(第10戦)
勝利者:ブラン・カラム -Branc Karam-(WRL)

2002年:東洋セラム・26thセシリアグランプリ・エストリアサーキット(第10戦)
勝利者:リカルド・アルボレーゼル -Ricardo Arvolaitheir-(CND)

※2003年よりF1の安全基準に適合しなくなり、代理として第10戦に北ニーヌ市街地にてセシリアグランプリが決行、2004年から開幕戦でグランゼラム市街地にてセシリアグランプリが開催。
2027年には、第12戦開催予定地のランツァルドリンクのコース改修によってシュリフコスカグランプリとして復活することが決定し、2029年からはランツァルドリンクとエストリアサーキットの隔年開催でシュリフコスカグランプリが決行される予定。

※!マークの勝利者は、デビュー年ウィナーを表す

死亡事故履歴


1976年:サレラーフ・フィッツジェラルド -Sarrelirf Fitzgelard-(ESR)
旧コースの第2コーナーは、現在よりもカーブが緩く、フルスロットルでもカーブを曲がることができた。
オーバースピード状態で突っ込んでいった各車はここでリタイアすることも多かった。
1976年には、国際F2のレギュラードライバーで、F1にスポット参戦していたフィッツジェラルドがマーレイと接触して宙を舞い、ガードレールに激突炎上し死亡。
死因は重度の火傷で、レース中の救出作業に手間取ったことが原因。
以降、赤旗ルールが導入される糧となった。
また、フィッツジェラルドは、国際F2で唯一の女性ドライバーとしても有名だったという。

1984年:ウダロイ・バレク -Udaloi Bareq-(CAL)
予選タイムアタック中、ホームストレートでフルスピードの状態で第1コーナーのウォールに真正面から突っ込み即死。
マシンはモノコック部分まで潰され、バレク自信も人型の原形をとどめおらず、飛び散った内臓はウォールだけならともかく、観客席にまで飛散しているという、到底直視することは出来ない、セシリアグランプリ史上最悪の死亡事故となった。
事故原因はブレーキパッドの異常磨耗によるブレーキ圧の減少であったことが判明した。
これを受けてブレーキの規定がFIAで定められた。
F1史上初のカルテローフ人F1ドライバーとして有名だった。
また、この事故の翌年には彼の散ったホームストレートに『バレクストレート』という愛称が付けられたのはご存知だろうか。

その他事故履歴


1993年:ラゥド&アンダーソン、チームメイト同士の接触

決勝レース17周目、最終コーナーのシケイン出口でインを付いたアンダーソンが、アウトから抜こうとしたラゥドの右リアタイヤに乗り上げ宙を舞う。
幸い両者に怪我はなかったが、お互いの、しかもチームメイト同士の接触によって、タイトル争いに影響を与え、結局マドックスチームにダブルタイトルを奪われることになってしまう。

2002年:アンダーソン、リアウィング脱落事故

決勝レース30周目、1999年の最終戦でほぼ即死状態という最悪の事態から奇跡の生還を果たし、2002年に復帰したアンダーソンのリアウイングが突如砕け、バランスを失い1コーナーのウォールに激しく激突、重度の脳震盪で病院に搬送されるが、事故後1週間も意識が回復しなかった。
これによりアンダーソンは、再び休養せざるを得なくなり、所属チームの力は衰退していくこととなった。
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