親衛隊(ナチス)



ゼップ・ディートリッヒってどんな人?

ヨーゼフ・”ゼップ ”・ディートリッヒ
最終階級は武装SS上級集団指揮官und上級将軍
誕生:1982年5月28日ババリア-ハバーンゲン
死亡:1966年4月22日ラドヴィグスブルク
戦功受勲
クラップ2級鉄十字章 1939年 9月25日。 ただし前大戦追加記章
クラップ1級鉄十字章 1939年10月27日。   同上

騎士十字章 (KC) 1940年 7月 4日。
柏葉付き騎士十字章  1941年12月31日。 
剣柏葉付き騎士十字章 1943年 3月16日。
ダイアモンド付きKC 1944年 8月 6日。

第一次大戦では戦車兵曹長として、戦車戦を経験しているが頭は下士官のままで、中隊規模以上の戦術は理解出来なかったと
戦後に参謀が伝えているが、武装SSのオヤジ的アイドルで若い兵士からは”パパ・ゼップ”と親しまれた。
彼の葬儀に八千人からの参列者が集まったことでも、その価値は計り知れない。
古くからのナチ党員で、ヒトラー警護の親衛隊発足当時からのメンバーで最初の親衛旗(ライブスタンダルテ)アドルフ・ヒトラーの隊長で、
LAH連隊も、LAH師団も、最後の第一装甲軍団”ライブスタンダルテ”の指揮官を務めてきた。
ヒトラーにも反抗し能力よりは、その性格で好かれてきた。ライブスタンダルテ・アドルフ・ヒトラーと言えばゼップと同義語である。
LAHは彼が鍵屋だったためにカギをシンボライズした師団マークをつけている。
(5:一等自営業)

第2SS戦車師団ダスライヒのダスライヒとはなにからとった名称でしょうか?やっぱ地名??

edainaruteikouku(wara)

ダス ライヒ=das Reich
dasは独語の定冠詞、Reichは独語で「国;帝国」という意味。
(8:602-603)

武装親衛隊は、敵を捕虜にしたのですか?射殺したのですか?

逆に武装親衛隊は、捕虜になれたのですか?
ケースにより様々です。今出ている学研の『武装SS』にも載っていますが、
西方電撃戦時やマルメディの虐殺が有名な一方(知らない・知られていない事件もたくさんあるでしょう、
特に独ソ戦では政治委員をはじめ殺しまくりです)、多くの場合は捕虜にしたことでしょう。

捕虜になった人はたくさんいるはずです。国防軍捕虜との間に顕著な差があったかは分かりません。
ドイツ人の間でも彼らの法的身分を巡って議論の決着は付いていないそうです。
芝健介『武装SS』講談社がお進め本です。
(13:81)

ナチスの親衛隊って国防軍の将校より階級が下でもその将校の命令聞かなくていいってほんとう?

部分的には事実でしょう。
命令を聞かなくていいわけはありませんが、
1940年の夏以降、親衛隊の軍事裁判は親衛隊が行うとされ、
国防軍はこれを裁くことができなくなりました。
もちろん、だからといって傍若無人にふるまえる、
というわけではないと思いますが。
(20:699)

武装ナチ親衛隊は軍隊として優秀だったんですか?

当初は武装も優遇されたエリート部隊でした。大戦末期になると悪名高き囚人部隊
なども混じるお粗末な状況だったようです。
(22:435)

SSの保安諜報部が「白色計画」というのを進めていたと聞いたのですが、具体的にどんなことをやったのですか?

ポーランド軍装の来た人間にドイツのラジオ局を襲撃させ、
開戦の口実を作った計画のことかな?

ポーランド侵攻自体が白作戦だし
(23:756)

ヴァッフェンSSに外国人師団が多いのは何故?

ドイツ本国の徴兵権はあくまで国防軍にあって、WSSは志願者を募るか、
国防軍から補充してもらうしかありませんでした。
当然国防軍への補充が優先されたので、損害の補充や規模の拡大に
深刻な支障をきたすようになりました。そこでWSS目をつけたのが国防軍
の管轄外の占領地区や同盟国で兵を募ることでした。
(34:167)

武装SSは陸軍とは別組織だったようですが、戦場では陸軍と一緒に戦っていたのですか?

陸軍の司令官が武装SSの部隊を指揮することはあったのでしょうか?
武装SSは党本部や幹部の身辺警護が主目的で編制されました。
次の段階は警察の一部として政治警察隊になりました。
数が増えてからLAH,戦闘師団(あとのダス・ライヒ)や、武装SSを
拡大する人材の供給源はトーテンコープフ部隊です。
戦後の評価では、第四の軍隊は不要な組織だったです。ナチ党と
ヒトラーは国防軍を信用してませんでしたので、党の軍隊(武装SS)が必要でした。
それと共に前線での評価を上げるため武装SSを積極的に投入し、戦果を上げさせました。
当時の国防軍陸軍将校の評価は、「必要もない損害が多い戦闘をする」でした。
実際問題として下級将校(中隊長や小隊長)の損失は大きな物でした。
私自身は熱狂的な戦闘努力は評価しますが、パンツァーマイヤーなどは異常な指揮官だったと判断します。
戦後、捕虜収容所では国防軍将兵は武装SSと日本兵は民族的なまとまりが強かったと記録してます。
(39:一等自営業 ◆O8gZHKO.)
1933年にヒトラー警護の為の準軍事部隊として編成されたアドルフ・ヒトラー連隊、
1934年にSS内の戦闘部隊として編成されたSS執行部隊(SS-VT)に、同年
収容所警備部隊として編成された髑髏部隊、若干の警察を編入したのが
武装SSの基幹です。後にこれら4種の部隊が第1~第4のSS師団になります。
外人部隊や民族ドイツ人部隊を編入してほぼ末期には100万の兵力を確保しました。

親衛隊にもSS作戦指導本部がありましたが主に後方担当で
戦時にはハリコフの例のように陸軍に指揮権が与えられます。
(39:787)

SS戦車兵というのは聞いたことがありますが、SS主計兵というのは存在したのでしょうか?

武装SSも軍隊である以上当然主計科に相当する業務があったわけで。
親衛隊には経理科という科がありまして、兵科色はスカイブルーです。
(42:860)

ナチスドイツのSSで少佐になるには勤続何年くらいなのでしょう?

例えばヨーヘン・パイパーは1934年にSSに入隊して少佐に昇進したのは42年です。
その他マイヤーやミューレンカンプといった大物も6~7年かかっています。
ただし、武装SSは将校の損耗が激しかったので大戦後半は昇進がかなり早くなっているかもしれません。
ドイツにおいて士官になるためには、一旦兵として入営し推薦を受けて士官学校に
入校することになっています。
SSの学校としてバド・テルツSS士官学校が有名です。
(47:名無し軍曹)

SS師団のSSってなんと読むのですか?

ドイツ語でシュッツスタッヘル
この略語がSS
親衛隊って意味ですな。
(53:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)

武装親衛隊のゼップ親父は地図が読めなかったそうですがどの程度読めなかったのでしょうか?

「回想の第三帝国」というマンシュタイン元帥の副官の回想録に、
ディートリヒ他SS指揮官とマンシュタインが行った作戦会議に
ついての記述がありますが、そこには
「多くの軍事上の記号を彼は知らなかった」とあります。

また「作戦地図の解読が苦手だった」とありますので、
一般人程度に地図を見ることだけはできたのではといったところでしょうか。
(60:518)
地図をさかさまにされると文字が読めなくなってしまったらしい。
頭の中で文字をひっくり返して読むと言う事が出来なかったといいます。

そのため変な姿勢で地図を読んだので、机の上に飛び乗るという噂まで出たんです。
(60:522)

ナチス親衛隊に入るには身長とか視力が一定以上無いと駄目だったらしいけど、具体的にどれくらい必要だったの?

あと髪や目の色も重要?
身長は175cm以上。視力は知らない
髪の色目の色は「アーリア人種」の決定的要件だが、実際には違うのが大半。

身長や健康状態など身体条件もさることながら、血統も非常に重視された。
当初は士官は1750年、兵卒でも1800年まで遡って家系にユダヤ人がいないことを証明しなければならなかった。
(しかし他の人も書いてるように血統については、抜け道というか目こぼしされるケースが多多あった。)
特に第一次大戦終結直後に生まれた世代は少年時代に栄養状態が良くなかったため、身長や体格が基準に満たないものも多かった。
そのため戦争が始まってからの親衛隊の急速な拡大に伴ってこのような厳しい条件では人員を確保できず、
基準はどんどん引き下げられていった。
最終的には祖父母にユダヤ人でなく、とりあえず健康であればいいというところにまでなっている。
(208:97-99)

SS(ドイツ労働者党親衛隊)はどのような事をしていたのでしょうか?

SS(親衛隊)は元来ヒトラーやナチ党幹部を護衛するためのボディーガード部隊として
1925年に創設されたものです。
ハインリッヒ・ヒムラーが1929年に司令官に就任した後、当時ナチ党の準軍事組織だった
SA(突撃隊)を牽制するためにその組織は拡大していきます。
1934年6月30日の「長いナイフの夜」と呼ばれる粛清によって突撃隊指導部が壊滅した後、
党内組織として認定されてSAに代わって実行部隊となりました。

その後、SSは警察組織を取り込んで国家警察として君臨します。
その傘下には有名なゲシュタポ(国家秘密警察)がありました。
また、強制収容所の監視部隊である髑髏部隊(SS-TV)やユダヤ人虐殺に係わった実行部隊
(アインザッツグリュッペン)などもあります。

さらに国内治安維持のための武装組織としてSS-VT(SS執行部隊)が1933年に創設されます。
これが規模を拡大して1940年にWaffen-SS(武装親衛隊)となりました。
武装親衛隊は陸軍の指揮下に置かれ、陸軍同様に戦闘に参加しています。
(214:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


ポーランド人とチェコ人の武装SS隊員は存在しましたか?

ナチ的にはNGのスラブ系のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の志願兵はいるのに、
同じスラブ系でもポーランド人やチェコ人の兵士は聞いたことがありません
ドイツ系住民(民族ドイツ人)のSS隊員や陸軍の指揮下にあったポーランド人治安部隊はあったようだが、
ポーランド人やチェコ人のSS隊員はいなかったようだ。
ここ
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=51&t=38
でその話題について議論されてるが。第30SS武装擲弾兵師団「ロシア第2」にポーランド人部隊があったという怪しげな話しか出てこない。
ちなみに武装SSのスラブ系部隊(ウクライナ、ロシア、白ロシアなど)は大戦後半にヒムラーが渋々許可して作った部隊。
名前も「Waffen Division der SS(SS所属師団)と、ドイツ人やゲルマン系のSS部隊とは区別されてる。
記章ですらSSの稲妻マークを付けていない。
(521:830)

ナチスの親衛隊が突撃隊から独立したのって、党内の政治的な理由ですか?

元々ナチス(NASDAP:国家社会主義ドイツ労働者党)の武装組織として
ナチスの活動の警備と対立組織の排除に使われていた突撃隊(SA)だが、
次第に突撃隊の責任者はヒトラーと対立し、あからさまに合法化した
ナチスの活動に反する態度を取るので、ヒトラーは突撃隊の隊員と
ナチスの党員の中から自分への忠誠心の高い者を集めて「身辺警護隊」
というものを組織し(これが”SS"と言う単語の直接の語源)、突撃隊の
リーダーだったレームと主だった幹部はヒトラーに切り捨てられ、
SSによって排除、処分された。
(このSAに対する粛清を「長いナイフの夜」事件と呼ぶ)

以後はSAの担っていた任務は全てSSに移管されるが、SA自体も一応組織と
しては残されて、SSの補助任務に当たっている。
(556:67)


SS将校のパイパーは何故かつての敵地であるフランスに住んでたのでしょうか?

殺害したのは、フランスの極右だと言われているそうですが、モサドである可能性はありますか?
仮釈放されたあと、有名人だったために顔を知られていてドイツには住めなかったから。
西ドイツ政府(当時)も虐殺事件の戦犯容疑者(まぁ、裁判で刑は確定してるので「容疑者」
ではないわけだが)である元武装親衛隊員(=ナチ)で高名な人が自国内に住む事を左右両面の
懸念から望まなかった。

なので、戦犯だけに国外への移住の自由がままならず、結局隣国フランスの田舎に偽名で
暮らすことに。

そういう意味では別に全力で経歴消して逃亡したわけでもないので、わざわざモサドが
ああいう形で殺す必然性はないだろうな。
モサドが殺したいならもっとずっと早く探し出してさっさと始末しただろう。
虐殺事件とはマルメディ事件のことだと推察しますが、確か最近の研究では偶発的なヒューマンエラーだったと
パイパーが死刑判決を受けたのはマルメディ事件だけではなくて、
イタリアでパルチザンとの戦闘中に村に攻撃を行い22名の民間人を殺害したとされる事件に関してでもある。
同様に本人は否定していたが、同地でユダヤ人の強制収容所の移送に関与したという疑惑をヴィーゼンタール
からかけられていた。
優秀な指揮官ではあったが、だからといって真っ白というわけでもない。
(595:303,317)

SSの師団は補充や再編制はどのように行われたのでしょうか?

苛烈な戦い振りで有名かと思いますが、同時に損耗率も国防軍の他の師団に較べ高いと聞きます。
国防軍ならば補充軍があり、容易だったと考えますが、特殊な組織である武装SS
は緊急な補充、再編制時はどう対応していたのでしょうか?
武装SSへの入隊は志願制だったが、初期にはまだ人数も少なかったしSSに入ればエリートというステータスもあった。
それでも陸海空軍に人員をとられるので確保には苦労したけど。
ただ独ソ戦に突入すると、武装SS隊員は捕虜になったら殺されるという話が流布したため、半ば強制的に志願させるような状況もあった。
44年夏以降は7月20事件で処刑されたフロム上級大将に代わってヒムラーが国内補充軍司令官に就任した。
その結果陸軍から武装SSに転籍させたり、空軍や海軍の徴兵対象者から余剰になった分を武装SSにまわすという手段で人員を確保してる。
武装SSの部隊一覧を見ればわかるけど、(ドイツ本国に居住する)帝国ドイツ人で編成された師団は戦争全部を通しても13個ほどしかない。
その中でも第35警察擲弾兵師団は名前どおり警官の部隊からでっち上げたものだし、最後の第38師団はSS士官学校の教官と生徒という始末。
要するに少ない人員をなんとかやりくりしてたけど、最後にはやっぱりどうしようもなくなってる。
LAHやダスライヒのようなエリート師団でも最後は(ドイツ国外居住の)民族ドイツ人を入れてたりしたみたいだし。

SSが人員確保に苦労した話はハインツ・ヘーネの「髑髏の結社」に載ってたと思う。
(600:632)

ナチの武装親衛隊って、外国人主体の師団がいくつもありますが、これらの部隊では何語で意思疎通をしていたんでしょうか?

また、上級指揮官はやはりドイツ人だったのでしょうか?
師団長や連隊長など上級指揮官にはドイツ人が多かったが、占領地域や同盟国の元軍人が中隊や大隊などの将校として
同胞のSS兵士を指揮する場合も多かった。
基本的にドイツ語だが、意志の疎通がうまくいかなかったために部隊として機能しなかったり反乱が起きたケースもある。
もちろん同国人の指揮官や兵士の間では自国語を使う
ドイツ国外のドイツ系住民である民族ドイツ人(Volksdeutsche)でさえドイツ語を喋れないものが多かった。
(610:770)


SS士官学校って、基本的には他の士官学校と変わらないんでしょうか?

学研の「武装SS全史1」に教育課程についての章がある。
それによると士官学校の教程は最初10ヶ月、開戦後は4ヶ月。
教育内容は戦術教育、野戦式教育、野外実践訓練が教程の半分を占めていたとある。
この他に思想教育に力を入れており、「兵制」科目では部隊指揮に関する一般的な軍事指導・行動原則の他にSS独自の指導・行動原則が教えられた。
「兵制」科目は22週間からなっていたが、最初の4週間はナチスの世界観を教育するものとなっていた。
教程終了後は戦前はダッハウで約10ヶ月の小隊長訓練コースに参加、開戦後はSSまたは陸軍の兵器学校を訪問することになっていた。
部隊復帰後早ければ半年で士官候補生から少尉に昇進。
(308:944)
元々、武装親衛隊では、幹部候補生を入隊させるのではなく、入隊後訓練を始めた新兵の中から、
部隊長が1~2ヶ月で将校候補生を推薦し、その選抜試験の後、SS士官学校で10ヶ月の士官としての
基礎教育(軍事関係の知識、リーダーシップの取り方など)を受け、更に2ヶ月続けて小隊長コースを受講
することが始まりです。
こうした教育を経て、SS少尉に昇進できます。

ヒムラー自身は、将校全員がSS親衛隊の各業務に精通するための教育期間として7~8年を見ていました。
従って、本来の士官学校の役割は、将校教育だけでなく、政治教育、医学、技術教育も含んだ広範囲なもので
あった訳で。
しかしながら、戦争の激化に伴い、そんな悠長なことが出来ず、結果的に戦闘偏重の教育体系になりました。

SS士官学校の組織は、総責任を校長が持ち、教程は教育分隊と各教室に編成され、その後、規模の拡大と共に、
教育分隊、監察部、1組30名から成るユンカーシャフトという組織に編成されていました。
これは国防軍士官学校と同等の体制です。
教育期間は元々10ヶ月でしたが、戦争の激化に伴い、4ヶ月に短縮され、その中で、最低限の一般常識と、軍事的
な基礎知識が試されるテストで始まり、定期的な評価・査定と並んで、中間と期末に実践・理論両方のテストが行われ、
これに合格することで士官の最低ラインに達します。
教程が終了すると、軍事演習場に数週間滞在し、戦場往来を学びます。
戦前は、更に小隊長コース10ヶ月がありましたが、戦争中はSS兵器学校もしくは国防軍の兵器学校の訪問に取って
代わります。
部隊に復帰後は、SS少尉に進級します…大体短縮時で6ヶ月程度の教程です。

なお、教程の半分は、戦術、野戦地形偵察、自己の武器を用いての戦闘訓練であり、「士官候補生を大隊の枠内で
の小隊長として理論的に育成し、自己の武器を用いてその知識を深めて完璧なものにする」のが目的でした。

その教程の中では、陸軍と違い、「兵制」が一番重きを為しています。
これは22週に渡って行われ、
 第1~4週:数百年前から現在に至るまでのゲルマン的国防観念
 第5~6週:ドイツ兵士の職業義務、「我が闘争」による軍の教育的任務
 第7~8週:諜報、サボタージュ、破壊活動、防諜
 第9~10週:懲戒処分・抗告規則
 第11週:懲罰編、懲罰査問編、秘密保持編ガイド
 第12~13週:SS基本法、身上書ガイド
 第14週:下士官・兵士戦時昇進規定
 第15週:SS将校の身分・職業義務
 第16~18週:軍事刑法典、戦時特別刑法典、戦時刑訴規則、ドイツ刑法典
 第18~19週:事実報告、追求、事情聴取手続
 第20週:修了試験、補整
 第21週:中隊長随行としてのSS青年将校。学習者心得、教育者・教練者心得、対下士官・対兵士勤務計画作成
 第22週:将校団および一般社会におけるSS将校の態度。部下に対する政治教育者としてのSS将校心得、
      我がドイツ国民の政治的方向付けに対するSS将校の影響力
てな感じです。
(308:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ナチスのSSルーンって何ですか?

Schutzstaffelの略

(298:788)


バルジ戦の頃のドイツの武装SS師団って兵員や装甲車両などは寄せ集めで数がなく、予備の弾薬や武器もほとんどなかったという認識で正しいのでしょうか?

バルジの頃にはドイツ軍全体の人員不足と戦力の低下は深刻だった。
武装SSも1943年9月に編成された第17装甲擲弾兵師団以降、第35警察擲弾兵師団及び第38擲弾兵師団以外は
全てSS義勇師団もしくはSS所属武装師団。
(SS義勇師団は国外ドイツ系住民もしくは北欧系住民、SS所属武装師団はそれ以外の外国人から編成)
これらの部隊は実質的にはその多くは師団とは名のみで、連隊~旅団規模の人員しかいなかった。
http://www.feldgrau.com
ここのWaffen SSに掲載されている各師団のデータを見ると、末期の師団長はStandartenfuhrer(大佐)や
Oberfuhrer(准将)がかなり多い。
Brigadefuhrer(少将)でも名前を調べてみると、占領地での治安任務についていた元警察組織の人間もいる。
まあそういう末期的な状況だったわけで。
(285:570)

外人SS師団ってどうなったの?

ロシア人、イギリス人、フランス人とかいたそうだけど
外人SS部隊に参加した、参加せざるを得なくなった人たちの末路は悲惨の一言に尽きる。
ソ連に投降したら即刻リンチされて殺される。米軍に投降してもSSということで即刻処刑される、
捕虜になりおおせても本国に送還されれば裏切り者としてまた、リンチされたり処刑されたり。

といっても、当のソ連軍兵士諸君も似たようなものなんで、そのあたりはノーベル賞取った
「イワン・デニソヴィッチの日記」あたりを読んでみると良いと思う。
(692:494)

武装SSの元隊員らは戦後の東西ドイツの軍隊からは排除されたのでしょうか?

ヨハンネス・ミューレンカンプSS大佐はポーランド戦や西部戦ではオートバイ中隊を率いて二級、一級鉄十字章を授章。
独ソ戦ではヴィーキング師団の連隊長や師団長を勤め44年には柏葉付騎士十字章を授章。
終戦時にはSS装甲兵総監を勤めているが、戦後には連邦軍(西ドイツ軍)に入隊し将官で退役している。

この他にも戦車エースであり「SS戦車隊」などの編著者であるヴィル・フェイも戦後連邦軍に勤務。
同じく戦車エースであるバルクマンは戦後郷土部隊に入ったり故郷の消防団長を勤め、最後には町長にまでなっている。

少なくとも西ドイツでは、優秀であり、かつ虐殺などに関与していなかった場合は戦後も軍に入ったものもいたようだ。
(101:696)

1949年に成立したボン基本法(旧西ドイツの暫定憲法)131条では、
「ドイツ敗北後、公職追放された官吏、扶助を貰えなくなった軍人の新補償法を今後定める」
としていますが、この「軍人」の定義には、武装SS隊員は入っていませんでした。
1950年、その矛盾を排すべく、尉官級の元武装SS将校によって、「互助会」というのがローカル
的に作られ、武装SSの戦友会組織として1951年10月には、全国176の支部を持つ一大圧力団
体と化し、ドイツ軍人同盟、ドイツ軍人防衛同盟、降下部隊兵士同盟、ドイツ・アフリカ軍団連盟、
自動車部隊組織、グロース・ドイッチュランド伝統共同体、鉄兜団の軍人団体で構成された全国
退役軍人組織「ドイツ軍人同盟」に参加しています。

ちなみに、初代「互助会」の会長には、D-Dayの際の第七軍司令官で元SS士官学校長の
Paul Hausserが就任しています。

1952年12月、建国以来首相となっていたAdenauerは連邦議会でこう演説しています。
「『あらゆる』軍組織に勤めた全ての国民が立派に戦ったのであり、ドイツ軍人の誉れと偉
 大な功績は、我が国に於いて生き続けるものである」
1953年には、カナダ軍捕虜の殺害の罪で無期刑を受けていたKurt Meyerと英軍刑務所
で面会(後に14年に減刑し、1954年9月に釈放)し、1954年8月30日には議会で、武装SSの
名誉回復宣言を行なっています。
彼らの連邦軍への参加の道は、これ以降開けたか、と。

ただ、この段階で131条の適用は為されず、その対象になったのは、兵役義務法と引き替えに
自由民主党の対案と社会民主党の支援で、1961年6月に、特務部隊に10年以上勤務した者で、
勤務内容は軍役相当に限るとされた人々でした。

東ドイツに於いては、当然の事ながら互助組織も何も存在せず、加えて訴追すべきナチスの
高位高官が殆ど西部占領区に逃亡していたため、中央からのノルマが達成できない事を恐れた
NKVD/MVDによって、ナチス党員の大量逮捕、粛清(20万人程度が強制収容所に収容6万人
程度が死亡)され、軍歴を余程上手く隠さない限り、軍には入隊できなかった様です。
(101:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本と違って、独では大戦中の軍人も顕彰され、敬意も払われていると聞きますが、国防軍ではなく元武装SSも同様なのでしょうか?

戦後パウル・ハウサーが「旧武装SS隊員相互扶助協会」の中心になって活躍したのは
知られた話だが、つまりそれだけ旧SS隊員は差別されていた。
なにせ戦後も国防軍の元兵士とは違って、軍人恩給や年金が支給されなかったし。
ヨッヘン・パイパーが戦後釈放された後、迫害を受けてドイツに住むことが出来ず
やむなくフランスに移り住んだのも知られた話。
(106:657)
補足。
1949年に成立したボン基本法(旧西ドイツの暫定憲法)131条では、
「ドイツ敗北後、公職追放された官吏、扶助を貰えなくなった軍人の新補償法を今後定める」
としていますが、この「軍人」の定義には、武装SS隊員は入っていませんでした。
1950年、その矛盾を排すべく、尉官級の元武装SS将校によって、「互助会」というのがローカル
的に作られ、武装SSの戦友会組織として1951年10月には、全国176の支部を持つ一大圧力団
体と化し、ドイツ軍人同盟、ドイツ軍人防衛同盟、降下部隊兵士同盟、ドイツ・アフリカ軍団連盟、
自動車部隊組織、グロース・ドイッチュランド伝統共同体、鉄兜団の軍人団体で構成された全国
退役軍人組織「ドイツ軍人同盟」に参加しています。

1952年12月、建国以来首相となっていたAdenauerは連邦議会でこう演説しています。
「『あらゆる』軍組織に勤めた全ての国民が立派に戦ったのであり、ドイツ軍人の誉れと偉
 大な功績は、我が国に於いて生き続けるものである」
1953年には、カナダ軍捕虜の殺害の罪で無期刑を受けていたKurt Meyerと英軍刑務所
で面会(後に14年に減刑し、1954年9月に釈放)し、1954年8月30日には議会で、武装SSの
名誉回復宣言を行なっています。

ただ、この段階で131条の適用は為されず、その対象になったのは、兵役義務法と引き替えに
自由民主党の対案と社会民主党の支援で、1961年6月に、特務部隊に10年以上勤務した者で、
勤務内容は軍役相当に限るとされた人々でした。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

武装SSは優先的に最新装備を支給されていたのですか?

武装SSが最新装備を優先的に配備された、という事実はありません。
確かに1943年には3個のSS師団に、
陸軍の通常の装甲師団が有していないティーガー戦車中隊が配備されていましたが、
それ以外の装備の点では陸軍師団と同様です。
また150mm自走榴弾砲は武装SSより陸軍の装甲師団に先に配備されています。

武装SSの装甲師団が陸軍のそれと異なる点は兵員数と補充優先度でした。
陸軍装甲師団が4個歩兵大隊だったのに対し、武装SSは6個大隊編制でした。
また、武装SSの装甲師団は大損害を受けても可能な限り迅速に補充が行われました。
ただ、このような補充を受けられたのは一部の部隊だけで、武装SSの多くの師団は、
装備も訓練も貧弱な二線級部隊でした。

捕捉
最新装備という点では、
パンター戦車も突撃銃も武装SSより陸軍に先に配備されていますし、
赤外線暗視装置も、エレファントやヤクトパンター、ヤクトティーガーといった重駆逐戦車は、
武装SSには配備すらされていません。
(110:403-404)

武装SSの袖飾りにはどんな意味があったのですか?

ヒトラーが、1945年にぼろ負けしたSS部隊に対して「軍服に袖飾りをつけるな、という命令を出した」 と聞きました。
武装親衛隊の制服の左袖には黒く細い帯が縫い付けられており、所属する師団や連隊の名称が刺繍されていた。
第一SS装甲師団なら「Adolf Hitler」、第五SS装甲師団なら「Wiking」など。
これをカフタイトルといい、部隊の名誉の象徴であった。
1945年春のハンガリーでの反抗作戦「春の目覚め」が失敗した時、したヒトラーは主力だった
第六SS装甲軍に所属した武装SS師団に対しカフタイトルの剥奪命令を出した。
この命令に対し名誉を剥奪されたと怒った装甲軍司令官ゼップ・ディートリヒは、
「Adolf Hitler師団のカフタイトルを小便壷に巻きつけて、総統の元へ送り返せ!」と叫んだといわれる。
しかし実際にはディートリヒは錯乱した人間の言ったことだと、この命令には従わなかったという。

補足
カフタイトルは武装SSだけではなく、グロース・ドイチェラント師団など陸軍の一部エリート師団も着けていた。
ただし右袖。
また一般SSでも一部部局やヒムラーの幕僚などは、所属する部署名を記したカフタイトルを着用している
(117:23,24)

一般SS、武装SSについて質問です

大戦末期のSS各組織末端部(兵・下士官)は両組織間の人事異動はどれほどのものだったのでしょうか?
一般、武装SSともに士官学校は共通だったのでしょうか?
レーガン大統領が武装SSの墓地を参拝したのが問題になったそうですが、武装SSと国防軍の墓地は別物ですか?
1番目→初期の頃の武装SSは、その人員供給源として保安部の強制収容所監視員、一般SSからの人員に頼っていました。
      また、隊員補充活動は一般親衛隊の地方管区指導者権限になっていました。
      その後は、武装親衛隊兵員補充局の下、ヒトラー・ユーゲントが主になっていきますが。
      更に、逆コース(武装→一般)もありましたが、この場合は一般の方が武装より10~20%も給与が低くなります。
      従って、逆コースは敬遠されました。
2番目→武装親衛隊組織が確立してからは、別々です。
      カリキュラムからして変りますから、一般SSの将校であれば、武装SSの幹部候補になります。
3番目→我が国の靖国と同じで、ビットブルグには1887名のドイツ人兵士が葬られていますが、49名は武装親衛隊です。
(266:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

フランス外人部隊結成のとき、元ドイツ兵が多く入ったと聞きました。

外人部隊に流れたのは主に元武装SSの隊員達
というのも、SS関係者はは西ドイツで公職追放された上に軍人恩給の支給も拒否され
ナチスの私兵というイメージから一般市民の印象も悪く、民間での再就職も難しい
生きるためには傭兵稼業しかなかったという事情があります。
もっとも外人部隊で彼らを待っていたのは北アフリカやベトナムで使い捨てにされる運命だったのですが
(708:702)


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