軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

欧州戦全般

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he111z

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だれでも歓迎! 編集


第2次大戦時のヨーロッパでは英語やフランス語はどの程度使用されていたのですか?

英語やフランス語を話せて何か有利な事はありましたか?
今ほど英語は一般的ではありませんでした。フランス語は今より少し通じる範囲が広かったかも知れません。

軍人相手に商売するには、話せると有利なこともあったでしょう。捕虜になった場合、相手の国の言葉に通じていると、
情報を得やすいとか、少なくとも通訳役になって多少待遇がよいとかはあったかも知れません。

通信をたまたま傍受したとき、意味がわかるとちょっと楽になるかも知れませんね。
(5:system)

欧州戦でどうしてB-29を使わなかったんですか?

B-29はもともと対独爆撃を目的として開発されたものだが、
逆になってしまったのは結果的にドイツが早く崩壊したから。
(7:649)
最初からB-29で爆撃するつもりだったからでは?

たしかアメリカは日本と戦争になるのを予測して、
(後にB-29となる)長距離爆撃機の開発やその発進基地となる島の攻略計画etc…を
戦前から準備していたハズです。
なのでB-29を使用したのはアメリカの計画通りだったのではないでしょうか?

でも大西洋憲章では「米英によるナチ暴政からの解放」が目標だったよ。
そんでB-29もF6Fも計画では対独戦に投入されることになってた。
とはいえ結果的には欧州戦が早く終結、対日戦が長引きヤルタ協定となった。
(7:654-655)

スコルツェニーのミッキーマウス作戦ってなあに?アイゼンハワー暗殺の奴?

以下コピペですがどうぞ。

1944年10月15日
“ミッキーマウス”はディズニーの有名なキャラクターの名前。
独逸のハンガリー支配強化を目的とした、ハンガリーの指導者
ミクローシュ・ホルティ提督の息子を誘拐する作戦。
 第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国海軍提督だった
ホルティは、1920年に政権を得てから、ずっとハンガリーを
支配していた。
1944年9月になってソ連軍がハンガリーに侵入。
ホルティ提督は本国を救うため連合国と接触したが、
独逸のヒトラー総統はSS特殊部隊のオットー・スコルツェニー中佐に
命じてホルティ提督の息子を誘拐して、その考えを断念させようとした。
しかし、ホルティ提督は連合軍に対して休戦する声明を発表し、
誘拐には成功したものの目的を果たす事には失敗した。

(koei WAR HISTORY BOOKS 第二次大戦作戦名事典より)
(9:311)

WW2でドイツがソ連に進攻したのは、バトル・オブ・ブリテンで敗れて英国本土上陸が困難になり、手詰まりになった強大な陸軍のエネルギーのはけ口をソ連に求めた為だと聞いたのですが、本当ですか?

ヒトラーが英国、チャーチルが屈服しようとしないのは
背後にソ連があるためと発想したこと、

また、「我が闘争」にも見られる東方のレーベンスラウム(生存圏)の獲得、
スラヴ民族蔑視、ソ連邦の西方への膨張(ルーマニア領ベッサラビアなどの獲得)への危機感
などがないまぜになったものだと思われます。
(10:名無し厨尉)

マンシュタイン元帥とジューコフ元帥はどちらが優れた将軍だったのですか?

両人とも置かれた環境が同一ではないので比べられませんが、
マンシュタイン元帥は一作戦のみでなく、
戦域全体を見た構想案を練ることができました。
ジューコフ元帥は急場に重要戦区に派遣されたり、
ライバルと並行で軍を率いてる事例が多く、
既にあるプランの遂行者・受動的な状況の救援者として
よく登場します。
上にいたスターリンの性格上、マンシュタインほどの
独創性を発揮するわけにはいかなかった、
というお国の事情はあるのでしょうが、
どちらかといえばモーデル元帥のようなタイプの
将軍だったのではないでしょうか?
(10:585)

なぜドイツ・イタリア軍はマルタ島を占領できなかったのですか?

いくら何でもシチリアからすぐそばだし空軍の支援も期待できたと思うんですが。
確か総統が地中海総軍司令官ケッセルリンクと
アフリカ軍集団司令官ロンメルを呼んで、ロンメルのエジプト
優先案を採用したからだったとうろ覚え(ロンメルはマルタ占領不要派)。
(12:47)

独ソ戦のとき、ドイツに寝返ったソ連兵は良く聞きますが、その逆は無かったんですか?

自分の知る限り、積極的な投降は見受けられません。

ドイツ人の親ソ組織としては、1943年モスクワにおいてドイツ共産党が組織した
「自由ドイツ」国民委員会がありますが、これに賛同するドイツ兵捕虜は少なく、
同年捕虜将校団を中心とした「ドイツ将校連盟」が組織されています。

代表となったのはスターリングラード戦で捕虜になったフォン=ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将です。

テヘラン会談で両組織とも前線で宣伝戦に加わることとなり、1944年のウクライナを皮切りに
投降の呼びかけなどが実施されましたが、効果は薄かったようです。

当時の共産主義への不信感と、ヒトラー暗殺未遂事件以後徹底された
「敵の利益を図る兵士は、自身と家族の生命を失う」との訓令が出されたことも影響していると思われます。
(ザイトリッツ大将以下将校団も欠席裁判で死刑を求刑されています)
(12:名無し厨尉)

バグラティオン作戦の概要を教えてください。

ソ連軍による白ロシア解放作戦で、1944年6月22日~8月29日までGermanyの
中央軍集団に対して行われました。
この作戦で枢軸側は三週間で50万の兵力が消滅しました。(Guinnessものの
記録らしい)

まず、作戦開始に先立ち各地でパルチザンが一斉蜂起して後方の輸送ルートを
遮断しました。
これにより、Germany中央軍集団は円滑な移動と補給が行えなくなり、ソ連軍の
攻勢をまともに受け、7月3日にMinskが陥落し、第4軍、第9軍が降伏します。
次いで、Rigaのドイツ軍が北方からのソ連軍第一バルト、第二バルト方面軍と、
南方からの第三白ロシア方面軍に包囲され、孤立しました。

これにより、ソ連はウィスラ川まで進み、PolandのWarsawではパルチザンが蜂起し、
東欧の枢軸各国は動揺して和平を模索するものが出てきました。

正に枢軸国敗亡のターニングポイントとなった作戦です。
(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)

フランスが、ドイツに降伏(停戦?)し、ビシー政権に変わった時、フランス軍は、連合軍と戦いましたが連合軍の捕虜となった場合、ただの捕虜なのですか?

Vichy政権はFranceの実質的なDe facto Standardな政権ですから、捕虜条約の適用は可能だと思います。
但し、連合国側にも自由Franceという政権が出来てますから、捕虜になった時点で、捕虜の身分を取るか、
連合国側に立って戦うか選択するための説得工作が有ったと記憶しています。
当然、自由Franceを選択すると釈放になります。

で、1942年まではVichy政権はありましたが、ドイツ軍に残余地域を占領され、実質的に消滅しました。
その代わり、海外植民地に自由France軍の勢力があったので、フランス軍が無いという状態はありません。

Italyの場合は、連合国との話し合いが少し長引きましたが、政府としては正統性を保持していましたので、
連合国交戦軍の名の下でそれまでのItaly軍(と言っても、南部地域に所属する軍隊ですが)がそのまま引き継ぎました。
従って一時たりとも捕虜になったものではありません。
但し、かなりの混乱はあったようですが。
(13:眠い人 ◆ikaJHtf2)

第二次世界大戦って日本とドイツの活躍しか知らないんですが、イタリアは何をしていたのでしょうか?

Italyは、France崩壊直前に火事場泥棒みたく、同国に宣戦布告し、ニースに向けて進撃しました。
しかし、逆に本土爆撃を食らうなど良いとこなしで、偶々Germanyが勝ったので助かりました。

植民地のEthiopia、Eritrea、Somalilandでは英国に押しまくられて早々に全滅。
それならと矛先を換えてAlbaniaからGreeceに攻め入るも、逆に押し込まれて、
Germanyの援助を仰ぎ(これが為にバルバロッサは遅れ、Germany敗退の遠因となる)、
Egyptに攻め入れば、Libyaに押し込められ、またGermanyに援助を乞う。

地中海では英国の地中海艦隊に完膚無きまでに叩きのめされ、大西洋では潜水艦が捕獲され、ドーバーではルフトバッフェの足手まとい。
東部戦線にも申し訳程度の戦力を出すが、スターリングラードでボコボコにされて、装備を放棄して逃走。

北アフリカ喪失後、Sicilyで奮戦するも、本土上陸の時点で手を上げ、矛を逆しまにして、Germanyを討ち果たす。

ま、よくドイツ人が冗談で、「次の世界大戦はイタリア人抜きでやりたいね」というのも宜なるかな。
(13:眠い人 ◆ikaJHtf2)

WW2時イタリアの鉄と石油の輸入はどうやっていたのでしょう?

一応、トリノとかで鋼鉄は作れましたから、日本よりましでしたが、原料は
どこかから輸入しないといけませんので、結局ドイツ頼み。

石油はリビアは植民地でしたが、殆ど石油は掘り出せていなかったので、
石油は専ら、ルーマニア頼みです。

ちなみに、参戦時、海軍は石油を180万トン備蓄していました。
一応戦時消費量9ヶ月分と見積もっていましたが、「戦争は3ヶ月で集結する」
と言う空軍の考えに共鳴した統領は、うち30万トンを民間と空軍に供給させ、自らの首を絞めてしまいました。
(21:眠い人 ◆ikaJHtf2)

オマハビーチの障害物は何の目的で設置されてたんでしょうか?

奥のものはそうだが
上陸用舟艇が簡単に海岸に近寄れないように

満潮だったら役に立ったけど、干潮だったから邪魔にしかならなかった。
(23:775)

青い師団について知りたいのですが

スペインの志願兵でしょうか?スペイン義勇「青師団」
41年から東部戦線に従軍しています。バイキングもだね。
ヤフーでスペインに飛んで検索は如何でしょうか?
(27:一等自営業 ◆O8gZHKO.)

イタリアは戦勝国だい!の根拠をぜひ

逆大政奉還ならぬムッソリーニを解任して、パドリオ政権は連合国と
休戦・講和したから。

そのあとムッソリーニ脱出後、ファシスト・サロ共和国をつくるんだけど、これと王党派イタリアは連合国と共同で
交戦状態。45年5月戦勝宣言。

全然関係無いけど、旧東ドイツも、1945年5月9日(だっけ?)は「敗戦の日」ではなく
「共産党による解放記念日/ナチズム打倒の戦勝の日」と祝ってました
(28:485)

バルバロッサ作戦の名前は何から取ったのでしょうか?

神聖ローマ帝国の国王、フリードリヒ1世(1122?~1190)だと思います。
かの国王のことを「赤髭王」と呼びました。
赤髭=イタリア語でバルバロッサです。
第三次十字軍で溺死した人ですが。
(30:眠い人 ◆ikaJHtf2)

第二次世界大戦時のイタリア機のインシグニアは何を図案化したものなんですか?

古代ローマ人が持っていたファッショという戦斧を図案化したものです。
1943年、イタリアが降伏したときに三本のモノは廃止されましたが、北に
移ったサロ社会主義共和国空軍では、二本のモノを使っています。
それが廃止されたのは1945年5月。

スウェーデンのは王冠です。
確か、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドかデンマークを表していたか、と。
(30:眠い人 ◆ikaJHtf2)

ノルマンディー上陸作戦なんですけど、なぜあんなに強行上陸しなければならなかったのですか?

艦砲射撃は一応やったんじゃなかったっけ?
プライベートライアンのオハマビーチに関しては、事前の情報では兵力も集中してなく手薄だと
思われていて、いざ上陸しようとしたら敵が強固で驚いた・・と。
情報部の手落ちだったの。
(31:651)

オマハ・ビーチってあんなに強固な守りだったのにどうして攻略されてしまったんでしょうか。

守りは強固でも、援軍がない、制空権がない、制海権がない、戦車隊がない
の四重苦ですから、幾ら士気の高い守備隊でも大兵力を持って攻められると、
ひとたまりもありません。
ついでに言うと、殆どの師団は二線級部隊でしたし。
(34:眠い人 ◆ikaJHtf2)

よくイタリア軍はへタレとかいいますけどなんでへタレなんですか?

簡単に説明すると、戦車も飛行機も持たないエチオピア軍相手に勝利を収めるまでに6ヶ月かかった。
ちなみにイタリアは戦車、爆撃機、毒ガス等を総動員しました。
フランス降伏少し前に宣戦布告しましたが、フランス海軍がイタリア本土を艦砲射撃した時には海軍は動きもしませんでした。
ギリシア相手に敗北寸前まで行き、独逸に援軍を求めています。これがバルバロッサの失敗の遠因とも言われます。
北アフリカでは自ら仕掛けながらロンメルが来るまでに自らの植民地までも奪われます。
これはほんの一部です。まだまだあります。
(36:マルサッカ)

第二次大戦中のイタリア軍は何故あそこまで弱かったんですか?

WW2の主要な参戦国の中で、イタリア軍がへたれな方なのは確かだが、
人種ネタのジョークと同じで、根拠はあるもののイメージ優先・茶化し半分で
語られる事だから言い過ぎも多い。
(69:445)
イタリア軍としては戦争になるとしてももう2~3年はあとだろうというつもりで準備を進めていたところで突然ドイツがポーランドに侵攻。
武器はそろわず、油の備蓄もなく、兵員も不十分で黒シャツ隊で補ってる状況だった。
やべーどうしようと思っていたら今度はフランスに侵攻を始めたもんで、ムッソリーニがバスに乗り遅れるなと参戦を決意。
火事場泥棒的にフランスの一部を占領できたもんで、ドゥーチェが調子に乗ってギリシャや北アフリカに手を伸ばしたら大失敗。
ドイツの手を借りる羽目になったり、タラントの艦隊がボコにされたり、ドイツへの義理でソ連侵攻に手を貸したら第8軍が壊滅したりとずるずると深みにはまっていった。
組んだ相手が悪かったというのもあるが、国家としての明確な戦略なしで成り行き任せで参入したのが敗因とも言える。
(290:267)

映画「モスクワ攻防戦」(だったかな?)を見ていて思ったのですが、初めのほうでドイツ軍がミンスク市街地を爆撃していますね。

あれはどういう目的でやっていたのでしょうか?
市街地の爆撃は、敵の士気の低下、戦争を長引かせない為に有効と考えられます。
戦時日本では、米軍のB-29が爆撃にこれるという事は制空権はもはや米軍
に移ったとのことになり、士気が著しく低下し、生産性も悪くなりました。
戦争を長引かせないためは、将来の兵員の増加が難しくなるためです。
(37:308)
ミンスク爆撃のずっと以前、大戦前のゲルニカ爆撃以来、
民間人(都市)への爆撃はごく一般的に行われていたのだが。
1.一般的な士気や戦争遂行能力(経済力)の破壊
2.敵軍が利用する可能性のある施設の破壊
3.補給や交通手段の破壊
4.後方で家を失った民間人がうろうろすれば敵軍が戦いにくい。
まあ他にもいろいろ理由はあるだろうが、すぐに思いつくだけでもこれだけある。
(37:312)

フィンランド軍の司令官はマンネルヘイムとかいうらしいけどそんなに強かったんですか?

自国で戦ったために地理に精通しており、しかも兵器の修理能力もかなり
高水準にありました。
しかも、軍隊としてもバランスの取れた防衛的な軍隊であります。
このため、かなりな強さを発揮しました。
ただ、物量で押し切られるとどうしようもありませんが。
(41:眠い人 ◆ikaJHtf2)
フィンランド軍総司令官カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥は
元々皇帝ニコライ二世の信任厚い帝政ロシアの軍人でした。
革命勃発後フィンランドに帰還し、1918年の左派クーデターに続く内戦では
政府軍を率いて勝利しています。
侵略してきたソ連に対する2度の戦争(冬戦争・継続戦争)にも総司令官として挑み、
1944年8月には大統領に選出されています。
軍事的才能と政治的手腕を併せ持ち、フィンランドの救国の英雄と言われたのは当然でしょう。
(41:名無し軍曹)

WW2中のペタン政権て、戦争に参加拒否ができたんですか?

実際は傀儡政権であったとしても、建前上はヴィシー政府は第三共和政を打破して
打ちたてられた政権なわけで、軍もヴィシー政府軍となっています。
ヴィシー政府軍はドイツ軍に積極的に協力しており、参加拒否すればおそらく
軍法会議にかけられて軍刑務所行きになったのでは?
そういった人は多くは亡命して自由フランス軍に参加しています。
(44:39)

ヴィシー政府に対英参戦させる意味ってのはなんですか?

戦時国際法的な話を持ち出すと,フランスの”同盟国”として合法的に
フランスの海外領土を利用してのイギリスの海上交通の邪魔が出来ます.

参戦させないと,南仏ないし海外のヴィシー政権の支配地域を利用しての交戦行為が
国際法違反になってしまうもので.

傀儡であるのは事実ですが,国際的な認知からすればWW2もかなり後半になるまで
ドゴールの亡命政権よりは,ヴィシー政権のほうが正当性が高かったと記憶しています.
連合国の諸国も当初はヴィシー政権を正統なフランス政府としていました.
(44:予備語学陸曹見習い)

戦車対軍艦の戦闘があったというのを見た覚えがあるのですが、なんと言う戦いでしょう?

シシリー島でヘルマン・ゲーリング師団のタイガーと駆逐艦です。
(46:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)

ベーメン・メーレンとは、どんな軍事用語ですか。

軍事用語でなく、チェコの地域の名前です。
ナチスドイツがベーメン・レーメン保護領として統治しました。
ラインハルト・ハイドリヒが総督をしていたことでも有名です。
64:581)

第2次世界大戦はナチスドイツのポーランド侵攻に対してフランス・イギリスが宣戦布告したのが始まりですが英・仏の宣戦布告の根拠はなんですか

ポーランドは、古くからの同盟相手であるロシアを失ったフランスと1921年に
軍事同盟を結んでいます。
これに基づいてフランスはドイツに宣戦を布告し、英国もそれに同調しています。

ソ連に関しては、フランスとの間で1932年に仏ソ不可侵協定が結ばれ、第三国か
らの攻撃には軍事援助を行うと言うことになっていました。
英仏はソ連にその条約を援用して、東欧からドイツにソ連を侵入させようとしました
が、ルーマニア、ポーランドがソ連軍の軍隊通過権に難色を示したため、頓挫しました。

つまり、英仏にとって、ソ連は味方陣営に引き込むべき相手だったので、宣戦布告はしませんでした。
(67:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「春のめざめ」を実行せずに戦力を温存しておけば、ナチスドイツはベルリンを防衛し切れたのでしょうか?

バラトン湖近辺の戦い自体は、1945年1月から3月に掛けて行われたもので、
「春の目覚め」作戦はそのうちの一部と言えなくはないかな、と。
1945年3月6日から開始されたドイツ軍最後の攻勢ですね。
3月18日にウィーン攻勢をソ連軍が掛けたことから中止となり、撤退を開始しています。
(67:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「ゼーレーヴェ作戦」ですが、「あしか作戦」と「トド作戦」、どちらが正しいのでしょう?

綴りを忘れましたが、ゼーレーヴェ=SeaLion=日本語訳すると海驢(あしか)です

えと、SeaLionって海驢、(特に)トドとなってますので、どちらでも問題ないかと思うです。
(67:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
「トド作戦」ではアレなので、「アシカ作戦」と訳したのではないかと邪推。
(67:ばばぼん♪ ◆gdH1Km1a0U)

第2次大戦中のヨーロッパ戦線でオットースコルチェニーの特殊部隊が米軍占領下に侵入して米軍が混乱した。

米軍は合言葉を複雑化したが合言葉にこたえられなかった米軍将官が憲兵に逮捕されてしまったと聞きました。
質問なのですが、なぜ将軍まで逮捕してしまったのでしょうか?
米軍がスコルツェニー達の潜入工作に本気でおびえていたからとしか言いようがありませんね。

米第12軍集団司令官のブラッドレー大将は将軍であることを示す星のついたスタッフカー
で移動したにもかかわらずまるで信用してもらえず、「50万人ものGIが、まるで猫とねずみ
のように追いかけっこをしている」と苦々しげに嘆いたと伝えられています。
逮捕された将軍とは、第7機甲師団のブルース・クラーク少将ですが、部下のMPに
営倉に放り込まれた上、「ナチの殺人者め!」と嘲られたとか。
とても形式上逮捕したとはいえない状態だったようです。
(68:名無し軍曹)

ベルリン市街戦の時に、人為的作戦行動あるいは事故として地下鉄での出水騒ぎが実際にあったのでしょうか?

「そのとき歴史が動いた」でもやってたよ。
「地下鉄のトンネルへソ連兵が!」
「よっしゃ!水攻めじゃ!」
てことで、総統じきじきの命令だったらしい。ムゴイ…
(70:228)
総統命令かは知らんが、親衛隊が地下鉄に通じる水門を爆破した。
実際はソ連兵、市民どころか地下鉄に一時的に避難していた野戦病院
の多数の負傷兵が惨い目にあった。
(70:232)

先の大戦ではイタリアってどのくらい役に立ってたんですか?

ドイツの柔らかい下腹部をほぼ2年に渡って守りましたし、南部が寝返った後も
北部はドイツ側に留まって、ドイツ航空産業を支える重要な拠点として機能して
おりました
イタリア抜きではドイツ第三帝国の躍進と繁栄、さらにその悲劇的没落は存在し
得なかったでしょう
(71:13)

二次大戦中のドイツフランスあたりで活動していたレジスタンスは主にどんな小銃を使っていたのでしょうか?

隠していたフランス軍の武器やドイツ軍から奪い取った小銃などを使用していたようですが、
レジスタンスの武器といえばやはりリバレーターピストルでしょう。

アメリカ軍によって大量に投下され、これを用いてドイツ兵から武器を
奪い取ったりしていたようです。ただし、事実上の単発、しかも50m
離れると納屋にも当たらないという、接近戦専用のシロモノだったようです。

ライフルについては、そーゆーわけで第二次大戦中の仏独の制式ライフル、
ということでよろしいかと。
(75:system)
system氏に付け加えるなら、フランスのレジスタンス「マキ団」は、
イギリスからひそかに支援物資を受け取っており、その中には
ステンサブマシンガンも含まれていました。
(75:名無し軍曹)
オランダだとレジスタンスが米軍供与のM1917を使ってる写真がGPに載ってたよ。
(75:484)

ノルマンディーで防波堤にされた艦を全部教えてください。

有名どころではFranceの弩級艦Courbet、英国の弩級艦Centurion辺り。
(76:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
オランダがスマトラを出したりしているようですけど、
当時のオランダ海軍みたいに困窮している海軍がただで素直に出すようなものなんですか?
それとも祖国を取り戻すためには、どうせ古い艦だし、あの程度の犠牲はやむをえないと考えたのでしょうか?
Courbet、Centurionとも、当時はかなりの老朽艦で、既に現役を退き、宿泊艦、
標的艦として使用されていました。
オランダ海軍のSumatraも、1926年の竣工ですが、起工は1916年とかなりの
老朽艦で、1942年には宿泊艦となっていました。

既に後継艦は建造中でしたし、宿泊艦という廃艦5分前の状況ですから、素直
に出したのではないでしょうか。
(76:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イタリア軍がエチオピアに負けた時はどんな状態だったのでしょうか?

第1次エチオピア戦争でイタリア軍はエチオピアの頑強な抵抗にあい、
1896年3月1日アドゥワ近くのアッパ=ガリマで大敗を喫しています。
この戦いによるイタリア側の戦死者はイタリア人5,000人、
エリトリアの現地兵1,000人と言われています。
(78:名無し軍曹)

連合国の駆逐艦と、たまたま海岸沿いにいたタイガー戦車が戦ったって本当ですか?

たまたまではなく、上陸した連合軍橋頭堡に対し反撃を試みた際に、
洋上の駆逐艦に砲撃され、打ち返したというものです。1943年のことです。
(82:315)

ノルマンディー上陸作戦とかで海岸においてあるテトラポッドみたいなものは何?

『龍の歯』と呼ばれる対戦車障害物です。
(83:729)

フランスのルクレール将軍の経歴と主な実績に関して教えてください。

大して知りませんが、フィリップ・ルクレール将軍(Philippe Francois Marie Leclerc)
はフランス降伏後も北アフリカ戦線で自由フランス軍としてロンメル等と戦い、
勝利したこともあります。特に1942年末から1943年初めにかけてのチャド湖
からトリポリへの2400kmに及ぶ進軍は有名だそうです。1902年生、1947年没。
(84:system)
※リンク先消滅のためリンク削除
system氏の貼ったHP等を参考にルクレール将軍の経歴をまとめてみました。
ちなみにフィリップ・ルクレールPhilippe Leclercはレジスタンス中の暗号名で、
本名はPhilippe Marie de Hauteclocqeです。

1902年11月22日アミアン近郊で誕生。
1922年にフランス軍に入隊、騎兵将校としてモロッコでリフ族の反乱と戦った経験がある。
1940年5月10日のドイツ軍のフランス侵攻の際は第4師団に所属、その後ビュイソン将軍指揮の機甲師団に転属。
2度捕虜になるが脱走してド・ゴールに合流。アフリカに渡り、自由フランス軍を率いる。
チャドの軍司令官として着任後、イタリア軍と戦いつつ北進。1500マイル(約2400km)を踏破して
1943年1月23日にトリポリに到着。モントゴメリーのイギリス第8軍に合流。チュニジアで戦闘。
その後自由フランス軍第2機甲師団の師団長(少将)として1944年8月にノルマンディー上陸作戦に参加、
パットン将軍の第3軍麾下で戦う。8月24日パリに到着。ドイツ軍のフォン・コルティッツ将軍の
降伏を受諾。11月23日にストラスブールに進出。
ドイツ降伏後、ド・ゴールによりインドシナ駐留フランス軍最高司令官に任命される。
また、1945年9月2日の日本の降伏文書調印式でフランス代表として署名。
1947年11月28日にアルジェリアのコロンベシャール付近での飛行機事故により死亡。
1952年8月23日に死後フランスの元帥位を授与される。
(84:名無し軍曹)

プライベートライアン見て思ったけど、なんで海岸にある敵のトーチカ前もって艦砲射撃で潰さなかったんですか?

巧妙に構築された陣地は、短期間の艦砲射撃だけで完璧に潰す事は難しいです。
特に厚いコンクリートで防御されたトーチカは、相当な砲撃に耐えられますし、要塞
砲は、同一口径の艦砲の5倍の威力に相当すると言われています。
英仏海峡には、建造を中止された戦艦から外された40cm砲も有りましたし(数は
十分で無かったのですが)。
米英海軍も安易には近づけなかったのです。
(88:493)

「パリは燃えているか」この話って実話なのでしょうか?

はい、実話です。
本にもなっています。
「パリは燃えているか」で書籍販売のサイトでサーチすれば、
ハヤカワ文庫NF(ノンフィクション)から出ている書籍も見つかりますよ
(91:777)

フィンランドなんだけど、旧ソ連邦と2度戦争し、二次大戦後は国の独立を守る代わりに東部のカレリア地方を奪われたうえ、

敗戦国として多額の賠償を課せられた。日本やドイツと同じく国連旧敵国条項対象国って本当?
国際連合という組織は何のために作られたか考えれば、その答えは自ずと
出てきます。

国連憲章第107条は、第二次世界大戦の際、枢軸国だった日本・ドイツ・
ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランドと言った諸国が、国連憲章等に
違反した軍事行動(侵略等)を起こした際、旧連合国(アメリカ等)が国連決議等
の拘束力に優先して軍事制裁を課す事が出来ると言う規程です。

ああ、蛇足ですが、イタリアは日本やドイツと違い、途中で足抜けをして、
戦勝国の側に回っていますので、敵国条項対象国ではありません。
(92:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヒトラーがムッソリーニを真似したのかムッソリーニがヒトラーの真似したのかどっちですか?

1920年代から1930年代初期に掛けて、HitlerはMussoliniの真似をして権力の座に就きました。
1938年のAustria併合から立場が逆転して、MussoliniがHitlerの真似をしています。
(92:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ファシズムはイタリアが起源。
(92:739)

第2次世界大戦中のフランスのレジスタンスは良く聞くけどオランダはあまり聞きません、このあたりどうなんだろ?

WW2で国土を占領されたオランダは他の国同様激しいレジスタンス活動をやっています。
抵抗運動の象徴として国内にさまざまなレジスタンス活動を記念する博物館があるそうです。

Het Verzetsmuseum Amsterdam(The Dutch Resistance Museum)
レジスタンス博物館

National War and Resistance Museum at Overloon
オベルローン・戦争と抵抗博物館

その他ユダヤ人迫害や対日戦に関する記念館が多数存在します。
(95:195)

第二次大戦中にイギリスがドイツのUボートの乗組員を志願させたりしないように

潜水艦が危険であるとか、勤務の逃れ方をビラ巻いたりしていたって本当ですか
手持ちの本のタイトルを挙げてほしいところですが。
確かに、そういったことはありました。フランスのレジスタンスもやってたはずです。
(96:781)

ドイツが降伏する終戦直後までドイツ兵が守りきった拠点があるときいたのですが本当ですか?

西部フランスの海軍基地のあったロリアン、サン・ナゼールや、
ブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)が有名です。

西フランスの諸都市の場合は既に基地艦艇の大部が脱出、破壊されており
連合軍が攻略の価値を認めず放置されました。

ブレスラウは100万の人口を擁する大都市でしたが、1945年の2月半ばより
ソ連軍との攻防戦に突入、空輸補給を受けながら幾度かソ連軍の攻撃を退け
終戦まで抵抗を続けました。
(99:450)
Armour Modeling誌に、チャネル諸島に配属された独軍部隊の記述がありますよ。
(99:451)
ブレスラウ要塞の降伏は5月6日でドイツ軍の正式な降伏発効日の5月8日よりも2日早い。
それ以外では、
チャネル諸島のドイツ軍は5月9日に降伏。
チェコ/オーストリアの中央軍集団は5月11日に降伏。
ドデカネース諸島の守備隊は5月11日に降伏。
クレタ島の守備隊は5月12日に降伏。

なお、西フランスの港湾要塞は完全に放置された訳では無く、終戦間際に
いくつかは自由フランス軍の攻撃を受けている。
(99:478)

WWⅡ開戦前の、ポーランド軍の実力について、お尋ねしたいと思います。

仮にドイツだけに攻撃されても、あっと言う間に敗戦なんでしょうか?
マシュタイン回顧録を読んだ限り、ポーランドの作戦ミスとドイツ軍の兵力の多さが原因だと思われる。
工業地帯を確保しようとしすぎて包囲されたり突破されたりしているし。
ドイツ軍はドイツ軍でジークフリート線から兵力引き抜いて送ってきてるし。
さらにイギリス軍やフランス軍の支援が無いに等しいほど少なかった事もあげられる。

詳しい事は自分で勝って読まれたし。

おっと、質問とあまりかみ合っていない回答だった・・すまそ。
耐えるだけなら
ニェーメン、ボーブル、ナレフ、バイクセルおよびサン川の総距離600kmで防御すれば
もう少し時間は稼げたと思う。
ポーランド軍が無理に工業地帯を防御しようとした事とボーゼンに遊兵をつくってしまったのも
戦争が早く終わった原因とも言える。

まあどっちにしてもイギリス、フランスが主力を『西方防壁』に投入してくれない限り時間の問題だがw
(100:107-108)
既に>107-108で回答が出ていますが、補足。

1938年のチェコ解体以降では、英仏としては、ポーランドをして対独防波堤とする予定でした。
その際の後方基地というか、共同防衛軍として白羽の矢を立てたのがソ連で、一朝事が起きれば、
ソ連軍がポーランド国内に入ってドイツ軍と戦闘すると言う構想を立てていました。
これを蹴ったのが、ポーランド政府。

そこで、英仏はポーランドに対する軍事援助を強化しますが、時、既に遅く、新鋭戦闘機、戦車の来着も
無しに、蹂躙されました。
もう一つ、国内の生産工場も全力操業が出来ず、防衛政策にも混乱があったため、新型機の開発に失敗しま
した。
更に、戦時用基地の設置は十分で、開戦当初のドイツ空軍による航空攻撃は効果を上げていません。
但し、戦闘が進展するに従い、其処に配備する燃料、武器、弾薬の備蓄が追いつかず、補給もまたドイツ
軍の進撃に間に合いませんでした。

また、フランスは開戦と共に重爆撃機5個飛行隊でポーランドと本国を基地にドイツ本土爆撃を実施する
予定でした。

空軍に関して言えば、260機の損害で220機のドイツ機を撃墜しています。
しかし、ドイツ領内への爆撃は9月5日まで許可されませんでした。

もし、ドイツに勝利するとすれば、後方地域としてソ連が使えること、新型機が
十分戦力化されていること、戦車などが集中運用できること、英仏の支援が
十分行なわれること、ドイツへの夜間本土爆撃が即座に行なわれていること、
補給路が確保できることでしょうかね。

この板には東欧スレとかもありますので、ご一読されては如何でしょうか。
(100:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次大戦勃発時及び独占領期のノルウェー、デンマーク(亡命政府ではなく本国)の海軍編成を教えて頂きたい

Norway海軍

海防戦艦
 Norge級2隻(1940.4.9にZ21/22の雷撃で撃沈)
 Haarfagre級2隻(ドイツに接収され、防空艦となり、1945年3月擱座)
駆逐艦
 Draug級3隻(Draugは1940.4.10英国に脱出するも艦の状態が悪く除籍、
          Trollはドイツに引渡、1945年返還。Garmは1940年4月26日爆撃で焼失。)
 Aalesund級2隻(未成)
魚雷艇
 Snoegg級3隻(いずれもドイツ艦となり、Snoegg以外は沈没。なお、Steggは空爆で沈没したものを浮揚して再使用)
 Teist級3隻(2隻が自沈、座礁、Kjellのみドイツ艦となり、返還)
 Ravn級5隻(3隻が自沈、2隻が捕獲され、後に返還)
 Hval級5隻(1隻撃沈、3隻は事故、自沈、2隻が捕獲され、返還)
 Hvas級4隻(全艦捕獲、4隻とも返還)
 Varg級5隻(2隻自沈、3隻捕獲、返還)
 Sleipner級3隻(Aegerのみ1940.4.9に撃沈。2隻は1940年に英国に脱出)
 Odin級3隻(全艦捕獲後、ドイツ艦として使用。全艦返還)
潜水艦
 A級3隻(1隻座礁、2隻自沈)
 B級6隻(1隻英国に脱出、2隻自沈、3隻ドイツが鹵獲、うち1隻は1942年除籍)
旧式スループ(漁業保護艦)2隻(1940.4に相次いで撃沈)
 Fridtjof Nansen(1940.11.8座礁)
 Nordkap級2隻(未成)
機雷敷設艦
 Froeya(1940.4.13擱座)
 Gloman(降伏後、ドイツに引渡、1隻は1944年に撃沈)
 Olav Tryggvason(降伏後、ドイツに引渡、1945年に撃沈)
掃海艇
 Otra級2隻(建造中に捕獲)

Denmark海軍

海防戦艦
 Niels Juel(1943.8.29座礁後、ドイツに引渡され、1945.5.3撃沈、1952解体)
 Peder Skram(1943.8.29自沈。ドイツにより浮揚後、1945.4撃沈、1949解体)
水雷艇
 Najaden級2隻(1943年竣工するも艤装を遅らせ、1947年まで完成せず。)
 Draken級3隻(1941.2.5ドイツに引渡、Drakenは1945.5.14触雷沈没、残りは全艦返還)
 Glenten級3隻(1941.1.21ドイツに引渡、全艦返還。)
魚雷艇
 Springeren級10隻(1940年除籍1隻、1943.8.29自沈3隻、座礁1隻、5隻鹵獲され、45年返還。)
 Hvalrossen(1943.8.29自沈)
潜水艦、潜水艇
 Rota級3隻(1943.8.29全艦自沈)
 Aegir級3隻(1940年除籍3隻)
 Daphne級2隻(1943.8.29全艦自沈)
 Havmanden級4隻(1943.8.29全艦自沈)
機雷敷設艦
 Sixtus、Kvintus、Lossen(1943.8.29全艦自沈後、浮揚され、ドイツにて使用)
 Lindormen(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
掃海艇
 Soebjornen級6隻(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
漁業保護艦
 Hvidbjornen(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
 Ingolf(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、不明)
 Hejmdal(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
 Freja(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
小型哨戒艇P1級38隻、K1級18隻のうち、後者の9隻はスウェーデンに逃走。
(103:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大戦中イタリアは枢軸国だったわけですが、イタリアの首都ローマ内に居たバチカン・ローマ法王は

あの戦争に対してどのようなスタンスでいたのでしょうか?
主張的にはファシストに賛同していた。
バルバロッサ作戦開始時には、独逸に対し戦勝を祈願する談話を発表した。
(共産主義を嫌っていたから)
(104:271)

ドイツが行ったフランスやロシアへの侵攻はその前にちゃんと宣戦布告してからやったのでしょうか?

ソ連侵攻に関しては不意打ち。
対仏戦に関しては、フランスの方から先に宣戦布告がありました。
(104:211)

第二次世界大戦時のイタリア軍の動きを詳しく書いた本はありませんでしょうか。

私が知っているのはB.P.ボスケージの「第2次大戦 ムッソリーニの戦い」と
「イタリア敗戦記 二つのイタリアとレジスタンス」(共に新評論 )のみです。
あと「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」内のXMas師団の章。
特にシチリア撤退戦と、降伏後のゴシックライン攻防に興味があるのですが、
いろんな本を探してもドイツ軍の動きしか載っていないものが多くて…
文藝春秋社の木村裕主の一連の著作、「ムッソリーニの時代」、「ムッソリーニを逮捕せよ」、
「誰がムッソリーニ処刑したか」の三冊にも、イタリア軍の戦い振りが出ています。
訳書に関しては、余り出てませんので、どうしても原書しか有りません。

洋書(英文)で、空軍なら、Squadron社刊で、"Regina Aeronautica Vol.1/2"など比較的よく纏まっています。
パルチザン関係ですと、Isedi社刊の"La Causa Della Resistenza Italiana"あたりでしょうか。
ただ、この本はイタリア語且つ1977年の古い本なので…。
他も大抵は英語かイタリア語の原書ですね。
(105:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
シチリア撤退戦におけるイタリア軍のどのような動きを知りたいのかにもよりますが、
部隊の名称、作戦時期毎の配置などを簡単に把握したいのであれば、
歴史群像に載った「シチリア撤退作戦」を参照するとよろしいと思います。
個々の部隊の戦闘の詳細となると、シチリアではイタリア軍部隊はほとんど戦闘しておらず、
まともに英米軍と戦闘を行ったのはLIVORNOと、AOSTA、ASSIETTA師団の一部だけ
(加えてNAPOLI師団、第18、第206沿岸師団がほとんど戦闘せずに降伏)ですので、
それらの師団史関係をあたればよいと思います。
(105:94)
イタリア海軍であれば,月刊「世界の艦船」増刊「第2次大戦のイタリア軍艦」
(海人社)があります.
(105:消印所沢@FAQ保守員 ◆z3kTlzXTZk)

なぜ、ナチスドイツに対する「レジスタンス」は美談というのか、良かったかのように語られるのでしょうか?

「テロ」と、あまり差がないような気がしちゃうのですが・・・
そりゃあナチスが悪役ということになっているからでしょう。
(110:625)
歴史と言うのはそういうもので、語る側によって言い様は変わります。
後、正規戦と非正規戦の違いの意識が時代によって違うというのもポイントかと。
(110:628)

ムッソリーニが救出された後の独グライダーによって着陸した特殊部隊員はどうなったんでしょうか?

全滅したのか、降伏したのか、包囲を抜けて脱出したのでしょうか?
残りの空挺部隊は歩いて山を降りてった
(111:747)
別働隊がケーブルカーの駅を占領してて、降下隊員たちはそれに乗って帰りました。
(111:755)
※ロープウェイで麓の街へ下山し、予定どおり陸路でドイツ軍の支配地域まで引き揚げた

第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです。

戦車や軍用機といった軍需産業などはドイツ軍の軍備のどの程度を占めていたのでしょうか?
一口にどの程度と言われても、相当数としか答えられません。
それこそ、資料を丹念に追わないと…。

一例を挙げれば、イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています。
が、総数は帳簿外のものもありますので、そのうち何割を占めているかは分りません。
改造などで、帳簿に掲載されるものもありますが、部隊で捕獲して、
そのまま自軍の装備に組み込んでしまうということもありますから。

対独協力については、北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月~1945年5月までの間、
同地にあるFiatで生産設備をFullに活用すべく、あらゆる事を試みますが、180機の航空機が生産できたはずなのに、
実際には最初の数ヶ月は18機しか出来ず、1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります。
航空機用エンジンは、日産1,500台の能力がありながら、実際は300台(後には90台以下)しか生産されません。
トラックは、1945年1月~3月、日産平均10台でしたが、うち5台は、「何とも不思議な具合に」消えていたりします。

業を煮やしたドイツ軍は、その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが、
Fiatを始めとした北イタリアの工業は、ゼネストで対抗したりしています。

フランスの場合、1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ、通貨の移動を防ぐことになっていましたが、
この協定を楯に、ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした。
また、為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し、
この有利なレートの中で、ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します。
一例を挙げると、化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています。
こういった買収には、フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり、
フランスの各銀行は資本をこの時期に倍増させています。

自動車業界では、仏独経済関係代表団の後押しにより、ルノーの支配人ルイドゥーを中心として、
自動車産業を対独協力に向けさせ、ルノー、シトロエン、プジョーは各種軍用車輌の生産を、
ミシュランもタイヤ生産で協力し、各工場もドイツからの大量注文を受けています。
また、ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり、ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています。
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し、
仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に調印されています。
こうして、1942年には航空機の100%、自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%、
ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品になっていました。
但し、石炭、鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に対独協力には積極的になっていません。
後にはフランスの戦力温存のために、国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました。

敗戦後、こういった会社の内、ルノーは特に敵視され、国有化されました。
また、個人の追求も為され、ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています。

補足ですが、対独協力に関しては、手に入りやすい資料として、
 講談社選書メチエ
  芝健介「武装SS」、渡辺和行「ナチ占領下のフランス」
 講談社文庫
  木村裕主「ムッソリーニの処刑」、「ムッソリーニの時代」
などを参照されると良いと思いますよ。
大抵の場末の図書館にも有ると思いますし。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
オランダとかベルギーはどうなんですか。

ベルギーに関しては、ワロン地域のレックス党とフランデレン地域の
フランデレン国民同盟によって国論がリードされます。
特にフランデレン地方は、ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており、
民衆にそれなりに支持を得ていました。
しかし、ベルギーには大した産業が無かったので、
これと言って産業的には協力していた訳ではありません。
但し、前二党は積極的に対独協力を行ない、また、ベルギーの労働党党首でさえ、
ドイツの新秩序政策を支持して、ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています。

戦後、ベルギーでは、対独協力者として242名を死刑執行に処していますし、幽閉された国王の復位問題
(さっさと降伏した上、幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後の大きな問題となっています。

オランダについても同様ですが、こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく、
占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ、フォッカーは自国用の機材を完成させ、
ドイツに納品させられた上、Ar196、Bu181などを生産し、Ju88用スキーなどの部品も作られています。
また、アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています。

戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで、こちらは処刑人数は少なく、42名です。

ちなみに、フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人)、イタリアは裁判、
裁判抜きで実に10万人以上が処刑されています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦初期の、独軍による「黄色作戦」。

仏英連合軍側に、果たして勝機はあったのでしょうか?
思いっきりあった。
というか兵力差だけなら英仏連合軍が勝てない方が不思議。
当時の英仏軍の戦力なら、易々とベルリンを占領できたはず。

何故現実はそうならなかったのかは戦史を読むべし。
(115:839)

WWIIでのドイツ軍のバルカン侵攻作戦の名前が「マターリ作戦」だったというのは事実でしょうか?

バルカン方面の作戦は、バルカン半島の制圧を「マリタ作戦」
総仕上げとしてのクレタ島攻略を「メルクール作戦」と呼称していました。
すんませんが、スペリングと語の意味は失念してますので、
誰かフォローよろしく。
(115:790)
実際の作戦名は「マリタ(Marita)」です。
ギリシャおよびユーゴスラヴィアへの侵攻作戦として計画されました。
(115:792)
ユーゴ侵攻作戦=STRAFGERICHT
ギリシャ侵攻作戦=MARITA
クレタ侵攻作戦=MERKUR

どう読んだら「マターリ」と読めるのですか?
(115:793)

ニュルンベルクのA級戦犯の名簿と刑罰の日本語訳どこかにないでしょうか。

オンラインでは知りませんが、
ジョゼフ・パーシコの『ニュルンベルク軍事裁判』原書房や
毎日新聞社編『一億人の昭和史』シリーズ
「占領から講和へ」か「日本占領」のいずれかに入っていたかと
下は図書館か古書店を当たってみてください
(116:798)

第二次世界大戦のイタリア軍が、10万人で1000人に負けるという大敗を喫したそうなのですが、

誰かご存知ありませんか?
1000対10万は若干大げさですが、
1940年2月5日に、北アフリカのベダフォムというところで、
約3000名の英軍によって10万のイタリア軍が壊滅したという事実はあります。
このときイタリア軍には約100両の戦車以外に重火器を有さず、
対するイギリス軍は、約30両の戦車を巧みに利用してイタリア軍を待ち伏せし、
イタリア戦車隊を壊滅させました。そして唯一の重火器を失ったイタリア兵は、
イギリス軍に投降したのでした。
ちなみにこの時期の北アフリカ戦線にはイタリア軍20万とイギリス軍約4万がありましたが、
この20万は約3ヶ月の戦闘で全滅しています。
(116:921)
正確には、

1)1940年12月初旬の一連の「コンパス作戦」
在キレナイカ地方の約25万のうち、約8万人がエジプトに侵攻。
英軍は僅か2個師団を基幹とする兵力4万人で、反攻に出て、
シディバラニ付近で、これを包囲殲滅。

2)「コンパス作戦」後の追撃戦~ベダフォムの戦い
攻勢主力が殲滅され、英軍がリビアに侵入してきた事態に対し、
イタリア軍は未だに数的優位を持つにもかかわらず、
海岸道路沿いに敗走状態に陥る。
この敗走の最中、約4万人が戦死または降服。
(この間に英軍には1個師団が増援され、総兵力は6万程度になっている)

さらに、英軍は、一部戦力に内陸の砂漠を突っ切らせ、
キレナイカ-トリポリタニアの境界近くの小村ベダフォムにて、
海岸道路を封鎖。
ベダフォムにおいて、この封鎖を突破しようとしたイタリア軍と
英軍との間で起った戦闘は、ほぼ>>921の通りだが、
イタリア軍の投入兵力は残存の10万余丸々ではなく、
ベダフォムに辿り着けた数万人と言ったところ。

ともあれ、イタリア軍は封鎖の解除に失敗。
ベダフォム~ベンガジあたりで逃げ遅れた残りのイタリア軍は、
やはりそのほとんどが降服。
在キレナイカのイタリア軍は、ほぼ殲滅された。
(116:925)

イタリア軍がへっぽこだという話は良く聞きますが、具体的にどの辺りがへっぽこなのでしょう?

アドゥワの戦い

近代で西洋人がアフリカ原住民に負けた唯一の戦い。
(117:311)
第一次エチオピア戦争が近代で西洋(中略)唯一の”戦争”なのは確かだけど、
戦い(局地戦闘)レベルでいえば唯一じゃないだろ。

前者の意図で言ってるのかも知れんが。
(117:323)
ただイタリア軍の名誉のために言っておけば、
1941年12月アレクサンドリア港に潜入した人間魚雷部隊が仕掛けた爆弾により、
英戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントが大破着底している。
この任務を担当したXMAS戦隊はこの他にも爆装ボートによる体当たり攻撃で巡洋艦や貨物船を多数撃沈。
ジブラルタル近くで座礁した貨物船を秘密基地にして、そこから出撃した人間魚雷部隊が
14隻の船舶を撃沈するという、映画みたいな活躍もしている。
なおこのXMAS戦隊はイタリア降伏後も枢軸側につき、XMAS師団を編成して終戦まで戦い続けた。
そして終戦後、捕虜収容所に押しかけたパルチザンによって多数の隊員が殺害されるという悲劇も味わっている。
(以上「ラスト・オブ・カンプグルッペ」より)
なにかと評判の悪いアフリカ戦線でも、包囲され絶望的な状況になったとき、
ドイツ兵があっさりあきらめるのにイタリア兵は最後まで戦意旺盛だったという。
これなどはちょっと信じがたい話ではあるが。
イタリア軍は自分の戦いじゃないと思うとあっさり降伏するけど、
ロマンチシズムや自分の男意気を示す為には命をかけて戦うってかんじだろうか。
(117:324)
イタリア人は11人までは最強の民族であるというしなあ(w
ある意味、羨ましくもあり。
(117:325)
サッカーでのイタリアの守りの強さ、粘り強さを見ていると、あながち嘘とも思えなくなるんだよね。
やっぱり状況によると言うか、ほんとにほんとに自分たちの戦争と思わない限り、実力を発揮しない連中なんだろうね。
(117:326)
324
XMAS戦隊は志願制のエリート部隊。
(117:327)
イタリアは統一が遅かったせいで「国家のために戦う」というのが理解できなかったって話は聞いたことあるな。
(117:328)

二次大戦の欧州側が終戦した後に連合軍の捕虜となったドイツ兵100万人が、連合軍側の虐待などにより死亡したという説ですが

これに関して明確な証拠は存在しているのでしょうか?
米兵によるダッハウ収容所員の処刑(1945.4.29:329~500名殺害)
  → 米陸軍省法務局によって記録、写真ならびに映画撮影が行なわれている。
(参考文献)
  Howard A. Buechner "The Hour of the Avenger(1986)
  Nerin E. Gun "The Day of the Americans"(1966)

スウェーデンによるドイツ兵士のソ連への引渡(1945.12:2,522名)
 → スウェーデン軍将兵はこの移送命令を拒否、国家警察が輸送に当たる。
(参考文献)
 パウル・カレル「捕虜」

チェコに於けるドイツ兵の虐殺
 → ミレシャウに於けるチェコ人の残虐行為が記録に残る。
    1990年代、殺された将兵の集団墓穴が発見され、個人の写真が報道され、明らかとなる。

米仏による強制収容所の転用(1945.:200万人)。
 → 平均30ヶ月の抑留。釈放証明書の存在など。
    フランス軍占領地域では、連合軍将兵の暗殺に備え、人質の提供が求められていた。
(参考文献)
  ジェームス・バクー「消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道」(1993)
  Charles Lincoln "Auf Befehl der Militarregierung"(1965)など

デンマークのドイツ兵捕虜による地雷除去作業(1945.5~10:死者250名、重傷250名)
 → 英軍将校による命令により、リンデマン将軍の個人的責任で、地雷除去作業を命令。
(参考文献)
 Helge Hagemann "Under Tvang"(1998)

などなど
(118:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦直後のドイツがイタリア抜きで戦ったら、ソ連に勝てた?

仮定を重ねまくった予想になるので誰も正解なぞ答えられない。
ただバルバロッサは史実より早く始まるだろうから
ドイツがやや優位に展開したかもしれない。
(123:163)
日独伊の同盟ばかり有名だが現実はさらに沢山の同盟国
(あるいはドイツについて戦ったソ連邦内の民族とか)が数多く居るので、
相手が日本人と決めつけるのは短絡的。
仮にイタリアが参戦しなければ、逆に早々に連合国についてしまう
可能性もあり、イタリアには政変があろうと無かろうと、
大戦には不干渉で居続けてもらう必要がある。
むしろアメリカがアフリカ→イタリアの攻略に戦力を分散させないと、
ドイツの末期はもっと早くなった可能性もある。
(123:173)


ドイツはV2ロケットをイギリスの軍港に集中的に打ち込んで、艦船を撃沈しようとはしなかったんでしょうか?

V2にはそこまでの命中精度がない。

そりゃ一箇所に何十発も撃ち込めば1発くらいは当たったかもしれないが、
どう考えてもV2の無駄遣いだろう。
(459:580)

大戦直前の中東欧の軍備概況は?


 1937年版の児童百科事典の中から,東欧関係の記述引用.

1.ポーランド

(1)兵役制度
 ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に,西にはVersailles条約に不服,
 国境改訂を強調し,再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため,国を保つには一切を犠牲にして国防に努力せねばならず,3,000万の人口に対し,27万の常備軍を有し,その陸軍費は国家予算の半ば近くを占める.
 兵役制度は徴兵制度を採用し,壮丁年齢は20歳,予備役は40歳,後備役は50歳とし,兵役期間は一般兵 2年,騎兵,騎砲兵2年1ヶ月.

 (2)兵力と編制
 上述の通り,総兵力27万人で,このほか,準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万,警察隊は32,000,税関監視隊が約5,600ある.
 陸軍の編制は,軍団管区司令部が10,歩兵師団30個,3個旅団で編制された騎兵師団1個,独立騎兵旅団が12個,野砲兵連隊が30個,特殊砲兵連隊が20個,飛行旅団3個,飛行連隊6個,戦車連隊1個.

 (3)化学戦
 化学戦については,小規模ながら完備し,研究,教育,特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する.
 軍部の施設としては,陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり,その下に化学戦学校と,瓦斯教導学校がある.
 民間施設としては,航空化学戦防護協会があり,会員数40万,国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と,同自動車約数十両で,毎年瓦斯防護週間を設け,民衆教育の普及徹底に努めている.

2. オーストリア
 平和条約によって,その軍備を将校以下3万人に規制されていたが,その後密かに禁を破り,これを38,000に増加した.
 1935年,ドイツの再軍備宣言に刺激されて,従来の6個混成旅団を,7個師団,機械化師団1個と航空機300機に編制を変え,なおかつ,総兵力も7万人にすべく拡大中.

3. ハンガリー
 この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

4. ブルガリア
 この国も同様に平和条約による軍備制限国で,全兵力上限が2万である.

5. その他の諸国

 ルーマニア:総兵力17万人

 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人

 ギリシャ:総兵力6.5万人

 トルコ:総兵力14万人

 チェコスロヴァキア:総兵力17万人

 リトアニア:総兵力1,9000人

 ラトヴィア:総兵力25,000人

 エストニア:総兵力15,000人

チェンバレンの宥和政策はいろいろと批判が多いですが、アレは時間稼ぎでミュンヘン会談後イギリスは軍備を大拡張しているという話しを聞きました。これって真実ですか?

軍備の拡張ならば、海軍を除いて、陸軍と空軍は1934年から開始しています。
軍縮条約に束縛されていた海軍も1936年から拡張を開始しており、防空用RDFの
設置も1935年から開始されています。

そもそも、軍備の拡充などは一朝一夕に出来ませんので、それよりも早い時期に
準備を行わなければ成りませんから…。

また、操縦士の養成については、1936年から開始されています。
遅れたのは、陸軍兵士の動員だけです。
(345:眠い人 ◆gQikaJHtf2

ポーランド侵攻を口実としてドイツに宣戦布告したイギリス・フランスですが,半分占領したソ連にはなぜ布告しなかったのでしょう?また両国国内では,ソ連にも布告しようといった世論はなかったのでしょうか?


 フランスはソ連侵攻作戦を計画しています.当時の仏政府はガチガチの反共でしたから.
 しかし,その計画たるや,フランス中近東軍がカフカスへ侵攻し,モスクワを突き,北方から来たフィンランド軍と握手しようという,壮大を通り越して妄想に近いものでした.
 これを聞いた英国は,呆れてまともに相手にせず,計画は立ち消えになっております.

(世界史板)

 また,準備も不足していました.

 そもそも,英国,フランスとも,対独宣戦したのは,米国国務省外交文書集によると,
「もし,自国領土の防衛にポーランドが専念している最中に,英仏がポーランドを見捨てることがあるのなら,中東欧でドイツの侵略に抗する国はなくなる(当時はルーマニア,ユーゴ,ギリシャ,それにハンガリーは,連合国とドイツとの間で辛うじてバランスを取っていた).
 そして,ドイツはこれらの国々を組織した上で,英仏を攻撃する絶好のチャンスを与えられることになる」
と言う判断から行われたものです.

 しかしながら,両国とも具体的行動,すなわち軍備強化は上手くいかず,例えば,フランス派遣英国軍は1939年11月時点で,フランスに上陸していたのは8万人,フランスが持ちかけた英国空軍と共同でのドイツ本土爆撃も,空軍力劣勢とドイツの報復爆撃の懸念から具体的に至っていません.

 しかも,Chamberlainは,戦局の予想が付かず,内部崩壊,経済封鎖のジリ貧化に望みを繋いだりしています.
 国民はまだ長期戦に対する覚悟は定まっていない,と.
 そして,フランスはと言うと,これがより酷かった訳で.

 そう言うことで,戦争準備がとても整わず,ソ連の軍事行動に対する掣肘など,とてもじゃないけど出来かねる状況でした.
 ソ連の側も,疑心暗鬼で,英仏がドイツの矛先をソ連に向ける機会を窺いながら,馴れ合いでやっている戦争ではないか,と思っていたようです.

 しかし,冬戦争時点では反ソ,反共感情が国民の間に湧き上がり,英仏はフィンランド援助軍を派遣しようとしています.
 Churchillの旦那的には,ドイツの鋭鋒をスカンジナビアに向けることが主目的と言っていますが,フランスは,バクー油田空爆,カフカズ地方の回教徒を扇動して,反ソ暴動を起こさせ,ソヴィエト政権を転覆させる計画まで持っていました.
 幸い,と言うか,なんというか,冬戦争が早く片づいたので,対ソ宣戦は見送られた訳ですが.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


もしバトル・オブ・ブリテンに勝利したら,ドイツ軍は英本土上陸作戦をやる気でいたんですか?


 というか,バトルオブブリテン自体がイギリス上陸作戦実施のために,イギリスの航空戦力を削る(というか叩き潰す)ことが目的だった.
 本土上陸やる気じゃなかったら,そもそもあの戦いが発生していない.

 海軍戦力でイギリスにかなり劣るドイツは,航空優勢を完全に確保した上で,ドーバーの両出口を機雷で封鎖して,ドイツの上陸船団が安全に通れる「海の道」を作ることを考えていた.

 結局はバトル・オブ・ブリテンが長引き,その間に海が荒れるわ,東部戦線がおっぱじまるわで,作戦は延期と言う名の事実上中止へ.

(軍事板)

ソ連とドイツは独ソ戦前までは同盟国だったの?


 どっちも第1次世界大戦後の国際体制下では仲間はずれ扱いだったため,さびしんぼ同士の連帯をしていました.
 すなわち,ドイツとソ連は1922年にイタリアのラッパロで秘密軍事協定を結び,軍事技術の供与や訓練施設の提供などを相互に行っている.
 ベルサイユ体制で国内での軍事技術開発を厳しく制限されたドイツが,ソ連領内に提供された施設で,禁止されていた戦車や軍用機の試験や訓練を行い,見返りに,ソ連はドイツ軍から赤軍将校の訓練を受けている.
これは1933年にヒトラーが政権を執るまで続けられた.

(軍事板)

なんでイタリア軍はあんなに弱かったのですか?

ローマ崩壊以降、イタリア統一戦争まで、
イタリアは1400年近く都市国家乱立状態でした。
しかも、有力な都市は貿易主体で自活するだけの実力があったために、
都市間での戦争なども起きていたりして、
ぶっちゃけ「1861年までイタリアという国は存在しなかった」と言っても過言ではありません。
んで、統一からまだ100年も経っていない状態で、
「お前らはイタリアという国のために死ぬ気で戦え!」
なんて言われてもやる気がでるわけがありません。

まぁ、統一が遅かったのはドイツも日本も一緒ではあるんですが。
(近代化の遅れたこの三国が対外進出で遅れをとったために、
 それを取り返そうと世界に喧嘩を売るハメになったという見方もありますし)
イタリアの場合、あまりにもバラバラだった時期が長かったのと、
イタリア人の気質が相乗効果を現したのではないでしょうか。
(261:845)

WW2の時、ドイツ軍に占領されていた土地は治安が非常によくて連合国に奪い返されて逆に治安が悪くなったって話は本当ですか?

フランスなどの西欧の占領地ではドイツ軍は融和的な政策を取り、占領地住民とのトラブルは極力起こさないようにした。
レジスタンスの取り締まりはもちろん非常に厳しかったが。
一方の連合軍は解放者としてやって来たのだが、俺たちが助けてやったんだから多少の余禄はいいだろうという不心得者は当然出てきた。
そういうことで、フランスなどでは連合軍が来てからの方が性犯罪や略奪行為が増えたケースもある。
(489:492)

スイスが第二次大戦で連合・枢軸の領空侵犯した航空機を何十機も撃墜してるというのは事実?


(491:353)

ヒトラーはオーストリア生まれですがドイツ軍に入りました。欧州ではこのように他国の軍隊に志願できるんですか?

それとも、オーストリアがゲルマン人が非常に多い国だったから、当時は入れてくれたんですか?
19世紀前半以前の軍隊ならよくあることだった。
たとえば大モルトケの父親はデンマーク軍に勤務し、モルトケ自身も短期間デンマークの士官だった。
それ以前の18世紀の軍隊はアメリカ独立戦争における英軍のドイツ人部隊のように、外国人で編成された部隊すらあった。
フランス革命を契機として、19世紀後半になり国民国家という概念が確立するとともに(その国の国民で編成される)国民軍と成っていった。

ヒトラーの場合は
多民族国家であるオーストリア陸軍に入りたくなかったのでミュンヘンに移住。
度重なる出頭命令をシカトしてとうとう逮捕。
でもオーストリア軍の徴兵検査に不合格。
第一次大戦が始まったのでどうしても軍人として戦場に出たくて、バイエルン国王に「入れてください」と手紙を書く。
おkの返事をもらって(ドイツ帝国の一部である)バイエルン王国の連隊に入隊。
という裏技を使ってる。

この辺の経緯は「やる夫がフューラーになるようです」の1~2章あたりを読むのが手っ取り早いかも。
(511:77)

パルチザンって住民が自発的に組織したんじゃなくてソ連軍によってつくられたものなんですか?

そういうパルチザンも多かっただろうが、対ソ連パルチザンのようなものもあった。
ドイツの支援や自発的に起きたものもあり、一概にはいえない。
そもそもロシアで民族迫害していたのは元々ソビエトの側で、
戦線が膠着していくと、ドイツは兵員の需要を満たすためソ連に非協力的なロシア人やウクライナ人などの志願者を募った。
すると43年半ばには32万人前後が集まり、相当数が戦闘にも加わっている。
またドイツに寝返った主にソ連軍の将兵は、176個大隊38個中隊13万~15万人にも及んだ。

ただしそれらはヒトラーの人種政策と相容れず、
ドイツ自体が彼等の権利を保障せず(敗戦間際には泥縄で認めた)
スラブ民族の迫害などを推し進めたために「その程度」で、戦局を覆すほどにはならなかった。
ドイツ占領下のスモレンスクでは、ロシア民族主義政府の委員が100万人規模のロシア開放軍を創設を訴えたが
ヒトラーの人種主義政策のせいで蹴られている。
ドイツの政略次第ではソ連をパルチザンの渦に叩き込むことも不可能ではなかったはずで、
結局パルチザンがソ連よりドイツに不利に働いたようなイメージがあるのは自業自得。
(515:281)

WW2の頃のアフリカ(北アフリカやエチオピア)にはどのような価値があったのでしょうか?

北アフリカを制すれば、地中海の制海権を握れる。
エジプトを制すればスエズ運河を手にできるし、エチオピアを制すれば紅海の制海権を脅かせる。

結果、イギリスにとって重要な地域であるインド-オーストラリア&ニュージーランドからの
インド洋地中海ルートを断てるから、イギリスの戦争継続能力を弱めるには重要なポイントだった。

もっとも北アフリカ戦役はイタリアが自分の支配地域を確保しようと何も考えすに始めたところが大きいが。
(543:771)

戦時中のイタリアの歩兵師団の編成とか教えてください

手元にはイタリア軍入門がありますが大雑把な編成だけで、歩兵大隊の定数とか、その辺がよく分かりません
どこでメモったのか出所は忘れましたが、多少数字があったので挙げておきます。
 同じ1940年型標準歩兵師団なので、イタリア軍入門と異なる部分のみ。
(吉川本とは歩兵連隊以下の編制がぜんぜん異なる)

兵員定数:12979人
馬匹等:3424頭
車両:吉川記載のほか自転車153両と馬車154両。また軽戦車の記載はなく自動車131両。

師団司令部の自衛用に軽機関銃×4

歩兵連隊
  • 大隊×3
    • 中隊(軽機関銃×12)×3
    • 機関銃中隊(重機関銃×8、45mm迫撃砲×18)
  • 歩兵砲中隊(65mm歩兵砲×4)
  • 迫撃砲中隊(81mm迫撃砲×6)

黒シャツ連隊の機関銃中隊は重機関銃×12、45mm迫撃砲×18
黒シャツ大隊は一般中隊3個からなり、各軽機関銃×8

砲兵連隊の編制(馬匹編制)
  • 大隊×3(第1大隊は100mm榴弾砲、第2は75mm野砲、第3は75mm山砲)
    • 中隊(火砲×4、軽機関銃×2)×3
  • 対空砲中隊(20mm機関砲×8)

迫撃砲大隊は3個中隊からなる。各中隊は81mm迫撃砲×6

対戦車中隊は47mm対戦車砲×8を保有。

北アフリカ方面の準自動車化師団(自動車輸送師団autotrasportabile)の編制。
定数:10978人
準自動車化師団の歩兵連隊は2個。黒シャツ連隊は無し。
車両:自動車×398、L3軽戦車×46、牽引車×36、オートバイ×249、自転車×180

師団
  • 歩兵連隊(通常師団と同じ。ただし純然たる徒歩編制)
  • 自動車化砲兵連隊(榴弾砲大隊×1、野砲大隊×2、対空砲中隊×2ですべて自動車化)
  • 自動車化機関銃大隊
  • 予備大隊
  • オートバイ中隊(理論上のみ。実際に編成された例は無い)
  • 師団戦車隊(L3軽戦車×46)
  • 工兵大隊、対戦車中隊などは通常師団と同じ。ただし自動車化。
  • 師団輸送隊(輜重任務のほか歩兵連隊の輸送を担当。ただし全歩兵の同時乗車は不能)
(546:◆yoOjLET6cE )

ノルマンディーの防御には、新品の兵器というよりは、ありあわせの兵器を多用した・・・というのは本当?

大嘘。
機雷は、フランス北部の港湾各所に機雷源として設置されてます。
ノルマンディーの海岸にも設置され、上陸作戦開始前にイギリスの特殊部隊により
けいさくされ排除されてます。
また、中古兵器ばかりというのも大嘘。中古兵器もかき集められたというべきで
東部戦線の師団の休養地であったフランスにはかなりの新型兵器も集積されてます。
(590:472)

独ソ戦における双方の犠牲者数を教えて下さい

詳解独ソ戦全史によれば、赤軍の完全損失(戦死・病死・戦傷死・行方不明・捕虜)は
戦死 518万7190
戦傷死 110万327
病死 54万1920
行方不明・捕虜 445万5620
合計 1128万5057
負傷者 1520万5592
罹病者 304万7675 

ドイツ軍の永久損失(戦死・行方不明など)は
1945年4月30日までで、510万800(負傷603万5000)
終戦までの全軍の損失が1344万8000(負傷を含む)
この他に捕虜になったのが238万9600(うち拘留中死亡が46万600) (注)大木毅『独ソ戦』2019によれば戦闘員444万~531万、民間人150万~300万人が犠牲となったと推計されている。ただし、これは全戦域においてである。

ドイツ軍の数字には戦傷死・病死が含まれていない可能性がある
(ロシア周辺スレ14:185)

何故イタリアは両大戦ともに活躍できなかったんですか?

イタリアは統一国家になってからの歴史が浅く、一体化した「国民意識」という
ものがいまいち成就してなかったので、国家総動員の体制がうまく機能しなかった
から。

その為国民(=兵士)にも軍部にも
「何で指導者が個人の趣味と見栄で始めた戦争に一生懸命にならなきゃいけない?」
という意識が強く、戦争に本気になり切らなかった。

また政府が国民の強い支持を必ずしも受けていなかったので、勝っている時は政府を
支持していた国民は負け始めたら一斉に掌を翻した。

なので戦争を「熱狂的に始めてある日突然覚めて放り投げる」結果に。
(329:223)

ノルマンディーでドイツ側は航空偵察等で、上陸作戦が近いという事を察知できなかったんでしょうか?

上陸作戦時前には、イギリスに大規模な艦隊や多数の航空機、輸送船が終結していたはずですが、
航空偵察に限らずドイツ側は連合軍の上陸作戦準備を察知していた。

でもドイツ軍は連合軍の偽装作戦に引っかかり、
「連合軍の上陸地点はカレー(ノルマンディよりだいぶん北)である」
と判断していたので、察知していたにもかかわらず奇襲された。

察知されないよう、入念に撹乱工作を行っていたわけで・・・

映画「史上最大の作戦」を観るかパウル・カレルの「彼らは来た」を読むべし。
その辺の事情が細かく描いてあるから。

連合軍はどこぞから調達してきた遺体に軍装させて偽の作戦計画書を持たせ、
わざとフランスの海岸に漂着させる・・・なんてこともしていた。
(329:615-617)

独ソ戦において、ドイツは占領したウクライナ等の共和国に独立、あるいは自治権を認めて取り込んでおけば占領地に戦力を貼り付けておく必要がなくなり、ソ連との戦いを有利に進めれたんでしょうか?

つかマジレスするとかなり厳しい。
そもそもウクライナの全国民の2割近くはロシア人だし、
ウクライナ人も全員反ソ、と言う訳じゃない。
ティモシェンコやイェリョーメンコ、マリノフスキーやフルシチョフ等、
ウクライナ出身でソ連政権に重用された者も少なくない。
加えて正教の教義では、世俗の国家権力は神により認められた物とされ、
民衆はそれを受容する事が善とされる。

更に問題なのは、反ソ勢力が未統一で、へたすりゃ互いに反目し合ってる。
'17-'24の独立期ですら、スコロポドツキー、ペトリューラ、マフノの、
3者入り乱れての泥仕合が続いたし、
WW2にした所で、親独派ですら、ガリツィア地方住民と他地方住民部隊、
更にザポロージェ・コザックの部隊が分立し、
おまけにUPAは反ソと並べ反独まで標榜する始末…

ま、自国の外務省vs東方省の縄張り争いや、党大管区指導者間の対立すら、
スマートに解決できないナチに、ウクライナの反ソ勢力糾合は荷が重かろうがなw
(598:510)

自由フランス軍や自由ポーランド軍は米国あたりから借款とか出来なかったんですかね

ポーランドの場合もそうですが、大抵の中央銀行は、金融の中心地たるパリやロンドン、
それに場合によってニューヨークに金を移送しています。
その金塊を元手に決済を行っています。

また、植民地からの税収や寄付なども重要な収入源ですし、
オランダやベルギーのような場合でも、植民地の産品を連合国に売って利益を得ていました。

その他、ノルウェーでは商船隊を擁しており、連合国の一員として大西洋などでの船団輸送を
行って大きな利益を上げています。
ノルウェーの場合は、それで戦費を賄えたほどです。
たしか、マンハッタン計画で使ったウラン鉱石はベルギー領コンゴ産でしたね。
そうですね。
余談ながら、他の収入源として各国が行っていたのが、自国人保有のドル証券を
各国の財務当局に預託させ、当該国の政府が米国で処分することでドル資金を
調達することです。

また英国は、対米支払いの為に各国が英国に預託していた金準備を利用していました。
例えば、1941年3月にはベルギー政府が英国に対し、3億ドルの金を貸し付けていたり
します。
その利子収入でもかなりの金額になった訳です。
(599:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦中にジブラルタルではスペイン絡みでいろいろごだごだが合ったと聞きました。どなたか詳細を教えてください。

英国が不利になって、ドイツの勢いが日の出の勢いだった時、ドイツの求めに応じてGibraltar占領作戦を計画し、
実行しようとしますが、程なく戦況はドイツ不利となり、結果的にその計画は破棄され、スペインは中立を標榜する
ようになります。

また、イタリアによるGibraltar空爆の際、誘導目標を準備して、英国から抗議されていますし、ちょっと資料が出て
こないのであれですが、Gibraltar海峡周辺でのイタリアの小型潜水艦による通商破壊に際して、廃船となった船
を改造して、潜水艦基地にしたものからの出撃を黙認していたりしています。
(326:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

WW2のいわゆる「まやかし戦争」というのはどういう背景から起こったのでしょうか?

「折角作った要塞を使いたかった」「フランス軍の動員状況が良くなかった」 「国内の厭戦感情」
というのは聞いた事があるのですが
独仏国境の南側にはマジノ線と対峙する形でドイツのジークフリート線があった。
北側はベネルクス三国が中立国だったので、その領土を侵犯してまでドイツ国内に積極的に侵攻することができない。
開戦原因であるポーランドがすぐに占領されてしまったので、英仏側に積極的に攻勢をかける動機がなくなってしまった。
つまり、ジークフリート線での消耗を恐れたのですか?
連合軍はドイツ軍が第一次大戦のようにベルギーを通ってフランス北部に侵入するシュリーフェン計画型の侵攻を予想していた。
積極的な防衛体制をとるためにはベルギー領土に英仏連合軍が入ることが必要だが、自国を戦場にすることを望まなかったベルギーは中立厳守を理由にそれを拒否した。
よって連合軍側はドイツ軍がベルギーに侵入してから兵力を同国内に進出させるというプランを立てるしかなかった。
何故ポーランドがドイツと戦っていて、フランスとの国境に弱体な軍しかいなかったドイツにフランスが進攻しなかったの?
フランスが総動員をかけたのは開戦後で、戦力が整う前にポーランドが降伏してしまったから。
戦争には動員や物資の移動・集積といった入念な準備が必要で、今日戦争が始まったからといって今までの計画を変えて明日全力で敵国に攻め込むなんてことはできないんだよ。

フランス軍はポーランドの要請をうけて9月半ばにザール地方に侵攻してる。
本格的な侵攻ではなくポーランドから兵力を引き抜かせることが目的だったのだが、そのポーランドが崩壊してしまったのですぐに兵力を引き上げてる。
(616:852-876)

第二次世界大戦時のイタリア軍は弱い弱いといわれていますが、特殊作戦以外で陸軍が大勝利したことは一度もないのでしょうか?

とりあえず、Yugoslavia侵攻作戦では電撃侵攻で、同国北西部を占領していますし、
1941年8月11日にソ連軍と初めて戦闘を行った際には、前線を30km突破して3500名の
捕虜を得ていたり、その後も多数の捕虜を得ましたし、9月にはソ連軍3個師団を包囲
殲滅して13000名の捕虜、野砲70門を捕獲したり、「クリスマスの戦い」では、2日の攻防
で、ソ連側戦死2000名、捕獲兵器多数と12000名の捕虜を得るなど、これらは結構な
大勝利と言えるのではありますまいか。
(299:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ムッソリーニが吊るされている写真がありますが、他に六人が吊るされてます。

一人は愛人のクララなのはわかるのですが、残りは誰なんでしょう?
http://www.custermen.com/ItalyWW2/ILDUCE/Mussolini61.jpg
一緒に捕まったムッソリーニの側近
遺体が逆さ吊りにされたのは7名。
他にも数名が処刑されている。
(296:46)

第二次大戦直前にソ連が北欧のどっかの国と戦争した時、ソ連の近代的な部隊が騎兵隊を中心とした前近代的な部隊とやりあって負けたと言うのは、ホントの話ですか?

恐らく第二次大戦初頭にソ連がフィンランドに侵攻した
ソ連-フィンランド戦争(1939-40)が誤って伝わっているのではと思われます。

フィンランド軍の主力は歩兵、あるいはスキーを装備した歩兵といった部隊でしたが、
自動火器の普及率も高く、練度の高さ、地の利を活かしたゲリラ戦術などで応戦し、
ソ連側の慢心もあり侵攻したソ連軍に少なからぬ損害を与えました。

日本語ですと「雪中の奇跡」という本がこの戦争を扱っていますので、参考になると思います。
(52:957)
恐らく、ナチスドイツとソ連によるポーランド侵攻と、ソ連によるフィンランド侵攻”冬戦争”を混同していると思います。
ポーランド侵攻では戦車VS騎兵という構図は多々あったようです。
戦車に突撃をかける騎兵にドイツ兵が畏怖したとも伝えられていますが、戦果を伴うものではありませんでした。
冬戦争においてはスキーを装備したフィンランド兵が夜中にフィンランドの伝統的な刀を持って忍び寄り、
ソ連兵の首をかっさくような戦闘が行われていました。フィンランドは近代的な装備を持った軍隊ですが、
それら近代的装備と併せて伝統的なスキーや刀を使用した戦闘を行い、効果をあげたそうです。
(52:964)

第二次世界大戦後、フランス軍人が占領下のベルリンででかい顔をしていたというのは本当ですか?

フランスにはまるで一人で勝ったみたいな「シャルル・ド・ゴール戦勝記念日」があります。
(53:787)

クリスマスにはアントワープに一番乗りってセリフの元ネタはなんですか?

WW2 1944年12月16日より開始された独軍の作戦名称「ラインの守り」。
連合軍側の呼称「バルジ(突出部)の戦い」で、独軍兵士がユーモア混じりに語り合った言葉。

かつての人気ギャグ漫画「マカロニほうれん荘」のキャラクター、ひざかたとしぞう氏が
「はっはっはっ、クリスマスにはアントワープに一番乗りですよ」とセリフ中で述べたことから、
日本でも市民権を得た(?)。
(56:612)

第二次世界大戦当時の西ヨーロッパ諸国の対独協力について知りたいのです。

パンター戦車とか潜水艦とかフランスの工場でかなり生産されていたと読みました。
一例を挙げれば、イタリアは相当数の軍用車輌を独占領時に接収されています。
が、総数は帳簿外のものもありますので、そのうち何割を占めているかは分りません。
改造などで、帳簿に掲載されるものもありますが、部隊で捕獲して、そのまま自軍の装備に
組み込んでしまうということもありますから。

対独協力については、北イタリアのトリノを占領したドイツ軍は1943年9月~1945年5月までの間、同地にあるFiatで
生産設備をFullに活用すべく、あらゆる事を試みますが、180機の航空機が生産できたはずなのに、実際には最初
の数ヶ月は18機しか出来ず、1945年に至っては一切その機体は手に入らなくなります。
航空機用エンジンは、日産1,500台の能力がありながら、実際は300台(後には90台以下)しか生産されません。
トラックは、1945年1月~3月、日産平均10台でしたが、うち5台は、「何とも不思議な具合に」消えていたりします。

業を煮やしたドイツ軍は、その生産設備を全てドイツ領内に運ぼうとしますが、Fiatを始めとした北イタリアの工業は、
ゼネストで対抗したりしています。

フランスの場合、1940年11月の相殺協定の下で輸出入を均衡させ、通貨の移動を防ぐことになっていましたが、この
協定を楯に、ドイツは一方的入超でも代金を払いませんでした。
また、為替レートも1マルク=20フラン(戦前は1マルク=10フラン)というレートを設定し、この有利なレートの中で、
ドイツの各企業はフランス企業を次々買収します。
一例を挙げると、化学染料産業のキュールマン・トラストはI.G.ファルベンに支配されたりしています。
こういった買収には、フランスの銀行(クレディ・リヨネとか国立商工銀行とか)も深く関わり、フランスの各銀行は資本を
この時期に倍増させています。

自動車業界では、仏独経済関係代表団の後押しにより、ルノーの支配人ルイドゥーを中心として、自動車産業を対独協力
に向けさせ、ルノー、シトロエン、プジョーは各種軍用車輌の生産を、ミシュランもタイヤ生産で協力し、各工場もドイツからの
大量注文を受けています。
また、ボーキサイトは安値でドイツに売却されたり、ベルギーからの預かり資産である金を引き渡したりもしています。
1941年4月に工業生産大臣のピュシューはドイツ軍向け兵器類製造を約束し、仏独間での航空機製造計画が41年7月28日に
調印されています。
こうして、1942年には航空機の100%、自動車・建設・石灰・セメント・造船の75%、ゴム・塗料・化学・織物の60%は独向け製品に
なっていました。
但し、石炭、鉄鋼業界は元々が競争関係であった為に対独協力には積極的になっていません。
後にはフランスの戦力温存のために、国内全体で350万人が対独協力関係の工場に勤めていました。

敗戦後、こういった会社の内、ルノーは特に敵視され、国有化されました。
また、個人の追求も為され、ドボアチンはアルゼンチンに亡命したりしています。
オランダとかベルギーはどうなんですか。
武装SS師団があるぐらいだから、かなり協力していたと考えて良いですかね?
ベルギーに関しては、ワロン地域のレックス党とフランデレン地域のフランデレン
国民同盟によって国論がリードされます。
特にフランデレン地方は、ブルゴーニュ時代のネーデルラント17州復興を求めており、
民衆にそれなりに支持を得ていました。
しかし、ベルギーには大した産業が無かったので、これと言って産業的には協力していた
訳ではありません。
但し、前二党は積極的に対独協力を行ない、また、ベルギーの労働党党首でさえ、ドイツの
新秩序政策を支持して、ベルギー労働党を解散してベルギー社会党に衣替えしています。

戦後、ベルギーでは、対独協力者として242名を死刑執行に処していますし、幽閉された国王
の復位問題(さっさと降伏した上、幽閉中ヒトラーに面会に行ったなどが問題視された)が戦後
の大きな問題となっています。

オランダについても同様ですが、こちらはベルギーの様に独立した政府があったわけではなく、
占領下と言うことで否応なしに対独協力をさせられ、フォッカーは自国用の機材を完成させ、
ドイツに納品させられた上、Ar196、Bu181などを生産し、Ju88用スキーなどの部品も作られています。
また、アビオランダ社ではDo24Tが継続して生産されています。

戦時の占領下による強制的な対独協力と言うことで、こちらは処刑人数は少なく、42名です。

ちなみに、フランスは779名(他に裁判抜きの処刑数が約4万人)、イタリアは裁判、裁判抜きで実に10万人
以上が処刑されています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヴィシー・フランスやポルトガルって東部戦線に派兵しなかったんですか?

フランスではデアやドロンクルといった反共主義の対独協力者が独ソ戦開始後反共フランス義勇軍という部隊の結成を提唱した。
ただしヴィシー政府はこの動きに全く関与せず、ドイツ軍政部も反対していた。
しかし親衛隊が後押しをしたため、部隊は志願者を募って組織されることになった。
だが期待したほど人員が集まらない上志願者の質も低く、当初の条件であったフランスの軍服と兵器が支給されなかったため兵士の士気は低かった。
41年初冬に2個大隊が東部戦線に派遣されモスクワ前面で戦ったが大損害を蒙り、戦意に欠けるこの部隊をドイツ軍は戦闘能力なしとみなした。
42年2月この部隊は第638フランス歩兵連隊と改称され、もっぱら対パルチザン戦に投入された。
その後44年フランス人SS部隊である第7義勇突撃旅団と統合されて第33 SS武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」となり後に師団となった。
(128:387)
補足ですが。

まず、Franceのファシストである、デア、ドランクル、ドリオらに依って、1941年9月4日に、「反ボルシェヴィ
ズム・フランス義勇軍団」が正式発足し、ドイツ軍の軍服を纏ったドリオ自らが、前線に赴き、赤軍と戦闘
しています。
隊員は11,000人の応募に対し、6,500名が採用されましたが、ドイツ軍やHitler自体はこれをお荷物としか
思っておらず、ドイツ軍の軍服着用を禁じたり、徴募人数の制限(15,000名まで)。と言う制限を行っています。

隊員には、独身者で1,800フラン、妻帯者で2,400フランの月給が支払われ、これを基本給として、戦闘手当一日
20フラン、児童手当が350フラン支給されました。
三人の子持ち兵士なら、3,480フランとなり、これは、ドイツに行った労務者よりも高給でした。

この軍団は東部戦線へ5,800名送り込んでいますが、彼等はドイツ国防軍の一個歩兵連隊として扱われたに過ぎ
ません。
しかも、この軍団の指導層は過去にVichy政府に楯突いた人々だったので、尚更国の援助は与えられませんでした。

逆にVichy政権の要人であるラヴァル、ブノワ-メシャンらの肝いりで作ったのが、1942年7月に創設されたのが「フランス
三色旗軍団」です。
しかし、正規軍の復活に繋がるとして、ドイツはこれも潰します。

他にアフリカ戦線で、1942年11月21日に「アフリカ軍団」なる総勢400人程度の軍事組織を作ってみたりしてますが、結局
フランスの準軍事組織でモノになったのが、1943年1月に、フランス戦士団保安隊を核に誕生した、「民兵団」でラヴァルが
ダルナンを頭目に作った組織で、兵士の月給は3~4,000フランです。
これは、最盛期には10,000人の規模となり、南フランスの被占領地域で、43年秋から親衛隊の指導の下、Resistance弾圧
に投入されています。
(128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヴィシー政権下のフランス軍は何をしてたんでしょう?

ヴィシー政権下でも規模は縮小されたもののフランス軍は存続し、非占領地域や植民地の警備などを行っていた。
特にフランス海軍はほとんど無傷の状態で残っていた。
1940年7月にはアルジェリアにいたフランス艦隊を英海軍が攻撃するメル・エル・ケビル事件が起き、1000人以上の死者が出た。
このことによりフランス軍の反英感情は強まり、まだ無名だったド・ゴールの自由フランス軍への志願者が激減している。
その後も失敗に終わった英・自由フランス連合軍によるダカール上陸作戦や英軍のフランス領シリアへの侵攻など、
いくつか英仏間で戦闘が起きている。
また、これと並行してド・ゴールの働きかけにより、海外領土に駐留していたいくつかのヴィシー政府軍は
自由フランス側についている。
1942年、米英ス軍によるアルジェリアとモロッコへの上陸(トーチ作戦)が開始され、短期間の戦闘の後
北アフリカのフランス軍は停戦に応じた。
この後、ドイツはフランス本土の陸軍を解体させ、さらにトゥーロンのフランス艦隊主力が自沈したこと
によりヴィシー政府軍は事実上消滅した。
(186:868)

ウスタシュの詳細をどなたかご教示ください。親ドイツ組織ぐらいしかしりません。

クロアチア人アンテ・パヴァリッチが組織した民兵組織。
ウスタシャが支持を拡大するのは1939年。
この年、クロアチア農民党はユーゴ政府との交渉の結果、クロアチア自治州の創設に成功しました。
この自治州は今のクロアチアよりも更に少し大きく、当時のユーゴ人口の1/3を占めていたのですが、
当然、全クロアチア人を含んだものではありませんでした。
クロアチア人の間からは、自治州の領域は狭いという主張がなされ、これが農民党への幻滅・ウスタシャへの支持につながったようです。

無抵抗のセルビア人の首を斧でチョン切ったりやりたい放題。
ウスタシ(クロアチア語で 反逆者 という意味)

パヴェリッチはドイツによるバルカン制圧後作られた傀儡国家「クロアチア独立国」の指導者となった。
そして国内のセルビア人やユダヤ人に対する弾圧を始め、大量虐殺を行った。
この迫害にはカトリックの聖職者も多く参加しており、映像の世紀にそれに関するエピソードが出てくる。
部下から贈られた籠一杯の牡蠣の剥き身、実はセルビア人の目玉なんていうゲロゲロなエピソードがある。
戦後チトーにクロアチアを追われたパヴェリッチはオーストリアとイタリア(法王庁ルート)を経由してアルゼンチンに逃れた。
アルゼンチンではウスタシャを再興し、その傍らペロンの保安顧問を務めた。
しかし1957年にチトーの送り込んだ暗殺チームにより重傷を負い、スペインに移住した。
そしてその怪我が元で1959年に死亡している。
(130:364-380)

WW2中の欧州でドイツ軍は「ヴェアマハト」ソ連軍は「レッドアーミー」と呼ばれてたみたいですが、イタリア軍に固有の名称はあったんでしょうか?

イタリア軍の場合は、頭に"Regia"が付きます。

陸軍は確かRegio Esercito
空軍の場合はRegia Aeronautica、
海軍の場合は、Regia Marinaだったか、と。

いずれも王立~軍の意です。
(132:36)

大戦終了後、ヨーロッパで埋められたままの地雷は誰が処分したのでしょうか?

Denmarkと北海沿岸諸国の場合、大戦中に埋設された150~200万発の対人、対戦車地雷の
除去を、英国軍の指令によって、各国の黙認の下、武装解除されたドイツ軍によって除去作業
が行われました。

Denmarkでは、1945年5月10日から10月1日に掛けて、Denmark軍将校と憲兵の監視下で、
地雷に関する教育も行われず、性能の悪い地雷探知機しか与えられない状況で、徒歩で地雷
原に送り出され、誤って地雷に触れた者は、爆死か重傷を負っています。
1945年11月1日の報告書では、死者250名、重傷250名に上っています。

Franceでは、全土で1,000万発の地雷除去を、ドイツ兵捕虜を使役して行いました。
従事した捕虜は4万人で、これに鉄棒と短剣を与えただけで、除去をやらせました。
死亡事故は当初2,000件、死亡率40%でしたが、暫くすると4%に低下しています。
(254:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

イタリア軍ですが、スペイン内戦では、かなりの死者を出しているようです。

後のWW2では捕虜が多いのに死者は少ない気がするのですが、この違いはどういった原因からなのでしょうか?
Guadalajaraでの敗戦が響いています。

イタリア陸軍の中の人には、人民戦線軍は烏合の衆であって、正規軍を派遣すれば、鎧袖一触で
片付くと言う思いがあり、敵を侮っており、一旦その弱い敵に崩されると総崩れとなるケースが多かっ
たみたいです。

それと、イタリアは4個師団を派遣していますが、内実、正規の師団はリットリオ師団のみで、残りの
黒シャツ、黒い矢、黒い焔の各師団は、民間の武装集団であるFascist戦闘団またはFascist市民軍
から参加したほぼ素人の青年たちと陸軍兵士を組み合わせて作ったものでしたから、装備は勝って
いても、戦闘能力に疑問符が付く部隊です。

後、第二次大戦とスペイン戦争では、国としての参加の構えが違います。
未だ、スペイン戦争では、Duceの威光が残っており、国民としても他国へのFascism拡大という明確な
目的を有していましたが、そのスペイン戦争で、14兆リラもの軍費を使い果たしてしまい、第二次大戦は
イタリア国民にとって、もう勘弁と言う状況でしたから、士気も低かった訳で。
(248:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦の前なぜユダヤ人嫌われてたんですか?

金融牛耳ってたから?
イエスをぬっ殺した事をキリスト教徒達はおよそ2000年に渡ってキッチリと覚えていた。
だからユダヤの連中を徹底的にハブにするだけでは足りず、本当に嫌っていた。

キリスト教徒は表向き金貸しをすることを禁止されていたため、
ユダヤ教徒が金融業をやるようになり、それで妬まれてさらに嫌われました。

同じように酒屋や宿屋を営んでいるユダヤ人が多かったですが、どちらも風俗の乱れの元凶と見なされていたので、
さらに嫌われました。

ちなみにユダヤ人がキリスト教徒と同じような職業につこうとしても基本的に無理です。

キリスト教徒に改宗したユダヤ人は、「マラーノ」などの改宗ユダヤ人をあらわす単語で呼ばれ、やっぱり迫害されました。
キリスト教徒に受け入れてもらうために過剰に熱心なキリスト教徒になり、過酷なユダヤ人・改宗ユダヤ人への迫害を行った
改宗ユダヤ人も多いです。

余談ですがイスラム教徒はキリスト教徒に比べ遥かにユダヤ人に寛容でした。
時々「イスラエルに味方する十字軍」なんていってるイスラム過激派がいますが、十字軍士がユダヤ人の腹を裂いて
大喜びしてたことを考えると…
(162:495-520)

独のポーランド侵攻に対し、援助条約を結んでいた英仏が対独宣戦布告した訳ですが、ポーランド東部に侵攻をかけてきたソ連に対し、宣戦布告しなかったのは何故でしょうか

そもそも、英国、フランスとも、対独宣戦したのは、米国国務省外交文書集によると、
 「もし、自国領土の防衛にポーランドが専念している最中に、英仏がポーランドを見捨てることがあるのなら、
  中東欧でドイツの侵略に抗する国はなくなる(当時はルーマニア、ユーゴ、ギリシャ、それにハンガリーは
  連合国とドイツとの間で辛うじてバランスを取っていた)。
  そして、ドイツはこれらの国々を組織した上で、英仏を攻撃する絶好のチャンスを与えられることになる」
と言う判断から行われたものです。
しかしながら、両国とも具体的行動、すなわち軍備強化は上手くいかず、例えば、フランス派遣英国軍は1939年
11月時点で、フランスに上陸していたのは8万人、フランスが持ちかけた英国空軍と共同でのドイツ本土爆撃も、
空軍力劣勢とドイツの報復爆撃の懸念から具体的に至っていません。

しかも、Chamberlainは、戦局の予想が付かず、内部崩壊、経済封鎖のジリ貧化に望みを繋いだりしています。
国民はまだ長期戦に対する覚悟は定まっていない、と。
そして、フランスはと言うと、これがより酷かった訳で。

そう言うことで、戦争準備がとても整わず、ソ連の軍事行動に対する掣肘などとてもじゃないけど出来かねる
状況でした。
ソ連の側も、疑心暗鬼で、英仏がドイツの矛先をソ連に向ける機会を窺いながら、馴れ合いでやっている戦争
ではないか、と思っていたようです。

しかし、冬戦争時点では反ソ、反共感情が国民の間に湧き上がり、英仏はフィンランド援助軍を派遣しようとして
います。
Churchillの旦那的には、ドイツの鋭鋒をスカンジナビアに向けることが主目的と言っていますが、フランスは、
バクー油田空爆、カフカズ地方の回教徒を扇動して、反ソ暴動を起こさせ、ソヴィエト政権を転覆させる計画まで
持っていました。
幸い、と言うか、なんというか、冬戦争が早く片づいたので、対ソ宣戦は見送られた訳ですが。
(164:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツ軍占領下のフランスではレジスタンス活動をやってたわけですが、彼らはドイツ軍だけでなく体制側のフランス人も攻撃していたのでしょうか?

例えば、レジスタンスに死刑を宣告した判事とか、対独協力に積極的だったユダヤ人が
暗殺されたりしました。
あと、解放前には、ダルラン将軍とかアンリオ情報大臣が暗殺されています。

解放前後の混乱では、正規の裁判を経ずに約10,000人が略式処刑されています。
これらは、当時の言葉で「暴力的決着」と称されました。

この中には、ToulouseのGestapo司令官愛人とかが含まれます。
その後、自由フランス軍将校とか共産党系の自称将校によって、軍法会議が設置され
ました。
この軍法会議は1944年9月23日まで機能しますが、これで結構な数の人が銃殺されて
います。

ちなみに、以後は対独協力特別裁判所で審理された訳ですが、この裁判所で審理された
事件は12万4,000件でした。
このうち、死刑を宣告された人は4%の6,763名、実際に刑が執行されたのは、767名でした。

これら裁判の対象者は、ファシスト知識人、宣伝扇動家で、専門家、実業家、官僚の殆どは
無傷で生き延び、外交官は3分の2がそのまま現職に就いています。
また知事は半数が入れ替わっただけでした。
これは、フランス再建のために、彼らが必要とされたからで、その代わりにscapegoatにされた
のが知識人たちで、共産党系の作家が牛耳る全国作家委員会が、戦後の一時期まで、対独
占領下で本を出版した作家たちの本を悉く出版禁止にしたりしています。
(167:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツのV-1、V-2について連合軍は事前にその性能をどこまで把握していたのでしょうか?

ドイツのミサイル開発に関する情報が連合軍に入ってくるようになったのは
1942年の半ばに入ってからです。
"オスロ・レポート"と呼ばれる諜報機関からの情報でドイツがロケット開発に着手している
兆候は掴んでいました。
確実な情報を得だしたのは1943年に入ってからで、3月にはデンマークやポーランドの
レジスタンスから詳細な情報が入り始めました。
そこで連合軍では、4月に当時35歳で軍需政務次官だったのダンカン・サンディース下院議員を
暗号名"ボディ・ライン"と呼ばれたミサイル調査活動の責任者に任命しました。
サンディースの依頼によりRAFはペーネミュンデ周辺の偵察活動を続け、6月末には
ミサイル発射の確実な兆候を掴んだため、8月にはペーネミュンデに対する大爆撃を敢行し、
ペーネミュンデはかなりの被害を被っています。

性能に関する情報はレジスタンスからの発射試験のモニター情報などで明らかになったものの、
ミサイルの誘導方法に関する情報がつかめず、当初は無線誘導方式であると推定していました。

1944年5月にはワルシャワ近郊でレジスタンスが、6月にはスウェーデンで同国軍が
それぞれA-4(V-2)の残骸を回収しています。
これらの残骸は7月には連合軍の入手するところとなり、それでようやく
A-4の誘導が慣性誘導システムによって行われていることを把握しました。
(216:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか?

16世紀以来、ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました。

1943年9月8日以降、ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ、この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました。
トリエステのサン・サッパにある、1913年建設の精米工場には、当時、ドイツ軍が政治犯収容所、ユダヤ人を別の収容所に移送する中継
収容所として使用されてきましたが、戦争末期には、掃討した住民、労働者、ユダヤ人のうち、“健康”で「運搬できる者」は、
別の収容所に移送し、拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として
使用されています。

ちなみに、その収容所で生じた灰は、アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです。
そう言う意味では、イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね。
(211:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「ライフ イズ ビューティフル」のパンフから転載

Production Note

1938年当時、イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人。そのうちの約8千人がナチス
の強制収容所に送られ、生還者は数百人にすぎなかった。こうした事実を、ロベルト・ベ
ニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ、さらにいくつかの生存者グループにも意
見を聞いた。企画の当初から、紅ーには、この映画を「歴史的な記録ではなく、寓話の文
体描く」ことを意図していたが、いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連
絡をとりあい、歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった。

越後道起

ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで、ポーランド人自身
がそれに手を貸したし、ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だ
った。しかしこの映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域ではユダヤ人は
比較的人道的に扱われた。クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も、リッペン
トロップ元帥がムッソリーニに強要して、仕方なく実行された。フランスやユーゴのナチス
占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった。とはいえ、この映画にも
描かれるように、ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊)
やグイドの叔父のようなイタリア人も多々いたのである。

史実を参考にしたフィクションといったところかな。
(211:649)

WW2ブルガリア海軍について教えて下さい。

1919年7月27日に締結されたヌイイー条約の結果、枢軸国から得た有力艦はスクラップ
または連合国に引き渡され、4隻の魚雷艇を主力とする警察部隊として海軍は存続しました。
1938年の再軍備宣言に至るまで、忍んだ訳です。
1937年にドイツと軍事援助条約を結び、3000万マルクの援助を貰い、ドイツの軍事物資の
購入に充てました。
第二次大戦では、1941年3月に枢軸に加盟し、ドイツの軍事援助を更に貰い、なけなしの
商船はドイツ軍の輸送に活動しました。
1944年9月8日にソ連軍が国境線を越えたとき、休戦に同意し、矛を逆しまにしてドイツ軍に
襲いかかりました。
海軍も例外ではなく、ソ連軍の指揮下で、Danube河戦隊と黒海艦隊に属して、活動しています。

このうち、前述のDrski級魚雷艇のうち、Smelyは、1943年5月19日に撃沈されました。
このほかの戦闘艦艇は1921年にFranceを通じて米国から購入した、SC級駆潜艇2隻があるだけです。

1930年代に新たに加わったのは、大戦直前の1939年に、Bulgaria海軍にリュールセン社製の
S2級魚雷艇が4隻引き渡されています。
これは、ドイツのSボートと同型で、5隻が建造され、うちS2~S5の4隻が、F1~F4と言う艇名で
使用されました。
このほかに、同型艇をBulgaria国内で建造する予定でしたが、大戦勃発による部品入手難で
果たせませんでした。
これも不活発で、1944年9月にソ連軍に引き渡され、ソ連軍はTKA958~961を改名して使っていました。
戦争終盤の1945年4月2日にソ連から返還されています。

もう一つ、その建造できなかった魚雷艇の代わりに、30t級のBritish Power Boat製魚雷艇に似た
デザインの魚雷艇をドイツから1942年に引き渡されています。
これは、オランダで建造中のものを捕獲し、1941年に完成させたもので、ドイツではS201~S202と
して在籍していたのを、1隻追加してBulgariaに供与したもので、同型艇4隻がRomaniaに渡りました。
この艇の搭載エンジンには、英国デザインらしく、英国製のR.R.Marlinが3基使われています。
このエンジンは、大戦初期に欧州で撃ち落されたRAFの機体から取り外したものがそのまま、
載せられたそうです。
艇名は1号~3号で、これもソ連に供出されてTKA962~964となり、1945年4月2日に返還されました。

これらの艇はいずれも、共産化後の1947年に、除籍されています。

このほかの小艦艇も同じ運命を辿っています。
但し、曳船のVoievodaは、1945年に当時は友邦だったYugoslaviaに供与されています。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

アルバニアやモンテネグロは連合国に宣戦布告した事があるのですか?

AlbaniaとMontenegroは、基本的にItalyと同君連合を構成しています。
従って、Italyが宣戦布告をすると自動的に戦闘に巻き込まれる訳です。
厳密に言えば、それらの国の指導者は、Italy国王たるVittorio EmanueleIIIと
言えます(奥方は、Njegos家(Montenegro国王家)のHeleneですので、
Montenegroについては彼に正当な継承事由がある訳です)。

例えば、ItalyがGreeceを攻撃した出撃基地はAlbaniaだったりします。
まぁ、満州を想定してみて下さい。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

バルト三国の海軍はどんな状況だったのでしょう?

空軍については、最近出たソ連軍用機(光人社NF文庫)にちょこっと書かれています。

エストニアは、旧ロシア帝国の駆逐艦を引き継いで使ってましたが、これを 1933年にPeruに
売却しています。
艦名はLennuk、Wambolaでいずれも1917年竣工のものでした。
他に旧ロシア砲艦のLembit(先代:1925年退役)、Laine(1941.7.24撃沈)、Wanemine(1941年自沈)。
国産砲艦としては、1939年に建造されたPikkeriがあり、これは大統領ヨットを兼ねていました。
この艦は、1940年にソ連に引き渡された後、通報艦となり、雑用艦になった後、1955年にモスクワ大学の
調査船に改造され、黒海で1960年代末に至るまで使われました。

また、旧ロシア艦では、機雷敷設艦Ristna(大戦を生き抜き、1960年退役)、Suurop(1941年8月撃沈)がありました。

このほか、自国海域で沈没していたドイツの魚雷艇A32を引揚げ、Sulevとして再就役させています。
この艦は、ソ連編入後、NKVDの哨戒艇となり、輸送艇、練習艇となって1955年にScrapとなりました。

駆逐艦は売却しましたが、その代金でヴィッカースに潜水艦を発注しています。
Kalevは1941年11月に触雷、沈没しましたが、もう一隻のLembitはソ連時代を生き抜き、1956年から
海軍工廠の試験用潜水艦となり、1979年にTallinnで記念艦になっています。

小型艦艇としては、200t以下の砲艇が6隻、内海掃海艇3隻、哨戒艇8隻、砕氷船3隻、輸送艦2隻と
タグボート4隻があります。

ラトヴィアは元ドイツの掃海艇M68を手に入れ、Virsaitisと改名して哨戒艇として使用しています。
また、有力艦としてフランス製潜水艦が二隻1926年に建造されました。
艦名はRonis、Spidolaと言い、ソ連に引き渡された後は、Liepajaで、ドイツ軍の手に落ちないよう、
1941年6月24日に自沈しました。

後の有力艦は、1926年竣工のフランス製掃海艇、Imanta、Viestursくらいです。
Viestursは大戦を生き延び、1950年代末に除籍されますが、Imantaは1941年7月1日に触雷、沈没
しています。
このほか、沿岸哨戒艇Ergis、小型哨戒艇3隻、砕氷船3隻、測量艇1隻と、練習艦が1隻有りました。

リトアニアは海軍に金がかかっておらず、旧ドイツ掃海艇M59を1931年に購入し、哨戒艇Presidentas Smetonaとして
改装、使用しました。
こいつも、ソ連引渡後 NKVDの哨戒艇に転用され、1944年に撃沈されています。

このほかの艦艇は、小型哨戒艇6隻、砕氷タグ1隻だけです。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

マジャール軍はロシア方面で問題を起こしていたようですが。

ブリヤンスクの森の南方地域ですね。
ここは1941年11月~43年5月まで、マジャール陸軍の三個師団が占領下に置いており、若干のドイツ軍部隊が
協力していました。
しかし、不十分な武装と不足した人員では、占領地を維持することが出来ず、Partisanの活動を抑え切れない
と判断したマジャール軍は大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し、1942年夏までに約3万人のPartisanと、
その疑いのある者を殺害しています。

ちなみに、Partisanの損害とマジャール軍損害の比率は、10:1から15:1だったようです。
これは戦後に多数のマジャール軍兵士の訴追、死刑に繋がってきますが、その責任者、ボガニ・カロリ将軍は、
その責任を免れ、ソ連もその引渡要求を断念しています。

また、1943年にはUkraineのドロシチで、ユダヤ人労役従事者用の病院や、第105、107病院に放火し、入院患者
の焼死なんて事もしているようです。

一方、逆にマジャール国内に戦闘が移ると、逆にルーマニアや、ユーゴ、ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

枢軸国の敗戦が濃厚になってルーマニアは連合国に寝返りましたが、ハンガリーが寝返りに失敗した理由は何故でしょうか?

ルーマニアではクーデターの起きた1944年8月には赤軍のヤッシー=キシニョフ攻勢で枢軸側の戦線が崩壊し、
南ウクライナ軍集団は残存兵力が後退するのが精一杯で阻止どころじゃなかった。
ハンガリーの場合は同年10月には南方軍集団(旧南ウクライナ軍集団)はデブレツェンの戦いで
赤軍のハンガリーへの侵攻阻止に成功し、戦線はなんとか安定していた。
また、ホルティ摂政を排除しても矢十字党のサーラシ・フェレンツという新たな傀儡候補がいた。

あとルーマニアの場合は国家元首のミハイ国王が実質的な指導者だったアントネスクを解任したので
ルーマニア軍がすみやかにソ連側に寝返ったというのもあるな。
ハンガリーの場合は最高権力者だったホルティの和平の動きが早々にバレてたから、ドイツは迅速に
動いてハンガリーが混乱する前に首をすげ替えることができた。
(723:438-439)

大戦前の東欧諸国の軍事力を教えて下さい。

1937年版の児童百科事典というのを手に入れますた。

この中から、東欧関係の記述引用。

1.ポーランド
 (1)兵役制度
  ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に、西にはVersailles条約に不服、
  国境改訂を強調し、再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため、国を保つには一切を犠牲にして国防
  に努力せねばならず、3,000万の人口に対し、27万の常備軍を有し、その陸軍費は国家予算の半ば近くを
  占める。
  兵役制度は徴兵制度を採用し、壮丁年齢は20歳、予備役は40歳、後備役は50歳とし、兵役期間は一般兵
  2年、騎兵、騎砲兵2年1ヶ月。
 (2)兵力と編制
  上述の通り、総兵力27万人で、このほか、準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万、警察隊
  は32,000、税関監視隊が約5,600ある。
  陸軍の編制は、軍団管区司令部が10、歩兵師団30個、3個旅団で編制された騎兵師団1個、独立騎兵旅団が
  12個、野砲兵連隊が30個、特殊砲兵連隊が20個、飛行旅団3個、飛行連隊6個、戦車連隊1個。
 (3)化学戦
  化学戦については、小規模ながら完備し、研究、教育、特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する。
  軍部の施設としては、陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり、その下に化学戦学校と、瓦斯
  教導学校がある。
  民間施設としては、航空化学戦防護協会があり、会員数40万、国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と、
  同自動車約数十両で、毎年瓦斯防護週間を設け、民衆教育の普及徹底に努めている。

2. オーストリア
 平和条約によって、その軍備を将校以下3万人に規制されていたが、その後密かに禁を破り、これを38,000に増加した。
 1935年、ドイツの再軍備宣言に刺激されて、従来の6個混成旅団を、7個師団、機械化師団1個と航空機300機に編制を変え、
 なおかつ、総兵力も7万人にすべく拡大中。
3. ハンガリー
 この国も、平和条約によって軍備の制限を受けているが、7個混成旅団、2個騎兵旅団を有し、総兵力は約35,000である。
4. ブルガリア
 この国も同様に平和条約による軍備制限国で、全兵力上限が2万である。
5. その他の諸国
 ルーマニア:総兵力17万人
 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人
 ギリシャ:総兵力6.5万人
 トルコ:総兵力14万人
 チェコスロヴァキア:総兵力17万人
 リトアニア:総兵力1,9000人
 ラトヴィア:総兵力25,000人
 エストニア:総兵力15,000人
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

枢軸側で戦った東欧諸国の装備について教えて下さい。

ブルガリア、ルーマニア、マジャール、スロヴァキア、クロアチア、アルバニアの各国。
上まぁ、このうち、アルバニアは、イタリア王国に併合されたのに等しいので、書くことはないわけですが…。

でもって、スロヴァキア、クロアチアは、分離前の国、即ち前者はチェコ、後者はユーゴスラヴィアの軍備
の一部を引き継いでいます。

スロヴァキアの場合は、解体時にスロヴァキア国内にあった、第3機械化師団の装備をそのまま接収し、
LT Vz.35軽戦車を50両と、OA vz.30装甲車を20両程度を中核に発足しています。
LT Vz.38軽戦車は、チェコ軍向けのもの10両を順次引き渡され、更に27両をCKD社に新規発注し、ラトビア
向けでその国の消滅に伴い、引き渡されなかったLT Vz.40軽戦車を21両買い上げました。
1943年までにこれらの装備は順次、ドイツから供給された中古のLT Vz.38を37両と、OA vz.30の後継として
II号戦車(A~Cの初期型の中古)、主力戦車として、III号戦車、自走砲としてマーダーIIIHが発注されますが、
1944年に起きたスロヴァキアの叛乱で軍隊は解体されました。
ちなみに、対戦車砲としては、シュコダの37mm砲が装備されています。

マジャールの場合は、最初はオーストリアの影響、次いでイタリアの影響が強く、小銃などの主要装備は
オーストリアから導入しています(周辺諸国と折り合いが悪くてチェコなどの装備が買えなかった)。
周辺諸国と折り合いが悪いので、その装備は出来るだけ国産化する方針が立てられ、マンフレート・ヴァイス
と言う日本の三菱重工みたいな一種の国策会社で生産が行われてます。
戦車については、まず、1935年にイタリアのL3軽戦車を導入して35Mとして国産化、これは150両が導入され
ました。
主力戦車となったのは、スウェーデンが開発したランズベルク社のL-60軽戦車を、38Mとして輸入品のA20が
80両、国産品のB20が110両引き渡されました。
これは、独ソ戦の結果80両に対して火力増強が行われています。
また、対空戦車型が開発されました。

その後、新型主力戦車としてチェコのシュコダが開発したT-21中戦車を元に、40M/41Mが開発され、40mm
ボフォース対戦車砲を備えた型が280両、75mm榴弾砲搭載の火力支援型が140両、このほか、長砲身75mm
砲を備えた型がありましたが試作に終わりました。
41Mについては、この車台を元に突撃砲型が開発され、70両程度が生産されました。

装甲車としては、英国のアルヴィス装甲車の発展型を導入し(設計者がマジャール人だったので)、100両程度
を生産しています。

このほか、損耗補充用にドイツから38(t)戦車、4号戦車などが導入されています。
(第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

フランスがドイツに一ヶ月で屈服(しかもドイツは英蘭との同時作戦)した理由は何だったのでしょうか。

政治的な側面から見ると、我が国でもあった「バスに乗り遅れるな」という勢力と、
「戦いなんて御免だね。またうちの前が戦場になる」という勢力が大勢を占めて
いたから。

国外で戦う分にはどうぞご自由に何だが、国内に戦火が及ぶと、さっさと逃げ出
した人が多かった。

厭戦の世論と極右勢力の存在、しかも、国有化を進めて私有企業を否定しようと
した人民戦線を選出した事による経済混乱で、兵器にしてもまともに作れなかっ
たので、物量作戦でも失敗した。
戦闘機があっても、機関銃がないとか、エンジンがあってもプロペラがないとか…。

で、止めが軍隊の指導者層の硬直化。

この辺の話は、カタロニア自治政府の高官だった人が書いた著書にも詳しく書かれ
ている。
フランコスペインの仇敵なのに、FranceからGermanyに行って、米国に亡命した人
なので、読み物としても面白いよ。
(イタリア軍VSフランス軍:名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2)

ポーランドは軍用機を輸出していたそうですが。

P.1みたいな高翼単葉戦闘機が当時もまだそんなに使われていたとは驚いたけど。
ポーランドは、東欧の航空大国ですし、航空機を作っている国の中でも先
進国と言えましょう。
全世界に売られたわけではありませんが、P.Z.Lは東欧諸国、南欧諸国御
用達の航空機輸出メーカーです。
東欧に自国の機体を売っているからこそ、ポーランドが崩壊して、各国に
機体が脱出しても、その機体がすぐに戦力化できた訳です。

まぁ、航空大国を自称していたイタリアでさえ複葉戦闘機が主力だったことを
考えると、妥当な発展かも知れませんが、国産初期の頃にフランスの影響が
強かったことが一連の高翼単葉戦闘機の発展を促したのではないでしょうか。
(第二次世界大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレ:眠い人 ◆ikaJHtf2)

第二次大戦中にドイツ軍によって、200人からの住民を虐殺されたと言う事で大戦後もあえて復興せず、保存してあるフランスの村って何という名前ですか?

オラドゥール・シュール・グランヌ
この辺のサイトなんか参考に。
http://www.keelhaul.me.uk/travel/oradour.htm
(57:567)

ナチスの作った収容所が連合国に占領され、そこにドイツ軍の捕虜を入れて虐待したってマジ?

米軍は終戦後拘束したドイツ兵を捕虜ではなく「武装解除敵軍」であるとして、
ジュネーブ条約で定められた捕虜として取り扱いませんでした。その結果彼らは、
テントもない鉄条網に囲われた屋外で、水も食糧もないと言う劣悪な環境下に放置され、
多くのドイツ兵が死亡しました。
詳しいことを知りたければ、パウル・カレル著 学習研究社
「捕虜―誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路」を読んでおくれ。
(58:811)

降伏寸前のフランス軍に負けたイタリア軍ってどんな戦いだったのですか?

普通にニース辺りに侵攻して、普通に撃退されました。
後、空襲を行っていますが、被害甚大で撃退されています。
(59:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ノルマンディー上陸作戦で何人の連合軍兵が死んだのですか?

詳細な資料がないので大づかみですが、連合軍はほぼ10,000人の死傷者を出してます。
うち、死者は4,000人以上ということです。
(59:645)

普段は雨のはずなのにその日に限って晴れてしまいヤーボが飛んできて戦車隊が壊滅したドイツの第二次世界大戦末期の作戦を教えてください。

バルジの戦いといわれる戦いデスね。
ドイツ側の作戦呼称は「ラインの護り」だったはずデス。

アルデンヌ高原を抜けてアントウェルペン(連合国の後方兵站基地)を打撃すると
いう作戦だったと記憶しているデス。
これにより、ドイツ軍は手持ちの機甲戦力をほとんどすり潰してしまったデス。冬
の天候悪化を狙って航空優勢が敵にあったのをなんとか相殺しようとしたわけデスね。

付記するならば、アルデンヌ高原に突進したドイツ軍がバルジ(突出部)を形勢し、
これが連合国に翼を突破されて包囲され失敗したデス。
(61:81式●VNMI ◆TYPE81/oDg)

ドイツ軍の4号戦車と連合軍の駆逐艦が戦って、駆逐艦が大破して負けた事実はあるのでしょうか?

1940年の対フランス戦で起きた実話です。正確な記録調べは勘弁。
シチリアでもヘルマン・ゲーリング師団(空軍の戦車師団)のタイガーが
同じことやっとります。こちらは1943年だったかな・・・
前者は撃破しとります。
(61:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)
グランドパワー誌95年5月号に同様の記述があります。

フランス侵攻の最中の1940年5月25日に、ブーローニュを攻略した
第2戦車師団第3戦車連隊の第4中隊のⅣ号戦車二両が、
同港に停泊していた英駆逐艦を奇襲、攻撃の末大破着底、国防軍公報にも報道されました。

しかし、一方では同港を最後に出港した英艦は駆逐艦ヴィミエラですが、
無事出港し、1942年1月まで健在であり、撃沈・撃破されたという記述はないようで、
本当に「駆逐艦」を撃沈したのかはどうもアヤフヤです。
(61:811)

戦後ギリシャが共産化しなかった理由は?

第二次世界大戦中、欧州戦線では、しばしば戦死者の埋葬、負傷者の
交換などで連合国とドイツ軍が前線で停戦協定を結んでいた。
これ自体、ヒトラーの耳にはいるとタダでは済まなかったのだが、一件
だけ例外があった。

ギリシャのイオニア海に浮かぶクレタ島などの島嶼に駐留していたドイ
ツ軍は、連合国軍の黙認の下、全員無事にヨーロッパ本土にたどり着いた。
但し、英国との協定で、その部隊はバルカン半島を侵攻するソ連軍から
ギリシャのテッサロニキなどを防衛するために使用されることになっていた
のである。
このため、ソ連軍の侵攻を免れたギリシャは戦後の共産党軍との戦いに
勝利することが出来た。

欧州情勢は正に複雑怪奇なり。
スターリンとチャーチルとの話し合いで、ギリシャはソビエト勢力の影響はそれほどなかったんじゃないの?
相手はスターリンですよん。

あわよくばバルカン半島全てをソ連の勢力範囲に入れようと画策し、
ユーゴを通じて(ユーゴもギリシャのマケドニアの領有を主張してた。
ついでにブルガリアもね)、共産党パルチザンに軍事援助を与えてた
訳で。

それに不信感を抱いていたのがチャーチル。
これは、1944年後期にドイツ軍が英国軍に交代するや否や、ギリシャ
共産党のパルチザンが蜂起したことで決定的となります。

その後、英国の支援で1946年までに共産党の蜂起は鎮圧されましたが、
王制に関する国民投票(ギリシャの国王はドイツのザクセン王の系統だった
ので、ドイツから解放された国の元首としてはふさわしくないと言う国民世論
(と言うか共産党のアジテーションによるもの)に押されて国民投票を行うこと
となった)を実施し、王制が支持されると、再度内戦に突入。
1949年までこれが続いた。

これが、ソ連軍支配下だったらどうなってたかね。
(続★信じられないが、本当だ。:眠い人 ◆ikaJHtf2)

ポーランド、ベルギー、オランダはなんであっさり負けたの?

え~っと、巷間言われるようにポーランドってそんなに弱小国じゃないですよ。
戦車とかの数が少し足りなかっただけで、ソ連が背後を突かない限り、相当
互角な戦いを繰り広げていたです。

ベルギーとオランダ、こっちは両方とも中立国だったので、準備が出来ていな
かった。
ただ、ベルギーの方は第一次大戦で煮え湯を飲まされたため、英国と協調
するなどの準備が出来ていたです。
第二戦線的発想でそんなに押し寄せる兵力がないと思ったのが誤算だった
かもしれません。

フランスとて、戦略さえあれば、ドイツはあっという間に負けていたでしょうね。
ポーランド相手にちょっかい出しているうちに、背後から攻め込めば、少なくとも
塹壕戦状況には持ち込めたんじゃないですかね。
(WWⅡのフランス陸軍:眠い人 ◆ikaJHtf2)

イタリアはそこそこの工業国だったのですから、独逸はイタリアに非力なイタリア兵器よりも独逸兵器のライセンス生産等を勧めなかったんでしょうか?

DB601とかライセンス生産してるけど、日本と同じように
オリジナルの性能を出し切れてないということでその程度だったということ。
(俺初質スレ2050:30)

レイテとかノルマンディーは上陸作戦なのに、基地航空隊が上陸部隊を攻撃できんかったの?

基地航空隊の飛行場滑走路1本はせいぜい航空機48機程度の運用が限界(陸攻なら36機?)
サイパン・テニアン・グアム併せても、正規空母3隻程度の戦力にしかならんのだよ
そこへ空母9隻で空襲されたらどうなるかという話で
(俺初質スレ2050:610)

スペインはなんでイギリスがドイツと戦って余裕がない間にジブラルタルを取り戻そうとしなかったのかなぁ

戦後、勝った方にまた奪われることが目に見えていたから

地中海の制海権・制空権を維持出来るだけの軍事・経済力を持ってないと
ジブラルタルだけ押さえても片手落ちなんだよ
(俺初質スレ50501:846-847)

末期のイタリアやドイツが本土決戦を行う意味はあったのですか?

イタリアは43年7月の連合軍シチリア上陸から翌年9月まで戦闘は続いたが、
上陸とほぼ同時にムッソリーニは失脚、バドリオ政権は休戦を表明した。
その時点でドイツがイタリア全土を占領した。イタリア軍は連合軍の一員になりそのドイツ軍と戦った。
(俺初質スレ436:897)
それは現イタリアの建前で、ムソリーニ政権はパドリオ新政権樹立後、
ドイツ勢力下の北イタリアに新たにイタリア社会共和国を建て、
ドイツ降伏までの1年半ほどは内戦状態だよ。
(俺初質スレ436:900)



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