日本の一般的な兵隊が持つ小銃はボルトアクション式なのでしょうか。
旧軍の小銃はボルトアクション式です。システムは19世紀のモーゼル銃を参考に製造しました。
最初は村田式小銃が最初だったと思います。
日本のと言うより、当時の歩兵の持つ小銃はどこの国のもボルトアクションという、一発撃つたびに
手動で弾を装填するタイプのものでした。ドイツ、イタリアイギリスしかりです。
旧日本軍の兵隊さんは靴下を履いてましたか?
かかとのない筒状というか袋状というかそんな靴下を履いていたそうです。(陸軍)
戦死した兵士の家族にはなんらかの補償はされたのでしょうか?
知ってる範囲でお答えします。一部間違いがあるかも知れません。
妻子が居る場合、子供が20歳になるまで 妻が再婚するまでの補償は、有ったようです。
旧軍人、軍属は年金が有りますから補償も有ったと思います。民間人は不明です。
東条英機の竹槍事件とはどういったものなのでしょうか?
毎日新聞に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事が載り、東条英機は毎日新聞を差し押さえ、記者の新名丈夫の懲罰召集を命令。
一方、海軍は新名丈夫記者処罰に同情。彼を従軍記者として召集したため、陸軍と対立する。
旧日本軍の「参謀旅行」って何ですか?外国に勝手に視察に逝って国際法には触れないのでしょうか?
現在の自衛隊で言うところの「現地戦術」だね。
教育とかで地図上で行う「図上戦術」を、現地現物で行いながら「あそこに砲兵を配置」とか「この経路は戦車の前進が出来る」とかやっていってお勉強するの。
別に外国と言わずに国内でやるよ。
日本はドイツからの、Me163,Me262などの飛行機に関する技術協力はあったようですが、キングタイガーなどの戦車関係の技術協力はなかったんでしょうか?
タイガーは研究目的のを潜水艦で輸入しようとしたね。戦況悪化で駄目だったけど。
ドイツと日本は地理的に連絡困難ということもあり、特に独ソ開戦後は潜水艦による連絡に頼ることとなりました。
日本駐独大使館が戦争末期に資料としてティーガーⅠ型を購入していますが、輸入は不可能でした。
Me262、Me163などはジェットエンジンの実物、書類資料が潜水艦で送られ、
戦争末期に準コピー製品の「橘花」「秋水」などが開発されていますが、そのまま終戦を迎えました。
軍と警察が信号を赤で渡ることについてものすごくもめたことがあったと聞きましたが、なぜそんなにもめたのか詳細を教えてください。
ゴーストップ事件と呼ばれています。発端は、赤信号を渡る制服の軍人を警察官が制止したことです。
これが、第4師団と大阪府との対立に発展し、ついには陸軍省と内務省との対立にまで発展します。
軍人は統帥権条項により天皇の命令にのみ服するのであり、警察官の制止に従う必要はない、というのが陸軍側の主張でした。
当時の内務大臣は政党政治家であり、政党政治体制下で抑圧されていた軍部が、
五・一五事件や満州事変などを背景にして政党政治に対して攻撃を加えたと見る見解もあります。
旧日本軍には軍事参議院なる組織が存在したようですがこの組織はどういう機能を有していたのでしょうか?
日清戦争当時、陸主海従だった大本営の制度を、日露戦争前に改訂したのを機に
陸海軍同等にしたことで生まれた機関で、従来天皇からの後家紋には陸軍だけの判断で答えていた物を、
陸海軍協同の実を上げるために作られた物です。
構成員は、陸海軍元帥、陸海各大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長及び軍事参議官に親補された陸海軍将官が充てられ、
天皇からの諮詢に対して意見を上奏するための機関でした。
なんで、旧日本陸軍、海軍は仲が悪かったんでしょうか?
ドイツ軍の仲の悪さは有名ですよ。英米もいいわけではないです。
縄張り意識がありますからね。
日本軍の場合、皇族と違って、華族の特別扱いはなかったような記憶があるのですが
確か前田利為侯(前田家の当主)とか、伊達宗茂とかは少尉任官だった
ような気がします。
皇族関係は結構順調な出世をしはったと思いますけど。
太平洋戦争当時,日本軍に植民地のはずの朝鮮半島出身の将校,それも将官がいたというのは本当ですか。
「洪思翊中将の処刑」(こうしよくちゅうじょうのしょけい)
私が持っている本は、
出版 文藝春秋
著者 山本七平
洪思翊中将の人柄や経歴、
連合国による戦犯裁判、
日本、韓国、西洋の文化の違い、等について書かれている本です。
私には、大変興味深く、ためになった本です。
韓国について考える人は必読ではないかと思っています。
あとは皇族になりますけど、李王垠中将がいますね。
この方は、明治30年に李太王の第七男子に生まれ、韓国併合で皇族に列せられ、
大正9年に梨本宮守正王の長子と結婚されました。
陸士29期で、有末中将と同期ですね。
昭和14年に近衛第二旅団長、15年に留守第四師団長となり、昭和16年に第51師団長に補任され、
昭和18年に第一航空軍司令官になって、昭和20年に軍事参議官になっています。
あと李鍵公(李王の甥)がいます。
この人は明治42年生まれ、陸士45期で昭和16年に少佐となり、昭和19年に第一軍作戦参謀、
昭和20年に中佐に進級し、第二総軍参謀となりましたが、広島の原爆で殉職されています。
前の大戦の徴兵逃れの方法ってどんなのがあったんでしょうか?
一般的に徴兵というのは役場の戸籍係とかが或る程度恣意的に行っていたので、
そう言った方々と懇意にしていれば、徴兵されることは滅多にありませんでした。
あとは、医学生になることですかな。
成人男子って全員徴兵されたのですか?
平時で16%。日中戦争当時で50%、太平洋戦争末期でも70%です。
平時に乙、丙合格で現役免除になった人でも太平洋戦争末期の根こそぎ動員で召集をかけられてます。
20歳の徴兵検査で甲種合格した壮丁の内、くじ引きで現役入営した人はその後も
「予備役」(5年4ヶ月)として戦争が始まると動員されます。
その後、後備役10年です。
未訓練の乙種、丙種合格の人は補充兵役(12年4ヶ月)としてその後になります。
旧軍とかで伝統のシゴキとか懲罰があったら教えてください。
旧海軍では「罰直」と称して下記のようなことが行われていたそうです。
衣嚢支え・・・衣嚢(ダッフルバッグのようなもの)を両手で頭上に持ち上げ、その体勢を数分間継続
蜂の巣・・・衣嚢を収める「衣嚢棚」に潜り込む。
ほかにも、配膳済みのテーブルを集団で支えるものなどもあったかと。
ちなみに、「デコピン」は「牛殺し」と呼ばれていたそうです。
中野の兵学校の通信業務とは、情報収集(スパイ活動)のことですか?
中野学校はいわゆる諜報活動関係の教育を行ったところだよ。
よく旧日本軍の餓死の話を聞きますが、人間は水と塩があれば1月は生きるし周りは全部海でしょ。なんで海水飲まないんですか?
海水の塩分濃度は、人間の血液よりもかなり高いので、体内の塩分濃度を下げるために、
更に大量の水が必要になる。
結局、海水を飲んだところで、食糧事情はいっこうに好転しない。
せっかく日本人は刺身を食べられるのに、魚を釣らなかったの?
魚を獲ったり釣ったりした人は沢山いた。
でも、日本とは全然生息してる魚の種類が違うので、どれが食べられる魚
なのかよく分からず、毒のある魚に当たって死ぬ人が続出した。
また昼間海に出るとよく通りすがりの米軍機に銃撃されることになった。
手榴弾や砲弾を使ったバクダン漁(水中に爆発物を投げ込んで爆圧で気絶
して浮いてくる魚を捕まえる)も熱心に行われたが、やっぱり「食べていい
魚と駄目な魚」の区別がよくつかず、やっぱり当たって死ぬ人が続出した。
とある人の手記で、たった一つ残った手榴弾を巡って
「バクダン漁をするか自爆自決用に温存するか」
で揉めて殺し合いになった、という何とも言えない話が。
何故、大日本帝國では、陸軍省と海軍省で国防関連の省庁が二つに分かれて存在していたのでしょうか?
今の日本みたいに、防衛省で一つに統合した方が、いろいろな面で効率的だと思うのですが。
昔は兵部省っていう現代の国防省みたいな役所だったんだが、長州と薩摩の派閥争い
によって陸軍省と海軍省に分離した。
ちなみに当時は、陸軍と海軍は別々に大臣を持つのが世界的にもトレンディではあった。
旧軍の参謀ってのは、何をする人なんですか?
ガ島で川口少将が辻参謀の意見で解任されてますけど、辻参謀は中佐ですよね。
階級とは関係なく作戦や人事を行う偉い人って認識でいいですか?
川口少将は現場の指揮官。
対して辻は大本営から派遣されて作戦を監督する立場にある。
つまり地方の支店長と社長の意向を受けて派遣された本社社員の違い。
辻は川口少将の指揮下にある訳ではないので、この場合階級より権限の違いが重要という訳。
軍司令官
│└──軍参謀 ←参謀は、部隊の指揮系統「ライン」からは外れてる「スタッフ」の一種。
師団長 軍とか師団とかの各レベルのライン上指揮官を、作戦立案面で補佐。
│└──師団参謀 つまり、命令権限や人事権限を直接には持たない。いわば相談役。
連隊長
│
大隊長 ←こういうふうに縦に並んで指揮系統の一部になってるのが「ライン」
│
兵隊
上のようなのが本来の区分なんだが、実際の日本軍では参謀が作戦の実権を握り、
部隊長名義で勝手に命令出しまくりという事態が多発した。
(他方、部隊長は具体的指示をしないでどっしり構えるのが美徳とする傾向もあったらしい。)
しかも、現地指導のために、上級司令部から>>458みたいにして派遣されてきた参謀の場合、
特に無茶苦茶をやる傾向があったようで。
関東軍からノモンハンへ派遣された辻参謀(少佐)は、将軍クラスのいる師団司令部を牛耳った。
日本軍は、上官の命令に従って行ったことに対しては部下は責任を問われないと聞きましたが
それなら、なぜ2.26事件の決起に参加させられた下士官や兵は「おまいら死んで来い」とばかりに
中国戦線などの激戦地に飛ばされてしまったのですか?
どこの国でも建前と本音というのはありますが、日本の場合は一度失敗をしたものは一族郎党皆殺しっていう雰囲気があって・・
特に軍隊ではたとえ上官の命令といえども、軍全体の意向に反したものは基本的に死刑もしくは自決もしくは玉砕を強要される。
漫画家の水木しげる氏は戦時中にニューブリテン島バイエンに上陸したが、支隊長が玉砕命令を出してほとんどが玉砕、わずかに生き残った将校は自決、
兵や下士官は次回の戦闘で先頭に立って玉砕を強要された(が、戦闘がなくて助かった)。
要は日本軍の場合は「失敗もしくは命令に反したものは氏ね」ということ。まあ例外もわずかにあるが。
ただし、参謀に限っては建前上何の権限もなく、責任も問われないことになっていると聞いたが。
辻政信はノモンハンで失敗しても返り咲いている。この経緯についてはよくわからんので識者レスきぼんぬ。
辻ーんのノモンハンでの失敗後の処遇に関する磯谷廉介中将(当時関東軍参謀長)の述懐を引用すると、
「ノモンハン事件に対して、辻参謀の言動が大きな影響を及ぼしたことは事実である。
しかし、作戦指導の大綱は、副長以上が決済したものであって、責任は一少佐に過ぎない
辻参謀にあったのではなく、特に軍参謀長と軍司令官が負わなければならないものであった」
(「悪魔的作戦参謀 辻正信」光人社NF文庫 生出 寿 より)
ということになります。
そこには幕僚の独断専行を追認して責任は自分で被るのが立派な将軍という思想が
あったように思われます。
実際に植田謙吉関東軍司令官と磯谷参謀長は予備役に編入されています。
辻ーんが復権できたのは、服部卓四郎参謀本部作戦課長の引きがあったのと、
当時辻ーんは独自に南方作戦に関する研究を行っていたので、それが東條英機の
目に留まって、いわば「南方通」と思われていたという事情があったり。
(503:316 名前:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
WW2の時の日本軍がブルドーザーとか持ってなかったって本当ですか?
当時の日本の重機の普及状況ってどんな感じなんでしょう?ドーザーないならショベルとかダンプもなし?
ブルドーザーが開発されたのは1923年。
しかも当初はタイヤ型で、現在と同じキャタピラ型になったのはかなり後です。
意外に思うかもしれませんが、1940年代においては超ハイテク機器だったわけですよ。
まだまだ世間に普及してるものじゃなかったんです。
国産初のブルドーザーは昭和18年、小松製作所が陸・海軍それぞれの発注に対して生産している。
遅きに失しているとも言えるけど、持っていなかったわけではない。
ショベルやダンプ、トラクターはそれより前に国産が生まれているが、
昭和初期は雇用確保の為に「なんでも人力」の時代で、普及ははかばかしくなかったとか。
償勤兵ってなんですか? 自衛隊にもあるんでしょうか?
もともとは旧軍時代から使われてた言葉で、
陸軍刑務所から出た後に徴兵期間が残ってると、償勤扱いになった。
あと、自衛隊にもある。
ショーキン=償勤隊員。
刑務所勤務(服役とは言わない)中は無給となり、
本来の給与の30%にあたる額を国庫に納めなければならない。
これが納めきれない場合は、下番後(出所とはいわない)、働いて返すことになっている。
兵隊が占領地で個人的に何か物を買おうとした場合それは軍票で買うと思うのですが
駐屯地で日本円で給料をもらい、それを軍票に両替するのですか
それとも、最初は銀行振込で駐屯地で引きおろすときに軍票で引き出すのですか
戦争中だと、補給によってはお金すら配達できない地域もあったと思うのですが
その場合、給料はどうなるのでしょうか
給与のうち、現地で使用する分については軍票で支給される。
自宅渡し扱いにする分は軍用郵便局または野戦郵便局の口座への振込みいう形で支給される。
それから軍票で支給することができない戦場にいて、かつ戦死が確認されていない場合
(例:末期のラバウルにいる場合)には口座に振り込まれ続けていく。
旧軍では玉砕命令が出て、でも何か生き残ってしまった場合、帰還したら死刑ですよね?
死ぬくらいなら敵に降伏するべ、と考えた人も多くいたんですか?
まず玉砕命令というものは存在しない。あくまで作戦を実行した結果として玉砕するだけ。
また基本的に捕虜になっただけでは死刑になることはない、死んでこいとばかりに死地に送り込まれたりはするが。
降伏する兵は少数だがいた。
しかし一般には敵兵に捕まったらなぶり殺しにされると信じられていた(少なくとも中国戦線ではそうだった)し、
一度捕虜になれば日本に帰っても居場所がない、しかも本人のみならず家族まで中傷にさらされる羽目になるので
降伏を選ぶ日本兵は特筆に値するほど少なかった
(519:796,モッティ ◆uSDglizB3o)
旧軍で連隊区司令官という役職がありましたが、これは連隊長とどう違うのでしょうか?
連隊区司令官と連隊長は兼務ですか?
両者は別のもの。
簡単にいうと「連隊」は軍隊で、「連隊区司令部」は役所(自衛隊の地方連絡部のようなもの)。
連隊区司令部(司令官)は、連隊区内における徴兵・召募・恩賞・職業補導、留守業務、在郷軍人の服役・召集、在郷軍人会、
青年学校、国防思想の普及などに関する事務を掌った。
連隊区は、昭和16年10月31日以前は概ね常設師団の歩兵連隊所在地と沖縄に置かれたが、昭和16年11月1日以降は、概ね都道府県ごとに1つ置かれた。
ただし、北海道は4つ(旭川・札幌・函館・釧路)。
また、朝鮮・台湾・満州には兵事区が置かれたが、樺太には豊原連隊区が置かれた。
日本においても戦闘機王とかライフル王みたいな武勇伝ってあるんですか?
ある意味、ルーデルやヘイヘより凄いのがいる。
舩坂弘軍曹
擲弾筒分隊長として大暴れし、部隊壊滅後は重傷を負ったまま
米軍指揮所へ潜入、発見・反撃されて戦死判定を受けるが3日後に蘇生。
その後、捕虜収容所を脱出し、敵弾薬庫を爆破した上で生還。
長嶺公夫少尉
拳銃と手榴弾のみで敵飛行場に突入し、敵航空機の発進を阻止。
迎撃に出てきた敵戦車2両を手榴弾で撃破したのち、装甲車両からの
射撃で負傷しながらも応戦、生還。
旧軍の電熱服は危険と聞いたのですがどのへんが危険なのでしょうか?
坂井氏によると、海軍の電熱服は感電したり発火したりする危険性が高かったそうです。
重くて、あまり暖かくなく、危険性が高いということで嫌われたようで。
日本軍の将軍・提督に対する教育はいかなるものだったのでしょうか?
戦争の勝敗に影響を与える要素として国力と軍事技術などがあげられますが
やっぱり一軍・艦隊を指揮することになる将の能力も戦争の勝敗に重大な影響を与えますよね?
日本には数多くの名将、愚将が生まれましたが、日本の将軍や提督は補給や兵站の事についてちゃんと教育を受けていたのですか?
日本で将官になる人の場合、大抵は陸軍大学校もしくは海軍大学校を経ています。
陸軍大学校は参謀本部所管の参謀養成教育期間で、2年以上隊付勤務を行った中少尉(後に大尉も含まれる様になります)を選抜して、
高等戦術・戦略を修めさせ、併せて軍制、幕僚要務を始めとする社会科学・語学などの軍人に必要な専門教育を行うものです。
その受験は、概ね中尉時代の隊付期間中に受験勉強をし、隊長の推薦を経て受験します。
試験科目は、軍事学・外国語・数学+後に本邦史が加わります。
修業年限は平時3年ですが、1937年頃から参謀要員不足で2年となり、1942年は1.5年、1943年は1年、1945年2月入学は半年となりました。
教育内容は、交通学・歴史学・数学・統計学・国際公法・国法学・外国語(英仏独露中の内一つ)・馬学・衛生学・経理学・兵器学・築城学・
参謀要務・戦史・戦術・海戦術・兵要地誌・兵棋・要塞戦術・馬術・見学(騎兵学校・海軍大学校・要塞)・野外測量・現地戦術・参謀演習
旅行・戦史旅行・隊付勤務・秋期演習参与・特別大演習参与などでした。
こうした教育内容は確かに参謀を教育するのには有利であった反面、学校教育では指揮官教育・管理者教育・経営者教育の視点が無い
為、参謀から高級指揮官となっても、参謀の頭で指揮をする事が多く、かつ、隊付勤務は進級条件を満たす為に最低年限行う為、大隊長
を経験せずに聯隊長となったり、聯隊長、旅団長も経ずに師団長になるケースも多く、部隊指揮の能力を磨く間もなく高級指揮官になって
現場を知らずに作戦を立てたりするケースが出ています。
また、無天組(陸軍大学校の教育を受けない組)が叩き上げで指揮官になった場合は、逆に参謀経験がない為、広い視野が無く、参謀を使い
熟すことは出来ないと言う欠点が組織的にありました。
因みに、陸大卒業を表わす「天保銭」という言葉。
明治でもこの天保銭は8厘として通用した訳ですが、一般庶民からすれば、「天保銭」は、「大きな形なのに1銭にも満たない」と言う軽蔑の意味で
使っていたりします。
海軍大学校は、海軍士官に高度の学術を教授する最高学府ですが、この内、エリート養成の意味があったのは甲種学生を指します。
甲種学生は大尉任官後1年の海上勤務を経た者で大抵は海兵卒業後10年程度が必要です。
1935年までは修業期間2年、以後短縮が始まり、1943年の最後の入学者になると8ヶ月となりました。
甲種学生の教育科目は、戦略戦術・戦務(作戦)・戦史・軍政学・兵器学・航海学・兵要地誌・陸軍戦術・築城学・交通学・衛生学・法学・
歴史(海事史・外交史)・統計学・語学(英仏独露中の内1~2を選択)です。
但し、甲種学生を経たからと言って、陸軍ほどこれに偏重している訳ではなく、寧ろ海兵卒業時の成績が進級の条件となるケースが
多かったりします。(とは言え、陸軍に比べるとと率が高いだけで、海大卒の将官進級率は82.9%と陸軍と大差ないですが。
日本の帝国陸海軍の一般的な兵士の身長や体重はどれ位だったんですか?
平時の場合は甲種合格者の中から徴兵されますので、身長1.55m(1940年以降は1.52m)以上となります。
更に、胸囲が身長の半分以上、筋骨薄弱でなく、裸眼視力0.6以上(1940年以後は0.3以上で矯正視力0.8以上)、
特記する疾病や精神の異常がない者とされています。
海軍は陸軍と同じ徴兵で区分された為、最低限の数値としてはこんな感じとなります。
(527:127:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
民間人がいきなり将校になる道もあったんですか?
水木しげる先生の「総員玉砕せよ!」を読んでいたんですが、
玉砕命令にもかかわらず生き残ったとして自決させられた将校2名(ともに少尉)は
一人は女学校の先生、一人は金持ちの一人息子だとのこと。
この人たちはシャバでは民間人だったって事ですよね。
中等学校の学校教練に合格した後、徴集で二等兵として入営後、志願して幹部候補生となり、
2年間の訓練として見習士官を経て予備役少尉となる幹部候補生制度による場合もありますね。
1927年までは1年志願兵制度として、府県立中等学校卒業者で服役中の費用を自弁出来る場合は
1年間で帰休出来る制度でした。
終末試験で合格すると下士官として予備役編入、勤務演習に出て合格すると将校となります。
制度自体は幹部候補生制度になっても、1933年までは費用自弁が残り、特別扱いしていました。
「総員玉砕せよ!」は手元に無いのですが、そのモデルになったズンゲン守備隊の自決した
二人の将校のうちの一人である加古忠男中尉(少尉ではない)は東京高等師範学校卒で、
愛知県桑名市内の中学に理科教師として勤務中に召集されたとのことです。
ですからおそらく、召集された後に甲種幹部候補生に選抜されて士官になったのでは
ないかとおもわれます。
終戦時の日本の軍人ってどれくらいいたの?
何故、日本陸軍航空隊、海軍航空隊などでは、英語の識別信号を使用するようになったのですか?
無線で味方を呼び合うときの識別信号を、「敷島一(しきしまいち)」や「富岳(ふがくに)」などの母国語である
日本語の識別信号ではなく、「RedOne(レッドワン)」や「ArcherTwo(アーチャーツー)」などを使用するようになったのですか?
日本語だと相対的に言い難いし分かり辛いし喋るのに時間が掛かるから、
より言いやすく短時間で喋れる英語に取って代わられた。
戦闘のテンポが速く、ノイズも多い航空無線では、
日本語は定着せず英語のコールサインに取って代わられた。
別に英語に拘っているわけではなく、
ポルトガル語、フランス語、ドイツ語なども併用されるし、
日本語が完全に使用されないわけでもない。
国軍で外国語を使用するからと言って、
愛国心に欠けているとか、売国奴とか、外国の犬に成り下がっていると言うことではない。
要するに高効率化と適材適所優先という流れ。
隊で意見が割れ、一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に生還した場合、副隊長は敵前逃亡などの罪に問われるのでしょうか?
水木しげるの戦記漫画で、戦況の悪化した東南アジアの前線の部隊が気が付いたら敵に包囲され、
その際にその場で玉砕すべきと主張する隊長と、敵の包囲を突破して本隊に合流すべきと主張する副隊長が対立
結果、隊の一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に本隊へ行くという場面があります
包囲突破は敵前逃亡にはなりませんです。
抗命罪として罰せられますが、死ななかったので勝ち組ですね。
方針を決定してないまま戦闘になったのなら逃亡はしてない(戦闘には参加してるんだから)ので軍規違反ではない。
ただ部隊の方針として「この場で玉砕」が決定されたってんなら従わなければ違反。
上級司令部が「そこで玉砕しろ」って命令出してたりしたら完全に違反。
でも隊長が本隊に「我等玉砕ス」なんて通信送ってたりすると
「なんでお前ら生きてるんだ、さては逃げてきたんだろう」
と言われて敵前逃亡扱い、銃殺コース・・・ということもありえる。
現実にはどこの軍隊でも規定にかかわらず大概の場合
「部隊指揮官は戦死したけど自分たちは生きて帰って来た」
ばあいには
「仲間を見捨てて逃げて来たな」
って目で見られて弁解無用の扱いをされることがほとんど。
包囲された部隊が全滅したあと、包囲を突破して味方陣地にたどり着いた部隊が脱走したと誤解されて将校
が自決した(させられた)とか、全員が前線に送り返されて「死守」を命じられたとか、敵陣地の(どう考えても
成功するとは思えないような)攻撃を命じられたとかの例は多数ある。
水木しげるの漫画はニューブリテン島のズンゲンでの実話に基づいて書かれたものだったと思う。
「ズンゲンの実話」
玉砕を主張する若い大隊長(少佐)と遊撃戦を主張するベテラン中隊長(中尉)が対立
→大隊長は中隊長に「一部の部下をやるから好きなようにしろ」と命令
→大隊長は司令部に「最後の斬り込みを敢行する」と打電し、無線機を破壊して自決
→中隊長は脱出の途中で戦死するが先任小隊長が部下を率いて後方の味方陣地にたどり着く
→小隊長は後方陣地の指揮官から「師団から守備隊は玉砕したと大本営に報告したので前線に追い返して死
所を与えてやれとの命令があった」と言われ、敵陣地の攻撃を命じられる
→部隊は攻撃のために出発するが逡巡し味方陣地に帰ってくる
→派遣されてきた参謀が別の地区(ヤンマー)の守備隊に合流し、そこを死守せよとの師団命令を伝達
→ヤンマー到着後、先任小隊長と将校1名は自決
沖縄戦でも小禄に孤立した海軍部隊の司令官(大田少将)が、玉砕寸前に陸軍の参謀長(長少将)に対して
「敵後方を攪乱又は遊撃戦を遂行のため、相当数の将兵を残置する。右将来の為一言申し残す次第なり」
という電報を発信している。
これは、大田司令官が部下に包囲された陣地を脱出して攪乱・遊撃戦を命じるとともに、これらの部隊が脱
走したと陸軍に誤解されないよう配慮したものであるとされている。
日本軍では鹵獲した武器は使わないってことが徹底していた、というのは本当ですか?
陸上自衛隊の幹部学校の教官を中心に執筆された
『陸戦史集2 第二次世界大戦 マレー作戦』(陸戦史研究普及会編・原書房・S41)
のP85にコタバル上陸戦に関する以下のような記述があります。
==引用==
戦果
主なろ獲品(ママ)
重(軽)機関銃七三 重(軽)迫撃砲 一五
高射砲 八 飛行機 七
爆弾 六,六三〇 装甲車、牽引車 三六
自動車 八四 機関車、貨車 三四
ガソリン 二三六罐 重油 三七七罐
捕虜 ハイデラバットの大隊長ヘンドリック中佐以下九〇名
右のろ獲品(ママ)は、その後クワラクライの戦闘で獲得したものと併せ、
以後、佗美支隊が上級部隊から一品の補給も受けなかったにもかかわらず、
数百キロの機動作戦を行ない、迅速にカンタンを占領する上に大きな貢献をした。
==引用終わり==
この本にはこの部分だけではなく、何カ所か、マレー作戦における機動戦の成功には
鹵獲品による燃料・食糧の確保の他火力の補完が大きな役割を果たしたという記述があります。
この本は当時の参謀レベルの人々への取材も豊富であり、信用がおける本かと思います。
どうも徴発権限を師団レベルに移譲することもあって、その辺が命令書うんぬんの話に
なってくるのではないかと思いますが。
旧軍資料の『差押軍需品に対する諸問題』には
軍は戦場に於て我が軍の鹵獲若は押収せる敵対者の兵器、器材に対しては戦争法規
の精神に則り当然我が軍の手に帰すべく旧所属との間に於ける債務関係等に就ては
敢て我が軍の感知するところにあらざる
(中略)
支那軍の使用又は保管しありたる兵器及其他軍需品は現場に於て監視し其散逸を防
止することに勉めあり但右の内軍事上竝治安維持上又は貧民救済等の為必要已むを
得ざるものに限り一部使用しあり
と、はっきり鹵獲品を使用する場合があることが記してありますよ。
海軍では鹵獲した艦艇は兵装を日本式に(場合によっては機関も)改め、
各地の工作部で整備のうえその多くを哨戒や護衛に活用しておりました。
調べればいくらでも実例は出てくるよね
「ソ」連製軽機関統鹵獲に関する件 昭和15年
発信者 戊集団参謀長
二十日西山咀西方地区ニ於テ攻撃シ比較的新式ノ「ソ」連製「デグチャレフ」軽機関銃一挺ヲ鹵獲セリ
「ソ」連製兵器ノ鹵獲ハ当軍ニ於テハ最初ニシテ近ク写真ニ依リ報告スルモ既ニ本軽機関銃ノ性能等判明シアルヲ以テ
実物ハ当軍ニ於テ使用スル予定ナリ
日本軍の愚かさを示す、最高というか最低のエピソードは何ですか?
最低かどうかはわからんが・・・
1944年5月の中国戦線、歩兵一個中隊が豪雨の中を「雨を恐れて戦争ができるか」と強行軍を命じられた。
路上で水が腰まで浸かるような状態となり、濡れた装備の重さに倒れる者続出。水が退いてみると166名が
陸上で溺死体となって発見された・・・戦死ではなく事故死扱いであった。
もう少し補足しておくと……。
この事件を起こしたのは中国北支戦線、河南省で作戦行動中の第二十七師団(師団長:竹下義晴中将)です。
当時いわゆる大陸打通作戦のために行動していた師団は、京漢線打通作戦のために
4~5月にかけての20日ほどですでに四百キロを踏破していましたが、さらに湘桂作戦のために
漢口集結を命ぜられ、確山から信陽を経て漢口へ向かう行軍を始めました。
しかし、その時点で師団の将兵は激しく消耗しており、さらに糧秣の不足や米空軍の空襲により
夜間行軍を強いられたことなどから、栄養失調からくる下痢や関節炎、靴擦れの悪化による
歩行不能者が師団内に既に多発していました。
5月14日、長台関付近に達していた師団は前方の渡河点での混乱に巻き込まれて前進が停滞していました。
前進できず立ちすくむ将兵たちに20時頃、突然局地的な大集中豪雨が襲いかかりました。
驚異的な雨量の上に風速十メートル、体感温度は五度にまで下がるという恐ろしいまでの天候の変化に
辺り一帯は泥の海と化し、動くことも出来ない将兵たちは凍えて泥の中に倒れていきます。
翌朝までに泥の海に溺れ、あるいはすでに発病していたために衰弱して命を落とした『凍死者』は
師団全体で百六十六名に達しました。
この死者の多くは歩行不能のために馬車等で護送中だった入院予定の患者でした。
この事件の後も師団は信陽や漢口の野戦病院に約千五百人の患者を残して作戦を継続しましたが、
患者の中にはパラチフスで入院した竹下師団長も含まれています。
この事件の責任の所在は明らかにされることはありませんでしたが、予想し得ない気候の激変、
突然の豪雨に対する対応処置の不徹底や交通整理の不首尾などが原因に挙げられています。
また、第二十七師団には3月に補充されたばかりの体力の劣弱で年嵩の補充兵が約二千人ほどおり、
これらの兵が過酷な戦場に対応できなかったことも死者を増やした原因となっています。
ポツダム昇進って?
「ポツダム昇進」というのは、終戦後(=ポツダム宣言受諾後)も復員せずに戦後処理をする旧軍の人間に
米軍が便宜的に部内限りでの権限を与えていた事を指している。別に終戦によって一律に昇級が行われた訳じゃありません。
緒戦時に英軍からの鹵獲食糧を「チャーチル給養」と呼んだりしたのと同じ言い回し。
旧日本軍の使っていた「軍刀」が正式な日本刀(玉鋼を鍛えて研ぎ出したものではない)そうですが、では軍刀は一体どのような素材で作ったものなのでしょうか?
戦時に粗製濫造された軍刀は昭和刀と呼ばれ、日本刀とは別物扱い。
玉鋼というのはタタラ炉を使って砂鉄から作った鋼で、現在ではこれを使って
人の手で鍛えてないとまず日本刀として認められない。
素材は鋳鉄、洋鋼、ステンレス、自動車のスプリングなど色々。
機械で打ち伸ばして作るのが多かったが人の手で鍛えたものもある。
軍人の転籍や昇進なども、一般企業と同じく一年に一度か二度、締めや年度頭に有ったりするのでしょうか?
一次~二次頃の戦時中の日本軍でお願いします。
海軍の場合は、大正八年海軍考課規則(達第82号)などに代表される様に、
きちんと人事考課表を作成して、それを年1回提出して、それを元に昇進を決める
形になります。
被考課者は佐官から1等兵までで、1人1葉の甲表と部下全員を比較して記す
乙表の2種類からなり、「考課表調整ノ任ニ在ル諸官ハ常ニ部下ノ才幹、性行及技能等
ノ察知ニ努メ必要ナル資料ヲ整備シ何時ニテモ其ノ考課表ヲ調整シ得ル準備アルヲ要
ス」とされています。
今の人事考課と同じく、本人記入の部分と調整官記入の部分からなり、調整官記入欄は、
テンプレが無く、全てを自分の言葉で書かねばなりませんでした。
よって、調整官(上司)も被考課者の全てに知悉し、表現力や語彙力が要求されました。
調整官は、艦船の場合は、士官以上、候補生は副長、下士官兵は分隊長で高等官でないと
作成出来ませんでした。
戦時とかだとその限りにはありませんが、平時の場合は、年に1回の昇進という
形になったりしています。
因みに、陸軍にも同様な考課表がありましたが、本人記入欄は無く、海軍よりも
簡易でした。
旧日本軍が使っていたバイクは、どんなものがありますか?
我が国で軍用バイクが初めてテストされたのは大正3年9月。アメリカ製インディアン
単気筒4馬力のモデルがそのモデルです。
陸軍ではこのテストの結果をもとにして、大正4年にドグラスとトライアンフのモデルをテストし、
自動二輪車の伝令用としての有用性を確認しています。
この後にハーレー・ダビットソン、ヘンダーソンなどのモデルを含めてテストした結果、
陸軍はハーレー・ダビットソンの本格採用に踏み切りました。
日本内燃機で組み立てられた1930年型のモデルは軍に採用されて93式自動二輪車となっています。
このころからハーレー・ダビットソンは日本国内に支店を設立し、三共と共同して
昭和8年から日本での製造に取り掛かりました。
そしてハーレー1934年型の国産型が製造されて「陸王」の最初のモデルとなり、
陸軍ではこれを陸軍制式95式自動二輪車として採用しました。
このハーレー・ダビットソンと三共の合弁会社は昭和11年に三共内燃機、さらに昭和12年に
陸王内燃機と社名を変更しています。
この陸王のモデルに側車起動装置を付けて後輪・側車の二輪駆動にしたのが97式側車付自動二輪車で、
陸海軍の代表的なモデルとして陸王内燃機のほかに東洋工業、岡本工業、日本内燃機などで
製造されました。
これより先、昭和5年には日本自動車KK(後の日本内燃機)がBMWをサンプルにした
水平対向2サイクル1500ccのオートバイを作り、これが92式軍用側車として
採用されています。
祖父の倉庫を見せてもらってたら兵隊さんのシルエットと何か城みたいなものが描かれた冊子が出てきたんですが、これの由来は分かりませんでしょうか
中味がよく判らないので多分ですが、戦場画帳もしくは戦場写真帳ではないでしょうか。
大陸との戦争を行っていた当時、出入りの写真館などが出張って、周辺の風景写真を
撮り溜めたり、近くにいる兵隊さんに色々ポーズを取って貰ったりして、勇壮な日本軍を
演出して貰い、これらを組み合わせて、お土産用の写真帳などにしたものです。
徴兵から帰ってくる時には戦地からの土産としてよく買われています。
兵士が戦死して、遺体や遺品が残っていれば遺族に返還されますか?
遺体や遺品については、日中戦争くらいまでは、遺体は荼毘に付されて、骨箱に入れられ、
帰ってきますし、遺品もあれば引き渡されます。
但し、返還は大体数ヶ月単位の日にちが掛かります。
従って、太平洋戦争が激化してくると、遺品、遺髪も引き渡されることは無くなっていきます。
旧軍で、兵士が戦死した場合、その遺族に恩給は支払われるのですか?
兵役期間が二年に満たない場合は資格欠格となり支給されません。
日本の話であれば、
S28年の恩給法改正による軍人恩給の復活以降は、公務扶助料の支給に
勤務年限による欠格はなかったと思いますが。
日本軍とタバコとの関係ですが、軍人に好かれてたタバコの銘柄って分かりますか
軍用銘柄がありました。
誉・光・八紘です。
旧軍の暗号が筒抜けだったのは全軍通じて?陸軍だけは解読できなかったとか聞いたんですが。
基本的に、海軍は暗号の補給の問題があったので「有限乱数」方式を使用していた。
だから、一度解かれると筒抜けになる。
陸軍は、それよりも暗号強度の高い「無限乱数」方式を使っていたからなあ。
無限乱数は、無作為で作られた場合理論上解けないからねえ。
陸軍は乱数表を一回の通信で破棄するワンタイムパッド方式の暗号だった。
この暗号は理論上は絶対に解読不可能。
どの乱数表を使用するか直前にならないと判別不能なので、
何かの拍子で連合国側が乱数表を収得しても役に立たなかった。
そこで陸軍の暗号表に付いた連合国側のあだ名は「トイレットペーパー」
もっとも、これは貧乏で通信機器が貧弱で通信量が少ないからこそ出来た芸当だが。
旧軍において、剣術を学んでいた人間はどの程度いたのでしょうか?
あと、もしやっていたなら、流派は何が主流だったのでしょうか?
1943年の日本の大学生の学徒動員の際は、陸海軍の士官学校や兵学校でも、学期の短縮や繰上げ卒業はあったのでしょうか?
海軍兵学校では、昭和18年9月卒業の海兵七十二期は2か月学期を短縮し、
昭和19年3月卒業の海兵七十三期は当初の予定よりさらに卒業を4か月繰り上げられて
修業期間は2年4か月となっています。
鎌倉に今も見学できる旧軍の軍事施設などはありますか?
鎌倉というか平塚駅の北側に平塚海軍火薬廠の遺構があるくらいです。
横浜ゴムの敷地内には横浜ゴム平塚製造所記念館がありますが、これは火薬廠の水交社の集会所でした。
また、周辺には平塚空襲で焼け焦げた電柱とか、焼夷弾直撃で割れた墓石もあります。
あと、藤沢市御所見の少年の森内に横穴陣地、新林公園内に横穴陣地と砲台の遺構があります。
本土決戦用には他に江ノ島の岩盤を刳貫いた東西二箇所に江ノ島砲台跡があり、鎌倉市稲村ヶ崎公園の
崖下波打ち際に横穴陣地があり、東側には銃眼が見られます。
これは、伏龍の発進基地とされたところでした。
竹槍の実戦投入を日本軍が本気で考え始めたのは、いつ頃からなんでしょうか?
定番のサイト「藤田兵器研究所」によると、日中戦争での輜重兵の後方自衛用に
作製・使用されたのが最初で、昭和17年ごろから国内・外地で戦意高揚と後方警備の目的で
竹槍訓練が開始されるようになったとか。