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旧日本軍戦車」(2012/02/20 (月) 18:09:22) の最新版変更点

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#CONTENTS ---- **日本軍戦車の黄帯迷彩って、本当に効果があったのでしょうか? 日本戦車の黄色迷彩は集団の時、台数がわかりにくくなる効果があるらしいです。 #right(){(7:665)} **四式中戦車関係の文献史料って現存してるのでしょうか。 独立した資料はありませんが、デルタ出版の本(日本の戦車)とか、 世界戦車戦史(図書出版:絶版)に掲載されていたか、と記憶しています。 あと、文林堂の日本の戦車写真集とか…くらいでしょうか。 あとは、米国国立公文書館くらいにありそうですけど…。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **戦前・戦中の日本戦車に多用されたシーソー式の懸架装置についての質問です。 >この方式を採ることによる、主な長所と欠点はなんだったのでしょうか? うろ覚えで資料が出てこないので恐縮ですが、 (長所) 履帯の設置性に優れている 走行性、防弾性が板バネ式に比べると勝っている。 (短所) 上下動が激しく、それがなかなか減衰しない。 即ち、行動中の砲の照準が付け難い。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?  当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.  WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.  もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.  武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした. (でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)  また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.  ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?  で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.  こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした. **旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか? 満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた. また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる. それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い. 結果として,装甲が貧弱になった. ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い. 大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた. (軍事板) **「三式飛行戦車」これってなにか分かりますか? 詳しいデータは覚えてないけど、確か2式軽戦車をグライダーの翼をつけた奴 空挺部隊用だったはず、無論失敗作 #right(){(24:460)} **チハ チヌ ホニとか言うけれど、この法則ってどうなってるの? 前の字は戦車の中戦車・軽戦車・砲戦車等の属性 後ろはイロハ順 つまりチハ車は「中戦車で、3番目に製作された戦車」 ホニ車は「砲戦車で~」というわけ 皇紀は関係ありません #right(){(27:103)} 「チ」は中戦車のチを表す。※軽戦車の場合は「ケ」 「ハ」はイロハを意味し、開発順を表す。 この略称が使用されるようになったのはチハとチニの競争試作時からで、 それ以前の戦車については 八九式軽(中)戦車>イ号 九五式軽戦車>ハ号 と呼称された。 九五式重戦車については不明であるが、のちに自走砲化した車輌に「ジロ」があるので、 もしかすると「ロ号」だったのかもしれないし、あるいは「ロ」は欠番だったのかもしれない。 いずれもそれを裏付ける資料が無いので断定出来ない。 #right(){(41:143)} 重戦車は「ジ○」。 同様に軽は「ケ○」。 #right(){(44:401)} **旧日本軍の”砲戦車”っていったいどういう意味で付いた名前なんでしょ? 直協支援用装甲戦闘車両 #right(){(29:833)} **日本の戦車は手榴弾一発であぼーんされるものなんでしょうか? 中に放り込まないと無理でしょうね。 日本の戦車はエンジンだけは燃えにくいので。 #right(){(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **九七式中戦車が最近まで競争試作だった事を知らなかったド初心者です。 >試作で負けた方の戦車はどういうもの(制作社、性能諸元)だったのでしょう。 >また、負けた理由はなんだったのでしょうか? チニ車です。 チハは三菱ですが、チニは大阪砲兵工廠が制作しました。 乗員はチハより1名少ない3名。エンジンは九五式軽戦車のものを搭載し、 装甲、速力、その他諸元はほぼ拮抗していました。 外見はスマートになったチハってとこですかね。 チニはチハに比べて価格の安さが魅力で、陸軍側はチニ車の方を推していましたが、 直後に日華事変が始まって軍事予算が増大した為に、多少高価でも設計的に余裕のあるチハが採用されました。 #right(){(39:536)} **第2次大戦中、日本軍の戦車がアメリカ軍の戦車を撃破したことってあるんですか? もちろんあります。 至近距離から側面や背面を打ち抜いたり 障害物を乗り越えようとして車体下部を晒したところを狙撃したり 挙句の果てには爆雷つんで体当たりをしたりと、およそ思いつく事はやっています。 さらに鹵獲M3軽戦車でM3中戦車を撃破した例もあります スチュアートなどの軽戦車ならばビルマなどで チハ車でも榴弾を多数命中させるとかで撃破できたそうです。 シャーマンになると47mm速射砲や90式野砲、 それを搭載した戦車なら辛うじで可能です。 有名なところだとルソン島で機動砲兵第2連隊の 一式砲戦車がシャーマンをいくらか撃破したらしいです。 #right(){(39:270-271)} **97式中戦車について質問です。 >砲塔の上についている手摺がアンテナだと聞いたことが有るのですが、 >ラジオチューナーについているものと同じループアンテナということでよろしいのでしょうか? アンテナタイプと指向性について誤解があるようですが。 ループアンテナは、アンテナ自体をループとして結合/終端させ、ループ内をとおる 電界をエネルギとして効率よく取得しよう、というアンテナです。副次効果として、 ループに結合しやすい位置にある外部導電体を、サブエレメントのアンテナとして 利用できるという特徴もあります。ポケベルのアンテナなんてそうやね。 んで、97式のアンテナについては、電気的にはループアンテナとは言えません。 単純に、中波帯域の長くて邪魔くさいホイップアンテナをうりゃーとひん曲げて 砲塔に沿わせる形状にして、ひっつけただけです。 もしアレがループアンテナだったら、指向性はお空と地べたに向けて 発生しちまいます。はい。 #right(){(40:電波な人)} **日本海軍の軍艦はずいぶんと強力だったのに日本陸軍の戦車は超弱かったのはなぜですか? 「超弱い」って程じゃない。チハ車(97式)なら3号初期型以上だし、同時代の標準レベルだ。  戦争が始まって戦車なんか開発してる余裕がなくなったのが大きいだろう。 ろくな対戦車火器を持たない中国軍を追い回すのはチハ車で十分だし、 アメリカ相手なら飛行機優先。戦車の生産数自体が非常に少ない。 #right(){(43:442)} **二次大戦中の日本の戦車は、連合軍の重機の弾丸すら貫通してしまうほど、装甲が薄いと聞いたのですが、どうなのでしょう? 軽戦車では装甲は薄かったですし、八九式戦車の装甲も薄かったようです。 しかし、九七式中戦車以後の装甲の厚さは、世界の趨勢に何とか追いついています。 尤も、それ以上に対戦車砲の発達、連合軍側の戦車の発達が早すぎて、意味を為してはいませんが。 後、鋼板の製作水準にも問題があり、炭素が多く含まれ、結構割れやすかったようです。 #right(){(46:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} 九五式軽戦車の装甲は最厚部で12mm、九七式中戦車で25mm、それに対し 当時のM2重機関銃の貫通力はAPを使用して100mで20㎜前後。 近距離なら九五式は貫通するでしょう。まあ、もともとM2重機は装甲車両や 観測気球を撃破するために開発されたんで仕方ないかもしれませんが。 #right(){(46:679)} **旧日本軍の戦車には防弾ガラスがなく、単に風通しがいい窓だったというのは本当ですか? ちは改の車長のキューポラを見る限り、防弾ガラスは入ってますね。 展視孔と言われるスリットは、ただの穴の様です。 穴を開けた円盤を高速回転させて弾片の侵入を防ぐ装置だの、プリズム使用の潜望鏡(普通は鏡を使う)だの、使い物にならない物の研究はしてますね。 #right(){(55:701)} **日本軍の戦車ですが、開戦前ならともかくM4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、デザインに進歩が見られないように思うのですが なんででしょうか? 日本には「T-34ショック」は生じてないのでパンターのような方向性への進化は 起きようがない。 ドイツから情報は入っていたらしいが。 替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し、それらは 一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)や三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良) 三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)となって結実してる。 これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にある だろう。 そして、これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた。 この2種は戦前からの重戦車開発の流れと戦争での戦訓が合わさったものなので、ティーゲルに 相当する位置にある。 あと、「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け、急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」 と言う位置には、ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車が ある。 #right(){(480:454)} **大戦中の戦車って、トランスミッションがよく壊れたらしいけど日本軍の戦車ってどうなの? いやよく壊れた。 でも、あの当時はどこの国のもトランスミッションがデリケートですぐ壊れるのは結構当たり前。 別に日本のだけに限った話ではなく、どこもそんなもの。 アメリカのものだけはわりとマトモな出来だったが、やっぱり荒っぽく扱うとすぐに壊れた。 ソビエトの戦車は起動輪が後ろにある=トランスミッションが後部にある、のでどれもレバーが 延々とロッドを介して操作することになるため、レバー操作がやたら重くて大変だと不評だった。 「ハンマーでブッ叩かないと切り替わらない」と言われ、でも実際にそんなことした日には 当然レバーとロッドが壊れる。 ドイツの戦車は作動そのものは快調だが丁寧に操作しないとすぐに壊れる繊細な作りな上 頻繁かつ綿密な調整と整備を必要とした。 戦車は重い車体を無理やり走らせてるので別に設計に欠陥がなくてもトランス ミッションが壊れやすく、ずっと後になってトルクコンバーター式のトランス ミッションが普及するまでは変速機関係は戦車のウィークポイントであり続けた。 #right(){(534:556)} **チハは57mm砲を長砲身化して攻撃力を向上させることは、できなかったんでしょうか? 優秀な砲を拡大していくと言う発想は当時よく見られた傾向。 日本も長砲身57mm砲を完成させている。試作のみね。 ただし、57mm砲を長砲身にしたと言う発想じゃなく一式47mm機動砲の拡大型。 装甲貫徹力は 1000mにて60mmと言われている。 ただし、日本製の鋼板撃ってテストした可能性があるから、アメリカやイギリスの 装鋼材に対してもそのような性能が出るかどうかは俺の調べた範囲では判らない。 何故チハに積まないか?と言い出すとおかしな話になる チハ車はノモンハンの戦訓から47mm砲の新砲塔を搭載することにした。 だが、欧州戦の情報や実際にアメリカの戦車など研究した結果からより高い火力を 持ったチト車を開発する。 つまり新主砲を搭載する新戦車が必要と考えたんだと判るよね。 そこから急場しのぎにでもチハに積めるような物では無かったと想像出来る。 もう一つ、57mm砲が完成した時点で一式中戦車の生産が始まっており、その意味 でも積む意味が無い。新型戦車に積むって決定で良いじゃないですか。 ところが完成した試作砲は貫通力が低いのでチト車には使わないことにした。 (47mm砲より上かどうかは問題ではなく、情勢に適応しない。) また、貫通力の割りに重い点が問題視され、砲そのものが不採用になったので 他の車種や砲戦車への搭載も当然されていない。 完成していない訳でもないし、合理性云々より出来事の時系列を理解しなければ ならないよ。 #right(){(349:74)} **「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが、単に輸送船からランプを使って自走で積み降ろしすれば良かったんでは? 当時輸送に使われてた貨物船は今のバルクキャリアの様なタイプが殆ど、 RoRo船なんかは車両を大量輸送する時代になって現れた。 当時にもフェリーは有ったが艀に毛が生えたような物で、外洋を長距離航海出来るような物じゃない。 でバルクキャリアはクレーン無しじゃ重量物の積み下ろしは出来ない、 舷側までのランプを作っても(それ自体長大で強度が必要な大変な物になるが)船倉に降ろせない。 それなら舷側を切り取ってランプをつけ、船倉にもランプを付け多層にすればRoRo船になるが、 そんな(当時は)普段使わないものが海上輸送の主体となるほど転がっているわけない。 要は重車両を輸送・運用するインフラが全く整ってない事が問題で、クレーンの能力だけに理由を求めるのもやや一面的。 #right(){(567:485)} **五式中戦車や、計画のみで終わったホリ車の主砲には半自動装填機を組み込む予定だったようですが、 >なぜこんな複雑で厄介そうな、ドイツ軍ですら採用していないような機構にしようとしたんでしょう? >チビの日本兵の装填手だと、巨大な砲弾を抱えて砲尾に突っ込むだけの体力が無いとでも思ったんでしょうか? いくつも勘違いがある。 半自動装填装置自体は簡素な装置で、事前に装填主が装置に砲弾を装填しておくことで ここ一番の連射性能を上げるだけ。 何故それが必要かと言うと、一つには日本人の体格の問題。 アメリカの場合は数十tある兵器を人力操作する上で、特にパワーアシストの開発 に注力せずに体格の良い者を戦車兵にすることで対応した。 (戦後、自衛隊がアメリカの戦車を運用しようとした時に体格の差が問題になった。) 日本では47mm砲の時点で問題を抱えており、戦車長が砲の操作をアシストしていた。 にも関わらず、戦車の乗員が定数割れしたまま運用することもあるような始末。 砲塔の動力旋回にも頓着せずに主砲が47mmの高初速砲になっても肩押し式の主砲を 好むくらいで、逆に主砲が75mmクラスになった所で装填・排莢操作の自動化の必要 性を認識した。(つまり体格が原因で着眼点が少し他国と違っていた。) 当時でも自動装填装置はアメリカがベルト式の物を研究しており、実用化も可能な レベルに近づいていたが、ま、ドイツ相手にはもっと他の研究に注力すべきと判断 したんですな。 もう一点。殊更にドイツのテクノロジーが優れていたと言うような事実もない。 赤外線暗視装置など開発が他国より目立って先行した技術もあるが逆も多い。 ドイツが出来なかったから難しい技術などと言うことは無い。 #right(){(343:288)} **日本戦車の戦闘力不足の一因ってやっぱり馬力不足? 馬力は関係ない。 統制型の次は航空用ガソリンエンジンの再利用、ディーゼルターボ開発をしていた。 エンジンに関しては無いなら作っている。それが理由で戦車開発が出来ない要因にはなってない。 まず、機甲戦力を持ち始めた当時、戦車の開発・配備にかけられる予算が過小だったために安価に数を 揃えられないかと言う思想が根付いてしまい、転換できない派閥があったとされる。 一式や新砲塔チハはBT-7に対抗すべく作った訳だが、太平洋戦争に突入後、敵方がM3軽戦車 程度しか保有しておらず、対抗可能と判断したために、その後の戦車開発がスローペースになっている。 もう一つは、省力化機器や土木作業機械、自動車工学が未発達だったことや、(当時併合していた朝鮮 半島を含む)自国内や満州、南方戦線の道路事情が悪かったことも大きい。 (実際、ソ連側が満州に侵攻した際もT-34やM4よりBT-7Mの方が使いやすかったとされる。) 我が国の運用者には、戦車が30tクラスになると既に限界を超えてしまうと言う発想があり、逆にそれ より重い戦車を運用するための技術開発が遅れていた。 (当時の日本人の体格では75mm長砲身砲の操砲は困難になってしまっているくらいで、アシスト装置が 無ければ装填はおろか、操縦操作なども困難だろうと思われる。) 情報の見誤り・軽視もあった。 開戦前~大戦前期にかけて、欧州、と言うよりもソ連戦車に引っ張られて各国の戦車が重厚長大に なっていく過程で、それを後追いした。(先回りして強力な物を作ろうと言う発想が無かった。) ドイツの駐在武官から、欧州戦の情報は入っていたが思いっきり軽視して対応が遅れている。 まあ、こんな話がある。 ソ連軍人がまだ友好的な頃、ドイツの4号戦車を見学して、その余りのショボさに「強力な 戦車を隠している」と信じて疑わなかった。 ドイツ側はその態度からソ連はより強力な 戦車を開発していると早い時期に予想出来たし、その後もスパイ情報があったが軽視していた。 我が国はさらにその後で欧州の戦車が75mm砲を撃ち合っていると聞いたが、なかなか自分達に 波及する話とは思えない訳で、M3軽戦車にワンサイドで勝てる戦車を作っている内にエラいことに なってしまった。 #right(){(569:639)} チリ車(五式)のエンジンは既存の航空用(BMWのライセンス品で練習機に使っていた) で800馬力。 ドイツのHL230より高出力だったりするけど。 そもそも、日本の戦車は戦闘力不足のものしか無いと言うのが誤りで、試製100t戦車・120t戦車では10cmカノンを搭載している。 これらの戦車では、航空用エンジンを2基、伝達ギアでリンクさせており、強力なエンジンが無いなら無いなりの工夫をしている。 馬力不足と言われても他国同様に航空用エンジン引っ張り出したり、アメリカのH型パワーパックのようにまとまりは良くなくても エンジン2基の連結でさらなる馬力アップも行っている。 100t戦車の場合、操作系に油圧アシスト装置を導入したり後方駆動を採用するなど、一部M4シャーマンより進歩的な部分のある。 ところがテストしてみると、不整地では重すぎでスタックしまくり、舗装道路では舗装を壊すので。 過荷重でテスト以前の問題。44年末まで放置した後、解体。 120t戦車は車体のみでテストすると流石に操縦性や抗堪性に問題ありと判断されている。 作れないでも無いし、作っても見たが、いきなりハードル上げすぎてるって言うのが実状。 #right(){(570:283)} **砲塔はチハとかでも自動で回転したんだよね? 手動です Ⅳ号J型も手動です #right(){(321:726)} **97式中戦車改はなぜ一式機動砲をそのまま流用して搭載せず、砲身をやや切り詰めた一式戦車砲をわざわざ採用したのでしょうか? これは単純にチハ改や、本命のチヘの砲塔に収めるにあたって後座長が問題となったからです。 狭い砲塔の中の戦車兵さんたちにとっては、高速で後退してくる砲は正に恐怖なのです。 ハ号の戦車砲も九四式速射砲より短砲身の物になってますね。(後に換装されてますが) #right(){(315:11)} **日本が試作したという100トン重戦車について教えて下さい 100㌧戦車は又の名を"大イ車"(もしくはミト車)と呼ばれ、基本構造は89式中戦車を 約5倍の大きさにスケールアップしたものです。 ・重量約100㌧ *全長10㍍ *全幅4.2㍍ *全高4㍍ ・装甲厚 前面:75㍉ 側面:35㍉+35㍉(スカート) ・武装 105㍉カノン砲×1・75㍉速射砲×2・7.7㍉機銃×3 ・エンジン BMW水冷12気筒550馬力×2基 作ったはいいがでかすぎて工場の門を出られず、走らせれば重すぎて腹を打つわ キャタピラが外れるわサスはヘタるわさんざんだったようです。 #right(){(47:名無し軍曹)} http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0248.htm 1940年、100t重戦車 (走行テストで100tの重量を走行装置部分が支えられず自壊) 荒地走行テストでずぶずぶ沈んでしまったとか... 日本の道路を走れなかったとか(幅が広すぎ) 速度はエレファント以下... 装甲もたいした厚さではなく役に立たないので分解されました。 #right(){(312:559)} **小銃の徹鋼弾でチハの装甲の20mmの部分を零距離で撃てば貫通しますか? 無理 九五式軽戦車の最厚部(12mm)以外なら可能 というか末期のは金質が悪化してたので最厚部も撃ち抜かれるかも #right(){(俺初質スレ431:828)} **チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は? >航空機なら、なかなか苦労しながらも更新が結構進んでいるのに。 まさに理由はそれだよ。 戦車作るなら工場設備は飛行機生産に回す。 鉄使うなら船舶の建造に回す。 島嶼やアジアが主戦場という戦局から戦車の優先順位が低かった。 #right{(515:164)} **なんで旧日本陸軍の戦車ってあんなに弱いの? ごく単純に言うと、技術(とそれを支える国力)が無かった。 砲、装甲、エンジンどれも。特にエンジンが力不足なのは痛かった。 サイズや重量に制限がでちゃうからね。 よく言われるのが港湾設備の問題。戦闘重量を増やし過ぎると海外展開が難しくなる。 2つ目が対戦車戦闘というのを重視していなかった事。 そして対戦車戦能力が必要だと気付いたときには航空主兵に転換していて資材が回ってこなくなった。 ぶっちゃけるとノモンハンまでザコ支那軍相手で優秀な戦車なんか必要なかったから作らなかった それがノモンハンでソ連戦車にコテンパンにされてさすがにヤバイと思ってようやく着手 苦労してやっと完成したのがチハ改や一式 しかしこの子が登場した頃には既に30トンやら50トンやらの化け物戦車が跋扈していましたとさ 当時戦車は歩兵科に属していて戦車は歩兵の陣地攻撃を支援するものであると考えられていた。 騎兵の機械化を行うとき、「戦車対戦車の戦いは騎兵の抜刀突撃並に同じくありえない」と切り捨てられている。 92式、94式、97式装甲車(騎兵連隊を改変した捜索連隊が主に装備)が実質戦車なのに装甲車と名乗ったのも 兵科間のセクショナリズムから。 ただ、チハ車が比較的新砲塔にできたことに現れているように、先見の明のアル設計者と一部の 用兵側は戦車対戦車が起こることを予期していた。 #right{(362:743-751)} **司馬遼太郎が戦車をヤスリで削った話の真偽について教えて下さい >戦時中に戦車兵だった氏は、 >「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて、ヤスリをかけても歯が立た >なかった。しかし、戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた。敗戦間際の >日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」 >といった趣旨のことを書かれていたのですが、これは本当なのでしょうか? 一応、過去に出た意見を総ざらいしてあげとく ・軟鋼を使ってたという文そのものが司馬の捏造説 ・軟鋼をあえて使用することで抗弾性の向上を図っていた説 ・実は資材不足でホントにただの鉄を使って作ってました説 真偽のほどは不明。 漏れが知っているのは、 1)司馬が、末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表。 2)軍事研究家?が、わざと軟らかくしていたんだと紙上で反論。 3)元戦車工場勤務の方が、末期には鋼鉄は手に入らず、普通の鉄を   使用していたと再反論。 って話でつ。御参考までに。 #right(){(101:389-417)} 圧延鋼板の製造配分に関しては、1944年春から陸軍向けが頗る少なくなり、 重火器の生産が高射砲を除いて停止され、弾薬生産が削減され、戦闘用車輌 の生産が激減し、軽戦車の生産が事実上停止し、中戦車、装甲車輌の生産が 著しく削減されると言う状況にはなっていますが。 #right(){(101:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **陸軍は本土決戦のため三式戦車を温存してたようですが、1945年夏の時点のM4シャーマンに勝てたでしょうか? 昭和20年5月参謀本部によって出された「戦車用法」によると、 「三式中戦車は600メートルにおいてM4戦車の正面を貫通し得るも 命中角の関係上その公算は僅少にして、側面および背面を攻撃するを要すること多し。」 とあります。 装甲も強力とは言えず、正面から打ち合うのはやはりかなり苦しい戦車かと。 #right(){(104:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **四式中戦車や五式中戦車の後継は計画されてましたか? エンジンを過給器付空冷DieselとしたチリII型の計画はありましたし、120t戦車の 計画はありましたが、計画途中で敗戦となっています。 なお、1943年以降、陸軍の考え方としては、戦車の量的充当よりも質的向上に ウェイトを置いたため、三式の主砲換装は考慮されていましたが、四式の性能 向上までは考慮されなかった様です。 #right(){(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車はM4に対抗できたんですか? 新砲塔チハで正面から撃ちあってもほとんど勝ち目がないので 待ち伏せて側面や背面から射撃して対抗してた。爆薬付けて特攻することさえあった。 75mm砲を搭載した一式自走砲や三式戦車ならだいぶマシだが、不利な戦いには違いない #right(){(俺初質スレ432:モッティ ◆uSDglizB3o)} **3式中戦車にベンチレーターがついてないという記事がP誌に載ってましたが、本当でしょうか? 終戦までに日本軍の戦車にはベンチレーターは装備されていませんでした。 チハ車による実験では、密閉して前方銃で30発も発射すると軽い一酸化炭素中毒の 症状がでてきたそうです。 特に銃手席ではガスの滞留が激しかったようです。 対策としては、射撃の中止・各窓扉の全開などがありますが、信じがたいことに 現場では車長が扇子を用意して前方銃手席をあおぎ、一酸化炭素を拡散したとか。 #right(){(123:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **一式中戦車の主砲はその主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか。 一式中戦車の主砲は47mmです。(試作一号車は57mmですが) Shamanを撃破する場合は、可成り目標に近づくか、後ろや側面を狙うしかありませんでした。 47mm砲の性能的には、直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます。 ただ、実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には、70mまで近づかないと、 M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした。 >それは徹甲弾の材質に問題があったということでしょうか? 特殊鋼、特に、ニッケル系やマンガン系の材料不足と、金属回収で回収した金属粉を 混合した事による脆さが出ているので、戦争が進展する程、問題が発生したのではな いかと思います。 ちなみに、同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で、例えば英国の2ポンド砲は、 初速850m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm)、米軍の 37mm砲は、初速775m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力60mmになります。 一つ上のクラス、英軍の6ポンド砲では、初速786m/secですが、射距離1,000mで46mm、 米国の75mm砲では、初速700m/secですが、射距離1,000mで69mmになっていますね。 #right(){(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **司馬遼太郎が日本の戦車エンジンについて、でかい、馬力がない、複雑で運用が難しい、という欠陥だらけのもの書いてましたが。 >本当でしょうか? 九七式中戦車に用いられていた、三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm、 170馬力/2000回転、重量1200kg)に関しては、噴射系統がデリケートで調整が難しく、耐久力に欠けるきらいがあり、 動力性能に関しても、公称200馬力の筈が、実力は170馬力程度しか出ず、しかも、白煙、黒煙が甚だしく、 更に五月蠅い(三菱の整備員曰く、豆煎りエンジンと言っていた)。 シリンダとシリンダヘッドは4本の長い通しボルトで共諦めする方式で、チェンブロックや他車の動力を用いた エンジン吊り出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからで、ローラータペットを用いた4弁方式に ついても、こなれておらず、しかも、直噴はまだ未完成の技術でした。 このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く、「まるで航空発動機のような、屁理屈の塊のようなエンジン」と 評していたそうです。 当時の軍用車両用ガソリンエンジンでは、オクタン価の制約から余り攻め込んだ設計が為されず、車輌、兎も角人員が 生きて帰ってこられる信頼性を重視したために非常に甘い設計になっていました。 他方、ディーゼルに関しては、池貝とか三菱、いすゞなどが犇めいていたため、性能重視型の設計ではありましたが、 それでも、軍用、就中、統制であるがために、設計には十分な余裕を持たされ、最大出力時正味平均有効圧が可成り 低い状態に置かれていました。 本来は、常用時の負荷率は低い筈ですから、最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが、 第四技術研究所や、戦車部会のメンバーが、作戦行動中に逆上した操縦者が、無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い 運転を続けて、エンジンを壊すことを心配したためか、パワートレイン側の問題があったのかもしれません。 #right(){(187:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた、というのは本当でしょうか? 「行進射」と言って、日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です。 砲手と操縦手が連携して、発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います。 当然命中率や発射速度は低下し、五七ミリ砲では ・一分間の発射速度:1~2発(停止時:5~12発) ・500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)になりました。 したがって実際には戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います。 #right(){(223:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **九七式中戦車の砲塔内には、何発の弾薬を積めますか? 八九式戦車の資料しか手元にありませんが、八九式乙型の場合は、8発入り弾薬箱が5段車体内に 装備されており、これに加えて、即応予備として4発砲弾架に掛かっています。 つまり、44発が車体内に置いてありました。 なお、甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり、これらが車長、砲手の腰掛けを兼ねていました。 砲側には、右側面に4発、左側面に2発の57mm砲弾架があります。 九七式中戦車の資料は、カッタウェイしか無いので、しかとは言いかねますが、砲塔前部に4発の弾薬架があり、 砲塔後部にも、5発分の弾薬架がありました。 また、車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です。 1箱20発入りとして40発、即応用として10発程度あったのではないでしょうか。 #right(){(215:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車の燃費はどれぐらいだったんでしょう? 日本戦車の燃費  八九式中戦車(甲) 0.64km/l  八九式中戦車(乙) 1.00km/l  九七式中戦車    0.85km/l  九七式中戦車改   0.85km/l  一式中戦車      0.64km/l  三式中戦車      0.64km/l  四式中戦車      0.63km/l #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **チハでM3やM4に対抗出来たんですか? 1942年4月、ビルマへの第二期侵攻作戦の為、戦車部隊が投入された。 彼の地で対決するのは、当時アジアに於ける連合軍最強の戦車である、M3軽戦車。 と言う訳で我らがチハタンがM3軽戦車の装甲をぶち抜けるか、研究することになった。 標的は遺棄されたM3軽戦車、迎え撃つは、各中隊から選抜されたチハタン、第一中隊で鹵獲したM3軽戦車。 最初に各車1発の57mm徹甲弾を装填し、標的に向けて500mの距離から射撃。 それは狙い過たず、砲塔に2発、車体に1発命中していたのだが、その部分の塗料がはげていただけで、 徹甲弾は粉みじんになっていた。 次いで、M3の37mm徹甲弾を同じ距離500mで射撃…これは見事に貫通していた。 それでは、と、300mの射距離で徹甲弾発射。 これも木っ端微塵に徹甲弾の方が飛び散るだけだった。 そこで、射距離300mから今度は榴弾で側面を集中的に撃ってみた。 すると、M3軽戦車の側面には衝撃で装甲板に30cm平方の穴が穿たれたのである。 と言う訳で、M3軽戦車に対し、チハタンの戦法は、 「小隊(3両)で300m以内に肉薄し、1両が囮となって正面に、残りが側面に回り、近距離から 榴弾の一斉射撃を側面に対して行なう」 と言うことになった。 信じられなくはないが本当だ。 >30cm平方ってことは、装甲接合のリベットが吹き飛んではがれたのかな? 装甲の溶接部が衝撃で割れたラスィ。 #right(){(信じられないが、本当だPart21:眠い人 ◆ikaJHtf2)} ----
#CONTENTS ---- **日本軍戦車の黄帯迷彩って、本当に効果があったのでしょうか? 日本戦車の黄色迷彩は集団の時、台数がわかりにくくなる効果があるらしいです。 #right(){(7:665)} **四式中戦車関係の文献史料って現存してるのでしょうか。 独立した資料はありませんが、デルタ出版の本(日本の戦車)とか、 世界戦車戦史(図書出版:絶版)に掲載されていたか、と記憶しています。 あと、文林堂の日本の戦車写真集とか…くらいでしょうか。 あとは、米国国立公文書館くらいにありそうですけど…。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **戦前・戦中の日本戦車に多用されたシーソー式の懸架装置についての質問です。 >この方式を採ることによる、主な長所と欠点はなんだったのでしょうか? うろ覚えで資料が出てこないので恐縮ですが、 (長所) 履帯の設置性に優れている 走行性、防弾性が板バネ式に比べると勝っている。 (短所) 上下動が激しく、それがなかなか減衰しない。 即ち、行動中の砲の照準が付け難い。 #right(){(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?  当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.  WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.  もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.  武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした. (でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)  また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.  ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?  で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.  こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした. **旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか? 満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた. また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる. それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い. 結果として,装甲が貧弱になった. ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い. 大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた. (軍事板) **「三式飛行戦車」これってなにか分かりますか? 詳しいデータは覚えてないけど、確か2式軽戦車をグライダーの翼をつけた奴 空挺部隊用だったはず、無論失敗作 #right(){(24:460)} **チハ チヌ ホニとか言うけれど、この法則ってどうなってるの? 前の字は戦車の中戦車・軽戦車・砲戦車等の属性 後ろはイロハ順 つまりチハ車は「中戦車で、3番目に製作された戦車」 ホニ車は「砲戦車で~」というわけ 皇紀は関係ありません #right(){(27:103)} 「チ」は中戦車のチを表す。※軽戦車の場合は「ケ」 「ハ」はイロハを意味し、開発順を表す。 この略称が使用されるようになったのはチハとチニの競争試作時からで、 それ以前の戦車については 八九式軽(中)戦車>イ号 九五式軽戦車>ハ号 と呼称された。 九五式重戦車については不明であるが、のちに自走砲化した車輌に「ジロ」があるので、 もしかすると「ロ号」だったのかもしれないし、あるいは「ロ」は欠番だったのかもしれない。 いずれもそれを裏付ける資料が無いので断定出来ない。 #right(){(41:143)} 重戦車は「ジ○」。 同様に軽は「ケ○」。 #right(){(44:401)} **旧日本軍の”砲戦車”っていったいどういう意味で付いた名前なんでしょ? 直協支援用装甲戦闘車両 #right(){(29:833)} **日本の戦車は手榴弾一発であぼーんされるものなんでしょうか? 中に放り込まないと無理でしょうね。 日本の戦車はエンジンだけは燃えにくいので。 #right(){(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **九七式中戦車が最近まで競争試作だった事を知らなかったド初心者です。 >試作で負けた方の戦車はどういうもの(制作社、性能諸元)だったのでしょう。 >また、負けた理由はなんだったのでしょうか? チニ車です。 チハは三菱ですが、チニは大阪砲兵工廠が制作しました。 乗員はチハより1名少ない3名。エンジンは九五式軽戦車のものを搭載し、 装甲、速力、その他諸元はほぼ拮抗していました。 外見はスマートになったチハってとこですかね。 チニはチハに比べて価格の安さが魅力で、陸軍側はチニ車の方を推していましたが、 直後に日華事変が始まって軍事予算が増大した為に、多少高価でも設計的に余裕のあるチハが採用されました。 #right(){(39:536)} **第2次大戦中、日本軍の戦車がアメリカ軍の戦車を撃破したことってあるんですか? もちろんあります。 至近距離から側面や背面を打ち抜いたり 障害物を乗り越えようとして車体下部を晒したところを狙撃したり 挙句の果てには爆雷つんで体当たりをしたりと、およそ思いつく事はやっています。 さらに鹵獲M3軽戦車でM3中戦車を撃破した例もあります スチュアートなどの軽戦車ならばビルマなどで チハ車でも榴弾を多数命中させるとかで撃破できたそうです。 シャーマンになると47mm速射砲や90式野砲、 それを搭載した戦車なら辛うじで可能です。 有名なところだとルソン島で機動砲兵第2連隊の 一式砲戦車がシャーマンをいくらか撃破したらしいです。 #right(){(39:270-271)} **97式中戦車について質問です。 >砲塔の上についている手摺がアンテナだと聞いたことが有るのですが、 >ラジオチューナーについているものと同じループアンテナということでよろしいのでしょうか? アンテナタイプと指向性について誤解があるようですが。 ループアンテナは、アンテナ自体をループとして結合/終端させ、ループ内をとおる 電界をエネルギとして効率よく取得しよう、というアンテナです。副次効果として、 ループに結合しやすい位置にある外部導電体を、サブエレメントのアンテナとして 利用できるという特徴もあります。ポケベルのアンテナなんてそうやね。 んで、97式のアンテナについては、電気的にはループアンテナとは言えません。 単純に、中波帯域の長くて邪魔くさいホイップアンテナをうりゃーとひん曲げて 砲塔に沿わせる形状にして、ひっつけただけです。 もしアレがループアンテナだったら、指向性はお空と地べたに向けて 発生しちまいます。はい。 #right(){(40:電波な人)} **日本海軍の軍艦はずいぶんと強力だったのに日本陸軍の戦車は超弱かったのはなぜですか? 「超弱い」って程じゃない。チハ車(97式)なら3号初期型以上だし、同時代の標準レベルだ。  戦争が始まって戦車なんか開発してる余裕がなくなったのが大きいだろう。 ろくな対戦車火器を持たない中国軍を追い回すのはチハ車で十分だし、 アメリカ相手なら飛行機優先。戦車の生産数自体が非常に少ない。 #right(){(43:442)} **二次大戦中の日本の戦車は、連合軍の重機の弾丸すら貫通してしまうほど、装甲が薄いと聞いたのですが、どうなのでしょう? 軽戦車では装甲は薄かったですし、八九式戦車の装甲も薄かったようです。 しかし、九七式中戦車以後の装甲の厚さは、世界の趨勢に何とか追いついています。 尤も、それ以上に対戦車砲の発達、連合軍側の戦車の発達が早すぎて、意味を為してはいませんが。 後、鋼板の製作水準にも問題があり、炭素が多く含まれ、結構割れやすかったようです。 #right(){(46:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} 九五式軽戦車の装甲は最厚部で12mm、九七式中戦車で25mm、それに対し 当時のM2重機関銃の貫通力はAPを使用して100mで20㎜前後。 近距離なら九五式は貫通するでしょう。まあ、もともとM2重機は装甲車両や 観測気球を撃破するために開発されたんで仕方ないかもしれませんが。 #right(){(46:679)} **旧日本軍の戦車には防弾ガラスがなく、単に風通しがいい窓だったというのは本当ですか? ちは改の車長のキューポラを見る限り、防弾ガラスは入ってますね。 展視孔と言われるスリットは、ただの穴の様です。 穴を開けた円盤を高速回転させて弾片の侵入を防ぐ装置だの、プリズム使用の潜望鏡(普通は鏡を使う)だの、使い物にならない物の研究はしてますね。 #right(){(55:701)} **日本軍の戦車ですが、開戦前ならともかくM4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、デザインに進歩が見られないように思うのですが なんででしょうか? 日本には「T-34ショック」は生じてないのでパンターのような方向性への進化は 起きようがない。 ドイツから情報は入っていたらしいが。 替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し、それらは 一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)や三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良) 三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)となって結実してる。 これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にある だろう。 そして、これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた。 この2種は戦前からの重戦車開発の流れと戦争での戦訓が合わさったものなので、ティーゲルに 相当する位置にある。 あと、「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け、急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」 と言う位置には、ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車が ある。 #right(){(480:454)} **大戦中の戦車って、トランスミッションがよく壊れたらしいけど日本軍の戦車ってどうなの? いやよく壊れた。 でも、あの当時はどこの国のもトランスミッションがデリケートですぐ壊れるのは結構当たり前。 別に日本のだけに限った話ではなく、どこもそんなもの。 アメリカのものだけはわりとマトモな出来だったが、やっぱり荒っぽく扱うとすぐに壊れた。 ソビエトの戦車は起動輪が後ろにある=トランスミッションが後部にある、のでどれもレバーが 延々とロッドを介して操作することになるため、レバー操作がやたら重くて大変だと不評だった。 「ハンマーでブッ叩かないと切り替わらない」と言われ、でも実際にそんなことした日には 当然レバーとロッドが壊れる。 ドイツの戦車は作動そのものは快調だが丁寧に操作しないとすぐに壊れる繊細な作りな上 頻繁かつ綿密な調整と整備を必要とした。 戦車は重い車体を無理やり走らせてるので別に設計に欠陥がなくてもトランス ミッションが壊れやすく、ずっと後になってトルクコンバーター式のトランス ミッションが普及するまでは変速機関係は戦車のウィークポイントであり続けた。 #right(){(534:556)} **チハは57mm砲を長砲身化して攻撃力を向上させることは、できなかったんでしょうか? 優秀な砲を拡大していくと言う発想は当時よく見られた傾向。 日本も長砲身57mm砲を完成させている。試作のみね。 ただし、57mm砲を長砲身にしたと言う発想じゃなく一式47mm機動砲の拡大型。 装甲貫徹力は 1000mにて60mmと言われている。 ただし、日本製の鋼板撃ってテストした可能性があるから、アメリカやイギリスの 装鋼材に対してもそのような性能が出るかどうかは俺の調べた範囲では判らない。 何故チハに積まないか?と言い出すとおかしな話になる チハ車はノモンハンの戦訓から47mm砲の新砲塔を搭載することにした。 だが、欧州戦の情報や実際にアメリカの戦車など研究した結果からより高い火力を 持ったチト車を開発する。 つまり新主砲を搭載する新戦車が必要と考えたんだと判るよね。 そこから急場しのぎにでもチハに積めるような物では無かったと想像出来る。 もう一つ、57mm砲が完成した時点で一式中戦車の生産が始まっており、その意味 でも積む意味が無い。新型戦車に積むって決定で良いじゃないですか。 ところが完成した試作砲は貫通力が低いのでチト車には使わないことにした。 (47mm砲より上かどうかは問題ではなく、情勢に適応しない。) また、貫通力の割りに重い点が問題視され、砲そのものが不採用になったので 他の車種や砲戦車への搭載も当然されていない。 完成していない訳でもないし、合理性云々より出来事の時系列を理解しなければ ならないよ。 #right(){(349:74)} **「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが、単に輸送船からランプを使って自走で積み降ろしすれば良かったんでは? 当時輸送に使われてた貨物船は今のバルクキャリアの様なタイプが殆ど、 RoRo船なんかは車両を大量輸送する時代になって現れた。 当時にもフェリーは有ったが艀に毛が生えたような物で、外洋を長距離航海出来るような物じゃない。 でバルクキャリアはクレーン無しじゃ重量物の積み下ろしは出来ない、 舷側までのランプを作っても(それ自体長大で強度が必要な大変な物になるが)船倉に降ろせない。 それなら舷側を切り取ってランプをつけ、船倉にもランプを付け多層にすればRoRo船になるが、 そんな(当時は)普段使わないものが海上輸送の主体となるほど転がっているわけない。 要は重車両を輸送・運用するインフラが全く整ってない事が問題で、クレーンの能力だけに理由を求めるのもやや一面的。 #right(){(567:485)} **五式中戦車や、計画のみで終わったホリ車の主砲には半自動装填機を組み込む予定だったようですが、 >なぜこんな複雑で厄介そうな、ドイツ軍ですら採用していないような機構にしようとしたんでしょう? >チビの日本兵の装填手だと、巨大な砲弾を抱えて砲尾に突っ込むだけの体力が無いとでも思ったんでしょうか? いくつも勘違いがある。 半自動装填装置自体は簡素な装置で、事前に装填主が装置に砲弾を装填しておくことで ここ一番の連射性能を上げるだけ。 何故それが必要かと言うと、一つには日本人の体格の問題。 アメリカの場合は数十tある兵器を人力操作する上で、特にパワーアシストの開発 に注力せずに体格の良い者を戦車兵にすることで対応した。 (戦後、自衛隊がアメリカの戦車を運用しようとした時に体格の差が問題になった。) 日本では47mm砲の時点で問題を抱えており、戦車長が砲の操作をアシストしていた。 にも関わらず、戦車の乗員が定数割れしたまま運用することもあるような始末。 砲塔の動力旋回にも頓着せずに主砲が47mmの高初速砲になっても肩押し式の主砲を 好むくらいで、逆に主砲が75mmクラスになった所で装填・排莢操作の自動化の必要 性を認識した。(つまり体格が原因で着眼点が少し他国と違っていた。) 当時でも自動装填装置はアメリカがベルト式の物を研究しており、実用化も可能な レベルに近づいていたが、ま、ドイツ相手にはもっと他の研究に注力すべきと判断 したんですな。 もう一点。殊更にドイツのテクノロジーが優れていたと言うような事実もない。 赤外線暗視装置など開発が他国より目立って先行した技術もあるが逆も多い。 ドイツが出来なかったから難しい技術などと言うことは無い。 #right(){(343:288)} **日本戦車の戦闘力不足の一因ってやっぱり馬力不足? 馬力は関係ない。 統制型の次は航空用ガソリンエンジンの再利用、ディーゼルターボ開発をしていた。 エンジンに関しては無いなら作っている。それが理由で戦車開発が出来ない要因にはなってない。 まず、機甲戦力を持ち始めた当時、戦車の開発・配備にかけられる予算が過小だったために安価に数を 揃えられないかと言う思想が根付いてしまい、転換できない派閥があったとされる。 一式や新砲塔チハはBT-7に対抗すべく作った訳だが、太平洋戦争に突入後、敵方がM3軽戦車 程度しか保有しておらず、対抗可能と判断したために、その後の戦車開発がスローペースになっている。 もう一つは、省力化機器や土木作業機械、自動車工学が未発達だったことや、(当時併合していた朝鮮 半島を含む)自国内や満州、南方戦線の道路事情が悪かったことも大きい。 (実際、ソ連側が満州に侵攻した際もT-34やM4よりBT-7Mの方が使いやすかったとされる。) 我が国の運用者には、戦車が30tクラスになると既に限界を超えてしまうと言う発想があり、逆にそれ より重い戦車を運用するための技術開発が遅れていた。 (当時の日本人の体格では75mm長砲身砲の操砲は困難になってしまっているくらいで、アシスト装置が 無ければ装填はおろか、操縦操作なども困難だろうと思われる。) 情報の見誤り・軽視もあった。 開戦前~大戦前期にかけて、欧州、と言うよりもソ連戦車に引っ張られて各国の戦車が重厚長大に なっていく過程で、それを後追いした。(先回りして強力な物を作ろうと言う発想が無かった。) ドイツの駐在武官から、欧州戦の情報は入っていたが思いっきり軽視して対応が遅れている。 まあ、こんな話がある。 ソ連軍人がまだ友好的な頃、ドイツの4号戦車を見学して、その余りのショボさに「強力な 戦車を隠している」と信じて疑わなかった。 ドイツ側はその態度からソ連はより強力な 戦車を開発していると早い時期に予想出来たし、その後もスパイ情報があったが軽視していた。 我が国はさらにその後で欧州の戦車が75mm砲を撃ち合っていると聞いたが、なかなか自分達に 波及する話とは思えない訳で、M3軽戦車にワンサイドで勝てる戦車を作っている内にエラいことに なってしまった。 #right(){(569:639)} チリ車(五式)のエンジンは既存の航空用(BMWのライセンス品で練習機に使っていた) で800馬力。 ドイツのHL230より高出力だったりするけど。 そもそも、日本の戦車は戦闘力不足のものしか無いと言うのが誤りで、試製100t戦車・120t戦車では10cmカノンを搭載している。 これらの戦車では、航空用エンジンを2基、伝達ギアでリンクさせており、強力なエンジンが無いなら無いなりの工夫をしている。 馬力不足と言われても他国同様に航空用エンジン引っ張り出したり、アメリカのH型パワーパックのようにまとまりは良くなくても エンジン2基の連結でさらなる馬力アップも行っている。 100t戦車の場合、操作系に油圧アシスト装置を導入したり後方駆動を採用するなど、一部M4シャーマンより進歩的な部分のある。 ところがテストしてみると、不整地では重すぎでスタックしまくり、舗装道路では舗装を壊すので。 過荷重でテスト以前の問題。44年末まで放置した後、解体。 120t戦車は車体のみでテストすると流石に操縦性や抗堪性に問題ありと判断されている。 作れないでも無いし、作っても見たが、いきなりハードル上げすぎてるって言うのが実状。 #right(){(570:283)} **砲塔はチハとかでも自動で回転したんだよね? 手動です Ⅳ号J型も手動です #right(){(321:726)} **97式中戦車改はなぜ一式機動砲をそのまま流用して搭載せず、砲身をやや切り詰めた一式戦車砲をわざわざ採用したのでしょうか? これは単純にチハ改や、本命のチヘの砲塔に収めるにあたって後座長が問題となったからです。 狭い砲塔の中の戦車兵さんたちにとっては、高速で後退してくる砲は正に恐怖なのです。 ハ号の戦車砲も九四式速射砲より短砲身の物になってますね。(後に換装されてますが) #right(){(315:11)} **日本が試作したという100トン重戦車について教えて下さい 100㌧戦車は又の名を"大イ車"(もしくはミト車)と呼ばれ、基本構造は89式中戦車を 約5倍の大きさにスケールアップしたものです。 ・重量約100㌧ *全長10㍍ *全幅4.2㍍ *全高4㍍ ・装甲厚 前面:75㍉ 側面:35㍉+35㍉(スカート) ・武装 105㍉カノン砲×1・75㍉速射砲×2・7.7㍉機銃×3 ・エンジン BMW水冷12気筒550馬力×2基 作ったはいいがでかすぎて工場の門を出られず、走らせれば重すぎて腹を打つわ キャタピラが外れるわサスはヘタるわさんざんだったようです。 #right(){(47:名無し軍曹)} http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0248.htm 1940年、100t重戦車 (走行テストで100tの重量を走行装置部分が支えられず自壊) 荒地走行テストでずぶずぶ沈んでしまったとか... 日本の道路を走れなかったとか(幅が広すぎ) 速度はエレファント以下... 装甲もたいした厚さではなく役に立たないので分解されました。 #right(){(312:559)} **小銃の徹鋼弾でチハの装甲の20mmの部分を零距離で撃てば貫通しますか? 無理 九五式軽戦車の最厚部(12mm)以外なら可能 というか末期のは金質が悪化してたので最厚部も撃ち抜かれるかも #right(){(俺初質スレ431:828)} **チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は? >航空機なら、なかなか苦労しながらも更新が結構進んでいるのに。 まさに理由はそれだよ。 戦車作るなら工場設備は飛行機生産に回す。 鉄使うなら船舶の建造に回す。 島嶼やアジアが主戦場という戦局から戦車の優先順位が低かった。 #right{(515:164)} **なんで旧日本陸軍の戦車ってあんなに弱いの? ごく単純に言うと、技術(とそれを支える国力)が無かった。 砲、装甲、エンジンどれも。特にエンジンが力不足なのは痛かった。 サイズや重量に制限がでちゃうからね。 よく言われるのが港湾設備の問題。戦闘重量を増やし過ぎると海外展開が難しくなる。 2つ目が対戦車戦闘というのを重視していなかった事。 そして対戦車戦能力が必要だと気付いたときには航空主兵に転換していて資材が回ってこなくなった。 ぶっちゃけるとノモンハンまでザコ支那軍相手で優秀な戦車なんか必要なかったから作らなかった それがノモンハンでソ連戦車にコテンパンにされてさすがにヤバイと思ってようやく着手 苦労してやっと完成したのがチハ改や一式 しかしこの子が登場した頃には既に30トンやら50トンやらの化け物戦車が跋扈していましたとさ 当時戦車は歩兵科に属していて戦車は歩兵の陣地攻撃を支援するものであると考えられていた。 騎兵の機械化を行うとき、「戦車対戦車の戦いは騎兵の抜刀突撃並に同じくありえない」と切り捨てられている。 92式、94式、97式装甲車(騎兵連隊を改変した捜索連隊が主に装備)が実質戦車なのに装甲車と名乗ったのも 兵科間のセクショナリズムから。 ただ、チハ車が比較的新砲塔にできたことに現れているように、先見の明のアル設計者と一部の 用兵側は戦車対戦車が起こることを予期していた。 #right{(362:743-751)} **司馬遼太郎が戦車をヤスリで削った話の真偽について教えて下さい >戦時中に戦車兵だった氏は、 >「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて、ヤスリをかけても歯が立た >なかった。しかし、戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた。敗戦間際の >日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」 >といった趣旨のことを書かれていたのですが、これは本当なのでしょうか? 一応、過去に出た意見を総ざらいしてあげとく ・軟鋼を使ってたという文そのものが司馬の捏造説 ・軟鋼をあえて使用することで抗弾性の向上を図っていた説 ・実は資材不足でホントにただの鉄を使って作ってました説 真偽のほどは不明。 漏れが知っているのは、 1)司馬が、末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表。 2)軍事研究家?が、わざと軟らかくしていたんだと紙上で反論。 3)元戦車工場勤務の方が、末期には鋼鉄は手に入らず、普通の鉄を   使用していたと再反論。 って話でつ。御参考までに。 #right(){(101:389-417)} 圧延鋼板の製造配分に関しては、1944年春から陸軍向けが頗る少なくなり、 重火器の生産が高射砲を除いて停止され、弾薬生産が削減され、戦闘用車輌 の生産が激減し、軽戦車の生産が事実上停止し、中戦車、装甲車輌の生産が 著しく削減されると言う状況にはなっていますが。 #right(){(101:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **陸軍は本土決戦のため三式戦車を温存してたようですが、1945年夏の時点のM4シャーマンに勝てたでしょうか? 昭和20年5月参謀本部によって出された「戦車用法」によると、 「三式中戦車は600メートルにおいてM4戦車の正面を貫通し得るも 命中角の関係上その公算は僅少にして、側面および背面を攻撃するを要すること多し。」 とあります。 装甲も強力とは言えず、正面から打ち合うのはやはりかなり苦しい戦車かと。 #right(){(104:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **四式中戦車や五式中戦車の後継は計画されてましたか? エンジンを過給器付空冷DieselとしたチリII型の計画はありましたし、120t戦車の 計画はありましたが、計画途中で敗戦となっています。 なお、1943年以降、陸軍の考え方としては、戦車の量的充当よりも質的向上に ウェイトを置いたため、三式の主砲換装は考慮されていましたが、四式の性能 向上までは考慮されなかった様です。 #right(){(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車はM4に対抗できたんですか? 新砲塔チハで正面から撃ちあってもほとんど勝ち目がないので 待ち伏せて側面や背面から射撃して対抗してた。爆薬付けて特攻することさえあった。 75mm砲を搭載した一式自走砲や三式戦車ならだいぶマシだが、不利な戦いには違いない #right(){(俺初質スレ432:モッティ ◆uSDglizB3o)} **3式中戦車にベンチレーターがついてないという記事がP誌に載ってましたが、本当でしょうか? 終戦までに日本軍の戦車にはベンチレーターは装備されていませんでした。 チハ車による実験では、密閉して前方銃で30発も発射すると軽い一酸化炭素中毒の 症状がでてきたそうです。 特に銃手席ではガスの滞留が激しかったようです。 対策としては、射撃の中止・各窓扉の全開などがありますが、信じがたいことに 現場では車長が扇子を用意して前方銃手席をあおぎ、一酸化炭素を拡散したとか。 #right(){(123:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **一式中戦車の主砲はその主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか。 一式中戦車の主砲は47mmです。(試作一号車は57mmですが) Shamanを撃破する場合は、可成り目標に近づくか、後ろや側面を狙うしかありませんでした。 47mm砲の性能的には、直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます。 ただ、実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には、70mまで近づかないと、 M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした。 >それは徹甲弾の材質に問題があったということでしょうか? 特殊鋼、特に、ニッケル系やマンガン系の材料不足と、金属回収で回収した金属粉を 混合した事による脆さが出ているので、戦争が進展する程、問題が発生したのではな いかと思います。 ちなみに、同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で、例えば英国の2ポンド砲は、 初速850m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm)、米軍の 37mm砲は、初速775m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力60mmになります。 一つ上のクラス、英軍の6ポンド砲では、初速786m/secですが、射距離1,000mで46mm、 米国の75mm砲では、初速700m/secですが、射距離1,000mで69mmになっていますね。 #right(){(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **司馬遼太郎が日本の戦車エンジンについて、でかい、馬力がない、複雑で運用が難しい、という欠陥だらけのもの書いてましたが。 >本当でしょうか? 九七式中戦車に用いられていた、三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm、 170馬力/2000回転、重量1200kg)に関しては、噴射系統がデリケートで調整が難しく、耐久力に欠けるきらいがあり、 動力性能に関しても、公称200馬力の筈が、実力は170馬力程度しか出ず、しかも、白煙、黒煙が甚だしく、 更に五月蠅い(三菱の整備員曰く、豆煎りエンジンと言っていた)。 シリンダとシリンダヘッドは4本の長い通しボルトで共諦めする方式で、チェンブロックや他車の動力を用いた エンジン吊り出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからで、ローラータペットを用いた4弁方式に ついても、こなれておらず、しかも、直噴はまだ未完成の技術でした。 このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く、「まるで航空発動機のような、屁理屈の塊のようなエンジン」と 評していたそうです。 当時の軍用車両用ガソリンエンジンでは、オクタン価の制約から余り攻め込んだ設計が為されず、車輌、兎も角人員が 生きて帰ってこられる信頼性を重視したために非常に甘い設計になっていました。 他方、ディーゼルに関しては、池貝とか三菱、いすゞなどが犇めいていたため、性能重視型の設計ではありましたが、 それでも、軍用、就中、統制であるがために、設計には十分な余裕を持たされ、最大出力時正味平均有効圧が可成り 低い状態に置かれていました。 本来は、常用時の負荷率は低い筈ですから、最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが、 第四技術研究所や、戦車部会のメンバーが、作戦行動中に逆上した操縦者が、無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い 運転を続けて、エンジンを壊すことを心配したためか、パワートレイン側の問題があったのかもしれません。 #right(){(187:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた、というのは本当でしょうか? 「行進射」と言って、日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です。 砲手と操縦手が連携して、発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います。 当然命中率や発射速度は低下し、五七ミリ砲では ・一分間の発射速度:1~2発(停止時:5~12発) ・500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)になりました。 したがって実際には戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います。 #right(){(223:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **九七式中戦車の砲塔内には、何発の弾薬を積めますか? 八九式戦車の資料しか手元にありませんが、八九式乙型の場合は、8発入り弾薬箱が5段車体内に 装備されており、これに加えて、即応予備として4発砲弾架に掛かっています。 つまり、44発が車体内に置いてありました。 なお、甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり、これらが車長、砲手の腰掛けを兼ねていました。 砲側には、右側面に4発、左側面に2発の57mm砲弾架があります。 九七式中戦車の資料は、カッタウェイしか無いので、しかとは言いかねますが、砲塔前部に4発の弾薬架があり、 砲塔後部にも、5発分の弾薬架がありました。 また、車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です。 1箱20発入りとして40発、即応用として10発程度あったのではないでしょうか。 #right(){(215:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **日本軍の戦車の燃費はどれぐらいだったんでしょう? 日本戦車の燃費  八九式中戦車(甲) 0.64km/l  八九式中戦車(乙) 1.00km/l  九七式中戦車    0.85km/l  九七式中戦車改   0.85km/l  一式中戦車      0.64km/l  三式中戦車      0.64km/l  四式中戦車      0.63km/l #right(){(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)} **チハでM3やM4に対抗出来たんですか? 1942年4月、ビルマへの第二期侵攻作戦の為、戦車部隊が投入された。 彼の地で対決するのは、当時アジアに於ける連合軍最強の戦車である、M3軽戦車。 と言う訳で我らがチハタンがM3軽戦車の装甲をぶち抜けるか、研究することになった。 標的は遺棄されたM3軽戦車、迎え撃つは、各中隊から選抜されたチハタン、第一中隊で鹵獲したM3軽戦車。 最初に各車1発の57mm徹甲弾を装填し、標的に向けて500mの距離から射撃。 それは狙い過たず、砲塔に2発、車体に1発命中していたのだが、その部分の塗料がはげていただけで、 徹甲弾は粉みじんになっていた。 次いで、M3の37mm徹甲弾を同じ距離500mで射撃…これは見事に貫通していた。 それでは、と、300mの射距離で徹甲弾発射。 これも木っ端微塵に徹甲弾の方が飛び散るだけだった。 そこで、射距離300mから今度は榴弾で側面を集中的に撃ってみた。 すると、M3軽戦車の側面には衝撃で装甲板に30cm平方の穴が穿たれたのである。 と言う訳で、M3軽戦車に対し、チハタンの戦法は、 「小隊(3両)で300m以内に肉薄し、1両が囮となって正面に、残りが側面に回り、近距離から 榴弾の一斉射撃を側面に対して行なう」 と言うことになった。 信じられなくはないが本当だ。 >30cm平方ってことは、装甲接合のリベットが吹き飛んではがれたのかな? 装甲の溶接部が衝撃で割れたラスィ。 #right(){(信じられないが、本当だPart21:眠い人 ◆ikaJHtf2)} **日本戦車はソ連戦車と違って無線が完備していたんでしょうか? チハ(九七式中戦車)だと、いわゆる「鉢巻き」(無線アンテナ)を標準装備している。 #right(){(俺初質スレ1024:416)} ----

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