軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

WW2全般

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匿名ユーザー

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第2次世界大戦で既に(劣化)ウランが弾芯に利用されていた、ということでしょうか?

確か弾芯にウランを使用していたはずです。実戦に使用したかは分かりませんけど。
この頃になるとドイツでは原爆開発の目処が当面は立たないと判明したため、
原爆開発のために備蓄していたウランを他の用途に転用したと聞いたことがあります。
その一つに弾芯の素材としてウランを転用したことがあると聞きました。
(6:564)

第2次世界大戦時の各国の国力を知りたいのですが?


主要国国力については,こちら
http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/ww2-gdp-sai-axx.htm

WW2の直接原因は?


 戦争が始まった直接の原因は,ドイツがポーランドに,ダンツィヒ割譲とその周辺のポーランド回廊に交通網の施設と使用を要求して拒否されたんで,攻め込んだことかね.
 中止しないと戦争するぞと英仏が警告したが,ドイツは何とかなると思って警告を無視した.
 WW2の開始は,中止の期限が切れた瞬間とみなされる.

(世界史板)

ドイツはロカルノ条約を破ってラインラントへ兵を進めたり等,条約を破りまくりなんですが,それらについて,当時の国際機関であった国際連盟は具体的なことは出来なかった,ととらえてよいのでしょうか?


 何もできませんでした.
 まあ,ラインラントはドイツの領土――ロカルノ条約により,非武装地帯にされていただけ――ですし,国民は進駐を熱狂的に支持しましたから….
 ラインラント住民にとっても,いつフランスやイギリスから占領されるか分かりませんでしたからね.

 加えて言うなら,英国の世論は概してドイツに同情的でしたし,フランスは政情不安でとても出兵できる状態でなかったということを考えれば,じゃあどこの国が制裁するのよ?ということになりますわね.
 それを見越してヒトラーも進駐に踏み切ったんですが.

 ただ,いざ実行するに際しては,ドイツ側もおっかなびっくりだったようで,(
ロカルノ条約では違反時に武力制裁が認められていましたから)英仏軍が攻撃してきた場合には,すぐに撤退できるよう準備をしていたそうです.
 当時の独軍には実戦を耐え得るだけの実力はありませんでしたので.

(世界史板)

管制塔---塔の上に管制官の詰め所を備えた構造物---は戦後に生まれたものであって、大戦中には存在しなかったのでしょうか。

airfield control towerで検索してみれ。けっこう引っかかるよ。
(6:48)

トルコ共和国3軍の基本ドクトリンとは、親独反ソ、ただし中立堅持だったと、単純に理解していいのでしょうか?

45年2月に対ドイツ参戦してますから中立堅持とは言いがたいと思います
洞ヶ峠といったところではないでしょうか
(6:217)

第2次世界大戦のとき、アラブ諸国は何をしていたのでしょうか?

中東はイギリス領でしたから、イギリス軍として参加していました。
ロンメルの北アフリカ戦線について調べてみると、よく分かると思いますよ。
それと、イギリスの二枚舌外交と、無責任さにも・・・
(14:960)
1940年頃の中東は…。
英国の影響下にあったものが、独立国(或いは保護国)ではイラク、エジプト、
トランスヨルダン(今のヨルダン)、パレスチナ(今のイスラエル)、湾岸諸国、イェメン、オマンです。

このうち、イラクは1941年にガイラニ首相が枢軸寄りの外交政策を採ろうとして、軍部が王室打倒クーデターを起こし、
ドイツがそれを支援しましたが、失敗して英国の影響下に置かれました。
エジプトでもナセルやサダトが率いる若手将校団がクーデターを計画しましたが、発覚して、彼等の身柄は拘束されました。

イランは1942/1/29にソ連が北半分を、英国が南半分を占領し保護下に置き、
サウジアラビアは自立してましたが、いずれも1943年に米国と協定を結んで
両軍は一部が撤退して米軍を駐留させました。

イェメンはアラブ陣営唯一の中立国でしたが、これも1943年に連合国に参加しています。

シリアとレバノンは「サイクス・ピコ協定」によってフランスの保護下に置かれ
ていましたが、1940年のフランス崩壊でヴィシー政権に属し、1943年に自由
フランスの影響下に置かれた後、相次いで独立しました。

アフリカは独立国がほとんど無く、前述のエジプトを除けば、リベリア、南アフリカ、
モロッコ、エチオピアのみが独立しています。
このうち、モロッコはフランスの保護国、エチオピアはイタリアの占領下にありました。
このほかの地域は、南アフリカ、ボツワナ、ジンバブエ、ナミビア、ケニア、マラウィ、
スーダン、エジプトを結ぶ線とガーナ、ナイジェリア、ニジェールの一部などが英国の植民地でした。
南アフリカはアフリカ、イタリア戦線の主力として活躍し、ジンバブエも兵士の供給源になっていました。
また、ケニアはエチオピア奪還の根拠地となりました。

フランスがモロッコ、アルジェリア、チュニジア、マリ、中央アフリカ、ギニア、セネガル
マダガスカルなどを植民地にしており、カサブランカ、ダカールでは連合国とヴィシー政府軍との戦闘が行われています。
なお、英国占領後のマダガスカルでは、日本の特殊潜航艇が英戦艦「ラミリーズ」を大破させました。

イタリアの植民地はエリトリア、リビア、ソマリアの他、大戦前に占領したエチオピア
がありましたが、1941年から43年に掛けて連合国に占領されました。

このほかはコンゴ、ルワンダ、ブルンジがベルギーの、セウタ、赤道ギニアがスペインの、
モザンビーク、アンゴラなどがポルトガルの植民地でした。
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)

枢軸(AXIS)という言葉が日独伊にどうして使われたのか教えて下さい。

ベルリン・ローマ枢軸関係成立の際に
ムッソリーニが「枢軸演説」をしたと。
それで「枢軸」が一般的に使われるようになったようです
(15:241)
goo辞書から

すうじくこく 【枢軸国】
第二次大戦前から戦中にかけて,日本・ドイツ・イタリアを中心に連合国と対立した諸国家。
〔1936 年イタリアのムッソリーニの,ヨーロッパの国際関係はローマとベルリンを結ぶ線を
「枢軸」として転回するとした演説に由来する語〕
(102:785)
1936年10月25日にドイツとイタリアの間で防共協定が結ばれ、ムッソリーニが
その協定に対して、同年11月1日の演説で"asse"(イタリア語でaxis "枢軸"の意)
という語を用いたのがそもそもの由来です。

ムッソリーニはこのasseという語を「ヨーロッパの枢軸」という文脈で用いたのですが、
独伊のヨーロッパでの地理的位置を考えれば、この語が用いられた意味は
おわかりいただけると思います。枢軸というのは車軸、中心軸の意ですから。

では日本語で「枢軸」が独伊間の協定をさして使用されたのはいつか、というと
これがよくわからないのですね。おそらく、ムッソリーニ演説は日本でも報道された
でしょうから、その時に使われた可能性があるのですが。
(102:786)
「イタリアとドイツが欧州の枢軸となりましょう」という両国の合意のもと、
イタリア元首ムッソリーニが1936年11月の演説で「独伊枢軸」という言葉を使ったため、
以後、日独伊(およびその同盟国)が枢軸側と呼ばれるようになったのです。

ちなみに英語では「AXIS」と呼ばれます。
(102:787)

日系米人の強制収容などに代表される、第二次世界大戦の人種間戦争的な側面について、現在ではどのような評価が一般的なのでしょうか。

パパ・ブッシュのときに正式に謝罪して、強制収容の経験者で存命中の方は一人
当たり当時の日本円で200万円ほどの補償金を受けていたと思います。
公式には解決済みなのではないでしょうか。
(18:ふみ)

日独伊三国同盟は、イタリアではドイツとイタリアどちらの方が最初に来るのでしょうか?

自分の国を頭に持ってこない国は通常ないかと
ですからイタリアでは伊独日ないし伊日独三国同盟のようです。

世界史的には独が先頭で伊日の順はまちまちのようです。
(25:769)

第2次世界大戦で連合軍側の兵士が戦争犯罪人として裁かれた例はありますか?

それってただの軍法会議になるのでは…。
まあ、なにをもって戦争犯罪とみなすかですがね。
(30:113)

第2次世界大戦中に他国で日本のような学徒出陣はあったのですか?

ドイツやソ連は、13歳くらいまで戦場に送っています。
(32:732)

第二次大戦で大都市が戦場になった場合、そこの市民はどうしているのでしょうか?

大都市が市民ごと包囲された話で最も有名なのはレニングラード包囲戦でしょう。
1941年9月8日~1944年1月27日までの900日間、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)
はドイツ軍によって包囲されました。食物・燃料の補給路を断たれ、冬の寒さと飢えの中で
多くの市民が犠牲になりました。独ソ開戦前の市の人口約300万人、包囲戦で犠牲になった
兵士や一般市民は、最近の発表で80~100万人といわれています。
ソ連は凍結したラドガ湖を利用して物資を搬入し、また市民を疎開させましたが、
残っていた市民は軍と協力して陣地や塹壕を建設し、また市内で生産された武器を使って
義勇志願兵として戦闘にも参加しています。

終戦後のベルリンの状況はよくわかりませんが、占領下で配給に頼らなければ生きていけない状況では、
都市に住んでいた人間は逃げたところで生活が出来なかったのではないでしょうか。
(65:名無し軍曹)

せっかく支援したのにWWII参戦しなかった南の国ってどの国なんでしょうか?

スペイン(これは確実)
(65:589)

三国同盟のメリットを教えてください。

当時の新聞によると、独伊を血盟の同志と位置付け
全体主義による世界のため自由主義陣営を妥当する栄誉を分かち合うとなっています
つまり全体主義合同による世界秩序の構築の推進力増加のメリットであるわけです
(67:329)

日伊連絡作戦って何ですか?

Savoia-Marchetti SM82 Canguroを用いて行われたもので、飛行距離12,910km
の冒険です。

イタリアのローマと日本の東京を結ぶ隠密飛行で、1942年に行われたものです。
ローマから東欧諸国を経由してコーカサスからカスピ海を抜け、天山山脈を越えて
満州に抜け、東京まで飛行したもので、確かウクライナと満州で補給しただけの
飛行だったかと。
搭載したのは、カプロニが開発したエンジンが数基だったそうです。
(SM.82自体は発動機6基または、ガソリン2,270lか、CR42戦闘機1機を搭載出来る
大型輸送機で、エンジンをP&Wに換えて1950年代まで使用されました)
(69:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WWIIは、太平洋戦線とヨーロッパ戦線のどちらが規模が大きかったんですか?

規模の大きさって何を指すのかな

参加国の多さじゃヨーロッパ
死人の数なら太平洋戦線
作戦域の面積なら太平洋戦線
基地外指揮官の数は均衡
基地外作戦は太平洋戦線
人体実験ならヨーロッパ
(78:363)

カナダやアフリカやブラジル、その他中東の国や小さな国々は大戦に参加してたんでしょうか?

欧州諸国はほぼ何処も戦場で、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、
ギリシャ、ユーゴスラビア、デンマーク、ノルウェー、アンドラ、アルバニア、ポーランドは
ドイツ軍などに占領されていました。
オランダは、第二次大戦でドイツと共に日本とも戦っています。
バルト三国はソ連に併合され、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、フィンランド、
クロアチア、モンテネグロは枢軸国の一員として参戦しています。

中立国でも、スウェーデンはドイツ、英国と綱渡りの外交を展開し、スイスも臨戦態勢を敷いていました。
比較的平和だったのは、イベリア半島とエール自由国(アイルランド)くらいです。

アフリカ大陸に目を転じますと、南アフリカが連合国側に立って参戦し、その他の英国植民地
(ローデシア、東アフリカ)が将兵を送り込んでいます。
東アフリカの部隊はイタリア領だったエチオピア解放に動いています。
モロッコは連合国に占領され、自由フランスの基地となり、西アフリカでは自由フランスと
ヴィシーフランスの衝突がありました。
エジプトは参戦に消極的でエジプト陸軍内には親ドイツ派の将校によるクーデター計画がありました。
実際にイラクでは、親独政権が打ち立てられましたが、英国の侵攻でおじゃんになり、
イランは英国とソ連により分割占領され、サウジには米国の基地が置かれました。
トルコも中立維持に腐心した国の一つです。
トランスヨルダン、パレスチナ、クウェート、マスカットオマン、イェメンは英国の影響下にあり、
シリア、レバノンは最初、ヴィシー政権に忠誠を誓いますが、後に英国と、自由フランス軍に占領され、後に独立します。

インドはインド帝国で英国の植民地、ビルマ以西は日本に占領されました。
豪州はアフリカと太平洋で、枢軸各国と対峙し、ニュージーランドも同様です。
当時、インドネシアは蘭印と呼ばれ、オランダの植民地でした。
日本占領後は、兵補と言う準軍隊が募集されています。
インドシナ三国はフランスの植民地で、タイと1941年に国境紛争を起こしています。
タイは、日本と紛争を起こしますが、当初は日本寄りに、後に軸足を連合国寄りに換えています。

フランスからカンプチア国境地帯の割譲を受けますが、マレーの国境地帯割譲は受けませんでした。

中国も満州の他、各地に軍閥を吸収した日本の傀儡政権が成立しています。
一番有名なのは、汪政権でしょう。

最後に南米のうち、アルゼンチンは英国に穀物、畜産物を輸出して多大な利益を上げ、
ブラジルは1942年に枢軸国に対して宣戦布告を行い、海上護衛、
1945年にイタリア戦線に陸空軍部隊を派遣して、実戦に参加させています。
また、メキシコは1945年に南太平洋戦線にP-47部隊を展開させる予定でした。

なお、ノルウェーは国土占領後、船乗りは連合国の輸送任務に携わり、カナダで
訓練を受けたノルウェー人部隊が、アイスランドを拠点に沿岸哨戒任務に就いています。
これはギリシャも同じです。

カナダは米国と同じく英国の兵器廠として活動し、大西洋戦線と英国戦線で軍が活動しています。
また、カナダに限らず、英国の大きな植民地では空軍兵士の養成が積極的に行われてたりします。
(79:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WWⅡでの独軍や英軍などの中に突撃○○隊などがいますが、何故突撃などと名付けられているのですか?

格好いいからです。

ソ連の狙撃兵師団みたいなものです。
(80:454)

タイがどこの国の植民地にならなかったのはどうしてですか。

極東軍事裁判で実質上日本の植民地と認定されて敗戦国から免除されております。>>泰
(83:93)
ビルマ、マレーは英国の勢力圏…
インドシナ半島はフランスの勢力圏…

間にあるタイは緩衝地帯…
そういうことです。
(83:94)
英国とオランダがけん制し合ったからだと聞いた事が有る。
(83:剣恒光 ◆YR1Hskt.M.)
全土が植民地化された訳ではなく、一部地域はThailandから切り離されています。
元々、ThailandはLaos、Cambodiaも含んで一円的に支配していましたが、
19世紀半ばから、英国が侵入して、北部と半島部を支配され、1887年には、Franceが
LaosとCambodiaを占領し、現在のThailand東部も一円支配しました。
(なので、現在でもThailandとLaos、Cambodiaの間には緊張関係が有る訳です)

ただ、1855年にモンクット王が英国とタイの間で欧州の植民地にならないことを定めた
ボーリング条約を締結したため、他国がThailand本土の完全支配が出来なかった経緯があります。
(83:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

国家社会主義ドイツ労働者党の幹部(ヒトラー以外)とスターリンの著書ってないんですか?

スターリンの著作なら、
「スターリン全集 」「レーニン主義の基礎」「レーニン主義の諸問題」等々。
大月書店という書店から出版されているそうですよ。
(85:名無し軍曹)
有名どころではナチのイデオローグで東方占領地域大臣だった
アルフレット・ローゼンベルクの思想書「二十世紀の神話」
啓蒙宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスの
ヒトラー内閣成立までのドキュメント「勝利の日記」などがあります。

またスターリンに関しては戦後大月書店でスターリン全集が出版されていますので、
それを確認されるのが確実だと思われます。

より詳細が知りたければ世界史板で質問される方がいいと思いますよ
(85:351)
シュペーアが「第三帝国の神殿から」と言う回顧録を出しています。
ジュガシヴィリは、「レーニン主義の諸問題」と「スターリン全集(13巻但し、未完)」
を著わしています。
元々が、Pravdaの編集に当たっていた人ですからね。
(85:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦当時、陸軍と海軍てどっちが多かったんですか?

普通は陸軍が多い。
(85:一等自営業 ◆BVruYgneoI)
国家とは通常陸にあります。
陸を護るので陸が多いに決まってる。
海は準備軍なのだよ。
使い走りだよ。
海上自衛隊がその典型。
(85:470)

WWⅡで枢軸国側にハンガリー、ルーマニア、アルバニア、フィンランド、ブルガリア、リトアニア、タイ等が参戦していたそうですが

これらの国は日独伊に比べると非常に微々たる力だったのでしょうか?
それとも前線で米英相手に善戦していたのでしょうか?
フィンランドがソ連に痛撃を与え続けたのは有名。
タイは連合国に宣戦する一方、密かに講和を打診する面従腹背戦略。
東欧諸国は東部戦線で二線級の活躍。
スターリングラードで同盟軍があっさり崩壊したため第6軍が包囲されてしまった。

まあ、日独とこれら小国を比べるのがそもそも間違ってる。
連合国だって数十国が戦列に加わっているのだが、
目立ってるのは英米だけだし。
(86:699)

第二次世界大戦前後に行われていた「子供を増やせ政策」って意味あったのですか?

旧ソ連では未亡人や結婚できない女性に子供を与え、せめて生きがいを与えようというものだった
みたいなことをアメリカ人が書いてました

実際人口が激減した国では戦後の国力UPに人手がいるでそ

日本人のように負ければすべて終わりとは考えないのでしょうかねえ
(87:322)

WW2時、撃墜記録ってどうやって確認してたの?

連合軍の場合は複数人の目撃者があることが前提でした。
あとガンカメラの映像とか。

ドイツ軍は覚えていませんが、かなり基準的には曖昧だったような。
(93:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
米軍 → パイロットの申告、僚機2人以上の証言、ガンカメラ
日本 → パイロットの申告(個人撃墜は認めていなかったので部隊として撃墜数を
              確定すればそこで御終い)
独軍 → 米軍と同じ+地上に落ちた残骸の確認(東部戦線のみ)
フィンランド軍 → 地上に落ちた残骸の確認(回収)、僚機の証言(しばしば採用されなかった)
イタリア軍 → ?
仏軍 → とても複雑でよくわからんが、最終的にはドイツ側被害数とつじつまが合う仕組みだった
(93:255)
じゃあ日本のエースって本人の証言のみですか…
本人、だけではなく僚機パイロットの証言も参考にされまつ。
ベテランパイロットが多かった頃は戦果の検証も厳密で、かなり正確だったでつ。
(93:261)

1939.9.1ドイツのポーランド侵攻に始まる一連の戦争を、最初に世界大戦と呼んだのは誰

あるいはどこで、いつのことなんでしょうか?
「誰」の答えはチャーチルだが、「いつ」「どこで」は不明

ヨーロッパでは第1次大戦終了直後から第2次大戦がいつ勃発
してもおかしくないとされておったわけで、ポーランド戦開始
直後に英仏が対独宣戦布告したとたん、「世界大戦が始まった」
と捉えるのは欧州一般市民の共通認識でもあった
(93:864)
ええと、864は英米圏だけの見解で仏独ソでは別の見方があるかも
(93:865)
日本では「欧州大戦」と呼ばれてたしね。
(93:866)

第二次大戦中ドイツと日本は軍事的な交流があったのですか?

ヨーロッパ戦線で戦った日本軍兵士っているんですか?
一応インド洋で日独共同作戦やっている。
欧州では日本兵戦っていないはず。
(93:934)
戦闘には参加していませんが、ドイツに潜水艦を派遣してますね。
あとはドイツ軍に徴兵された在独日系人がいます。
(93:936)

世界恐慌が起きなかったら第2次世界大戦は起きなかったの?

単一の原因で起きたワケではないが
第二次世界大戦は発端だけに着目すれば
第一次世界大戦で生まれた歪を正そうとした
「余震」のようなものとして始まったとは言えるかも。
(100:651)

枢軸国側として参戦した国は日本・ドイツ・イタリアのほかはどの国なんでしょうか?

ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア
(103:202)
クロアチア、スロバキア
フィンランドもかな?
(103:203)
満州国
(103:205)
※満州国は宣戦布告を行ってないが、連合国の攻撃を受けている。また、当時独立国ではない韓国・台湾は削除。
タイもな
(103:207)

第二次世界大戦で、地上兵の訓練期間はどのくらいだったんでしょうか?

旧日本軍を例にして挙げれば、地上兵ですが、入隊後、3、4ヶ月目に、
「一期の検閲」と呼ばれる連隊長の検閲を受けるのですが、それまでが基本教育の期間とされていました。
(103:742)

第二次大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか?

第二次大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、
エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、
独立国はトルコ共和国だけでした。
これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。
「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、
またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。
(105:28)
アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、
英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。
ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。

イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。
英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、
軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。
しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は
あっけなく倒れました。
以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。

シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、
アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。
1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、
第二次大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。
しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国
軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。
1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。
ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。

レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。
その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治
国となり、1944年に正式独立しました。

パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた
アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。
そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を
懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。
ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。
ところが、第二次大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の
補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。
これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題
のひとつの引き金になってきています。
1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英
国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。

ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守
及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国
王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。)
このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事
同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。

サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、
1932年に王国として統一されました。
1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。
第二次大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り
好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。
米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。

エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。
但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める
と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。
第二次大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。
なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター
が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。

このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦
で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず
(戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国
から受けていますが、一応維持しています。
また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン
が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。
(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦では欧州・アジアを問わずに無差別爆撃が行われましたが、国際法的にはどのようにして正当化したのでしょうか。

簡単に言えば「防守都市」の拡大解釈
(106:157)
ハーグ空戦規則案(批准が行われていないため、法としての効力は発生して
いないものの、空戦に関して各国はこれに準拠している)では、24条1で、
軍事目標に対する爆撃のみが適法であるとされています。ここでいう軍事目標とは、
「その破壊もしくは毀損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標」と
規定されています。また、24条3では、陸上軍隊の作戦行動の直近地域でない
都市への爆撃は禁止され、4では、直近地域にある場合には、「兵力の集中が
重大であって、爆撃により普通人民に与える危険を考慮してもなお爆撃を正当と
するに十分であると推定する理由がある場合に限り」適法である、とされています。

25条では、4の場合にも爆撃の対象とならない施設と、その施設を明示する標識、
および標識の不正な使用の禁止について述べられています。

第二次世界大戦以前の法的な状況は以上のようなものなのですが、問題は、
第二次世界大戦において総力戦が遂行されるとともに、文民やあらゆる産業が
戦争遂行体制に組み入れられるとともに、航空機および防空能力が飛躍的に向上した
ことです。この流れの中から現れたのが「目標区域爆撃」という概念で、これは、
軍需工場(戦争の遂行に必要な産業)の密集地域で個々のの軍事目標の選択が
不可能な場合、その地域全体を一つの軍事目標とみなす、とする考え方です。
これを最初に提出したのはイギリスですが、日本では、都市全体を防護する防衛施設
や軍隊が駐屯する都市を、それが戦場から遠く離れていても防守都市とみなし
それへの無差別攻撃を正当とする拡張された防守都市の概念もあらわれました。

第二次世界大戦中の法概念の変遷は、概略以上のようなものです。ちなみに、戦後は、
ジュネーブ条約の第一追加議定書において「紛争国当事国の軍事行動は、軍事目標
のみを対象とする」(48条)とされており、51条5(a)で、目標区域爆撃は無差別攻撃として
禁止されています。また同時に同議定書においては、軍事目標の定義についても、
空戦規則のものより更に精密なものになっています(52条2)。また、爆撃の被害を避ける
予防措置についても、攻撃側に一定の義務を課し(57条2a-c)、同時に、被攻撃側にも
攻撃の影響から文民が被害を受けることを予防する義務を課しています(58条)。

# 58条絡みでこないだのイラク戦争でフセイン政権がやった「人間の盾」が非難の対象
# になったのは記憶に新しいところ。

以上、国際人道法(藤田久一著)pp.109-117より
(106:158-159)

ムッソリーニにはファシスト党、ヒトラーにはナチ党がありますが、他のファシスト国家にはどんな政党と総統がありますか?

スペインはファランヘ党
(111:143)
他にハンガリーの矢十字党、ルーマニアの鉄衛団などが有名どころでしょうかね。
(111:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WW2で市街戦を行う必要ってあったんですか?

迫撃砲とかで完全に破壊してしまえばいいと思うのですが
都市の破壊って半端じゃない労力が要ると思うんだが。
(111:375)
それで済む時はそうする。
対要塞砲や列車砲まで持ち出して街区ごと消し飛ばしたワルシャワ蜂起の時のドイツ軍みたいに。
(111:376)
必要があるか無いか以前に、実際に数多くの市街戦が行われています。
スターリングラード、ベルリン、マニラ、カーン、ワルシャワ、挙げればきりがない。

市街(大都市)は多くの場合、人口と建物が密集し、商工業の中心であり、
国民生活の基盤を形成しています。
従って、攻める側から見れば戦略上の目標となりやすい。
守る側から見れば、死守すべき価値がある、といえます。
だから市街戦は発生する。

市街そのものを物理的に破壊してしまえばよい、との指摘ですが、
これは過去にも同様のことを考えた作戦家はいました。
砲爆撃によって建物すべてを破壊してしまおうとしたんですね。
しかし、ヨーロッパの石造建築はきわめて強固であり、
その多くを破壊することはできても完全破壊には至らない。
地上の建築を破壊しても、下水道までは破壊できない。
これらを成し遂げようとすれば、現在でも核攻撃以外にはないでしょう。

でも、完全破壊された都市はすでに都市ではなくなってしまいますね。
作戦目標自体が消滅してしまうのです。
それでもよい、と攻撃側が判断(あるいは血迷った)ときには実行に移されるかもしれません。
(111:377)
街を壊したら占領した側が利用できなくなるしね
(111:379)

第2次大戦前のドイツ・フランス・英国はそれぞれどこから石油を輸入していたのでしょうか?

独逸は主にロシアからだったと思う。
(111:ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E)
英国はイラクが主。
フランスもイラク、それとバクー。
ドイツは、初期はバクー、その後ルーマニアにシフトしていたはずです。
(111:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WW2で、最大の激戦地だったのはどこですか?

東部戦線
(111:839)
トータルの死人の数だけなら東部戦線
一日で死んだ人間の数だけなら広島
(111:842)
一度に使われた資材や兵器の数なら、ノルマンディー上陸作戦かな。
映画「プライベートライアン」やね。
あの映画見ると、あんまりそういう感じしないけど。
(111:847)

第二次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか?

日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。
韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。

ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について
トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、
あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり
いろいろと。

それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に
米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆
(ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。
(112:695)
闇物資の取引、仲介、調達行為。
日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。
(112:696)

第二次世界大戦の時スペインは何してたんですか?

フランコ政権 でぐぐるといいよ。

スペイン内戦の関わりで一応親ナチスだったが、公式には中立だった。
(121:945)
Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を必要としたので、
第二次大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛けられる圧力のため、正式参戦しませんでした。
しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」
(うろ覚え)が東部戦線に派遣されたりしています。
(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、
ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、
午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、
参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、あたくの最新兵器も供与してねと足元をみるような要求をしたりと、
最初からやる気がなかったという話もある。
そのかわり>>947で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、
ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。
また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編成された通称「青」師団は、
東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。
(121:954)



WW2のとき独立国家はいくつあったのか?

1944年の時点で世界の独立国は78カ国です。
(318:丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM)
日本帝國、満州帝國、中華民国(蒋介石、汪精衛の二つ)、中華ソヴェト(毛沢東)、タイ王国、ビルマ、フィリピン共和国、
ソヴィエト連邦、トルコ共和国、イラン王国、アフガニスタン王国、サウジ・アラビア王国、イラク王国、イェメン王国、
クウェート王国、オーマン王国、ブータン、シリア共和国、レバノン共和国、ポーランド共和国、エストニア共和国、
ラトビア共和国、リトアニア共和国、ドイツ共和国、ダンツィッヒ自由市、英国、アイルランド自由国、フランス共和国、
イタリア王国、アルバニア王国、スペイン共和国、ルーマニア王国、ユーゴスラヴィア王国、ハンガリー王国、ベルギー王国、
オランダ王国、ポルトガル共和国、ギリシャ王国、スウェーデン王国、ブルガリア王国、スイス連邦、デンマーク王国、
アイスランド共和国、クロアチア共和国、フィンランド共和国、ノルウェー王国、スロヴァキア、ルクセンブルク王国、
モナコ王国、サンマリノ共和国、リヒテンシュタイン公国、アンドラ公国、ヴァチカン市国、セルボガ公国、米国、
メキシコ共和国、キューバ共和国、ハイチ共和国、グアテマラ共和国、サルヴァドル共和国、ドミニカ共和国、
ホンジュラス共和国、モンテネグロ王国、ニカラグア共和国、コスタリカ共和国、パナマ共和国、ブラジル連邦共和国、
アルゼンチン共和国、コロンビア共和国、ペルー共和国、チリ共和国、ヴェネズエラ共和国、ボリヴィア共和国、
エクアドル共和国、ウルグアイ共和国、パラグアイ共和国、エジプト王国、リベリア共和国、エチオピア帝国、
モロッコ王国、サロ社会主義共和国、タンヌ・トゥーバ共和国、チベット、東トルキスタン共和国、
イランの北西部にもソ連の傀儡国家があったっけ。
(WWIIのマイナーな軍について語るスレ:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦当時の参加国の一覧ありますか?

http://encyclopedia.lockergnome.com/s/b/Participants_in_World_War_II(リンク切れ)
によれば,第二次世界大戦で参加した,もしくは大きな影響を受けた国は61カ国です.
 国の数自体は61より多いですよ.リンク先の国の数を見てみると(番号が振ってあるので数える手間はありません)すぐ分かります.
 たとえばこの一覧表ではタイはありませんし.タイは植民地になったことがありませんしね.

 61ヶ国の内,枢軸国は,日本,ドイツ,イタリア,アルバニア,タイ,ハンガリー,フィンランド,ブルガリア,リトアニア,ルーマニアの11ヶ国.
 それ以外が連合国側です.

(「はてな」)

第2次世界大戦で一番死者が多かった国は?


 たしか,ソ連は民間人込みで1千万人以上やられてます.
 数年前に出てた,ダニガンのWW2の余話集(文庫本で翻訳にけっこう誤りのあったやつ)に,各国の人的被害について軍人・民間人別でまとめられています.

 うろ覚えだけど被害の多かったのは中国,ソ連,ポーランドあたりだった覚えがあります.
 1913年(この数字信頼性ゼロや)生まれのソ連人全男性の80%以上が戦死したとか.
 死傷者数を見るよりも,恐ろしさを実感した覚えがある.
 その前後の世代も似たような戦死率で,50年代になって,未亡人や結婚適齢期を逃した女性の為の政策に政府が悩んだと覚えてます.

 あと,ポーランド人300万人も絶滅収容所で死んでますね.
 まさに,「世界は地獄を見た」ですな.


第2次世界大戦中の北アフリカ以外のアフリカはどうなっていたのですか?

フランス領やベルギー領などあったと思いますが.
  • 南アフリカ連邦(含.ナミビア)
 第二次大戦参戦に当たっては、ボーア人との確執が有るも、結局対独宣戦を行う。
 空軍は、第二次大戦参戦後は、英国空軍に協力し、東アフリカ戦線、北アフリカ、中東、地中海、バルカン半島の各戦線で主に戦闘を行う。
 また、空軍要員の育成の拠点となり、1944年2月までに操縦士5,000名、観測員5,000名、航法士2,000名、爆撃手2,000名、機銃手2,000名を養成。
 海軍は、南大西洋地区、インド洋地区の対潜警備を実施。
 陸軍も、空軍と同様に東アフリカ、北アフリカ、イタリア各戦線で戦闘を繰り広げる。
  • 南ローデシア
 南アフリカと同じく、空軍兵士の養成拠点として機能。
 なお、此処では、英国だけでなく、英国のアフリカ植民地、ベルギー領コンゴ、中東、連合国各国から
 初等教育を受けに、この地にやってきている。
 空軍は、西部戦線に2個スコードロン(爆撃機、戦闘爆撃機)、中東戦線に1個スコードロン(戦闘機)を
 展開。
  • 英国領ケニア
 1940年のイタリア参戦時に、アビシニアのイタリア軍の侵攻を受けるが、これを撃退。
 その後、アビシニア侵攻の拠点の一つとして、南アフリカ軍が展開。
 アビシニア解放後は英国の空軍要員養成拠点として機能。
  • 英国領西アフリカ
 ナイジェリア、ゴールド・コーストに連隊、シエラ・レオネ、ガンビアに中隊規模の兵力を展開。
 1941年のエチオピア解放に従軍し、帰国後、ナイジェリアに3個旅団、ゴールド・コーストに1個旅団、
 シエラ・レオネ、ガンビアに各1個大隊に増強され、自国防衛に当たる。
 なお、これらの都市はセネガル侵攻の拠点ともなっているし、南大西洋ルートの中継地点ともなって
 いる。
  • 英領(半分エジプト領)スーダン
 エジプト軍、英国軍が駐屯し、1941年のエチオピア解放の拠点となった。
  • フランス領西アフリカ
 拠点はダカールで、此処には1940年のフランス崩壊時に遁走した戦艦Richelieu、軽巡2隻、駆逐艦3隻、
 通報艦6隻、潜水艦3隻などが在泊していたが、戦艦は、英空母Hermesの雷撃機の攻撃を受け、行動不
 能となる。
 9月に英国海軍の指揮の下、自由フランス海軍による上陸作戦が行われたが、3日間の海戦で、潜水艦2隻、
 大型駆逐艦1隻と引き替えに、Richelieuの砲撃、Martin167攻撃機の爆撃も含めて、英戦艦Resolusion、
 英巡洋艦Cumberlandに損傷を与え、上陸作戦を阻止した。
 なお、この際、英国海軍はSwordfish8機、Squa2機、Wallus1機を失っている。
 11月上旬には、自由フランス海軍はガボンを攻略し、同型艦同志が戦闘を行った。
 最終的に、1943年までにアフリカの仏植民地が自由フランス側になる。
  • フランス領ソマリア
 1940年にイタリアによって占領されていたが、1941年に自由フランス軍が英国の支援を得て解放し、後に、ジブチの
 封鎖を実施。
  • フランス領マダガスカル
 1942年5月5日、英国軍が上陸し、占領。
 この時、補助巡洋艦1隻、潜水艦3隻、通報艦1隻撃沈される。
 なお、この間、マダガスカルの港に停泊中の英戦艦Ramilliesが日本の特殊潜航艇の攻撃を受け、大破着底すると言う
 出来事もあった。
  • イタリア領東アフリカ(アビシニアまたはエチオピア)
 参戦時に、東アフリカの各国植民地に侵攻するが、英仏領ソマリアを除いて撃退される。
 エリトリアのマッサワに拠点を置いて、空軍機323機(うち飛行不能81機)、海軍兵力は駆逐艦7隻、水雷艇2隻、潜水艦8隻、
 スループ2隻、砲艦2隻、魚雷艇2隻を保有していたが、大型艦は、1941年7月までに全て撃沈され、空軍機は1941年4月末の
 時点で、S.79が4機、Ca.113が4機、C.R.42が5機、C.R.32が1機のみ残存。
 連合軍は、1941年1月19日からスーダンより2個インド師団と亡命アビシニア愛国軍が、24日に南アフリカ軍3個師団と西アフ
 リカ国境部隊からなる兵力がケニアからそれぞれ侵攻し、総勢7万人で3ヶ月の戦闘の後、最終的に5月19日に降伏。
 連合国側損害は500名で、イタリア兵5万名を捕虜とし、全土を占領(実際には散発的抵抗は11月まで続いているが)。
 これにより、亡命政権は帰還。
 なお、エリトリアは1952年まで英国が管理している。
  • ポルトガル領アンゴラ
 中立を保つ。
  • ポルトガル領モザンビーク
 中立を保つ。
 特にロレンソ・マルケソ港は、日米、日英などの交換船が両国の国民を交換するための
 港として使用されている。
 日本の外交官は此処から欧州に赴任したケースもあり。
  • リベリア
 長らく中立を保っていたが、末期に宣戦布告。
  • ベルギー領コンゴ
 本国占領後は亡命政権の影響下に置かれる。
 なお、この地域で産出されたウラン鉱石1,250t以上が1940年10~11月に掛けて、ポルトガル領
 アンゴラのカビンダ港から米国に向けて輸出され、これらのウラン鉱石が、広島、長崎の原爆
 製造の原材料となった。 
(216:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大戦中最も多くの人が死んだ場所ってどこでしょう?

ベルリン?南京?ドレスデン?スターリングラード?東京?
レニングラード包囲戦で、市民を含めて67万人(ソ連政府発表)、一説によると100万人以上が死亡したと言われる

レニングラード攻囲戦についてはハリソン・ソールズベリの「攻防900日」がおすすめ。
大都市が包囲されるとどれだけ悲惨なことになるか、読んでると背筋が寒くなってくるよ。
けっこう重要なポストの役人の奥さんが友達から譲ってもらった皮のバッグでゼリーを作ってたり、家族をボール紙の棺おけに入れて運んできた人がそのまま墓地で行き倒れたりとか。
そして町の往来で「解体」された人間の生首だけが転がっていたとか、行きずりの人に頼まれてアパートに行った少女がドアを開けたら血抜きされた人体がぶら下がっていたとか。
攻囲がようやくとけて郵便配達が始まっても、住民が全員餓死していて受取人がいないアパートがあったとか。
(339:770,795)

ポルトガルのサラザール大統領は同じファシストでありながら、なぜナチを支援しなかったの?

逆に1940年には米軍に基地を無償提供しているようだが.
サラザールは反ナチというよりは反近代主義者で、農村主体の社会を理想としていたそうだ。
秘密警察の訓練でゲシュタポの協力を仰いでいたそうだけど、ナチとは思想的にはかなり違うところにいたようだ。

この辺の出典は中公新書ラクレの「世界ファシスト列伝」(長谷川公昭)より。
フランスのファシスト達についてもかなり詳しく紹介してるので、安いし買って損はないと思う。

ちなみにサラザールは昼寝中にハンモックから落ちて寝たきりとなり、晩年は公務を遂行できなくなっていた。
しかし側近たちは偽の書類を作って署名を求めたり、彼が安心するような内容の偽新聞を毎朝届けたりしていた。
だから彼は死ぬまで自分がポルトガルを指導していると信じていたそうだ。
まあある意味最も幸せな死を迎えた独裁者といえるかもしれない。
(128:428)

第2次世界大戦中の中南米諸国(といっても10ヶ国以上あるが…)ってどういう状況だったんでしょうか?

大半の国が末期に駆け込みで参戦したり、ブラジル軍がイタリアで戦ってたことぐらいしか聞いたことがない…
第一次大戦のときは、ツィンメルマン事件なんてのがあったけど。
全体としては親独的傾向が強かったものですが、余りドイツ支持を明確にすると、経済界から政府(殆どが軍事政権)が
支持されなくなるので、表だった形はありません。

1939年に中南米諸国の代表がパナマに集まり、パナマ会議が開かれます。
この会議では、カナダを除く南北両アメリカ大陸の周囲300マイル幅の安全中立海域を宣言し、その海域での交戦行動を
禁じる宣言を出しています。
しかし、ドイツ(日本も)が対米宣戦をしたことに伴い、1942年にリオ・デ・ジャネイロにて中南米諸国の外相会議を開き、
枢軸国に対する宣戦布告を決議し、まず、対枢軸国断交が行われました。

全体の流れは以上の通りですが、個々の国を見ていきますと、アルゼンチンは、英国や米国との農産物貿易で大儲けし、
第2次世界大戦後、暫くの間は、世界的に見ても大金持ちの国になって独自の超音速ジェット戦闘機を開発したりしています。
1943年に対独・伊宣戦を行っていますが、航路帯から外れていた所為で、周辺海域の対潜哨戒くらいで、軍は積極的に
動かしていません。(対日宣戦は1945年…大抵の国は対日は1945年に入ってからです)
ただ、1943年6月4日にクーデターが勃発し、新大統領に枢軸国寄りの元陸相P.ラミレス将軍が就任しますが、米国の圧力
(貿易停止)によって、中立の維持は困難になっていました。

ブラジルは、G.ヴァルガス独裁政権が共産党とファッショを禁じ、米国と良好な関係を保っていた関係と、自国艦船が潜水艦
の脅威を受けていたため、1942年8月22日に独・伊に宣戦を布告し、米国からの軍事援助を得て、自国沿岸、自国沖の哨戒を
手始めに、1943年2月に陸軍部隊を北アフリカ戦線に派兵しています。
1945年には欧州戦線にP-47戦闘機中隊を送り、イタリアで戦闘を繰り広げています。

メキシコは、1941年4月に米国と基地と地上設備の相互扶助協定を締結し、1942年5月29日に対枢軸国宣戦を行っています。
しかし、装備は旧式なものが多く、その更新に時間が掛かったため、1945年まで戦争参加はずれ込み、1945年にP-47Dの
部隊が南太平洋戦線で対日戦に参加を準備中に終戦となりました。

中米諸国は米国の干渉政策を恐れていずれも共同歩調をとり、グアテマラは1941年12月12日に対独伊宣戦布告、ホンジュラスは、
1941年12月9日に対日、12日に対独伊宣戦布告、サルヴァドルも同様、ニカラグアは8日に対日、12日に対独伊、コスタリカもニカラグア
と同様、キューバは12月9日に対日、1942年3月12日に対独伊宣戦布告。
パナマについては軍事的な要衝であることから、運河地帯は元より、全国土に米軍が進駐し、警戒に当たっています。
宣戦は他の国々と同様。
エクアドル、パラグアイ、コロンビア、ヴェネズエラ、チリ、ウルグアイは1944年まで宣戦布告をせず、中立を保っていました。

ボリヴィアは1943年4月7日に対枢軸国宣戦を行い、ペルーは各国と同様に対枢軸国断交を行った後、米国と軍事協定を1943
年2月に締結し、国内に米国の陸軍航空隊基地を建設することに同意しています。

なお、ペルーとエクアドルとの間では、エクアドルの経済的混乱に起因して、その不満を外に向けるべく、1941年に大規模な国境
紛争が発生しています。
この紛争は、1942年のリオ・デ・ジャネイロ会議で取り上げられ、結果的に係争地の領土がペルー有利に裁定されました。
(159:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦の記録を見ると、ひょいひょい新型の戦車や航空機といった新兵器が開発されているような気になります。

ガンダムのモビルスーツじゃあるまいし、そんなに簡単に新兵器は開発できるのでしょうか?
戦争が始まってから新型の兵器を開発してるわけじゃありません。
それ以前からの努力の結晶が、新型兵器なので。
また、戦時中は新型兵器の採用基準が甘くなるということも影響しております。

戦時中は数ラインの新兵器開発を同時に行うし採用基準も甘いため。
負けている方は、試験的に作った兵器や珍兵器までありったけ投入する傾向がある。
(94:753-755)

WW2当時の携帯食料ですが、カロリーメイトのような料理せずに高カロリーを得られるような食料を配布していた国はあるのでしょうか?

米軍では大戦当時Dレーションと呼ばれるチョコレートバー風の個人携帯用非常食を支給してました。
美味しくない上に本来非常用であるものが一般食として支給されたので、評判は最悪だったとか。
その他にKレーションと呼ばれる缶詰肉料理やビスケットなどで構成される戦闘用レーションも
支給されています。
(333:名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE)

また,日本陸軍の航空糧食については,カルピス・ドリコノのような飲料,チョコレート(固形・絞り出しの2種),羊羹,ガム,ドロップなんかが戦時中も配給されていました(もちろん場所によるけど).
(軍事板)

アメリカ兵はドイツ兵のことを「クラウス?」と呼んだり、日本兵のことを「ジャップ」と呼んだりしています。 こういった呼び名はどういった意味があるのですか?

また、各国兵が敵国兵士のことをどんな呼び方をしていたのか教えてください。

ドイツ人の蔑称は「クラウツ」だね。
ドイツ辺りのキャベツの漬物、ザウアークラウトを捩ったもの。
邦訳される時はまんま「クラウツ」か「キャベツ野郎」だね。

民族的蔑称。
たとえばフランス人は「フロッギー」(カエル野郎)「ジョニー・クラポー」(カエルのジョニー)
イギリス人は「ジョンブル」
イスラエル人は「ゴイ」
アメリカ人は「ヤンキー」とか

他に知られたやつだと
英海軍をライミー(ライム野郎)。水兵にライムを支給してたから。
フランス人を蛙食い(フランスには蛙料理がある)なんてのも。
(481:634-637)

第2次世界大戦中の水兵さんは制服や私物などの荷物を全て艦内に持ち込んでいたのでしょうか?(479:538)


水兵は、支給された被服いっさいと食器などを衣嚢と呼ばれる袋に入れて保管していて、
転勤するときはこれを担いで移動していました。
この他には針糸や石鹸などの入った手箱と、帽子をしまう帽子缶があるだけです。(479:557)

一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか?

WW2の歩兵師団について(国や時期などによって変化があるのは知っていますが)
独、米などの歩兵師団は凡そ12000~16000人程度で構成されていますよね。
1)これは輜重部隊や野戦病院などを含む数字でしょうか?
2)一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と上記のような後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか?
検索したところ、日本陸軍の歩兵師団では戦闘部隊1万、後方部隊5千との数値を見つけました。

1) 含む
2) 編成によってかなり違ってくるので一概にはいえない。そういうあいまいな聞き方すると回答が返ってきにくいよ。
   WW2ドイツ歩兵連隊なら3000人中1200人ぐらいが戦闘要員

1)師団隷下の輜重部隊(段列など)や野戦救急部隊などは含まれる。軍団や軍直轄の輜重部隊や野戦病院は含まれない。
2)時代、国、種類によって異なるが、だいたい2:1。
(485:912,919*一部改編)

急降下爆撃機ってのはどのくらいの角度で急降下してどのくらいの高度で投下してどのくらいの命中率なの?ついでに急降下時に速度はどれくらい出るもんなの?

国によっても違うが、WW2のころなら、30度くらいの角度で高度300m~1000mくらい。速度は500km弱。命中率は20%~80%ってところ。
(369:117)

マレー沖海戦で九六陸攻、一式陸攻が英国の戦艦を沈めるまでは、航空機が軍艦を沈めることができるなんて誰も思っていなかったの?

第一次大戦直後の1920年には米海軍が老朽化した戦艦インディアナを航空爆撃で撃沈する実験を行い成功している。
さらに1921年には米陸軍のビリー・ミッチェル将軍が旧ドイツ海軍戦艦オストフリースラントの爆撃撃沈実験に成功。
ド級戦艦であっても航空攻撃で撃沈しうることを証明してみせた。
ということで、大戦前から試みは為されている。
(501:138)
昭和15年の日本海軍の演習では、戦艦部隊は航空攻撃で大打撃を受けたことになってる。
(501:157)

第2次世界大戦では生物化学兵器は使われましたか?

兵器として優れていないのであまり大規模には使われなかった。
日本軍が青酸ガスなどをちょこちょこ使ったらしい。
ただ日本軍の化学生物兵器関連の情報は残虐性を強調する為に誇張されまくってるので注意が必要。
明らかなねつ造や非致死ガスと区別がついてない例が少なくない。

細菌兵器には日本軍が飛行機から病原菌入り麦をまいたという主張があったが、真偽のほどは知らない。
 とりあえずそんな方法じゃ伝染病を発生させれる可能性が低い。
(514:967:モッティ ◆uSDglizB3o)

細菌兵器はノモンハンで日本軍が使用していますね。
といっても、チフス菌を培養した寒天をハルハ川に流したという程度で、
却って散布した隊員に感染による死者を出したりしてます。
もちろん効果はほとんどありませんでした。
(514:967:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

2chでイタリア軍はなぜネタにされるんですか?

ここを見れば君もイタリア軍が好きになると思うよ
http://2chart.fc2web.com/itaria.html
(355:542)
石油と産業基盤が無かった。しかし、ドイツが拡大志向でそれにファシストの先輩にして
インテリのムッソリーニが張り合おうと頑張ったあたりが不幸の元だと思う。
小さい部隊、例えば魚雷に跨ったフロッグマン部隊とかは頑張っています。
だけど、戦車や航空機とも開発が他国に後れ取ってたり、東部戦線ではドイツから
酷い扱いを受けて徒歩で帰還したりとか、数と質で劣るイギリス艦隊に撃ち負けたりとか、
軍港に戦艦並べておいたら複葉機に夜間雷撃を食らったとかのエピソードが一杯。
(355:555)

日本軍の兵は、何日戦って何日休みを貰えたんですか?また、米軍ではどうでしたか?

米軍の場合は、例えば、アイゼンハワー将軍は、欧州で戦闘している全陸軍の古参兵に
10日間の休暇を交代で与える様命令を出しています。
歩兵の場合は難しかったりしますが、それでも、それなりの対応が出来ました。
この休暇では、例えば、イタリア戦線で戦っている兵士達は主にカプリ島へ、西部戦線で
戦っている兵士達は、パリやロンドンで過ごすことが出来ました。

平時の日本陸軍の場合は、軍隊の休暇日は日曜日、大祭日など国民一般の休日の他に、
慰労、褒賞などによる休暇が与えられる場合がありました。
この休暇が幾日か続く場合は、帰省、外泊も認められます。

海軍も同様で、日曜日は艦内生活でも普通休日になっていますが、演習や特別作業が
ある場合はその限りではありませんし、上陸は乗組員の半数が許されるだけです。
また、土曜日は艦内掃除の後、午後に半舷上陸が認められますが、大抵は艦内掃除は
午後にまで掛かることも珍しくありません。

勿論、当直などがある場合は此の限りにありませんし、戦闘中は言わずもがなです。
(530:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

アメリカの戦中プロパガンダに出てくる日本人

丸ぶち眼鏡と細目に出っ歯とチョビ髭の日本人ってヒットラーとムッソリーニに並べて出てくる
ところを見ると指導者(東条か天皇)と思われますが日本人全体のイメージを擬人化した様にも見えます
果たして特定の個人なのか日本人全体なのかどちらなんでしょうか?
両方です。
片やナチの先棒を担ぐ軍国日本の象徴、片やそれを操る(とされていた)指導者。
大抵の日本人は出っ歯、ひしゃげた鼻、つり上がった目、高い頬骨で顔を描かれ、
独伊ソ(1941年6月まではソ連もあちら側と思われていた)に比べると殊更に小人
として描かれています。

特定の個人となると、先ず1941年12月22日には、Timeの表紙が山本五十六中将でした。
但し、彼の顔は、尖った耳、険しい目、意志を示す厚い唇で描かれていて、凡そ本人に
似ても似つかぬもの。
あと、Colliersと言う雑誌の表紙には、昭和天皇をカリカチュアにした作品が良く出て来ます。

こうした作品を描いたのはポーランド系ユダヤ人の画家であるArther Szykと言う人物で、
彼はヒトラー憎さの余り、それに協力する者全てを人非人として描いたのでした。
彼の作品は、1941年12月以降、米国民がその憤怒を表したものとして絶賛され、各地で
巡回展示などが行われています(尤も、そうした風潮を冷ややかに批判していた人々も
いた訳ですが)。
(535:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

反日プロパガンダ絵とか見ると、大抵丸めがねで出っ歯でネズミというふうに日本人が表現されてます。これは東條のルックスも関係してますか?

眼鏡ちびの出っ歯猿という日本人のイメージを作ったのはディズニーの漫画だそうな
短編アニメに眼鏡ちびの出っ歯猿のキャラを出した際、米人なら誰でもイメージする
日本人独特の英語(RとLの区別ができない、つづり字通りに読み上げるなどなど)を
しゃべらせたことが原因だとか

まぁ根本的にはディズニー自身が人種差別主義者で、特に日本人が大嫌いだったから
なんだが

上の説のソースは小野耕生氏のエッセイね
(343:256)

大戦中、日本の鉱山や炭鉱では労働者が兵役に就いたために朝鮮半島などの徴用者を働かせたそうですがアメリカ、英国やドイツ、ソビエトの鉱山や炭鉱の事情はどうだったのでしょうか?

ドイツはフランスなど占領地から労働者を徴用したり、ロシア兵捕虜や強制収用されたユダヤ人を働かせてた。
ソ連はドイツに比べれば人口の点で労働力は大きなアドバンテージがあったし、女性労働者を大量に動員した。

炭鉱はともかくとして、世界で女性の社会進出が進んだのは
第2次世界大戦のおかげっていう話はあるよな
(353:587,588)

イタリアやハンガリーといった、日独以外の枢軸国はB-17やB-24などの絨毯爆撃を受けましたか?

絨毯爆撃の名称はベトナム戦争からです。
それ以前は無差別爆撃、西欧ではドレスデン爆撃が有名です。

ハンガリーのプロエスチ(カタカナ書きってこれでよかったっけ?)が爆撃されたのは有名。
もっとも連合軍側もこの爆撃行でかなりの損害を出した。
イタリアならドイツ軍が立て篭もった有名な修道院(今なら確実に歴史遺産)が爆撃されて跡形もなくなった話とか。
(538:342,343)

レインボー作戦ってどういう作戦だったんですか?

太平洋戦争の真珠湾攻撃を阻止するため?
そんな作戦は存在しません。
レインボー計画というのは、米国が立案してた戦前の対枢軸戦争計画の総称。
特に真珠湾攻撃を意識した計画ではありません。

当時の米国は、平時に戦争計画をする際に、
仮想敵国などに色名を当てはめた呼称をしており、総称をカラー計画と呼んでいました。
例えばオレンジ色というと日本のことで、オレンジ計画というのが対日戦の想定でした。
そのうち枢軸国が形成されてくると、対枢軸戦を想定したレインボー計画に発展しました。
(543:◆yoOjLET6cE)

第2次世界大戦のエースパイロットって世界中で何人くらいいるんですか

残念ながらすべてのエースの数を把握しているわけではありませんが、
例えば、アメリカでは陸軍航空隊だけで大戦中に1300人以上のエースを輩出しています。
ドイツ空軍のエース、騎士十字章以上を叙勲した戦闘機パイロットは総数で566人だそうです。
また、フィンランド空軍は96名のエースを生んでいます。

日本陸海軍はヘンリー・サカイダの著書ではそれぞれ百数十名が挙げられていますが、
これらの多くは記録があいまいなので注意が必要です。
(543:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

第2次世界大戦当時、片腕の司令官はいたのでしょうか??

隻腕の司令官と言うと、日本海軍に塚原二四三大将がおられました。
塚原大将は第一連合航空隊司令(少将)として漢口に赴任していた昭和14年10月3日、
新機材の領収を見届けるために一連空の主だった幹部と一緒に飛行場の戦闘指揮所に
いたところを中国空軍のSB爆撃機に空襲され、左腕に重傷を負って切断しました。

これによって塚原中将(14年11月に進級)は艦隊司令の道を断たれましたが、
航空畑の将官として貴重な存在だったために退役することもなく現役を続行、
昭和16年9月に陸上基地部である第十一航空艦隊司令長官としてマレー沖海戦・
比島・蘭印方面作戦を戦い、ラバウルにも進出しています。
のち航空本部長・横須賀鎮守府司令長官を経て昭和20年5月に大将に進級。
これは井上成美とともに日本海軍最後の大将進級でした。
(564:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ドイツと日本、連合軍によって投下された爆弾はどちらが多かったか


第二次大戦全期 連合軍爆弾投下総トン数(原子爆弾TNT換算量含む)

対独戦1,643,398t
対日戦 155,000t

 太平洋戦争中、連合国軍機によって投下された爆弾総量は656400トンだった。
そのうち24%160800トンは日本本土に投下された。海軍機により6800トン、
B29以外の陸軍機により7000トン、B29により147000トンだった。対照的にヨーロッパ戦線
における総爆弾量は2700000トン、うち1360000トンがドイツ国内に投下された。
ttp://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/ussbs15.html

Rolling Thunder作戦。北ベトナム領内とHo Chi Minh trailの空爆開始。
(当初8週間で終了するはずだったこの作戦は3年続いた。第2次世界大戦の4倍
の爆弾・計800万トンが投下され、この数字は史上最大である)

ttp://gold.natsu.gs/WG/ST/239/index.html
ベトナム1965
(もう少し特攻隊が頑張っていたら:32)

大戦中の各国の鉄鋼生産量は?

独は大戦中にソ英両国を合わせたぐらいの鉄鋼生産量があった

41年 独3250万t 日700万t ソ1450万t 英1250万t 米7520万t
42年 独3340万t 日760万t ソ1000万t 英1310万t 米7800万t
43年 独3570万t 日880万t ソ1200万t 英1320万t 米8060万t

それに「歴史群像アーカイブ」第7巻独ソ戦に書いてあるように
ソ連はトラック、鉄道車輌、レール、アルミニウム、発電設備、工作機械など工業製品、食糧に至るまで
米英加のレンドリースに頼っていたから独より下と評価せざるを得ない
(列強の総合力2:14)

大戦前の各国の交通手段普及状況は?


1939年時の各国の主要幹線の道路舗装率
国名
舗装率
日本0.9%
アメリカ39%
イギリス44%
ドイツ36%
フランス31%
イタリア28%

  • 主要国交通機関概要表
①鉄道延長mm/一万人
②機関車数,客車数,貨物車数
③自動車数自動車台数/人口千人

  • 日本
①3.7万m3.9m/一万人
②0.4万1.1万7.3万
③20.9万3/人口千人
  • アメリカ
①63.3万m34.1m/一万人
②4.5万2.4万179.0万
③2616.7万213/人口千人
  • イギリス
①8.1万m12.0m/一万人
②2.0万4.2万61.9万
③202.8万45/人口千人
  • ドイツ
①13.8万m11.9m/一万人
②2.0万6.3万57.3万
③110.0万17/人口千人
  • フランス
①6.6万m15.8m/一万人
②1.9万3.2万49.4万
③218.0万52/人口千人
  • イタリア
①2.9万m4.9m/一万人
②0.6万0.7万12.5万
③39.0万10/人口千人
  • ソ連
①8.5万m-
②・・
③34.5万2/人口千人
(列強の総合力2:51-53)

大戦時は各国に女性の前線兵はいたのでしょうか?

ソ連は戦時中から多数の女性兵士が前線勤務に就いていた。
リディア・リトヴァクなど、女性の戦闘機エースも誕生している。
その他の主要国は、基本的に後方勤務のみ。
ただ、工場から前線に新造の飛行機を輸送する女性パイロットなんてのは結構いたりする。

ソ連軍第54狙撃兵連隊の女狙撃兵リュドミラ・パブリチェンコ
WW2で309人をヒットし、うち36人がドイツ軍の狙撃兵だそうな
他にも2000人程度の女狙撃兵がいたそうで、終戦時生き残っていたのはうち500人程度だとか
http://en.wikipedia.org/wiki/Lyudmila_Pavlichenko
戦後の写真もあるが、いかにもスラブ系のたくましいおっかさんって感じ
(343:672,726)

スペイン内乱時、フランスは戦闘機を送ったそうですが

ブルムが首相になって、英国と協調して、Dewoitine D.372戦闘機14機、Potez 54爆撃機6機を
引き渡しています。
但し、あくまでも民間機としての引渡しでしたので、兵器装備無しの状態でした。
その後、更に19機のDewoitineを送り込みますが、これまた兵器装備の無い状況でのもの
でしたので、スペイン人民戦線軍は自己の老朽化兵器のストックの中から使えるものを探して
装備しています。
13機のDewoitine戦闘機は、兵器装備無し、パイロット無し、予備部品無しの状態で到着し、
その内5機は破壊されました。
これを修理するのに、Toulouseからメーカーのメカニックが来ましたが、彼等は現金払いで
ないと動きませんでした。

以後、Potez544爆撃機1機、BlochMB210爆撃機1機、Loire46戦闘機が5~6機、BlochMB200
爆撃機が2乃至4機引き渡されています。
最終的に、フランスからの援助は26~33機程度しか戦力にならなかったりします。

後、D.510戦闘機はエンジン無しの状態でスペインに送られ、ソ連製のM100エンジンを取り付けて
使用されましたが、これはヘジャズ王国(現在のサウジアラビア)向けとして表向き輸出されたもの
でした。
(569:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦中、空対空ロケットはどれくらい普及していたんでしょうか?

ペイロードが許せば必ず搭載するような代物だったのか、対空バズーカのような変わり種だったのかが知りたいです。
第2次世界大戦当時だと、ロケット弾はほとんどが空対地、空対艦で、空対空のものはごく少ない。
一番使ってるのが第2次世界大戦末期のドイツ本土防空部隊。地上用の重い21cmロケット弾を積み重爆撃機の編隊めがけて発射。
直撃させるのは難しいが、編隊が崩れて攻撃がかけやすくなる。あと有効だったのがジェット戦闘機Me262用のR4Mロケット弾で、
これは小型のを一斉発射するもので米軍の重爆撃機に深刻な被害を与えた。ただし、無誘導ロケットは戦闘機など軽快に機動する
敵に当てるのは難しい。
これ以外にも、ソ連軍(対地用だけど、一応爆撃機に対しても撃てる)、日本海軍でも空対空ロケット弾を使っている。
(573:834)

太平洋戦争時、米軍の一個師団は一日300トンの補給物資を必要としたと聞いたんですけど、本当ですか?

ついでに、日本軍の場合は何トンくらい必要だったのでしょうか?
一個師団を20000人とすれば一人あたり15キロにしかならないんだよね。
食料・弾薬・燃料・車両・修理用のパーツ・その他諸々であっという間にそれくらいになるのでは?
日本軍の場合、インパール作戦時に第十五軍の兵站部では列兵団に
一日10トンの糧秣の補給を予定していたとか…。
あくまで作戦時の緊急輸送で糧秣のみですので、実際の弾薬などを含めた
補給必要量はそれよりはるかに多いでしょうが。
(40:644)

リリーマルレーンて米軍の軍歌ですか?

元々はドイツの歌です。最初はあまり流行らなかったのですが、戦時体制
になって急に流行りだし、兵士のリクエストはいつもリリーでした

そのうち連合軍もこれに夢中になり、トミーやGIも聞いていました
邦書なら「リリーマルレーンを知っていますか」とかいう本に詳しいです
(51:716)

日本は大本営発表で国民に嘘ぶっこいていましたが、同様のことはアメリカ、ドイツ、ソ連などでもあったんでしょうか?

もちろんアメリカやソ連も戦局がよくなければ情報操作をやっていますが
当然、負けが込んでいる国ほどその重要性も増します。

原書房の『ヒトラーの遺言』には、
戦争末期のドイツの状況を分かりやすくするため
当時(1945年2月~4月)のベルリンでのラジオ放送の
ニュースの内容が載っていますが
それをみるとドイツはベルリンに攻め込まれるまで、毎日ソ連軍に勝利し続けていますよ。
(608:883)

第2次世界大戦のとき、米英独ソでは熟練工員は徴兵されなかったのでしょうか?

日本は熟練工員を徴兵したため、ただでさえ良くなかった品質がさらに悪くなったそうですが、
ソビエトは戦車を納品に来た工員までそのまま徴兵して、戦場に送ったのは有名な話。
アメリカも熟練工以外は徴兵したけどマニュアルを整備して、女性でも標準的な製品ができる
ようにした。
あと日本では、戦闘機工場などは工場の判断で熟練工の徴兵免除とかやっている。
(618:789)

第2次世界大戦時にエチオピアに侵攻したイタリアの表向きの開戦理由は何だったのでありましょうか?

Ethiopia戦の場合は、Italyが1887年の協定、1896年の協定、1900年の協定文書と、1908年の
大権力協定をを改竄して、国際連盟に提訴します。

1896年の協定では、Eritreaの港を確保した後、ショア王を擁してEritrea奥地に兵を進めようと
しますが、失敗しますが、1889年に皇帝が戦死したために、ショア王が皇帝となり、Italyとウッチャリ
協定を結びます。
この協定は二種類あり、イタリア語では協定によりEthiopiaを保護領とすると規定し、アムハラ語では
そんなことはおくびにも触れていません。
後にItalyが第2次戦争に敗れ、1896年の協定でAddis Ababa条約を結びます。
これで、Ethiopiaの独立は認められ、Eritrea沿岸地域だけがItalyの保有を認められました。
1900年の協定もこれの追認。

ところが、これらの文書を改竄して国際連盟に提訴した結果、国際連盟はそれを真に受け、
ItalyにEthiopiaの国土の大半を与えるホア・ラヴァル案を出したわけで。

1934年にSomaliland国境沿いの街で武力衝突が起き、其れを受けてEthiopiaがEritrea境界
から30km退却させたのを譲歩と見たDuce殿が、敵は弱腰と見て一気に武力行使をした訳で。
ちなみに、宣戦布告は無し。
(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WW2にリモコン航空機あったんですか?

あの当時のラジコンのような物ってゴリアテかリモコン機銃かどっかで研究してた無人潜水艦?しか思いつかないんですけど
ドイツ空軍に例があります。
「ミステル(宿り木)」と呼ばれる機体があり、これはいわゆる親子飛行機で、
子機はユンカースJu88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付け、
機体の上部に連結器を装備して親機の Bf109 を載せたものである。
目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。
無論子機は無人であり、言うなれば大型のミサイルである。
ミステルは若干ながら戦果を挙げ、
更なる組み合わせとして親機にFw190を使用した型も生産された。
しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、
間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、
敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。」

下記、特別攻撃隊のドイツを参照ください。
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/24697/%93%C1%95%CA%8DU%8C%82%91%E0/24/
(621:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

先の大戦においては枢軸国に連合国軍の最新兵器を横流しして売り込んだとかの事例はあったんでしょうか?

第2次世界大戦であれば、国家総力戦に移行しているので兵器の生産に必要な
資源そのものが国家によって管理されている。武器商人の提議が曖昧ではあるが、
武器を枢軸側に売るとして、資源、工場、人員、輸送手段が必要となるが、
資源は政府ががっちりおさえ、工場を持ってれば政府が生産計画をたてて品目も指定してくる。
人員も戦争に関係ないと政府が判断すれば場合によっては廃業しての転換を命じたし、
輸送手段も政府が統制しているから船もなければ燃料も手に入らない。
(俺初質スレ431:ふみ ◆Y.QUKJBduY)

ドイツ軍内ソ連軍のウクライナ解放軍のウラソフ将軍達は、寝返ったとはいえウクライナの仇敵である旧ソ連軍と戦ったからウクライナでは英雄扱いというのは本当でしょうか?

ウラソフはロシア人であり、ウクライナ人分離主義者にとっては自民族を抑圧する連中の一人に過ぎない。
武装親衛隊にはウクライナ人部隊(第14SS所属武装擲弾兵師団)があったが、ロシア人部隊と統合するような動きはなかった。
戦後も反ソテロを続けたウクライナ蜂起軍のステパン・バンデラと間違えているんじゃないだろか。
彼を含めた戦中戦後に反ソ活動を行った連中は、ウクライナの極右民族主義者からは英雄扱いされているっていう話がある。
(315:167)

第2次世界大戦時の南米で、アメリカ軍の基地があった国はありますか?

中米なら、Cuba(Guantanamo)、Panama(Canal Zone)、Dominica、Mexicoがあります。
また、南米では、1943年2月にPeruと航空基地建設の軍事協定を締結、Brazilにも
船団護衛の為の基地がありました。
(309:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
トリニダード・トバゴと英領ギアナ(現ガイアナ)に航空基地がありました。
あとパナマ運河入口のバルボアにも大規模な軍港が設置されてます。
(309:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

第2次世界大戦中、レーダー妨害で鉄くずみたいなのを飛行機からばら撒いて妨害するという作戦はなかったのでしょうか?

主にやっていたのはイギリス軍で、しかも鉄じゃなくアルミ。
折り紙の銀みたいなのを細く切ってバラ撒くと、空中を漂って敵のレーダーには
飛行機の編隊のように映る。
鉄なんかじゃすぐに自由落下しちまって爆撃してんのと変わらないぞw

アルミ箔による欺瞞紙は陸軍で開発されて実用化されてました。
製造段階で出るアルミの研磨屑を集めて作った……らしいです。
大きさは3cm角、厚さ0.5~0.1mmもしくは幅2.7cm、長さ70cmの2つです。
散布方法は砲弾に詰める。飛行機からバラ撒くなどです。
(308:677,678)

カチンの森事件ですが、何故わざわざそんなところまで捕虜を移送して殺害したのでしょうか?

ポーランドの地名だと思っていたのですが、カチンの森とはロシアのスモレンスクの郊外にあるのですよね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、
ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され
彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフあての文書も含まれている。」
(以上英文wikipediaと同内容)
ソ連国内の収容所に一旦収容してから1940年の春にカチンに移送して殺害。
捕虜にして即殺害したわけじゃない。

ttp://en.wikipedia.org/wiki/German_camps_in_occupied_Poland_during_World_War_II
"Many of the 400,000 Polish prisoners of war captured by Germans during the 1939 invasion of Poland
were also confined in these camps, although many of them were also sent as forced labourers in Germany."
労働収容所で強制労働。
その途上で死んだ者が大勢いた。
(636:346)

米海軍の艦船には第2次世界大戦前から、CA-28やらBB-64やら艦の種類と番号が振られていますが、他の国ではこのような艦種記号や番号は用いられなかったのですか?

隻数の少ないドイツはもとより、英国、日本でも一部の艦にしかそうした艦種記号は適用されていません。
英国の場合は、集団機動する駆逐艦にHとかDと言う記号と番号が振られていました。
日本の場合も、略号として或る程度使っていた様ですが、一般的ではありませんでした。

英国については、戦後に復活し、空母は、R+数字、巡洋艦がC+数字、駆逐艦がD+数字、フリゲートがF+数字、
潜水艦がS+数字、敷設艦がN+数字、掃海艦艇がM+数字、哨戒艦艇がP+数字、揚陸艦艇がL+数字、その他、A、
K、Yなどが特務艦に割り当てられています。
但し、数字については、適当に振っているので、例えば、R05はInvincibleに適用されていたのですが、これは元々
Eagleに割り当てられたものだったりします。
(306:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ワシントン条約やロンドン条約非加盟国は代艦枠を使って新型艦の建艦競争をしていたのですね?

違います。
フランスもイタリアもロンドン条約に調印しています。
一般的に理解されている質的制限や代艦建造の制限についてのみ、参加しなかったのであって
立派にロンドン条約に名を連ねています。

ただしイタリアはリットリオ級が排水量制限枠を大幅超過していることを百も承知で建造を強行したし
ドイツもまたベルサイユ条約どこ吹く風といわんばかりにシャルンホルストの建造に着手しようとしました
(後に英独海軍協定締結によって事後的に承認されたようなものです)。
ドイツがシャルンホルストの前に構想していた装甲艦Dを見ても、もはやベルサイユ条約の制限に従う気などなかったことは明白です。
これはヒトラー登場以前のことですよ。

条約未締結国ではなく
イタリア・フランスはワシントン&ロンドン条約、
ドイツはベルサイユ&英独海軍協定というそれぞれ条約に参加した国同士での建艦競争です。
代艦枠、というのは合ってますが額面通りの使い方をしていなかったのはイタリア、ドイツの例を挙げた通りです。

なお、ソビエト連邦も遅ればせながらこの建艦競争に加わっています。
そしてソ連の膨張に一定の歯止めをかけるべくイギリスが動き、英ソ海軍協定を締結しています。
この協定はかなり知名度が低いですが、欧州の建艦競争を理解する上で覚えておいて損はありません。

あまり言うまでもないことなのですがワシントン&ロンドン条約と英独海軍協定の質的制限は同じです。
さらに、英独海軍協定でドイツが認められた保有量は事実上フランス・イタリアと同等の水準です。
いわば仏・独・伊は質的にも量的にも対等の土俵の中で近代化競争に突っ走っていたことになります。
(642:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

ドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが、他の国が重視しなかった理由は何なのでしょうか?

例えば、ソ連は、ドイツと戦争をしている際に、米国にサイドカー付オートバイを多数注文しました。
しかし、米国は、生産の近代化と合理化(特に合理化)の為にジープを供給するからとソ連を説得して
います。

米国は単車を数千台単位でしか生産していません。
寧ろ、英国の方が多数生産しており、戦争勃発時に21000台を保有し、6345台を徴用しています。
この数は、1940年6月までに50000台に達し、最終的には勃発時の10倍以上の270000台を保有するに
至っています。

ドイツの場合、それなりに生産していますが、独ソ戦頃から徐々にVWにシフトしていっています。
(303:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WW2軍服着用の指導者


  • 現役同等
東条大将
フランコ

  • 将官以上
スターリン、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフ・・・ソ連多数
ムッソリーニ
ペタン
裕仁天皇
その他多数

  • 非着用系
毛沢東
ヒトラー
ルーズベルト
その他多数

  • 大佐
チャーチル(名誉)
(299:123)

北欧ってWW2当時はどこから石油仕入れていたんでしょう?

ドイツから買っていました。

ドイツの石油は、ルーマニアからの輸入や石炭の液化でまかなっていました。
戦争中に他国に売る余裕は、少ないです。
当然に、スウェーデンでも、石油不足となりました。

下記バイオマスからエネルギー from スウェーデンを参照ください。
http://blog.livedoor.jp/bioenergyken/archives/51587846.html

スウェーデンの石油の輸入業者が、連合国のスパイとなりました。
ドイツの石油生産状況を細かく報告して、爆撃の効果を高めたそうです。

それを元に、映画が作られました。

『偽りの売国奴 』
「第二次大戦中、石油ビジネスを行いながら密かにドイツ国内で軍事情報を収集して連合国に知らせていた人物の物語。」

(660:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)

少々違う
ドイツ軍に占領された国に囲まれた、スウェーデンは中立国なので、
スウェーデンはイェーテポリより戦時禁制品等の指定やドイツ軍の嫌がらせ等様々な邪魔はあるにしても
中立国といっても実質は連合国よりのポルトガル等の中立国を相手に交易を行うことは可能だった。
また、有名なSFKのボールベアリングはさまざまな手段により連合国に輸出されている。
このSFKのボールベアリングのドイツへの供給を減らす代わりに
ドイツに代わって米英が石油を支援する等で石油を連合国からも入手している

エリック・エリクソン
http://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Erickson_(spy)
(660:749)

30年代や40年に立案されていたソ仏独の大建艦計画実現の公算は大きかったのでしょうか

ソ連の場合は、第2次世界大戦が無ければ国力的に問題はありません。
但し、その技術が伴っていませんので、米国なりイタリアの協力を得る必要があります。
フランスに関しても同様ですが、彼の国の場合は政治が問題になります。
政治の混乱が無ければ、実現した可能性は高いでしょう(つまり実現する可能性が低い)。
ドイツの場合は、初期計画であれば同様の状況では実現する可能性が高いでしょう。
後のH44とかH45などの計画は机上の空論ですけどね。
(284:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大戦中の日米の艦艇の建造数を知りたいのですが。

日米艦艇建造数比較
      日本     米国
戦艦     2隻     10隻
     128,000㌧   375,000㌧
正規空母   5隻     17隻
     140,000㌧   459,000㌧
軽空母    6隻     9隻
      95,000㌧    99,000㌧
護衛空母   4隻     76隻
      61,000㌧   630,000㌧
重巡洋艦   0隻     11隻
        0㌧   143,000㌧
軽巡洋艦   5隻     36隻
      53,000㌧   690,000㌧
護衛駆逐艦   32隻   412隻
      40,000㌧  510,000㌧
潜水艦    117隻    203隻
      150,000㌧  310,000㌧ 
(103:352)

第2次世界大戦中のアラブ諸国ってどんな状態だったですか?

大国が攻めたりしなかったのかな
第2次世界大戦当時、現在のレバノンとシリアはフランス領、
エジプトを含むその他の中東諸国はイギリス領の植民地で、
独立国はトルコ共和国だけでした。
これらの国々が独立し「中東問題」となったのは戦後のことです。
「侵攻」という点では、イタリアが英領エジプトを攻撃し、
またドイツはイラクやエジプトの国内反英勢力を支援していました。
(105:28)
補足を。
アラブ諸国ではありませんが、イランに関しては、国家として中立を模索したものの、ソ連が北半分を、
英国と米国が南半分を占領し、援蘇物資のルートとして使用しています。
ソ連は、この地に緩衝国家を作りたかったようで、タブリーズに人民共和国を打ち立てようとしていました。

イラクは、英国の委任統治領でしたが、1921年に独立国になっています。
英国軍が駐留していましたが、元々軍部を中心に反英勢力が根強くあり、1941年にドイツの後押しで、
軍部のクーデターが起き、一度親英政権は打ち倒されます。
しかし、英国が即座に対応して、カウンタークーデターを起こしたため、反乱の芽は摘まれ、親独政権は
あっけなく倒れました。
以後は、英国軍の管理下の下で親英政権を維持しています。

シリアは1918年に王国として独立しますが、1920年にフランスの委任統治領となり、ダマスクス、アレッポ、
アラウィー派、ドルーズ派の各自治区に分けられます。
1939年にトルコとの交渉で、イスラム托鉢修道会領の返還を行なったことで、住民の反発が起きますが、
第2次世界大戦の勃発でうやむやになり、フランスの降伏で、ヴィシー政権に付きます。
しかし、1941年、ヴィシー政権軍と主にパレスチナから侵攻した自由フランス軍と、イラクから侵攻した英国
軍によって戦闘が行なわれ、数度の戦闘の結果、ヴィシー政権軍は降伏しました。
1941年4月にシリアは自治国として独立し、1944年に正式独立しました。
ただ、その後、国境を接する全ての国と、国境紛争を起こしています。

レバノンは、1926年に委任統治領シリアから自立し、1940年にヴィシー政権への支持を行ないました。
その後はベイルート付近で、ヴィシー政権軍と自由フランス軍との戦闘が行なわれ、1941年12月に自治
国となり、1944年に正式独立しました。

パレスチナは、英国の委任統治領でしたが、祖国帰還事業による移入ユダヤ人の増加と従来住んでいた
アラブ人の軋轢が強まり、1936年から39年にかけて内乱状態となります。
そこで、1939年に英国は「白書政策」というものを行なって、ユダヤ人の流入と土地購入を制限し、アラブ人を
懐柔しますが、これにユダヤ人が反発。
ハガナなどの武装勢力が英国軍の襲撃などを行ないます。
ところが、第2次世界大戦勃発に伴い、今度はユダヤ人は英国側に立って、パレスチナを近東に於ける連合軍の
補給基地として提供し、1942年以降は英軍の一部として、ユダヤ人志願兵旅団を供出します。
これに対し、アラブ人は一連の出来事に反発し、親枢軸への傾斜を強めていきますが、これが、後の中東問題
のひとつの引き金になってきています。
1945年以降、英国は再び「白書政策」を行なったため、再びユダヤ人が反発し、駐留英国軍を襲撃したため、英
国はこの統治を放棄し、国連に付託してしまいました。

ヨルダンは当時、トランスヨルダンと言い、英国の委任統治領となりましたが、サウド家との抗争に敗れたメッカ太守
及びへジャズ王だったハシミテ家が国王となって統治を行なう王国となっています。(ちなみに、イラク、シリアの国
王はトランスヨルダンの国王と兄弟にあたります。)
このため、隣国サウド家とは常に緊張関係にあり、英国委任統治領との緩衝国家として機能すべく、英国との軍事
同盟を結び、英国軍の将軍の指揮下にアラブ軍団を作って、参戦しています。

サウジアラビアは、ハシミテ家を追放したサウド家によって成立した国家で、1926年にヘジャズとネジドの王となり、
1932年に王国として統一されました。
1934年には、国境線を巡ってイェメンと戦争となって、これは1936年まで続いています。
第2次世界大戦中は、英国からも働きかけを受けていましたが、イブン・サウド王はハシミテ家を支援する英国を余り
好まず、米国からの援助と基地建設を容認しています。
米国による、武器援助で、サウジアラビア軍は近代化を果たし得ました。

エジプトは、1922年に英国の保護国となり、1936年に独立します。
但し、運河地帯は20年間の英国軍の駐留を認め、スーダンは英国との1889年条約以来、共同統治権を認める
と言うもので、民族主義者はこれに不満を持っていました。
第2次世界大戦では、イタリアがリビアから侵攻し、後一歩の所まで追いつめますが、補給に失敗して撤退します。
なお、この際、後に王制打倒クーデターを指揮する国軍の若手将校(ナセルとかサダト)による、王制打倒クーデター
が企図されますが、イラクの失敗で懲りた英国によって察知され、彼らの反乱は未然に防がれます。

このほか、マグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は米国の欧州に於ける最初の大規模作戦、トーチ作戦
で制圧され、リビアは英国軍によって占領、スーダンはエジプトと英国の共同統治によって大戦の影響を余り受けず
(戦力の提供は行なっていますが)、西サハラ、タンジール、イフニはスペインの統治下によって、かなりの圧力を連合国
から受けていますが、一応維持しています。
また、クウェート、中立地帯、湾岸諸国、マスカットオマン、イェメンについては、英国保護下の諸国であり、イェメン領アデン
が英国の中東向け補給の最前線基地となったほかは、特に大戦の影響を受けていません。
(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本がアメリカと戦争した理由に石油がありますが、当時の中東の石油事情はどうだったんでしょう?

イラン…
英国人鉱山王ダーシーにより調査開始。英国の肝入りでビルマ石油が経営参加。
1908年5月、イラン南部のマスジッド・イ・スレイマンにて油田を発見。
アングロ・パーシャン石油(APOC)が設立される。
1921年にコサック兵団長レザ・ハーン大佐がクーデターを起こし、テヘランへ進撃。
カジャール朝の最後の王、アフマド・シャーはフランスに逃亡。
1925年、パフラヴィ朝成立。1932年、国内統一。
英ソの圧力を嫌い、独に接近。大戦中は厳正中立を宣言するも、対ソ援助ルートの確保を狙った英軍、ソ連軍が侵攻。
レザ・シャーは退位。王位は息子のモハマド・レザ・パフラビィが継ぐ。
以後、終戦まで両国の占領下に置かれる。

イラク…
1914年、APOCが50%、ドイツ銀行とロイヤル・ダッチ・シェルがそれぞれ25%を出資し、トルコ石油(後のイラク石油)が設立される。
第1次世界大戦の終結によりドイツ資本が追い出され、代わってフランスと米国が参入。
1927年10月、キルクーク近郊のババ・グルグルで油井発見。
1920年、英国によりファイサルがイラク王に封じられるも、国民には反英感情が根強く、
大戦中はラシュッド・ガイラニらが反乱を起こしたりしてますが、あっさり英軍に鎮圧されています。

バーレーン…
「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。
ニュージーランド人鉱山技師ホームズ少佐が油井の存在を確認。
ソーカル(カルフォルニア・スタンダード)が権利を獲得。
1931年より採掘開始。
大戦中は英国の保護下。

サウジアラビア…
「赤線協定」により、当初は大手石油会社の開発の対象外。
1938年にダンマーンで油田発見。採掘権を獲得したソーカルはテキサコを加え、
販売会社カルフォルニア・テキサス石油(カルテックス)を設立。
大戦中は、アメリカが石油の重要性を鑑み、同国への武器貸与法の適用を承認。
ルーズベルト「私はここに、サウジアラビアの防衛が合衆国の防衛にとって死活的に重要であることを認める」

クウェート…
ガルフ石油とAPOCが折半で出資、クウェート石油を設立。
1938年にクウェート市南方のブルガンで世界最大級の油田発見。
戦争勃発とともに開発は中断。そのまま終戦を迎える。

カタール、UAE、オマーン…
大戦終了までに石油の生産は始まってません。
(125:イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)

第2次世界大戦中、各国のマフィアは何をしていたのでしょうか?

日本では満州浪人とか右翼団体とかいかがわしく暴力的に戦争協力していました。
韓国の暴力団とかも、貧民を日本に連れて行ったりとか。

ヨーロッパで有名なのはドイツ占領下のフランスで、レジスタンス側について
トンネルに爆薬を仕掛け、列車のドイツ兵を大量に生き埋めしたり、
あるいは逆にゲシュタポ側について拉致や殺人・防諜の手伝いしたり
いろいろと。

それと、アメリカのイタリアンマフィアが、ドンの釈放と交換条件に
米海軍に協力し、イタリアへの上陸の手伝いとか政権転覆
(ファシスト政権はマフィアを弾圧したため)謀ったりとかしていたらしいです。

闇物資の取引、仲介、調達行為。
日本を例に取れば戦争相手国の中国から取引で希少金属類を調達した右翼まで居た。
(112:695-696)

第2次世界大戦時、各地の空でフーファイターと呼ばれるものがパイロットによって目撃されたと本で読んだのですが、正体は何だったのでしょうか?

1945年4月、川崎を焼夷弾空襲する為に飛行していたB-29の何機かのクルーから、「自機の後を何百
mileも火の玉が幾つか付けてきた」という報告があり、その後東京を空襲した機体でも、「数個の火の玉を
確認した」という報告があった。
夏に入ると、不可思議で潜在的に危険な飛行物体に関する報告がますます多くなり、飛行前の
ブリーフィングでは、クルー達に対し、「敵の最新兵器に注意せよ」という警告が発せられた。
それは、強力なサーチライトを持つ母機か誘導機で、B-29の所在を突き止め、夜間戦闘機を支援
するのだと言われていた。

パイロットはこの敵機を振り払う為、荒っぽい、急激な運動をしたが、この敵機は離れず、射手の中
には、サーチライトを撃って光を消す、或いは母機を破壊しようと、実際に機銃を発射した者も居た。
奇妙なことに、この敵機は、日本本土に侵入する時は右翼側に現れ、基地に帰投する際は、左翼に
現れると言うのだ。

7月半ば、全B-29搭乗員は情報部から次のような説明を受けた。
「空の何処を飛ぼうと、好きなだけ撃とうと、これを撃墜する訳にはいかない。
諸君が見た火の玉は惑星の金星だ。
世界でもあの一帯では、年間でもこの時期に金星は極度に明るく輝くのである」
(信じられないが、本当だ8:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦中連合国の指導者が色々なところで会談していますが、どうやって移動したのでしょうか?

ニューファンドランドで米英首脳が会談した時は、Rooseveltは重巡洋艦(Augusta)、
Churchillは戦艦(Prince Of Wales)で移動しています。
その後、ChurchillはC-54Bを使用し、大戦末期にAvro Yorkに乗換、Rooseveltは、
C-54C("Sacred Cow"号、専用エレベータを持つ)を使用して会談に向かっています。
また、英国で連合国の首脳会議が行なわれた時、ソ連のMorotov外相は、自国製の
Pe-8大型爆撃機でMoscowからWashingtonで、帰途にLondonに寄ったものでした。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦の時スペインは何してたんですか?

Spainは1939年に終了した内戦の影響で、国力が枯渇し、その復興に多大な力を
必要としたので、第2次世界大戦に参加出来ませんでしたし、英国からの陰に陽に掛け
られる圧力のため、正式参戦しませんでした。
しかしながら、枢軸国潜水艦への密かな便宜供与や、スペイン義勇軍「青い旅団」
が東部戦線に派遣されたりしています。
(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヒトラーが参戦を促す会談を申し込んだ時も、
ヒトラーの専用列車との待ち合わせ場所にフランコの列車が遅れてきたり、
午後になるとヒトラーがイライラして待ってるのに、おかまいなしにシェスタをとったり、
参戦の代償にジブラルタルや北アフリカをちょうだい。あ、おたくの最新兵器も供与してねと足元を見るような要求をしたりと、
最初からやる気がなかったという話もある。
そのかわり上で書かれてるように中立ながら親独的な立場をとり、
ドイツ諜報部の活動やドイツ商船のUボートへの補給を見て見ぬふりをしてたりする。
また義勇兵、つまりあくまで個人の意思で参加したという名目で送り込まれた兵士で編制された
通称「青」師団は、東部戦線で多数の損害を出しながらも勇戦している。
(121:954)

空対空爆撃戦って何ですか?

空対空爆弾を使った迎撃戦闘のことじゃないかなぁ。

日本陸海軍では、対飛行機用の攻撃兵器として空対空爆弾を保有していました。
海軍には昭和14年に完成した九九式三号爆弾がありました。
総重量30キロの爆弾の中に144個の弾子が詰められており、敵編隊上空でこれを
投下すると時限発火装置により爆発して、弾子が散布される親子爆弾でした。
黄燐と鉄片でできた弾子は一発75グラム、傘上に広がって落下し、
命中すれば防弾タンクを発火させることが可能でした。

一方陸軍では、ト二弾、ト三弾と言われる空対空爆弾がありましたが、実戦で使える
ものではありませんでした。

のちに「タ弾」と呼ばれる空対空爆弾が陸海軍共通で使用されました。
これは元々陸軍が地上の航空機攻撃用に開発したもので、700グラム(1キロ)の
小型の成型炸薬弾をコンテナに仕込み、目標上空で投下、散布して目標を破壊するものでした。
これを対空用に用いるようにしたものです。

実戦では、投下位置の判断が難しく、また機体性能や爆弾の重量のせいで
敵機の上方に占位する事が困難なため、戦果はさほど上げられなかったようです。


またドイツ空軍でも同様の戦法を採用しており、Wgr.21空対空ロケット弾を使った
空対空戦闘に発展しています。
「空対空爆撃戦隊」?みたいな題名を聞いたことがあるんですが
「空対空爆撃戦隊」は元ドイツ空軍のハインツ・クノーケによって書かれた戦記です。

第11戦闘航空団第Ⅱ飛行隊第5中隊に所属していたクノーケ中尉は、
戦死した同僚が構想していたBf109に爆弾を搭載して米軍機の密集編隊に投下する
アイデアを実施すべく、自機に爆弾を搭載して出撃しました。1943年3月のことです。
彼は見事に爆弾でB-17を撃墜することに成功し、その戦果はゲーリングの耳に達しました。

第5中隊長に昇進した彼はさらに研究を続け、中隊は多数の戦果を上げました。
しかし、護衛戦闘機の増大などで爆撃戦法は危険を増し、8月には中隊は
ロケット弾を使用し始めています。

面白いことに、迎撃された米重爆の方では爆撃戦法に全く気がつかず、損害を
ロケット弾によるものと見ていたそうです。
(138:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦時中、敵同士での通信(艦対艦とか艦対空で)は行われましたか?

行われました。

第2次世界大戦初期のUボートは、無警告で連合軍徴用船舶を撃沈することを許されておらず、
1936年締結のロンドン協定に依って、まず、信号灯などで、停戦命令を発します。
次いで、臨検部隊が対象船舶に移乗し、積荷と航海日誌を調べ、必要に応じて積荷は押収、
軍用品を輸送していた場合、船舶は乗組員退去の後、撃沈する形を取っていました。
これは、仮装巡洋艦でも同じです。

使われたのは主に信号灯、信号旗で電信は自らの位置を暴露するため、積極的に用いられて
いません。

また、飛行機同士の場合、降伏を行う印として、翼を振る、車輪を出すなどの所作でそれを明らか
にすると言ったことがありました。
(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

サンフランシスコ講和条約で、イタリアとスイスは何を理由として日本に賠償を求めたのでしょう?

スイスの場合、彼の国の国民が、日本政府に抑留されたことを根拠として賠償請求をしています。
イタリアの場合は、1943年の降伏時に接収された艦艇、商船の喪失に際しての賠償請求と、国民が
日本政府に抑留されたことを根拠として算出したのでしょう。
南米のABC諸国は、日系人抑留の経費とかでしょうか。
その他のアジア諸国は、国内が戦場となった際の復興費用とか。
(151:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか?

敗残兵のゲリラ的戦闘を別にすれば、ソ連軍の満州侵攻作戦ということになると思います。
侵攻が始まったのが8月9日、大陸命により停戦命令が出たのが8月18日。
しかし戦闘はまだ各所で続いており、虎頭要塞の陥落は8月26日、
興安嶺で戦闘中だった第百七師団が停戦に同意したのは実に8月29日です。
その後も九月になるまで小規模な戦闘が満州各所であったはず。
(324:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
部隊同士の本格的な戦闘なら、昭和20年8月18日~21日にかけて行われた、北千島・占守島の戦い。
昭和47年10月19日、フィリピンのルバング島で、現地警察と銃撃戦の末死亡した小塚金七一等兵を、最期の戦死者と呼ぶこともある。
(321:595)

第2次世界大戦で最後の海戦って、いつのどんな戦いなんでしょうか?

無名のものまで入れると、
1945年8月22日に、中国沿岸で、日本軍と米中連合軍の武装ジャンク同士が交戦したのが、
第2次世界大戦最後の水上戦闘だといわれてるようです。
結果は日本側が撃ち負けて、乗員の大半が死傷して拿捕されています。
(614:◆yoOjLET6cE)

第2次世界大戦の敗戦国で、植民地の兵士を徴用していた国はありますか?

まあ日本の場合、朝鮮人士官は普通にいたし、朝鮮人兵士は昭和13年から志願兵を募集して昭和19年から徴兵対象になる。
台湾人は昭和17年から志願兵募集、昭和20年から徴兵対象。
それ以前の時期だと、軍属として設営隊とか日本人を徴兵して不足した分の労働力を補った。
満州人は一部満州軍として末期の対ソ戦に参加したのはいるが、その他の戦線には流用していない。
後はマレーとかで捕虜にしたインド人をインド国民軍にしたり、ビルマ人の義勇軍もあったな。
中国人捕虜の一部は、汪精衛の南京政府軍に参加させて地方の治安部隊にしたり。
軍属として荷物持ちや通訳をやらせたりしたけど、スパイがよく紛れ込んでた。
(俺初質スレ433:353)

WW2において、アメリカ陸軍だけが全歩兵の機械化と全車両の無線化を成し遂げたという話をどこかで聞いた気がするのですが、本当でしょうか?

米国は、1939~45年の間に、3,200.436台の軍用車両、88,410輛の装甲車輌(ちなみに、英国は24,803台、ドイツは24,360輛
の装甲車輌を生産)、ハーフトラックは41,170台、トラクタは82,099台、これに特装車が数千台の単位で続きます。

トラックの大多数は、1/4t~3/4tのLight Classで、988,167台、次いで2 1/2tのLight Heavy Classで、812,262台、1 1/2tの
Medium Classが428,196台、2 1/2t以上のHeavy Classが153,686台で、これら全生産量の1/3が補給部隊の手に入りました。

ちなみに、カナダは815,729台のトラックと、50,663輛の装甲車両を生産し、英国に引き渡しています。

ドイツは、先に述べられているように、1940年にオランダに侵攻したとき、多数のドイツ歩兵は馬に乗っていましたし、この時から
敗戦までの間、民間車両と軍用トラックとの比率は100対1だったそうです。
(238:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本やドイツの兵器生産全般は、終戦のその日にストップしてしまったんですか?

ドイツは自国が戦場になっているから、敗戦と共にその生産もストップしています。

日本の場合は、8月17日に工事中止命令が出て、以降の軍需生産は行われず、民需産業への転換模索、
動員学徒の解除、動員女子の解雇などの人員整理が行われました。

例えば、海軍艦艇ですが、8月16日に、波216号潜水艦、第160号海防艦が竣工しています。
(228:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本が92オクタンを標準としたのに、より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのはどういう事情からなんでしょうか?

元々、オクタン価を上げる技術は米国がリードしていました。
これは、高温高圧下で水素添加して改質すると、加鉛効果が良くなってオクタン価を高めることが出来る、
と言う技術で、この高温高圧を実現するための特殊鋼製造がイタリアでは難しかったこと、また、その技術は
更に改良され、高温高圧の作業が少なく、と言うことはそれに耐えうる特殊鋼の使用量が少なくて済む、所謂
フードリー法が開発されています。

これらの特許は、米国が保有していた訳で、仮想敵国たるドイツやイタリアには輸出が為されなかったと言う
ことになります。

更に添加剤についても、英国では開発されていたものが、ドイツでは開発出来なかった、と。
(184:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イタリア・ドイツなど枢軸国に駐留していた在外邦人はどのような処遇がなされていたのでしょうか。

2.枢軸国に帰化した日本人も徴兵や兵役が課せられたのでしょうか。
3.ロシアに駐留していた日本人・日系帰化人は、ソ連参戦までは、どのような処遇がなされていたのですか。
4.日本在留の、米英人だけでなく、ソ連人も強制送還されたのでしょうか。
1.については、基本的に居所さえ申告していればOKだったみたいです。
また、その生活も余り窮屈なものでなく、例えば、イタリアの例ですが、1942年4月に
「ローマ日本友の会」という組織が出来たときは突然、Mussoliniが現れたりしています。
概ね、イタリア人の場合は寛容だったみたいですし、ドイツ人もそれなりに対応していたよう
です。
ただ、イタリア降伏の後には、イタリア駐在海軍武官や商社マンがPartisanに殺される例も
ありました。

詳しくは、木村裕主の一連の著書(特に「ムッソリーニの処刑」)辺りとか、ドイツに滞在していた
日本人の手記とかを参照するのが良いか、と。

2. 枢軸国での帰化は庶民レベルではなく、有名どころではクーデンホーフ・光子くらいしか居ないような…。
 少なくとも、日系ドイツ人ニーゲム大土木さん(ぉぃは居なかったはず。

3. 岡田嘉子など、日本人は1937年前後に軒並み、「日本のスパイ」として逮捕・拘留され、100名前後が
 シベリアなどに流刑になったり、銃殺されています。
 流刑になった日本人は1945年から最長で1950年代まで出所出来ませんでした。
 従って、無事な日本人は殆どいません。

4. そもそも、特別高等警察や憲兵の任務は防諜ですから、疑わしいことをすれば、国外追放になりました。
 まぁ、ソ連も同じことをしていたので、どっちもどっちです。
(200:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

自由フランスのド・ゴール政権などは対日戦勝国なのですか?

一応、日本の外務省的対応としては、中国の重慶政権、フランスのド・ゴール政権、
ユーゴ、ポーランド、エチオピア、チェコスロバキアなどの亡命政権、イタリアのバド
リオ政権などは、日本政府が承認している政権ではないため、彼らが行った宣戦
布告は国際法上無効として交戦関係を認めていません。

但し、国交が無くても日本が否認していない限り、宣戦布告は有効となります。
なので、ニュージーランド、インド、ドミニカ、ハイチ、シリア、レバノン、サウジアラビア
については、対日戦勝国となっています。

ちなみに、ルクセンブルクも連合国の一員という理由で、対日宣戦をしたわけでは
ありませんが、対日戦勝国の一つに数えられていたりします。
(208:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次世界大戦で倒した敵兵の装備を戦利品として持ち帰る兵隊がいたそうですが、銃や刀剣を持ち帰ったりする場合に問題は無かったのでしょうか

武器もそうですが、頭蓋骨を恋人に送りつけることもしています。
当然、国内で批判が高まり、幾度も禁止令が出ており、太平洋戦争では、本国に帰る
兵士達が必ず立ち寄るハワイなどで持ち物検査が行われていました。

ただ、米兵の場合は、記念品を集めるのが戦いの主目的になっていたりするので、
なかなか守られなかった様です。
(338:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ヨーロッパ戦線終結時にドイツ軍のモーゼルが人気となり、持ち帰ろうとする
イギリス兵が大問題となり、帰国時に所持してたら処罰と通達が出て、
みんな帰国する船から捨てたそうだ。

バグダッド陥落の直後、大統領宮殿を略奪して金ぴかの物を逆さにしたヘルメットに入れて持ち運ぶ米兵の映像が、
テレビで流れていた
その後どうなったかは知らないが、略奪が問題になっているというニュースがあったような
(338:545,556)

第2次世界大戦での主要国の軍用航空機生産数はそれぞれどれくらい?

1941~44年の統計だけんど。
日本:58,822機(1945.8までは69,888機)
米国:261,826機
英国:96,400機
ドイツ:92,656機
(334:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ワシントン、ロンドン軍縮における代艦建造と廃艦の順番について教えてください。

代艦起工前か、完成までか、どの時期までに対象艦を廃艦にすれば良いのでしょうか。
(607:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

日本が南進せずにソ連に侵攻しても日本の機甲部隊の実力では、独ソ戦線にさほど影響は及ぼさなかったんでしょうか?

いわゆる「関東軍特別演習(関特演)」を実行していたら、ソビエトは
極東軍区から増援を欧州方面に回せないので、兵力の確保に苦労すること
になる。

また、仮にウラジオストクを脅かされるような事になれば、アメリカから
の援助物資が届かなくなる。
ウラジオが無事でも、シベリア鉄道を遮断されたら物資を西に輸送できないし、
日ソ開戦となったらアメリカの輸送船団は日本海やオホーツク海に入ることが
困難になるし。

なので、ドイツがモスクワを陥落させることくらいはできたかもしれない。
ただ、それでソビエトが敗北して崩壊したかといえば、そこまでの影響は
なかっただろう。
(608:320)

なんでドイツと日本の防空能力に無茶苦茶な差があるんでしょう?

以下のドイツと日本の戦果は本当でしょうか?

【連合軍の戦略爆撃の規模 】

       期間     投下爆弾量    死者        連合軍の爆撃機の損失
ドイツ    35ヶ月    170万トン   30万5千人       米1万機 英1万2千機
日本   約10ヶ月     16万トン   30万+原爆21万人     約450機

【日独高射砲の配備数】

ドイツ   '39年 2800門   '43年 1万5000門   '44年 2万6000門
日本    '41年 880門    '43年    850門
爆撃機の損失については、ドイツはB-17とか比較的撃墜し易いのが中心だったのに
対して日本はB-29というオーパーツが使われたから。もちろん防空態勢が根本的に
アレだったってのもあるけど。
高射砲については、日本が初めて爆撃食らったのが42年4月18日のドーリットル空襲、
本格的な大規模空襲は1944年6月からなんで、それ以前の配備が少ないのは勘弁して
くんろ。海軍にも防空を手伝ってもらえるということもあるし。
まあ、日本の高射砲生産数自体が、合計で4000門に届かないらしいけどね……。
日本は八八式高射砲だけでも2000門は作ってます
次期主力の九十九式で1000門
更に本土爆撃をしてきたB-29に対しては高度1万以上の射程が必要で既存の高射砲は役に立たなかったんです
量産型で対抗できたのは三式12cm高射砲でしたけど120門しか製造できなかったんです
B-29が高高度爆撃を行ったのはサイパンからの初期。しかも7000~8000m
 中期から後は中高度だから1万mの射程は必要な場面はほとんどない・
なんて言うのは言い尽されて今や常識。

日本側の撃墜数が少ない要因の一つは迎撃時間、回数が少なかったのも一因。
欧州戦はドーバー越えてから何度でも迎撃に遭う。
実際最も初期の中国重慶から場合は中国大陸を飛んでくるので情報も早く
対処もし易すかったので損害が大きかった。
(701:831-848)

日独伊三国同盟って、なんか意味あったんですか?

日独伊にソ連を加え、アメリカへの抵抗力。
しかし独ソ戦で破綻。

ドイツ下フランスの領土に進駐する契機。
しかしアメリカと対立を生み禁輸~戦争へ。

ドイツにとっては、日本と共にソ連を挟みたかった?
その後の日本の行動は不本意と思われる。
(戦争板初質スレ7:336)
あれはもともとは反共のための同盟。だから対ソ連が基本方針。
そこにソ連を加えて対米、というのは松岡外相の構想でしかなかったはず。

四国同盟構想は、日本だけでなくドイツとソ連にもあったようです。
(戦争板初質スレ7:423,425)

ワシントン海軍軍縮条約が潜水艦の開発競争にどのような影響を与えましたか?

ほぼ何もなし
ワシントン会議で潜水艦については確かに討議の対象に上がり、保有量の制限が加えられる可能性もありましたが
結局人道的な運用を配慮しよう、というただの紳士協定で終わってます
日本が戦艦の勢力的劣勢を補う為に潜水艦の研究開発に力を入れたとか。
それもなし
すでに相当な力を入れて戦利Uボートの解析や戦訓分析に取り組んでいた日本ですから
持てる最大限の努力を行っていたと評価して構いません
あれ以上はありません
(782:ゆうか("”復帰”"リハビリ中) ◆u8WC078ef5ch)



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