旧日本軍全般


戦死した兵士の家族にはなんらかの補償はされたのでしょうか?

知ってる範囲でお答えします。一部間違いがあるかも知れません。
妻子が居る場合、子供が20歳になるまで 妻が再婚するまでの補償は、有ったようです。
旧軍人、軍属は年金が有りますから補償も有ったと思います。民間人は不明です。
(5:343)

東条英機の竹槍事件とはどういったものなのでしょうか?

毎日新聞に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事が載り、東条英機は毎日新聞を差し押さえ、記者の新名丈夫の懲罰召集を命令。
一方、海軍は新名丈夫記者処罰に同情。彼を従軍記者として召集したため、陸軍と対立する。
(6:37

旧日本軍の「参謀旅行」って何ですか?外国に勝手に視察に逝って国際法には触れないのでしょうか?

現在の自衛隊で言うところの「現地戦術」だね。
教育とかで地図上で行う「図上戦術」を、現地現物で行いながら「あそこに砲兵を配置」とか「この経路は戦車の前進が出来る」とかやっていってお勉強するの。
別に外国と言わずに国内でやるよ。
(7:ミリ屋哲)

日本はドイツからの、Me163,Me262などの飛行機に関する技術協力はあったようですが、キングタイガーなどの戦車関係の技術協力はなかったんでしょうか?

タイガーは研究目的のを潜水艦で輸入しようとしたね。戦況悪化で駄目だったけど。

ドイツと日本は地理的に連絡困難ということもあり、特に独ソ開戦後は潜水艦による連絡に頼ることとなりました。
日本駐独大使館が戦争末期に資料としてティーガーⅠ型を購入していますが、輸入は不可能でした。

Me262、Me163などはジェットエンジンの実物、書類資料が潜水艦で送られ、
戦争末期に準コピー製品の「橘花」「秋水」などが開発されていますが、そのまま終戦を迎えました。
(7:721-722)

軍と警察が信号を赤で渡ることについてものすごくもめたことがあったと聞きましたが、なぜそんなにもめたのか詳細を教えてください。

ゴーストップ事件と呼ばれています。発端は、赤信号を渡る制服の軍人を警察官が制止したことです。
これが、第4師団と大阪府との対立に発展し、ついには陸軍省と内務省との対立にまで発展します。
軍人は統帥権条項により天皇の命令にのみ服するのであり、警察官の制止に従う必要はない、というのが陸軍側の主張でした。
当時の内務大臣は政党政治家であり、政党政治体制下で抑圧されていた軍部が、
五・一五事件や満州事変などを背景にして政党政治に対して攻撃を加えたと見る見解もあります。
(7:938)

旧日本軍には軍事参議院なる組織が存在したようですがこの組織はどういう機能を有していたのでしょうか?

日清戦争当時、陸主海従だった大本営の制度を、日露戦争前に改訂したのを機に
陸海軍同等にしたことで生まれた機関で、従来天皇からの後家紋には陸軍だけの判断で答えていた物を、
陸海軍協同の実を上げるために作られた物です。
構成員は、陸海軍元帥、陸海各大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長及び軍事参議官に親補された陸海軍将官が充てられ、
天皇からの諮詢に対して意見を上奏するための機関でした。
(18:眠い人 ◆ikaJHtf2)

なんで、旧日本陸軍、海軍は仲が悪かったんでしょうか?

ドイツ軍の仲の悪さは有名ですよ。英米もいいわけではないです。
縄張り意識がありますからね。
(18:バッチ3)

日本軍の場合、皇族と違って、華族の特別扱いはなかったような記憶があるのですが

確か前田利為侯(前田家の当主)とか、伊達宗茂とかは少尉任官だった
ような気がします。
皇族関係は結構順調な出世をしはったと思いますけど。
(21:眠い人 ◆ikaJHtf2)

太平洋戦争当時,日本軍に植民地のはずの朝鮮半島出身の将校,それも将官がいたというのは本当ですか。

「洪思翊中将の処刑」(こうしよくちゅうじょうのしょけい)

 私が持っている本は、
出版 文藝春秋 
著者 山本七平

洪思翊中将の人柄や経歴、
連合国による戦犯裁判、
日本、韓国、西洋の文化の違い、等について書かれている本です。

私には、大変興味深く、ためになった本です。
韓国について考える人は必読ではないかと思っています。
(21:愚考)
あとは皇族になりますけど、李王垠中将がいますね。
この方は、明治30年に李太王の第七男子に生まれ、韓国併合で皇族に列せられ、
大正9年に梨本宮守正王の長子と結婚されました。
陸士29期で、有末中将と同期ですね。
昭和14年に近衛第二旅団長、15年に留守第四師団長となり、昭和16年に第51師団長に補任され、
昭和18年に第一航空軍司令官になって、昭和20年に軍事参議官になっています。

あと李鍵公(李王の甥)がいます。
この人は明治42年生まれ、陸士45期で昭和16年に少佐となり、昭和19年に第一軍作戦参謀、
昭和20年に中佐に進級し、第二総軍参謀となりましたが、広島の原爆で殉職されています。
(21:眠い人 ◆ikaJHtf2)

前の大戦の徴兵逃れの方法ってどんなのがあったんでしょうか?

一般的に徴兵というのは役場の戸籍係とかが或る程度恣意的に行っていたので、
そう言った方々と懇意にしていれば、徴兵されることは滅多にありませんでした。
あとは、医学生になることですかな。
(26:眠い人 ◆ikaJHtf2)

成人男子って全員徴兵されたのですか?

平時で16%。日中戦争当時で50%、太平洋戦争末期でも70%です。
平時に乙、丙合格で現役免除になった人でも太平洋戦争末期の根こそぎ動員で召集をかけられてます。

 20歳の徴兵検査で甲種合格した壮丁の内、くじ引きで現役入営した人はその後も
「予備役」(5年4ヶ月)として戦争が始まると動員されます。
その後、後備役10年です。

 未訓練の乙種、丙種合格の人は補充兵役(12年4ヶ月)としてその後になります。
(26:92)

旧軍とかで伝統のシゴキとか懲罰があったら教えてください。

旧海軍では「罰直」と称して下記のようなことが行われていたそうです。
 衣嚢支え・・・衣嚢(ダッフルバッグのようなもの)を両手で頭上に持ち上げ、その体勢を数分間継続
 蜂の巣・・・衣嚢を収める「衣嚢棚」に潜り込む。
ほかにも、配膳済みのテーブルを集団で支えるものなどもあったかと。

ちなみに、「デコピン」は「牛殺し」と呼ばれていたそうです。
(24:ちゃぎ)

中野の兵学校の通信業務とは、情報収集(スパイ活動)のことですか?

中野学校はいわゆる諜報活動関係の教育を行ったところだよ。
(38:719)

関東軍には中国地方出身の兵隊もいたのですか?

関東軍の「関東」は旧満州地方の別名でして日本の「関東地方」とはまったく関係ありませんので
中国地方出身の兵士が所属していても何の不思議もありません。

#日本なのに「中国」地方みたいなもんです。
(65:289)
ちなみに、関東軍の関東とは中国の「山海関の東」という意味です。
(65:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

日本側が米英の航空機、艦艇、車輌等をどう呼称していたのかお教えください。

日本側は連合軍の兵器に特にコードネームとかはつけてなかった。
現場で、ペロハチとかメザシとかカツオブシとか呼んでたという話はあるが。
(66:88)

なぜ「旧」日本軍のように、旧をつけるんですか。

日本軍なんて一つしかないから旧なんてつける必要ないんじゃないですか?
自衛隊が特殊な存在のためです
下記のように
「日本軍ではなく自衛隊です」のように「自衛隊が軍隊じゃない」意味と
「自衛隊がWW2以前の日本軍じゃない」意味が区別できないため
旧日本軍とあえて呼びます
(68:907)

旧日本軍では徴兵されて兵役についていた人がすでに職を持つ人だった場合、徴兵されている間にその人の会社が倒産した場合、再就職先の紹介とかしてくれたのでしょうか?

徴兵された兵士は通常、勤務していた会社を退職して入営しました
(1年以上の休職期間を認める企業は現在でも皆無)
その間に会社が倒産しても、軍に責任はありませんし、兵士本人にも
かつての同僚を思いやる感傷以外は影響はありません
また、軍は兵役を終えた兵士の就職斡旋も行いませが、軍の外郭団体が
退役兵士の世話を焼いた時期もあったそうです
(69:596)

日本の大戦中の学徒動員についてですが、大学からの動員で最初から士官候補生としてもらえる人と兵隊にされる人はどう違うのでしょうか?

っていうか、徴兵されるのはあくまでも兵で士官は志願が原則です。
いわゆる学徒動員というのは文科系の学生に対する徴兵猶予の停止の事を指します。
徴兵猶予を停止された学生は召集されて兵になったわけですが、それを嫌った学生が
志願して海軍専修予備生徒や陸軍甲種幹部候補生になったりしたのです。
(71:名無し軍曹)

旧日本軍の空軍が発足しなかったのは陸軍と海軍は相当仲が悪かったせい?

まったくそのとおり。陸軍はドイツに山下奉文を派遣して、空軍発足と統帥の組織統合を計画
したが海軍の反対にあってあぼーん。終戦まで陸海組織統合問題は解決しなかったとさ。
現代のお役所にも通じますね。日本の伝統かもね。
(73:899)
さらに加えて、憲法問題もありました。
明治憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とかかれていたため、
空軍の創設は、憲法の改正が必要、
=不可能、
という、
どこぞできいたような問題があったそうです。
(73:901)

憲兵隊とはどんな役割を果たしていたのでしょうか?

憲兵隊は、いわば軍内の警察機構です
戦前から戦中の日本の憲兵隊はここから大きく権限を拡張して、一般国民の
思想統制にも当たりました
山田定 「憲兵日記」(新人物往来社)、森本賢吉 「憲兵物語」(光人社)
大谷敬二郎 「憲兵 自伝的回想」(新人物往来社) などを読まれると良いと思います
(75:600)

「士官候補生」の位置付けと権限は、具体的にどんなものだったのでしょうか?

小隊長の下で見学しているだけ?
陸軍ではそのようです。
見習い期間の階級は准尉と同じ階級章で名称だけ「見習い士官」と呼ばれていたそうです。
小野田寛郎の「ルバング島ひとりぼっち」に詳しくでています。
(76:17)
17に補足?
PHP文庫の「日本陸軍がよくわかる事典」の文面をまるまる信じるならば
「士官候補生」は「見習士官」とはまったく別物といえるようです。
「士官候補生」は
  • 大正9年までは、「陸士に入るまで」
  • 昭和11年までは、「陸士予科を終えて陸士本科に入るまでの半年間」
  • 以後は「予科士官学校を終えて陸士に入るまで
    (航空士官学校に入る者は士官候補生の期間なし)」
で、陸士または本科に入るときに「軍曹」の階級が充てられた…とのこと。
士官候補生として着任した部隊が原隊となり、そこで兵科を決める。
陸士または本科には、原隊から出向、という形式で入学する。

…みたいなことが書いてあります。(…これホンマ?)
(76:名無しトンボ釣り)

パットン・ロンメル・モンティこれに匹敵する日本の将軍って誰?

参考として、秦郁彦(この人に関する毀誉褒貶はともかく)選・名将

戦術家型名将(いわゆる「戦上手」)
ロンメル グデーリアン モンティ パットン アイケルバーガー 宮崎繁三郎
ハルゼー ミッチャー 田中頼三 木村昌福 角田覚治

戦略家型名将
マッカーサー ニミッツ スプルーアンス アレキサンダー カニンガム
ルントシュテット マンシュタイン ジューコフ 今村均 小沢治三郎
(79:228)

大日本帝国の時代 配属先部隊はどのように決められていたのでしょうか?

本籍地の陸軍師団か海軍海兵団に入営することになっていました。
陸軍は2年間、海軍は3年間の兵営生活だそうですが、戦時下の対応はどのようなっていたのでしょうか?
昭和二十年当時でも最低三ヶ月の訓練期間が設けられていたそうです。
(79:797)

旧軍の部隊略号で師団をDとか旅団をBsとか言いますがこれの由来って何語?

英語です。
師団:Division
旅団:Brigade(Bsは混成旅団)
(82:414)

昭和5年ごろ、飛行機免許(民間機)をもっていた青年が居たとして、旧日本軍の航空兵に入った後パイロットの道を歩むということはありうるのでしょうか。

「パイロットの道を歩むということはありうる」と言う質問の意図が不明確なんだよね。
本人が軍に入ってもパイロットとしてやっていきたいと望んでいるのか。
それとも本人の意志に関わりなく軍がパイロットに割り振ろうとしているのか。
どちらの状況を聞いているのか分からない。
パイロットでも医者でも特技を持って入って来た人間が、軍の中でその特技を生かそうと
思ったら、軍としても無理に別のコースを割り当てることもそうないだろう。人材は貴重だからね。
だからと言って個人の希望が自動的に通るほど甘い社会でもない。
「ありうるのでしょうか」と聞かれたら、「ありうる」としか答えようがないだろうね。
(83:15)
便乗して私も・・・
ここでは評判の良くない源田實氏の著作によると、搭乗員の選抜は適性試験の
結果を元に(本人の希望とは無関係に)一方的に行われた、とあります。
ただし本人に飛行機への熱烈な想いがあれば当局も考慮するのではないかとの
記述もあったように思いますので、もし質問の青年が希望するならそのように
なる可能性は高いのではないかと考えます。

氏が飛行学生に任じられたのが昭和3年なので大体条件に合うと思いますが、
これは海軍の事であり、源田氏は海軍兵学校出の仕官であるという点が
質問の意図に合ってないかもしれません。
(83:24)

日本軍の部隊編制がわかるHPがあったら教えてください。

充実してるコンテンツがあるものはあまりありません・・・
後は書籍に頼るほうがいいでしょう(手ごろなものでは新人物往来社から出ている「陸軍部隊総覧」等のもの)
強いてあげればこのシリーズスレの初期に第一総軍氏が師団の編制や歴史を簡単にまとめられていますので、参考に
(84:213)
戦前の師団は、いろんな型があり、精鋭である1桁師団と300代師団ではまったく編制が違います。
支隊は、臨時に編制される諸兵科連合部隊で、
ドイツ軍や米軍が多用したような戦闘団に近いものです。
支隊は、編成部隊であり、編制部隊とは区別します。
(84:214)

最盛期の帝國陸海軍の実力は、当時の世界の軍事力と比して、如何ほどだったのでしょうか

沿岸警備レベルの海軍でなかったことは確かですが、外洋型といいきれるほどの
展開能力を有していたわけでもなく、強力な近海型海軍、といったところでしょう。

ただ正面戦力はともかく、後方支援や兵站に関してはさほどではありませんでした。
(84:247)

よく旧日本軍の餓死の話を聞きますが、人間は水と塩があれば1月は生きるし周りは全部海でしょ。なんで海水飲まないんですか?

海水の塩分濃度は、人間の血液よりもかなり高いので、体内の塩分濃度を下げるために、
更に大量の水が必要になる。
結局、海水を飲んだところで、食糧事情はいっこうに好転しない。
(369:103)
せっかく日本人は刺身を食べられるのに、魚を釣らなかったの?

魚を獲ったり釣ったりした人は沢山いた。
でも、日本とは全然生息してる魚の種類が違うので、どれが食べられる魚
なのかよく分からず、毒のある魚に当たって死ぬ人が続出した。

また昼間海に出るとよく通りすがりの米軍機に銃撃されることになった。

手榴弾や砲弾を使ったバクダン漁(水中に爆発物を投げ込んで爆圧で気絶
して浮いてくる魚を捕まえる)も熱心に行われたが、やっぱり「食べていい
魚と駄目な魚」の区別がよくつかず、やっぱり当たって死ぬ人が続出した。

とある人の手記で、たった一つ残った手榴弾を巡って
「バクダン漁をするか自爆自決用に温存するか」
で揉めて殺し合いになった、という何とも言えない話が。
(369:119)

何故、大日本帝國では、陸軍省と海軍省で国防関連の省庁が二つに分かれて存在していたのでしょうか?

今の日本みたいに、防衛省で一つに統合した方が、いろいろな面で効率的だと思うのですが。

昔は兵部省っていう現代の国防省みたいな役所だったんだが、長州と薩摩の派閥争い
によって陸軍省と海軍省に分離した。

ちなみに当時は、陸軍と海軍は別々に大臣を持つのが世界的にもトレンディではあった。
(491:466)

旧軍の参謀ってのは、何をする人なんですか?

ガ島で川口少将が辻参謀の意見で解任されてますけど、辻参謀は中佐ですよね。
階級とは関係なく作戦や人事を行う偉い人って認識でいいですか?

川口少将は現場の指揮官。
対して辻は大本営から派遣されて作戦を監督する立場にある。
つまり地方の支店長と社長の意向を受けて派遣された本社社員の違い。
辻は川口少将の指揮下にある訳ではないので、この場合階級より権限の違いが重要という訳。
(498:458)

軍司令官
 │└──軍参謀  ←参謀は、部隊の指揮系統「ライン」からは外れてる「スタッフ」の一種。
師団長            軍とか師団とかの各レベルのライン上指揮官を、作戦立案面で補佐。
 │└──師団参謀    つまり、命令権限や人事権限を直接には持たない。いわば相談役。
連隊長
 │
大隊長 ←こういうふうに縦に並んで指揮系統の一部になってるのが「ライン」
 │
兵隊

上のようなのが本来の区分なんだが、実際の日本軍では参謀が作戦の実権を握り、
部隊長名義で勝手に命令出しまくりという事態が多発した。
(他方、部隊長は具体的指示をしないでどっしり構えるのが美徳とする傾向もあったらしい。)
しかも、現地指導のために、上級司令部から>>458みたいにして派遣されてきた参謀の場合、
特に無茶苦茶をやる傾向があったようで。
関東軍からノモンハンへ派遣された辻参謀(少佐)は、将軍クラスのいる師団司令部を牛耳った。
(498:466)

日本軍は、上官の命令に従って行ったことに対しては部下は責任を問われないと聞きましたが

それなら、なぜ2.26事件の決起に参加させられた下士官や兵は「おまいら死んで来い」とばかりに
中国戦線などの激戦地に飛ばされてしまったのですか?
どこの国でも建前と本音というのはありますが、日本の場合は一度失敗をしたものは一族郎党皆殺しっていう雰囲気があって・・
特に軍隊ではたとえ上官の命令といえども、軍全体の意向に反したものは基本的に死刑もしくは自決もしくは玉砕を強要される。
漫画家の水木しげる氏は戦時中にニューブリテン島バイエンに上陸したが、支隊長が玉砕命令を出してほとんどが玉砕、わずかに生き残った将校は自決、
兵や下士官は次回の戦闘で先頭に立って玉砕を強要された(が、戦闘がなくて助かった)。
要は日本軍の場合は「失敗もしくは命令に反したものは氏ね」ということ。まあ例外もわずかにあるが。
ただし、参謀に限っては建前上何の権限もなく、責任も問われないことになっていると聞いたが。
辻政信はノモンハンで失敗しても返り咲いている。この経緯についてはよくわからんので識者レスきぼんぬ。
(503:308)
辻ーんのノモンハンでの失敗後の処遇に関する磯谷廉介中将(当時関東軍参謀長)の述懐を引用すると、
「ノモンハン事件に対して、辻参謀の言動が大きな影響を及ぼしたことは事実である。
しかし、作戦指導の大綱は、副長以上が決済したものであって、責任は一少佐に過ぎない
辻参謀にあったのではなく、特に軍参謀長と軍司令官が負わなければならないものであった」
(「悪魔的作戦参謀 辻正信」光人社NF文庫 生出 寿 より)
ということになります。
そこには幕僚の独断専行を追認して責任は自分で被るのが立派な将軍という思想が
あったように思われます。
実際に植田謙吉関東軍司令官と磯谷参謀長は予備役に編入されています。

辻ーんが復権できたのは、服部卓四郎参謀本部作戦課長の引きがあったのと、
当時辻ーんは独自に南方作戦に関する研究を行っていたので、それが東條英機の
目に留まって、いわば「南方通」と思われていたという事情があったり。
(503:316 名前:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

WW2の時の日本軍がブルドーザーとか持ってなかったって本当ですか?

当時の日本の重機の普及状況ってどんな感じなんでしょう?ドーザーないならショベルとかダンプもなし?
ブルドーザーが開発されたのは1923年。
しかも当初はタイヤ型で、現在と同じキャタピラ型になったのはかなり後です。
意外に思うかもしれませんが、1940年代においては超ハイテク機器だったわけですよ。
まだまだ世間に普及してるものじゃなかったんです。
(360:23)
国産初のブルドーザーは昭和18年、小松製作所が陸・海軍それぞれの発注に対して生産している。
遅きに失しているとも言えるけど、持っていなかったわけではない。
ショベルやダンプ、トラクターはそれより前に国産が生まれているが、
昭和初期は雇用確保の為に「なんでも人力」の時代で、普及ははかばかしくなかったとか。
(360:24)

償勤兵ってなんですか? 自衛隊にもあるんでしょうか?

もともとは旧軍時代から使われてた言葉で、
陸軍刑務所から出た後に徴兵期間が残ってると、償勤扱いになった。
あと、自衛隊にもある。
ショーキン=償勤隊員。
刑務所勤務(服役とは言わない)中は無給となり、
本来の給与の30%にあたる額を国庫に納めなければならない。
これが納めきれない場合は、下番後(出所とはいわない)、働いて返すことになっている。
(512:683)

兵隊が占領地で個人的に何か物を買おうとした場合それは軍票で買うと思うのですが

駐屯地で日本円で給料をもらい、それを軍票に両替するのですか
それとも、最初は銀行振込で駐屯地で引きおろすときに軍票で引き出すのですか
戦争中だと、補給によってはお金すら配達できない地域もあったと思うのですが
その場合、給料はどうなるのでしょうか
給与のうち、現地で使用する分については軍票で支給される。
自宅渡し扱いにする分は軍用郵便局または野戦郵便局の口座への振込みいう形で支給される。

それから軍票で支給することができない戦場にいて、かつ戦死が確認されていない場合
(例:末期のラバウルにいる場合)には口座に振り込まれ続けていく。
(358:367)

旧軍では玉砕命令が出て、でも何か生き残ってしまった場合、帰還したら死刑ですよね?

死ぬくらいなら敵に降伏するべ、と考えた人も多くいたんですか?
まず玉砕命令というものは存在しない。あくまで作戦を実行した結果として玉砕するだけ。
また基本的に捕虜になっただけでは死刑になることはない、死んでこいとばかりに死地に送り込まれたりはするが。

降伏する兵は少数だがいた。
しかし一般には敵兵に捕まったらなぶり殺しにされると信じられていた(少なくとも中国戦線ではそうだった)し、
一度捕虜になれば日本に帰っても居場所がない、しかも本人のみならず家族まで中傷にさらされる羽目になるので
降伏を選ぶ日本兵は特筆に値するほど少なかった
(519:796,モッティ ◆uSDglizB3o)

旧軍で連隊区司令官という役職がありましたが、これは連隊長とどう違うのでしょうか?

連隊区司令官と連隊長は兼務ですか?
両者は別のもの。
簡単にいうと「連隊」は軍隊で、「連隊区司令部」は役所(自衛隊の地方連絡部のようなもの)。

連隊区司令部(司令官)は、連隊区内における徴兵・召募・恩賞・職業補導、留守業務、在郷軍人の服役・召集、在郷軍人会、
青年学校、国防思想の普及などに関する事務を掌った。

連隊区は、昭和16年10月31日以前は概ね常設師団の歩兵連隊所在地と沖縄に置かれたが、昭和16年11月1日以降は、概ね都道府県ごとに1つ置かれた。
ただし、北海道は4つ(旭川・札幌・函館・釧路)。
また、朝鮮・台湾・満州には兵事区が置かれたが、樺太には豊原連隊区が置かれた。
(524:806)

日本においても戦闘機王とかライフル王みたいな武勇伝ってあるんですか?


ある意味、ルーデルやヘイヘより凄いのがいる。

舩坂弘軍曹
擲弾筒分隊長として大暴れし、部隊壊滅後は重傷を負ったまま
米軍指揮所へ潜入、発見・反撃されて戦死判定を受けるが3日後に蘇生。
その後、捕虜収容所を脱出し、敵弾薬庫を爆破した上で生還。

長嶺公夫少尉
拳銃と手榴弾のみで敵飛行場に突入し、敵航空機の発進を阻止。
迎撃に出てきた敵戦車2両を手榴弾で撃破したのち、装甲車両からの
射撃で負傷しながらも応戦、生還。
(526:653)

旧軍の電熱服は危険と聞いたのですがどのへんが危険なのでしょうか?

坂井氏によると、海軍の電熱服は感電したり発火したりする危険性が高かったそうです。
重くて、あまり暖かくなく、危険性が高いということで嫌われたようで。
(526:26:◆yoOjLET6cE)

日本軍の将軍・提督に対する教育はいかなるものだったのでしょうか?

戦争の勝敗に影響を与える要素として国力と軍事技術などがあげられますが
やっぱり一軍・艦隊を指揮することになる将の能力も戦争の勝敗に重大な影響を与えますよね?
日本には数多くの名将、愚将が生まれましたが、日本の将軍や提督は補給や兵站の事についてちゃんと教育を受けていたのですか?
日本で将官になる人の場合、大抵は陸軍大学校もしくは海軍大学校を経ています。

陸軍大学校は参謀本部所管の参謀養成教育期間で、2年以上隊付勤務を行った中少尉(後に大尉も含まれる様になります)を選抜して、
高等戦術・戦略を修めさせ、併せて軍制、幕僚要務を始めとする社会科学・語学などの軍人に必要な専門教育を行うものです。
その受験は、概ね中尉時代の隊付期間中に受験勉強をし、隊長の推薦を経て受験します。
試験科目は、軍事学・外国語・数学+後に本邦史が加わります。
修業年限は平時3年ですが、1937年頃から参謀要員不足で2年となり、1942年は1.5年、1943年は1年、1945年2月入学は半年となりました。

教育内容は、交通学・歴史学・数学・統計学・国際公法・国法学・外国語(英仏独露中の内一つ)・馬学・衛生学・経理学・兵器学・築城学・
参謀要務・戦史・戦術・海戦術・兵要地誌・兵棋・要塞戦術・馬術・見学(騎兵学校・海軍大学校・要塞)・野外測量・現地戦術・参謀演習
旅行・戦史旅行・隊付勤務・秋期演習参与・特別大演習参与などでした。

こうした教育内容は確かに参謀を教育するのには有利であった反面、学校教育では指揮官教育・管理者教育・経営者教育の視点が無い
為、参謀から高級指揮官となっても、参謀の頭で指揮をする事が多く、かつ、隊付勤務は進級条件を満たす為に最低年限行う為、大隊長
を経験せずに聯隊長となったり、聯隊長、旅団長も経ずに師団長になるケースも多く、部隊指揮の能力を磨く間もなく高級指揮官になって
現場を知らずに作戦を立てたりするケースが出ています。
また、無天組(陸軍大学校の教育を受けない組)が叩き上げで指揮官になった場合は、逆に参謀経験がない為、広い視野が無く、参謀を使い
熟すことは出来ないと言う欠点が組織的にありました。

因みに、陸大卒業を表わす「天保銭」という言葉。
明治でもこの天保銭は8厘として通用した訳ですが、一般庶民からすれば、「天保銭」は、「大きな形なのに1銭にも満たない」と言う軽蔑の意味で
使っていたりします。

海軍大学校は、海軍士官に高度の学術を教授する最高学府ですが、この内、エリート養成の意味があったのは甲種学生を指します。
甲種学生は大尉任官後1年の海上勤務を経た者で大抵は海兵卒業後10年程度が必要です。
1935年までは修業期間2年、以後短縮が始まり、1943年の最後の入学者になると8ヶ月となりました。

甲種学生の教育科目は、戦略戦術・戦務(作戦)・戦史・軍政学・兵器学・航海学・兵要地誌・陸軍戦術・築城学・交通学・衛生学・法学・
歴史(海事史・外交史)・統計学・語学(英仏独露中の内1~2を選択)です。
但し、甲種学生を経たからと言って、陸軍ほどこれに偏重している訳ではなく、寧ろ海兵卒業時の成績が進級の条件となるケースが
多かったりします。(とは言え、陸軍に比べるとと率が高いだけで、海大卒の将官進級率は82.9%と陸軍と大差ないですが。
(527:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本の帝国陸海軍の一般的な兵士の身長や体重はどれ位だったんですか?

平時の場合は甲種合格者の中から徴兵されますので、身長1.55m(1940年以降は1.52m)以上となります。
更に、胸囲が身長の半分以上、筋骨薄弱でなく、裸眼視力0.6以上(1940年以後は0.3以上で矯正視力0.8以上)、
特記する疾病や精神の異常がない者とされています。
海軍は陸軍と同じ徴兵で区分された為、最低限の数値としてはこんな感じとなります。
(527:127:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

民間人がいきなり将校になる道もあったんですか?

水木しげる先生の「総員玉砕せよ!」を読んでいたんですが、
玉砕命令にもかかわらず生き残ったとして自決させられた将校2名(ともに少尉)は
一人は女学校の先生、一人は金持ちの一人息子だとのこと。
この人たちはシャバでは民間人だったって事ですよね。
中等学校の学校教練に合格した後、徴集で二等兵として入営後、志願して幹部候補生となり、
2年間の訓練として見習士官を経て予備役少尉となる幹部候補生制度による場合もありますね。
1927年までは1年志願兵制度として、府県立中等学校卒業者で服役中の費用を自弁出来る場合は
1年間で帰休出来る制度でした。
終末試験で合格すると下士官として予備役編入、勤務演習に出て合格すると将校となります。
制度自体は幹部候補生制度になっても、1933年までは費用自弁が残り、特別扱いしていました。
(542:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
「総員玉砕せよ!」は手元に無いのですが、そのモデルになったズンゲン守備隊の自決した
二人の将校のうちの一人である加古忠男中尉(少尉ではない)は東京高等師範学校卒で、
愛知県桑名市内の中学に理科教師として勤務中に召集されたとのことです。
ですからおそらく、召集された後に甲種幹部候補生に選抜されて士官になったのでは
ないかとおもわれます。
(542:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

終戦時の日本の軍人ってどれくらいいたの?

(550:153)

何故、日本陸軍航空隊、海軍航空隊などでは、英語の識別信号を使用するようになったのですか?

無線で味方を呼び合うときの識別信号を、「敷島一(しきしまいち)」や「富岳(ふがくに)」などの母国語である
日本語の識別信号ではなく、「RedOne(レッドワン)」や「ArcherTwo(アーチャーツー)」などを使用するようになったのですか?
日本語だと相対的に言い難いし分かり辛いし喋るのに時間が掛かるから、
より言いやすく短時間で喋れる英語に取って代わられた。
戦闘のテンポが速く、ノイズも多い航空無線では、
日本語は定着せず英語のコールサインに取って代わられた。
別に英語に拘っているわけではなく、
ポルトガル語、フランス語、ドイツ語なども併用されるし、
日本語が完全に使用されないわけでもない。

国軍で外国語を使用するからと言って、
愛国心に欠けているとか、売国奴とか、外国の犬に成り下がっていると言うことではない。

要するに高効率化と適材適所優先という流れ。
(553:113)

隊で意見が割れ、一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に生還した場合、副隊長は敵前逃亡などの罪に問われるのでしょうか?

水木しげるの戦記漫画で、戦況の悪化した東南アジアの前線の部隊が気が付いたら敵に包囲され、
その際にその場で玉砕すべきと主張する隊長と、敵の包囲を突破して本隊に合流すべきと主張する副隊長が対立
結果、隊の一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に本隊へ行くという場面があります
包囲突破は敵前逃亡にはなりませんです。

抗命罪として罰せられますが、死ななかったので勝ち組ですね。

方針を決定してないまま戦闘になったのなら逃亡はしてない(戦闘には参加してるんだから)ので軍規違反ではない。
ただ部隊の方針として「この場で玉砕」が決定されたってんなら従わなければ違反。
上級司令部が「そこで玉砕しろ」って命令出してたりしたら完全に違反。
でも隊長が本隊に「我等玉砕ス」なんて通信送ってたりすると
「なんでお前ら生きてるんだ、さては逃げてきたんだろう」
と言われて敵前逃亡扱い、銃殺コース・・・ということもありえる。
現実にはどこの軍隊でも規定にかかわらず大概の場合
「部隊指揮官は戦死したけど自分たちは生きて帰って来た」
ばあいには
「仲間を見捨てて逃げて来たな」
って目で見られて弁解無用の扱いをされることがほとんど。


包囲された部隊が全滅したあと、包囲を突破して味方陣地にたどり着いた部隊が脱走したと誤解されて将校
が自決した(させられた)とか、全員が前線に送り返されて「死守」を命じられたとか、敵陣地の(どう考えても
成功するとは思えないような)攻撃を命じられたとかの例は多数ある。
水木しげるの漫画はニューブリテン島のズンゲンでの実話に基づいて書かれたものだったと思う。

「ズンゲンの実話」
玉砕を主張する若い大隊長(少佐)と遊撃戦を主張するベテラン中隊長(中尉)が対立
→大隊長は中隊長に「一部の部下をやるから好きなようにしろ」と命令
→大隊長は司令部に「最後の斬り込みを敢行する」と打電し、無線機を破壊して自決
→中隊長は脱出の途中で戦死するが先任小隊長が部下を率いて後方の味方陣地にたどり着く
→小隊長は後方陣地の指揮官から「師団から守備隊は玉砕したと大本営に報告したので前線に追い返して死
所を与えてやれとの命令があった」と言われ、敵陣地の攻撃を命じられる
→部隊は攻撃のために出発するが逡巡し味方陣地に帰ってくる
→派遣されてきた参謀が別の地区(ヤンマー)の守備隊に合流し、そこを死守せよとの師団命令を伝達
→ヤンマー到着後、先任小隊長と将校1名は自決

沖縄戦でも小禄に孤立した海軍部隊の司令官(大田少将)が、玉砕寸前に陸軍の参謀長(長少将)に対して
「敵後方を攪乱又は遊撃戦を遂行のため、相当数の将兵を残置する。右将来の為一言申し残す次第なり」
という電報を発信している。
これは、大田司令官が部下に包囲された陣地を脱出して攪乱・遊撃戦を命じるとともに、これらの部隊が脱
走したと陸軍に誤解されないよう配慮したものであるとされている。
(349:614-644)

日本軍では鹵獲した武器は使わないってことが徹底していた、というのは本当ですか?

陸上自衛隊の幹部学校の教官を中心に執筆された
『陸戦史集2 第二次世界大戦 マレー作戦』(陸戦史研究普及会編・原書房・S41)
のP85にコタバル上陸戦に関する以下のような記述があります。

==引用==

戦果
主なろ獲品(ママ)

重(軽)機関銃七三 重(軽)迫撃砲 一五
高射砲 八 飛行機 七
爆弾 六,六三〇 装甲車、牽引車 三六
自動車 八四 機関車、貨車 三四
ガソリン 二三六罐 重油 三七七罐

捕虜 ハイデラバットの大隊長ヘンドリック中佐以下九〇名
右のろ獲品(ママ)は、その後クワラクライの戦闘で獲得したものと併せ、
以後、佗美支隊が上級部隊から一品の補給も受けなかったにもかかわらず、
数百キロの機動作戦を行ない、迅速にカンタンを占領する上に大きな貢献をした。

==引用終わり==
この本にはこの部分だけではなく、何カ所か、マレー作戦における機動戦の成功には
鹵獲品による燃料・食糧の確保の他火力の補完が大きな役割を果たしたという記述があります。
この本は当時の参謀レベルの人々への取材も豊富であり、信用がおける本かと思います。

どうも徴発権限を師団レベルに移譲することもあって、その辺が命令書うんぬんの話に
なってくるのではないかと思いますが。


旧軍資料の『差押軍需品に対する諸問題』には

軍は戦場に於て我が軍の鹵獲若は押収せる敵対者の兵器、器材に対しては戦争法規
の精神に則り当然我が軍の手に帰すべく旧所属との間に於ける債務関係等に就ては
敢て我が軍の感知するところにあらざる
(中略)
支那軍の使用又は保管しありたる兵器及其他軍需品は現場に於て監視し其散逸を防
止することに勉めあり但右の内軍事上竝治安維持上又は貧民救済等の為必要已むを
得ざるものに限り一部使用しあり

と、はっきり鹵獲品を使用する場合があることが記してありますよ。


海軍では鹵獲した艦艇は兵装を日本式に(場合によっては機関も)改め、
各地の工作部で整備のうえその多くを哨戒や護衛に活用しておりました。


調べればいくらでも実例は出てくるよね

「ソ」連製軽機関統鹵獲に関する件 昭和15年

発信者 戊集団参謀長
二十日西山咀西方地区ニ於テ攻撃シ比較的新式ノ「ソ」連製「デグチャレフ」軽機関銃一挺ヲ鹵獲セリ
「ソ」連製兵器ノ鹵獲ハ当軍ニ於テハ最初ニシテ近ク写真ニ依リ報告スルモ既ニ本軽機関銃ノ性能等判明シアルヲ以テ

実物ハ当軍ニ於テ使用スル予定ナリ
(347:151-158)

日本軍の愚かさを示す、最高というか最低のエピソードは何ですか?

最低かどうかはわからんが・・・
1944年5月の中国戦線、歩兵一個中隊が豪雨の中を「雨を恐れて戦争ができるか」と強行軍を命じられた。
路上で水が腰まで浸かるような状態となり、濡れた装備の重さに倒れる者続出。水が退いてみると166名が
陸上で溺死体となって発見された・・・戦死ではなく事故死扱いであった。
(557:911)

もう少し補足しておくと……。
この事件を起こしたのは中国北支戦線、河南省で作戦行動中の第二十七師団(師団長:竹下義晴中将)です。
当時いわゆる大陸打通作戦のために行動していた師団は、京漢線打通作戦のために
4~5月にかけての20日ほどですでに四百キロを踏破していましたが、さらに湘桂作戦のために
漢口集結を命ぜられ、確山から信陽を経て漢口へ向かう行軍を始めました。
しかし、その時点で師団の将兵は激しく消耗しており、さらに糧秣の不足や米空軍の空襲により
夜間行軍を強いられたことなどから、栄養失調からくる下痢や関節炎、靴擦れの悪化による
歩行不能者が師団内に既に多発していました。

5月14日、長台関付近に達していた師団は前方の渡河点での混乱に巻き込まれて前進が停滞していました。
前進できず立ちすくむ将兵たちに20時頃、突然局地的な大集中豪雨が襲いかかりました。
驚異的な雨量の上に風速十メートル、体感温度は五度にまで下がるという恐ろしいまでの天候の変化に
辺り一帯は泥の海と化し、動くことも出来ない将兵たちは凍えて泥の中に倒れていきます。
翌朝までに泥の海に溺れ、あるいはすでに発病していたために衰弱して命を落とした『凍死者』は
師団全体で百六十六名に達しました。
この死者の多くは歩行不能のために馬車等で護送中だった入院予定の患者でした。
この事件の後も師団は信陽や漢口の野戦病院に約千五百人の患者を残して作戦を継続しましたが、
患者の中にはパラチフスで入院した竹下師団長も含まれています。

この事件の責任の所在は明らかにされることはありませんでしたが、予想し得ない気候の激変、
突然の豪雨に対する対応処置の不徹底や交通整理の不首尾などが原因に挙げられています。
また、第二十七師団には3月に補充されたばかりの体力の劣弱で年嵩の補充兵が約二千人ほどおり、
これらの兵が過酷な戦場に対応できなかったことも死者を増やした原因となっています。
(558:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ポツダム昇進って?

「ポツダム昇進」というのは、終戦後(=ポツダム宣言受諾後)も復員せずに戦後処理をする旧軍の人間に
米軍が便宜的に部内限りでの権限を与えていた事を指している。別に終戦によって一律に昇級が行われた訳じゃありません。
緒戦時に英軍からの鹵獲食糧を「チャーチル給養」と呼んだりしたのと同じ言い回し。
(347:940)

旧日本軍の使っていた「軍刀」が正式な日本刀(玉鋼を鍛えて研ぎ出したものではない)そうですが、では軍刀は一体どのような素材で作ったものなのでしょうか?

戦時に粗製濫造された軍刀は昭和刀と呼ばれ、日本刀とは別物扱い。
玉鋼というのはタタラ炉を使って砂鉄から作った鋼で、現在ではこれを使って
人の手で鍛えてないとまず日本刀として認められない。
素材は鋳鉄、洋鋼、ステンレス、自動車のスプリングなど色々。
機械で打ち伸ばして作るのが多かったが人の手で鍛えたものもある。
(346:742)

軍人の転籍や昇進なども、一般企業と同じく一年に一度か二度、締めや年度頭に有ったりするのでしょうか?

一次~二次頃の戦時中の日本軍でお願いします。
海軍の場合は、大正八年海軍考課規則(達第82号)などに代表される様に、
きちんと人事考課表を作成して、それを年1回提出して、それを元に昇進を決める
形になります。

被考課者は佐官から1等兵までで、1人1葉の甲表と部下全員を比較して記す
乙表の2種類からなり、「考課表調整ノ任ニ在ル諸官ハ常ニ部下ノ才幹、性行及技能等
ノ察知ニ努メ必要ナル資料ヲ整備シ何時ニテモ其ノ考課表ヲ調整シ得ル準備アルヲ要
ス」とされています。

今の人事考課と同じく、本人記入の部分と調整官記入の部分からなり、調整官記入欄は、
テンプレが無く、全てを自分の言葉で書かねばなりませんでした。
よって、調整官(上司)も被考課者の全てに知悉し、表現力や語彙力が要求されました。
調整官は、艦船の場合は、士官以上、候補生は副長、下士官兵は分隊長で高等官でないと
作成出来ませんでした。

戦時とかだとその限りにはありませんが、平時の場合は、年に1回の昇進という
形になったりしています。

因みに、陸軍にも同様な考課表がありましたが、本人記入欄は無く、海軍よりも
簡易でした。
(562:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本軍が使っていたバイクは、どんなものがありますか?

我が国で軍用バイクが初めてテストされたのは大正3年9月。アメリカ製インディアン
単気筒4馬力のモデルがそのモデルです。
陸軍ではこのテストの結果をもとにして、大正4年にドグラスとトライアンフのモデルをテストし、
自動二輪車の伝令用としての有用性を確認しています。
この後にハーレー・ダビットソン、ヘンダーソンなどのモデルを含めてテストした結果、
陸軍はハーレー・ダビットソンの本格採用に踏み切りました。
日本内燃機で組み立てられた1930年型のモデルは軍に採用されて93式自動二輪車となっています。
このころからハーレー・ダビットソンは日本国内に支店を設立し、三共と共同して
昭和8年から日本での製造に取り掛かりました。
そしてハーレー1934年型の国産型が製造されて「陸王」の最初のモデルとなり、
陸軍ではこれを陸軍制式95式自動二輪車として採用しました。
このハーレー・ダビットソンと三共の合弁会社は昭和11年に三共内燃機、さらに昭和12年に
陸王内燃機と社名を変更しています。
この陸王のモデルに側車起動装置を付けて後輪・側車の二輪駆動にしたのが97式側車付自動二輪車で、
陸海軍の代表的なモデルとして陸王内燃機のほかに東洋工業、岡本工業、日本内燃機などで
製造されました。

これより先、昭和5年には日本自動車KK(後の日本内燃機)がBMWをサンプルにした
水平対向2サイクル1500ccのオートバイを作り、これが92式軍用側車として
採用されています。
(568:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

祖父の倉庫を見せてもらってたら兵隊さんのシルエットと何か城みたいなものが描かれた冊子が出てきたんですが、これの由来は分かりませんでしょうか

中味がよく判らないので多分ですが、戦場画帳もしくは戦場写真帳ではないでしょうか。
大陸との戦争を行っていた当時、出入りの写真館などが出張って、周辺の風景写真を
撮り溜めたり、近くにいる兵隊さんに色々ポーズを取って貰ったりして、勇壮な日本軍を
演出して貰い、これらを組み合わせて、お土産用の写真帳などにしたものです。

徴兵から帰ってくる時には戦地からの土産としてよく買われています。
(573:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

兵士が戦死して、遺体や遺品が残っていれば遺族に返還されますか?

遺体や遺品については、日中戦争くらいまでは、遺体は荼毘に付されて、骨箱に入れられ、
帰ってきますし、遺品もあれば引き渡されます。
但し、返還は大体数ヶ月単位の日にちが掛かります。
従って、太平洋戦争が激化してくると、遺品、遺髪も引き渡されることは無くなっていきます。
(339:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍で、兵士が戦死した場合、その遺族に恩給は支払われるのですか?

兵役期間が二年に満たない場合は資格欠格となり支給されません。

日本の話であれば、
S28年の恩給法改正による軍人恩給の復活以降は、公務扶助料の支給に
勤務年限による欠格はなかったと思いますが。
(339:522,555)

日本軍とタバコとの関係ですが、軍人に好かれてたタバコの銘柄って分かりますか

軍用銘柄がありました。

誉・光・八紘です。

下記、紙巻煙草を参照ください。
http://kon-tan.hp.infoseek.co.jp/equip/japarmy_navy/taba.html
(579:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

旧軍の暗号が筒抜けだったのは全軍通じて?陸軍だけは解読できなかったとか聞いたんですが。

基本的に、海軍は暗号の補給の問題があったので「有限乱数」方式を使用していた。
だから、一度解かれると筒抜けになる。
陸軍は、それよりも暗号強度の高い「無限乱数」方式を使っていたからなあ。
無限乱数は、無作為で作られた場合理論上解けないからねえ。
(336:緑装薬4 ◆8R14yKD1/k)

陸軍は乱数表を一回の通信で破棄するワンタイムパッド方式の暗号だった。
この暗号は理論上は絶対に解読不可能。
どの乱数表を使用するか直前にならないと判別不能なので、
何かの拍子で連合国側が乱数表を収得しても役に立たなかった。
そこで陸軍の暗号表に付いた連合国側のあだ名は「トイレットペーパー」

もっとも、これは貧乏で通信機器が貧弱で通信量が少ないからこそ出来た芸当だが。
(336:75)

旧軍において、剣術を学んでいた人間はどの程度いたのでしょうか?

あと、もしやっていたなら、流派は何が主流だったのでしょうか?
とりあえず、士官はみんな何かしらの剣術は学んでる。
経験のない奴も戸山流剣術を士官学校で学んでる。
戸山流
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B1%B1%E6%B5%81
(584:883)

1943年の日本の大学生の学徒動員の際は、陸海軍の士官学校や兵学校でも、学期の短縮や繰上げ卒業はあったのでしょうか?

海軍兵学校では、昭和18年9月卒業の海兵七十二期は2か月学期を短縮し、
昭和19年3月卒業の海兵七十三期は当初の予定よりさらに卒業を4か月繰り上げられて
修業期間は2年4か月となっています。
(585:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

鎌倉に今も見学できる旧軍の軍事施設などはありますか?

鎌倉というか平塚駅の北側に平塚海軍火薬廠の遺構があるくらいです。
横浜ゴムの敷地内には横浜ゴム平塚製造所記念館がありますが、これは火薬廠の水交社の集会所でした。
また、周辺には平塚空襲で焼け焦げた電柱とか、焼夷弾直撃で割れた墓石もあります。
あと、藤沢市御所見の少年の森内に横穴陣地、新林公園内に横穴陣地と砲台の遺構があります。
本土決戦用には他に江ノ島の岩盤を刳貫いた東西二箇所に江ノ島砲台跡があり、鎌倉市稲村ヶ崎公園の
崖下波打ち際に横穴陣地があり、東側には銃眼が見られます。
これは、伏龍の発進基地とされたところでした。
(594:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

竹槍の実戦投入を日本軍が本気で考え始めたのは、いつ頃からなんでしょうか?

定番のサイト「藤田兵器研究所」によると、日中戦争での輜重兵の後方自衛用に
作製・使用されたのが最初で、昭和17年ごろから国内・外地で戦意高揚と後方警備の目的で
竹槍訓練が開始されるようになったとか。
(329:840)

日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか?

分隊内で射撃の上手い兵を、狙撃兵と呼んでいました。
外国のような、特別に養成された狙撃兵は居ないようです。
狙撃銃は三八式ベースの九七式狙撃銃と、九九式ベースの九九式狙撃銃というのがありましたが、
これも特別に作られたものではなく、量産した三八式や九九式の中から精度の良い品を選んで、
それにスコープを付けた物を、上記の射撃優秀者に優先的に支給していたそうです。
ただ、米側の記録によると、木の上から撃ち落した日本軍狙撃兵が持っていたのは、
殆どが普通の三八式や九九式だったそうです。
(29:566)

乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか?

不幸な人物、というのが共通した評価です。
部下に大被害を出すことが分かってた旅順攻略戦をやらせるのには、
ちょっと神経が繊細すぎる人物であった、ということでしょうか。

ちなみに軍事板一般の性質として、戦術より戦略に重きを置くという傾向があります。
旅順攻略戦は、極東の小国家が陸軍大国と喧嘩するということの戦略的な無理が集中した部分ですから
第三軍の被害を指弾するときにはまず最初に
そうした無理な戦場を設定してしまった大本営を批判するのがこの板での「物の道理」です。
(32:418)

何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。

万里の長城の東の果て、渤海にめんした地域は山海関といい
古代から中華防衛の要衝でした
この関の東、つまり遼東半島の租借地防衛の軍ですので関東軍だったはずです
日本の関東も箱根の関の東という意味です
(34:613)

旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか?

もちろん軍刑務所は存在します。いわゆる軍法会議にかけられた上量刑を決定します。
量刑の内容は死刑・懲役・禁固などでその他に懲罰として
謹慎・譴責・礼遇停止・免官・営倉・降等などがあります。
日本には公式には懲罰部隊というものは存在しません。
(38:305)

日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか?

日本軍では、平時は憲兵は陸軍大臣に属するということに
なっていて、海軍に憲兵はないです。
ですので海軍軍人も陸軍の憲兵に取り締まられるということになります。

ただ、第2次大戦中の戦時で海軍が軍政を布いていたところでは
「海軍特別警察隊」というものが置かれて憲兵のようなことをしていたようです。
(39:295)

海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか

「工廠」は旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場です。
「廠」は主に公的機關の施設に使われる場合が殆どで、
とりわけ軍事関係の各種施設に多用されました。(作業場や倉庫にも廠を使う。)
造兵廠ってのはもともと管理組織で、たとえば陸軍造兵廠本部の下に東京工廠を置いて
陸軍造兵廠東京工廠とか言ってたようです。
昭和14年に兵器行政本部が設置され造兵廠が行なっていた業務を全て担当するようになったので、
各種工廠も「○○造兵廠」と呼ばれるようになったとの事です。
(40:246)

第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか?

予算額だけなら、1940~41年まで陸軍省と海軍省の予算はほぼ拮抗しています。
1940:陸軍省:1,192,469千円/海軍省:1,033,711千円
1941:陸軍省:1,515,250千円/海軍省:1,497,374千円

1942年は陸軍が逆転し、1943年は海軍が逆転しています。
1942:陸軍省:55,847千円/海軍省:22,736千円
1943:陸軍省:677千円/海軍省:1,152千円

とはいえ、ここには数字の絡繰りがありまして、一般歳出予算ではこの金額ですが、
陸海軍の打出の小槌として、臨時軍事費特別会計予算があり、これらは、際限なく
使用できるものです。
陸軍関係は部隊派遣維持、時局即応の兵備改善、作戦資材の応急整備、航空要員の
急速補充、造兵設備の増強、占領鉄道の管理改良経費として、海軍関係では、艦船部
隊の派遣維持、艦船航空兵力と軍需品の急速充実、工作通信補給、施設整備と、南方
物資補給費用として、公債収入と植民地金融機関からの借り入れで、1943年までに、
全体では569億9,464万7,000円に達しています。
これの使い道は軍機と言うことで政府にも報告されませんでした。
(43:眠い人 ◆ikaJHtf2)

憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか?

督戦隊が必要なのは、士気が低い軍隊において、恐怖に駆られた兵士が
逃亡すると全戦線が崩壊する危険があった場合です。
特に嫌々兵士にされた場合には必要性があります。

日本軍の場合、徹底的な教育が功を奏して、督戦の必要はありませんでした。
また逃亡した場合は、親兄弟も村八分にされる世論が形成されていました。

二○三高地攻略も同じです。
特に、当時は国民皆兵と言うこともなかったはずなので、兵隊に選ばれるのは
地域や本人にとっても名誉でした。
そこで、敵前逃亡などしようものなら…。
(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)
補足しますと日本軍にも「督戦する」という言い方はあったようです。
ただ、意味合いとしては「前線に赴いて現場の将兵に激をとばす」という感じのものです。
御存知の通り、督戦隊はありませんでした。

個人的な感想ですが、職業軍人はともかく、
徴兵された日本の兵士にとっての督戦隊は「銃後」だったのかも。
(44:509)

旧日本軍で敵に寝返った例はありますか?

捕虜になった後に積極的に情報提供を行った例なら有ります。
捕虜になること自体をありえない事としてしまったため、
いったん捕虜になってしまうと箍が外れたように米軍に協力することも
多かったそうな。
また、末期になると個人の判断で投降してくることもあったそうで。
(44:機甲自転車)

日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか?

虎頭要塞のように、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるため
最後の一人まで戦死した戦線もあります。
そして関東軍首脳部が尻尾まいて逃げたのも事実。

どちらも「日本軍」です。
(44:367)

日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。

一番多かった年でも消費量が40会戦分程なので、裕に2年分は在庫があります。
使い切っていたならともかく、こんなに在庫を残して弾薬不足とはどういう事なのでしょう?
理由は2つ

1つは弾薬在庫があっても、それが戦場に存在するとは限らないこと
これは貧弱な補給線だとか、機械力の不足で迅速な輸送ができないなど

もう1つは、時代の流れ
WW2には1人殺すために必要な弾薬量が、それ以前に想定されていた
量を10倍、100倍の単位で上回ったため、規定の弾薬量ではまったく足りなかった

砲弾の場合、基数で計算してると思うけど、ハッキリ言えば想定の10倍く
らい使用してたんだよね。現実に日本軍は一年で全ての部隊が40会戦もする
ような作戦は実施してないでしょ。
(46:176,178)

近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか?

貴官が、どのようにしてその情報を入手したのかわからぬが、
微妙にずれている。(伝言ゲーム的な情報混乱であろうか?)
 確かに、近衛兵の場合、「家柄」等もみるが、それは、士族とか、平民といったもののことではない。
社会主義や、共産主義、無政府主義等の反皇室・反社会思想の持ち主が親戚や身近にいて、
影響を受けていないかをみる。

体格については、小官、よく知らぬのだが、甲種合格が、大前提であろう。
(46:315)

何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの?

日本史板で見た気がするが、陸軍は長州閥が中心になって創設されたので、
自分達の国の固い言葉使いを押し付けたためあんな口調になったそうですよ。
海軍で敬称をつけないのは階級自体が敬称だという考えからだそうです。
(48:907)
「○○であります」という口調も、もともと長州弁の言いまわし、という風に聞いたことがあるぞ。
(48:908)

首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか?

階級的には杉山元、畑俊六元帥の方が上。
でも陸軍内部での実権的には東条の方が上。
日本陸軍では元帥は「長老」扱いで会社で言うと「相談役」に近い。
ただ、下から上がってきた命令書に印を押すだけの存在。
(46:962)

旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか?

兵卒。
(47:831)

大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか?

陸軍少年飛行兵や海軍の海軍予科飛行練習生のことですかね?
卒業しても17~8才ですから少年って言えば少年ですが。
陸軍少年飛行兵は昭和9年、海軍の少年飛行兵は昭和5年(甲種予科練は昭和12年)ですから
昔からあった制度です。ただ、戦争末期には人材不足から若年でも戦場に投入されたのは事実。
あとは 昭和19年制定された特別甲種幹部候補生制度とか。
いずれにしても、15~6歳の少年が戦場へ出ることは日本ではなかったと思います。
(48:636)

戦前の軍人さんの最高学歴を教えて下さい

PHP文庫の「日本陸軍がよくわかる事典」に簡潔に書かれています。

将校の育成に関わる教育制度、昭和13年以降は
幼年学校・中学→予科士官学校(兵科決定)→隊付訓練→陸士→見習士官(原隊)

パイロットは、予科士官学校を出たら、さっそく航空士官学校入りのようです。

陸大は陸軍省直轄の、教育総監部に属しない唯一の教育機関で、ここが最高学府。
隊務2年以上~少尉任官後8年以内+部隊長の推薦…というのが受験資格です。

…と要約してみたのでし。
(69:名無しトンボ釣り)

旧日本軍は…戦艦や通信基地や戦闘機も電信でしたっけ?

日本軍の無線通信は基本的に電信。
隊内無線のような近距離無線では無線電話だった。

戦闘機に装備した隊内無線が役に立たなかったのは、
当時の日本の技術では質のよい小型の無線機が作れなかったから。
特に飛行機用はエンジンのイグニッションノイズによる電波妨害が酷かったそうな。
(80:134)

祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか

多分、大陸に於て治安要員または公安要員としての手腕を期待されたのかも知れません。
また、例えば、警察でも何らかの技能を身に付けている(例えば、自動車の運転など)のであれば、
幾度も召集がかけられます。

最初は兵役の時に籤に当たったのかも知れませんし、充員召集(臨時召集ではない)の名簿に掲載
されたのかも知れません。
2度目は日華事変での要員不足ではないか、と。
3度目は治安師団を作る際の要員不足と言ったところでしょうか。
(599:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか?

またなった人を十人程度ご教示願いたいです。よろしくお願いします。
中将、大将への昇進は難しかった。

立見尚文 桑名、石本新六 姫路、小泉正保 水戸、村岡惇 幕臣、一戸兵衛 弘前、大島久道
秋田、柴五郎 会津、梅沢道治 仙台、中村覚 彦根、大谷喜久蔵 小浜

奥羽越列藩では、無理だよ。
(600:オッチャン ◆UMCByHJxYk)

小倉の奥保鞏を追加ね。賊軍出身者の出世頭
元帥・参謀総長になって、華族にも列されて、
立見よりも出世した。
(601:21)

シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか?

中公新書の「思い出の昭南博物館」では、英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった
様ですが、日本軍については、占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です。
但し、海軍将校たちによる、南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し、陸軍将校たちによる
南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です。
(402:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

善通寺に師団があったのはなぜですか?

まず、善通寺は交通の要衝で、此処から四国各地に行くことが出来ます。
一朝事が有れば、即座に対応出来る位置にあります。
また、瀬戸内海に面しているため、外征を行う場合にも、船舶輸送が容易に行える土地になります。
更に、広島、姫路などの各師団との連携が容易に取れます。

また、牙が抜かれたとは言え、高松はかつての朝敵であり、其処に師団司令部を設置する訳にいきません。
徳島はあまりに大阪、姫路に近く、かつては高知に吸収されていました。
香川も同様に、最初は徳島に、次いで愛媛に吸収されていましたが、愛媛に関しては、広島の対岸にあり、
その影響下にあります。
ならば、高知は、と言うと、これも反政府運動の盛んな土地であり、かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧した
ことがあり、政府としては疑問の目で見ているところがありました。

これらを勘案すると、いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です。
善通寺の場合は、京極家自体が勤皇派ですし、地域的に比較的安定していた為、広島鎮台の分営が最初に
設置された流れもあり、次に師団を拡張する際に、この分営を師団に昇格させたと言う形になっています。
(326:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの?

大本営陸軍参謀部(昭和16年12月19日現在)の主要編制(戦史叢書 大本営陸軍部<1>昭和17年4月まで)
 ※ 「海」は海軍からの兼勤、「ケ」は部外からの兼勤、「兼」は大本営内相互又は参謀本部との兼勤
参謀総長 大将(1)、参謀次長(中将1)
総務部 (部長 少将)
 庶務課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(2、兼1)
 第1課 (課長 大佐) 少佐(1、ケ1)
第1部 部長(中将)
 第2課 (課長 大佐) 大佐(海1)、中佐(5、海2)、少佐(6、兼1、海1)、大尉(1)
 第3課 (課長 中佐) 中佐(2)、少佐(7)
 第4課 (課長 大佐) 中佐(海1)、少佐(3)、大尉(1)
第2部 (部長 少将) 部付(兼1)
 第5課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第6課 (課長 大佐) 大佐(1)、中佐(2)、少佐(3)
 第7課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第8課 (課長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼1)
第3部 (部長 兼 少将)
 第9課 (課長 大佐) 中佐(兼1)、少佐(兼2)
 第10課 (課長 大佐) 中佐(兼2、海1)、少佐(1)
 第11課 (課長 大佐) 中佐(兼1、海1)、少佐(1)
第20班 (班長 大佐) 大佐(兼1)、中佐(1、兼1、海1)、少佐(1、兼1)
研究班 (班長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼3)
第18班 (班長 兼 少将) 大佐(1)、中佐(1)
(325:746)

日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか?

福留参謀長は捕虜になった際に暗号表を奪われるという失態を犯した。
そのため、「捕虜になった」ことを咎めると、
「本来遭難した時点で処分しなければならなかった暗号表を処分し忘れた上捕虜になって敵の手に渡してしまった」
ことが公になってしまうので、そもそも「捕虜になった」こと自体を「なかったこと」にしてしまったので。

「表向きはそれでもいいけど、責任は取らせるべきだ」という議論はあったが、
とにかく「暗号表を奪われた」ことだけは隠蔽しなければいけなかったため、
一切の処分ができなかった。
(607:904)

旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか?

ほぼ、陸軍兵器廠の第一陸軍造兵廠第1製造所で一手に作られ、関東大震災後に
九州小倉に陸軍造兵廠の分工場が作られ、こちらでも銃弾が製造されています。
一般に造兵廠自体は、最先端の生産設備を導入し、その技術は高いものでしたが、
量産技術は余り高いものとは言えず(それでも、民間に比べれば遙かに高い)、
戦時中も、前線からの要求を満たすことはありませんでした。
(497:313,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか?

またこれは殺しあって共食いという感じだったのでしょうか?それとも死体の肉を漁っていたのでしょうか?
友軍の屍肉は食べちゃいけませんという命令が出た地域があるので
あったのか無かったのかといえばあったのでしょう。
屍肉が基本らしいですが、応用的にどういうことがあったのかは・・・まあ真相は闇の中ですよ。
(360:514)
真っ先になくなるのは尻かももの肉だったようです
グアム島では人肉食によりアメリカの裁判で処刑されていますが、その人の証言では肝臓が旨いとか…
人肉を食った人は動物蛋白を急に採ったせいか肌に艶が出てくるので、何となく食ったのが分かったそうです
ガダルカナルやフィリピンなどて特に報告されています
(360:515)

戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか?

海軍について言えば、1868年に制定された海軍武官官階と言うのが最初に来て、次いで
1872年の海軍武官官階で全階級を設定し、1878年以降は海軍武官官階及海軍卒職階
となっています。
陸軍は、陸軍武官官等表と言うのが、1868年に制定され、1874年に改訂されていっています。
(614:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

統帥権干犯ってどういう意味?

統帥権という用語は、大日本帝国憲法で用いられている言葉。
形式的には、天皇が最高司令官であり、軍隊を統率する権能を持っていることを表した言葉です。
軍人たちが使った「統帥権干犯」というのは、
「神聖なる天皇のみが持つ統帥権を侵害するのか!」てーことですよ。
軍部に批判的な文官や政治家なんかが、軍部の意思決定を覆そうとしたり、批難したりすると、
「お前、それは統帥権干犯だ」という風に言って、それらを封じ込めて来たわけです。
(613:128)

戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか?

陸軍刑務所行きだろ。立派に前科者の仲間入りです。

陸軍刑法第60条
上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス
1 敵前ナルトキハ1年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス
2 其ノ他ノ場合ナルトキハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル
(創作質問55:471)

戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか?

軍政組織は1872年に陸軍省と海軍省が設置されるまで、兵部省がいわゆる国防省的な組織と言えたかもしれないぞ。
先の大戦の大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部を隷下に置く、統合参謀本部的な組織だとも。

まあ、ネタ発言だと取ってくれても構わないけどな。
結局、組織なんてもんは分化と統合を繰り返すもんだし、看板だけっていうのなら、
戦前にも、陸海軍の統合組織はあったぞ…てー話。

なかなか一度できた垣根を取っ払うって難しい。
イギリスだって、1923年に3軍統合の参謀本部委員会を作っちゃいるが、
器作って酒入れずの状態が長いこと続いた。
陸海空軍の各省の上に立つ国防省だって、1940年に西方戦役が勃発して、
チェンバレン内閣が倒れた後に、チャーチルが作るまでなかった。
それさえも当初は、とにかく国防省は作ったが、職掌も決まらずチャーチルが首相兼任で、
内実が伴うのは戦後になってからと言ってもいいくらいだ。

アメリカだって、統合参謀本部の設立が1946年。国防省(国防総省)の発足は47年。

大本営の設置で軍令組織を建前だけ、表面だけにせよ一本化した日本は、先駆的だったかもしれないw
(620:479)

旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか?

メグロ号は、1941年に陸軍の試験に提出しましたが採用となりませんでした。
キャプトン号も同様、宮田製作所のアサヒ号は1940年に早くも見切りを付けて自転車製作に
転業しました。
他に、広島でSSD号というのが試作され、軍用試験に供されましたが、経営的に不成功。

まともに軍で採用されたのは、陸王の他、日本内燃機のくろがね号、岡本工業の能りつ号の
三種類で、後に、97式自動二輪車が、日本内燃機や東洋工業で製作されています。
(622:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか?

表だって公表されているものとしては東部ニューギニア。

有名なものとしては、昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名、下士官兵37名)
がアポレンガ付近で豪州軍に投降(なお、この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長。砲兵聯隊は火砲を全部失ったた
め、昭和19年9月に解体され人員は各歩兵聯隊に編入されていた)。

そのほか、豪陸軍公刊戦史によれば、昭和20年8月10日に大尉以下12名が、同11日に大尉以下16名が投降したとの
記録がある。
(306:49)

戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか?

書きます  戦闘詳報というのは各種情報 人事・情報・訓練(運用)
兵站の部隊情報をまとめたものです。 一日1回程度上級部隊に提出をします。

毎日書くのは「戦闘要報」(海軍では「戦闘概報」)で、「戦闘詳報」は戦闘が終了したときに書くものです。

○戦闘要報
 : 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき)、日没後速やかに
  各部隊隊長が当面の戦闘経過概要、彼我の態勢、敵情判断及びこれに対する自己の企図、
  彼我の損害概数、弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの

○戦闘詳報
 : 一方面の戦闘終了後、各級指揮官が、戦闘の詳細を記録して提出する報告文書
  主要記載事項は、戦闘前の彼我態勢の概要、各時期における戦闘経過、関係部隊の動作。
  彼我の交戦兵力、敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法、戦闘後における彼我の形勢
  概要、戦訓など

(304:18-39)

日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか?

天皇で一元化してるやん
実際の作戦指導のレベルで、補弼機関としては「大本営」で一元化してないか?
明治28年、日清戦争を控えて戦時大本営条例が制定公布されたが、この制度をめぐ
って陸軍が参謀総長を幕僚長として陸海軍の統一的運用を行うことを主張したことか
ら、海軍との激しい対立が起こった。
その時は陸軍の主張は通ったものの、海軍は海軍軍令部条例を制定、海軍の作戦
については海軍軍令部長の専管事項とすることと定めることで妥協が成立した。
しかし、戦争が終わった後、再び改正をめぐって統帥の一元化を主張する陸軍と陸軍
出身の参謀総長に異質な海軍作戦をゆだねることは出来ないとした海軍の対立が再
燃し、結果、明治38年に陸海軍の両幕僚長を並立することとして改正された。
そのためには陸海軍の対立を調整する機関が必要なため、明治31年、その目的で元
帥府が設置され、同日、元帥府設置の詔が出され、小松宮彰仁親王、山県有朋、
大山巌両陸軍大将、西郷従道海軍大将らが元帥府に列せられた。
しかし、明治35年に西郷従道が亡くなると元帥府に意見調整機能はなくなっていまい、
元帥府は重要軍務について天皇の諮詢に応じる機関となった。
その後、陸海軍の対立は形を変えたが、太平洋戦争終戦まで続いた。
(303:507-614)

大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか?

内政的には、大国ロシアを打ち破った栄光の軍隊を、戦争が終わったからと言って縮小するなどできなかった。
また日露戦争の辛勝を政府が隠した事が、戦後処理に対する民衆の不満を徒に大きくした。
日清戦争の勝利で莫大な賠償金を得たのに、日露戦争ではそれがなかった、これはおかしい、
「本来戦争ってのはもっと儲かるはずだ。」こんな考えが世間的に広まってきていた。

外政的には、未だロシアの脅威が消えない状況で軍縮などできるはずもなかった。
また世界恐慌に対し他の列強諸国は植民地内で財を循環させるブロック経済方式を取ったが、
植民地らしい植民地を持たなかった日本は新たに財を循環させるべき地を獲得する必要があった。

これら内政的・外政的要因が組み合わさり、拡大政策がとられた。
(戦争板初質スレ3:496)

日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか?

1940年にドイツ、イタリアへ軍事視察団を派遣して、ポーランド戦や、フランス戦での
戦車戦の実情や戦訓を情報収集していますが
戦車の整備に力を入れました。
ドイツの活躍を見て以来、それまでの冷淡な態度がうって変わって「戦車サマ、サマ」になったのです。
なんだかんだで97式中戦車は2000輌以上生産され、ピーク時には年産1000輌に迫りました。
これで戦車師団を編成し、陸軍の決戦兵力にしようとしたのです。
(659:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)
「ドイツの電撃戦に影響を受け戦車の有用性は認識され、
1941年(昭和16年)2月には陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。
(中略)
部隊は編成されたものの肝腎の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、
その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、
その編制すら満足になることはなかった。

下記、ウィキペディアの機甲師団の大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷を参照ください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E7%94%B2%E9%83%A8%E9%9A%8A
(659:霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg)

日華事変以前と比べて帝国陸軍の
航空機の生産量は約5倍、戦車の生産量は約20倍。

ついでに昭和17年度に策定された需給計画では

       航空機 戦車
昭和17年  6,400  1,500
昭和18年  8,000  2,000

もうひとつ隠れたカラクリがあります。
昭和17年度の航空関連に配当された鋼材7.4万トン、予算13億円に対して
戦車・自動車は鋼材7.6万トン、予算5億6千万。
資材の配当量では航空機より上だったりします。

日本は昭和18年度までは、戦車を航空機の次に序列して優先生産を計画してます。
昭和19年に入ると一転してほとんど顧みられなくなり、その落差が日本の戦車軽視を錯覚させているのです。
(659:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)

旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか?

例外はあるかもしれないが、おおむね平等に扱われる。
というのも、下手に差別したりすると、戦闘中に後ろから弾が飛んでくるから。
朝鮮出身者も、正規軍人であれば平等に扱われたようだ。
(ただ、反乱の可能性があるとして、労働力として軍属で連れて行った朝鮮人労働者をひとまとめにして隔離した事例はある。)

ただ、これらは軍隊と言う組織の性格上のことであって、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたことは無関係。
(296:578)

日本軍の参謀や幕僚の組織編成


戦史叢書「本土決戦準備<1>-関東の防衛-」によれば、

第1・第2総軍司令部
 参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名

方面軍司令部(第5,第10~第13,第15~第17) ケは軍管区司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将~大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将~大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍司令部(第50~第58)
 参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐~大尉)5名

師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93)
 参謀長(大佐)1名 参謀(中佐~大尉)3名

師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157)
 参謀長(1名),参謀(3名)

師団司令部(第201,第202,第209,第214)
 参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名

師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355)
 参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名
(294:259)

陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか?

陸軍内だけでも20mm機関砲弾だけで以下の6種類あるんだが。

20*80
20*142
20*125
20*94
20*113
20*99RB

海軍と統一する前に陸軍内部で統一するのが先だろ。
(676:717)

満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか?

薩摩閥は陸軍内では元々そんなに大きくないし、
長州閥は山縣の死んだのと長州閥の専横を嫌った若手将校が
一夕会を結成してこれに対抗しようとした為、、その後は急速に衰えてしまいました。
一夕会結成の中心となったのが小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山の三人です。
ですが、小畑と永田の方針の違いからこの会は二つに分裂してしまいます。
これが永田を旗頭とする統制派と、小畑を旗頭とする皇道派です。
(288:431)

皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか?

皇居遥拝は植民地(最初は朝鮮半島)向けに“発明”された儀式だが
戦中じゃ本土の日本人にも広まっていたんだぜ
おれの親父は船乗りだったが、毎朝船長の主導で皇居遥拝をやったと話していた
昭和40年代ぐらいまでに作られた戦争映画には皇居遥拝のシーンがわりとよくでてくる
(287:46)

予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか?

それと卒業後は毎年大尉までは自動的に昇進するというのは本当ですか?
甲飛は、16歳(1943年以降は15歳、1944年には中学二年修了程度)で入隊し、二等飛行兵から進んで、
2年半の教育終了後に上等飛行兵曹、更に練習航空隊撰修学生として1年教育の後、23歳で少尉となる
ことが予定されています。
前述の通り、最初の入隊年齢が下がっているので、少尉任官が20歳というのはあり得る話ではあります。
乙飛は、15歳(1941年以降は14歳)で入隊し、二等航空兵から開始して、19歳で二等航空兵曹、25歳で
飛行兵曹長、29歳で少尉となることが予定されていました。

そこまでは自動的な昇進ですが、それ以後は人事考課に従って昇進が決められます。
(287:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか?

それとも陸軍の要請で海軍がそこまで船を動かしたんですか?
上海事変が起きたときに、陸軍は輸送船を確保できなかったために出動できず
海軍の上海特別陸戦隊が予想外の勝利を重ねてしまい、陸軍の威信と活動計画が潰れてしまいました。
そこで、事変解決後に、陸海軍がそれぞれどの民間船を借りて運用するかを明確化した計画が立ちます。

日華事変はあまりにも突発的に発生したので、この民間船運用計画は使えず、
増援部隊を海軍艦船で派遣する羽目になってます。
そこで、さらに民間船運用計画を具体化する一方、陸軍独自の揚陸艦計画も立ちました。

太平洋戦争は、1年半以上の時間をかけて陸海軍の担当部署を分けた上で開戦に臨みました。
民間の輸送船を借りる際も、陸軍がこの船を徴用・海軍がこの船を徴用…と事前に話し合ってます。
この協議によって、たとえば日本郵船りま丸・りすぼん丸は陸軍が借り、りおん丸は海軍が借りると決まり
これによって、りま丸は兵員輸送用の「蚕棚」、りおん丸は飛行機修理工具をセッティングできるわけです。
陸軍は20万トン分の輸送船を維持する契約ができ、護衛はもちろん海軍艦船が付きました。

しかし当然ながら、補給任務を続けているうちに撃沈される船も増えてくるので、
新造船の取り合いや陸海軍間での契約差し替えが必要になりました。
陸軍はとにかく輸送に必要な輸送船を欲しがり続けてますが、海軍もそれは同じことです。
閣議で陸軍18万トン減少案が突き出されて、逆に37万トン増加を主張する参謀本部と大きく見解が分かれ
佐藤賢了軍務局長と田中新一1部長が殴り合ったのは余談…。
(278:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか?

士官でも後方勤務と前線勤務がありますし、士官と兵でもまた違いますし、一般召集兵についても
二種類有るので、一概には言えませんが…。

指揮官先頭などの伝統があるので、前線勤務の士官の戦死率は高いです。
太平洋戦争開始前には既に前線勤務の士官は払底しており、そのために大学生の様な高等教育を
受けた人間で充当する構想が進んでいます(これは俗に言う学徒動員)。

兵士の中では、充員召集を受けた者と、臨時召集を受けた者では、前者の方が大事にされます。
極端な話、臨時召集を受けたものを先に立たせて、後から充員召集を受けた者が付いていくと言う
状況もあったようです。

これは、充員召集が、元々の計画に従って宛われた将兵であるのに対し、臨時召集は単に該当師団に
欠員が出た者を召集で補う為に起きたりしています。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか?

また、陸大、海大の定員は?
入学者数のデータは入手できなかった。逆に卒業者数から類推してほしい。
まあ定員はないに等しいように見受けられる。

陸士の場合(ソース:「日本陸軍がよくわかる事典」PHP)
士官生徒時代(明10~22)、1期117名。最少6期(明16)59名・最多11期(明22)207名。
士官候補生時代
1期(明23)147名、5期(明27)200人突破、
9期(明30)650人に急増、以後600~700人で推移。
18・19期(明38・40)それぞれ920名、1068名とピーク。翌年は反動で276名に激減。
22期(明43)以後700人前半で推移、29期(大6)536名に激減、以後200~400人で推移。
53期(昭15)1719名に激増、以後2200名程度で推移。57期(昭19)2413名。

海兵の場合(ソース:参拾壱頁)
1期(明6)2名、以後、平均的に30名未満で推移。
27期(明32)113名、初めて100人突破。
30期(明35)188名に急増。32期(明37)192名、ピーク。以後100名前後で推移。
50期(大12)255名・51期(大3)236名と例外的に突出、翌年反動で60名強。
55期(昭2)以後120名強で推移。
66期(昭13)200人突破、以後激増、73期(昭19)898名。

陸大・海大はデータなし
(107:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

補足。
海軍大学校は明治21年に甲号生徒9名を送り出し、25年までは平均9名(23年のみ2名)、
27年に将校科となって、5~8名、明治31年以降は甲種となって33年まで一桁台となり、
日露戦争時は一時途絶えますが、35年に一挙に44名が卒業し、再び39年まで卒業が途絶え、
以降は20名~30名で推移します。
以後昭和13年に30名、15年に27名となり、最後が18年の25名です。

一方の陸軍大学校は、明治18年に10名を卒業させ、以後は明治31年まで10~20名で推移します。
明治32年に一挙に40名前後に拡充し、同じく日露戦争の2年間は卒業生を輩出せず、明治42年に55名
に拡充されます。
以後、50~70名前後で推移し、昭和に入ると50名前後となります。
昭和13年、16年は年に2回卒業生を輩出し、昭和16年以後は毎回70名以上が卒業していきます。
更に昭和19年には年3回卒業生を輩出し、毎回100名近くが卒業しています。
最後が昭和20年8月卒業の120名でした。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか?

明治三十年あたりの。
う~ん、資料を探したのですが、昭和期のものしか見つからず。

△普通恩給
  … 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。
    准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
    14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。
    下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
    13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。
△増加恩給
  … 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。
    なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。
△傷病年金
  … 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職
    した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
△傷病賜金
  … 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に
    これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
    支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。
△一時恩給
  … 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額
    は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。
△扶助料
  … 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者
    の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。
△一時扶助料
  … 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時
    恩給と同様。

ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。

大将:6600円、中将:5800円、少将5000円
大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円
大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円
陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円
海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円
中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円
陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円
海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円
少尉:850円
陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円
海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円
海軍各科少尉候補生:670
准士官(陸軍):一等960円、二等:900円
准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円
(109:眠い人 ◆gQikaJHtf2 )

何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか?

ちょっと勘違いがあるようなので。
陸軍が軍旗を処分する、というのは、これから全滅します、という意思表示の一種です。
だれも軍旗を持ち帰らない、だが敵の手には渡せない、だから処分する。

全滅覚悟の攻撃でない限りは、軍旗はきちんと持っていきます。
記憶によれば、軍旗を神聖視する習慣は西南戦争から始まったようです。
根拠・伝統があるわけではなく、元々は軍旗は単なる旗以上のものではなかったのです。

海軍の軍艦旗は陸軍の場合と異なり、フネの備品の一つにすぎず、
消耗品です。神聖視はされていません。
吹きさらしのなか、掲げっぱなしですから当然破れてきます。補修が追いつかなくなったら交換。

フネが沈む、というときに軍艦旗をおろす暇がある場合は限られます。
非常時には気がついた者がおろすという程度ですが、
自沈は若干時間に余裕があることが多いので、軍艦の生涯の幕引きとして下ろすのです。
(109:924)

日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか?

陸海の予算分配に偏りがあったのですか?
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書に書かれていたので書いておきまする。

1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計、軍需省の歳出決算額で、日本銀行支払小切手によるもの。
これを原資料に、陸軍省、海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し)、費目別に算出しています。
1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です。

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  4,191  6,383  10,368  15,764  45,511  20,808
海軍省  1,532  3,104   8,385 13,779  19,069  17,553
軍需省                   1,244  10,472   8,993
合 計   5,723  9,487  18,753  30,787  75,052  47,412
陸:海   7:3   7:3    5:5   5:5    6:3    4:3

即ち、初期は概ね陸軍優位に推移していますが、中期~末期は対等になってきています。

次いで、上の表をこのうち費目別に編集し、うち兵器燃料費を抽出すると、
(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)

      1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省  1,625  1,797   3,267  4,558   3,085  3,725
海軍省   978  1,814   5,629  9,114   8,022  5,619
合 計   2,603  3,611   8,896  13,672  11,607  9,344
陸:海   6:4   5:5    4:6   3:7    3:7   4:6

となります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか?

しています。
化学兵器に関しては、既存技術の応用だったために、大学との共同研究はしていません。
医学的研究という面ならありましたが。
電波兵器については、日本学術会議電波研究委員会と東北大学の共同研究から出発しています。
他にも原子爆弾の研究にも大学との共同研究が為されています。
(270:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか?

徴兵は陸・海軍別々ではなく、陸軍の徴兵官が徴兵検査を行い一定の割合で海軍に
人員を振り分けていました。
一方海軍はもともと志願兵を重視しており、各鎮守府ごとに志願兵徴募の組織を設けていました。
昭和16年までは海軍の兵員で徴兵者の占める割合は5~6割程度です。
甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく
裸眼視力1.0が必要でした。
陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。
(50:名無し軍曹)

背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか?

あってもおかしくない。
戦争中でも全員を取れるほど軍隊の規模はでかくない。
また、背が低いのは徴兵検査の等級を下げる一因。
特に末期はそれだけでは決まらないが、原因にはなりうる。
また、徴兵検査自体は戦争してなくても徴兵制をしいていれば
取られる率は低いがある。
(52:951)
甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく
裸眼視力1.0が必要でした。
陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。
(52:955)

東亜戦時に徴兵検査にみたずに入隊できたかった、しなかった人は、当時だと非国民と呼ばれるんですか?

身体的に不合格の場合、そう呼ばれません
ただ世間的に「情けないヤツ」と見られました
左翼的思想などで刑務所に収監されたり、徴兵検査そのものを逃げると非国民と呼ばれました
(53:235)
非国民とは言われなかったですよ、軍隊にいけなかった人達は
他にも軍需工場などで働きましたし、農業などの食料を生産する仕事も
ありますので。
(53:236)

日本軍は弾一発なくなっていても報告書を書かされるほど厳しかったと聞いたんですが本当ですか?

装備の管理については「書類上は」大変厳しかったことは確かです
(弾一発レベルで管理していたかは知らない、スマソ)
ただし「書類上は」というところがクセモノで、員数調査がある時だけ
他の部隊から融通してもらったりとかいったことも許容されて居たようで
いわゆる旧陸軍の抱えていた組織上の欠陥としてよく指摘される「員数主義」
(書類上のつじつまさえ合っていれば実態はどうでもいい)です。
「厳しかった」と言えるかどうかは激しく疑問。
(54:299)

戦前の日本は何故、海軍省と陸軍省と、二つも軍関係の省があったのでしょう。

主に予算問題が原因です。
兵部省は陸軍の発言権が強く、兵部省に充てられた予算の9割以上が陸軍費に
充当されるに及び、予算配分の均等を望んだ海軍側の提案を受け入れる形で実施されました。

また、実際省務が陸海軍部に分割されて実施されていた点、
西欧における陸海軍の性質が異なる事も原因になったようです。
(55:31)

戦陣訓と軍刑法とはどんな関係にあったんでしょうか。

「戦陣訓」は「生きて虜囚の辱めを受けず」のフレーズが有名ですが、元々は軍規弛緩を正す
ためにつくられたもの。占領地での略奪、命令違反などが横行したもので。
陸軍刑法との関係だと、状況の悪化を受け具体的細目を示した大臣告示(もしくは通達)のよ
うな位置づけではないかと。

捕虜になることを問題視されるようになったのは何も「戦陣訓」のせいだけではなく、それ以前
(昭和初期)から捕虜をタブー視する非公式規範が軍や社会の中で醸成されていたようです。
そうした結果太平洋戦争以前でも、例えばノモンハン事件では多数の悲劇が生じました。
日露戦争の頃は違ったのですが・・・。

海軍は詳しくないのですが、将官で捕虜になったけどお咎め無しになった事件がありました。
もっとも下々の場合はそうはいかなかったようですが。
(56:525)

旧日本軍の撃ち空薬莢の管理は厳しくて1つ無くしても探し回ったそうですが

誰が、いつごろ、どのような理由で薬莢管理を厳しくしたのですか。
回収して資源として再利用するために日中戦争前後から
行われています。
実戦でも可能であれば薬莢回収は行っています。
演習においては、必ず薬莢回収を行っています。

ついでに、襲撃機キ-102の試作の際、当初機関砲に薬莢
受けは付けていなかったのですが、陸軍上層部の意向で、
薬莢受けを取り付けたと言う話もあります。
(57:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

山本五十六は英雄か、はたまた日本を奈落のそこに落とした人間の一人か?

海軍航空の育ての親としては評価が高いと思われ。
戦争指導に関しては賛否別れるといったところじゃないか?
(57:283)

旧日本軍は従軍牧師のような制度は存在しないの?

中国戦線では従軍僧が同行していた(やっていたお坊さんに直接体験を聞いたことがある)
その他、特に南方では多分いなかったはず
米軍とは違い、従軍僧は軍人ではなくて大谷教団が派遣していたので(えーと、他のも
派遣した宗派があったようだがよく知らない)軍属扱いかな
(60:208)

愛新覚羅王女川島芳子さんの軍隊での階級は何ですか?

川島芳子の軍隊の階級は確かなかったはずです。
基本は自称で上尉と名乗っていたかと記憶しています。
(61:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

電信兵(?)というのはあったのでしょうか?

死んだ祖父が戦時中、それだったらしいのですが・・・
日本陸軍の場合、通信兵種は工兵科に属します。

通信兵は歩兵旅団に通信隊として配属されるほか、師団の工兵大隊内部に電信聯隊という独立した
部隊としてもありました。
更に敗戦までに、工兵隊の膨張に伴い、通信隊司令部、電信聯隊、独立有線中隊、特殊無線隊、
超短波無線中隊、固定通信隊が出来、船舶輸送司令部配下には船舶通信聯隊も作られています。

また、陸軍通信学校では、軍用通信の教育と軍用鳩の育成を行います。
甲種は中少佐大尉に三ヶ月、乙種は大中尉に八ヶ月、丙種は尉官に八ヶ月、丁種は下士官に八ヶ月
の教育を行い、特種学生は尉官に暗号教育を三ヶ月、鳩学生は尉官下士官に二~四ヶ月の教育を
行います。

このほか、陸軍少年通信兵学校というのもあり、通信関係現役下士官(少年通信兵)養成の二年制
の学校で、1941年に設置されました。
卒業後、兵長として一年隊付きの後、伍長になります。

日本海軍ならば、通信兵種は、兵科に属します。

元々、水雷兵種に属していたもので、教育課程は、1930年に分離独立しています。
高等科は大中尉に一年、普通科は中少尉に四~六ヶ月、特修科は佐尉官、兵曹長、上等兵曹に四~六ヶ月、
専攻科は高等科卒に一年の教育を行なうものです。
(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか?

1930年で陸軍25万、海軍5万。
1931年で陸軍23万、海軍78,430。
1932年、陸軍30万、海軍83,822。
1933年、陸軍35万、海軍88,968。
1934年、陸軍35万、海軍97,069。
1935年、陸軍35万、海軍98,896。
1936年、陸軍40万、海軍107,461。
ちなみに、現役徴集率(その年の徴兵検査を受検した適齢者で、現役兵として
実際に入営した者の割合)は、1933年で20.1%。
1938年は46.9%となっている。
(126:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか?

戦争中に恩給をもらって生活するということはあったのでしょうか?
該当者の死亡確定後、1942年までは地方長官、1942年11月以降は市町村長への申請によって
在職三年以上ならば、遺族に扶助料として、公務中の死亡なら普通恩給の10分の8、それ以外なら
10分の5が支給されますが、その在職年限に達せざるに死亡した場合は、一時扶助料となり、その
金額は一時恩給と同額、即ち、死亡当時の棒給月額に在職数を乗じた額が一度だけ支給されます。

このほか、徴兵保険というのがあり、死亡の場合は保険会社から掛け金が支給されるものもあります。
今の富国生命が、その徴兵保険で大きくなった会社です。

いずれにしても、1942年までは地方長官決裁ですから、申請してもその支給までは暫く掛りますし、
恩給だけで生活するのは、半農半漁の自給自足が可能な人なら何とかなるでしょうが、それ以外の
人は、家族の為に再婚するか、自分自身が働きに出るかしないといけませんでした。

一時扶助料は文字通り一時金だけですしね。
(264:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は世界的に見て強かったのですか?

何が強さの基準となるのかはっきりしないが、
まあ普通に考えれば陸海軍ともに世界的に見ても強かったな。
単に上には上がいるというだけで、当然下には下がいる。
(俺初質スレ433:177)
歩兵や水雷戦隊、航空隊に関しては連度も装備も良好で強かったのは確かだ!

ただし陸軍なら対戦車装備が乏しかったし、砲兵には予備弾が少なく継戦能力が低かった。
さらには前線航空管制が無く、有力な航空直協が行えなかった。
海軍なら重巡洋艦以上の水上艦に関しては、明確に「強い」と言えるほどの実績に乏しいな!
夜間近接戦闘とか、トロくさい護衛空母を追いかけるんなら強かったが。
(俺初質スレ433:179)

旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか?

また左官待遇の「技官」という職種があったらしいのですが、技術士官との相違は何なのでしょうか?
陸軍の場合は、砲工科技術将校を以て構成しています。
即ち、彼等は兵科将校としての役割を持っています。
従って、戦闘員の扱いになります。

海軍の場合は、造船、造機、造兵の各科を統合したもので、彼等は、将校相当官に
位置づけられます。
従って、兵科将校ではありません。

「技官」は、軍属で軍人ではありません。
あくまでも、軍人以外で、本人の意思によって職業として陸海軍に勤務する者であり、
文官、雇員、傭人に分けられますが、技術官は文官扱いです。
その待遇はピンキリで、親任官待遇、つまり大将相当から、兵卒待遇まで様々ありま
した。
(260:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか?

治安維持法に反する思想犯(例えば君主制の撤廃、共和制の実現、プロレタリア独裁政府の
樹立、国家否認、植民地独立、私有財産制度否認などなど)については、近衛師団が取締を
行うものではなく、検事局、特別高等警察、憲兵隊が担います。
近衛師団の兵が逮捕、拘禁する場合は、賢き処に対する直接行動(例えば、天皇に爆弾を
投げる、ピストルで狙撃する、日本刀で斬りつけるなど)を行った場合だけです。

(余談ながら、天皇行幸の際に供奉するサイドカーの側車前面にはカバーがありません。
 これは、いざというとき、すぐに行動に移せる様にとの教訓からこのような仕儀になっています。)
(141:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。

天皇の統帥権には、国防計画に関する事項、作戦計画に関する事項、平時に於ける陸海軍兵力の使用に関する事項、
戦時に於ける陸海軍兵力の使用、即ち、作戦・運用に関する事項、軍隊及び軍人の訓練・懲罰・内部組織に関する事項
が含まれます。

これらの統帥権を行使するのは、帷幄の機関、即ち、参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣の上奏に基づき行なわれるもの
とされています。
上奏を行なうのは、あくまでも、「事の軍機軍令に係り奏上するもの」で、これらは、「陸軍大臣、海軍大臣より内閣総理大臣に
報告すべきもの」なのですが、屡々、この部分は忘れ去られています。

帷幄上奏に基づき勅定されるのが軍令で、手続き的には、参謀本部、軍令部、または陸海軍省で作成したものを、参謀総長、軍令部
総長、陸海軍大臣が天皇に上奏し、天皇が親署の後、御璽を鈐し、主任の陸軍大臣、海軍大臣が年月日を記入し、これに副署します。
これで成立する訳です。
本来は、これを公布する際には、内閣総理大臣への報告が必要ですが、先述のように屡々無視されています。

また、公布は、公示を必要としない場合もありますが、公示が必要な場合は、上諭を付し、官報に記載します。

ちなみに、2.26事件の様なクーデターとかに行なわれた戒厳大権、戦時、内乱勃発時に行なわれる非常大権については、これは
統帥権の埒外になります。
(146:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか?

兵部省から海軍が分離したのは、明治5年のことです。
元々、日本の軍隊というのは、中央政府軍としての御親兵と、地方の治安維持のために鎮台を各地に
設けているところからスタートし、その人材は、各大名家の藩兵から募っていた訳です。

しかし、徴兵制が施行され、平民出身の兵士が各鎮台に入営し、歩兵聯隊9個が編成されました。
また海軍も明治5年以降拡張が続きます。
国内治安優先の軍隊から外征用軍隊への転換を促したのは、兵部大輔の山県有朋で、彼は1871年12月、
兵部少輔の川村純義、西郷従道と共に、政府に「軍備意見書」を提出し、常備兵、予備兵からなる徴兵制
導入、軍艦、海岸砲台の建造、幹部養成学校や軍工廠の設置を行ない、しかる後に朝鮮半島を利益線として
確保し、ロシアの南下に備えるとしました。

これを実現するには一つの組織では難しく、結果的に分割した方が良いと言うことになり、陸軍省と海軍省を
並立させた訳です。
但し、「陸海軍」と海軍が従になったのは、明治5年からの事で、明治初年は海陸軍と称しています。
余談ながら、原敬はその日記で、死に至るまで「海陸軍」と書き記していたそうです。
(148:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか?

海軍は日ソ間の戦争を深く研究してはいませんでした。
そのツケが現れたのが尼港事件。
以後、ようやく冬季の沿海州行動がスムーズにできるように、
膠州や見島などに砕氷改造を施し、やがて大泊を就役させることになります。
また、満州事変後に建国させた満州国の水上戦力指導のために駐満海軍部を設置し、
この特務機関の主任務を
 ・陸軍省も参謀本部も把握できていない関東軍の状況把握
 ・ソ満国境付近での対ソ諜報活動
 ・満州海軍の指導
として掲げ、対関東軍諜報活動の片手間に、国境ソ連軍の動向調査を行っています。
要は、たいした対ソ研究はやってないんですね…軍令部でも課一つで対応してましたし。
(248:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか

陸軍少尉の場合、年俸は850円で、恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています。
これは大学事務官、事務官補、関税官などより低く、判任官三等七級より高いものです。
判任官は、技手、外務書記生、警務官補、裁判所書記、看守長、帝大助手、文部省直轄学校助教授、
二等郵便局長、警部、警部補、消防士が軍人以外に挙げられます。
これより下が、判任官待遇で、小学校教諭、府県書記技手、三等郵便局長、巡査、鉄道手です。

生活水準としては今と同じで、贅沢さえしなければ、そこそこ暮らせる状況でしょうね。
(157:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか?

人生色々ですわな。
将官まで勤め上げた人なら、余程のことがない限り、基本的には、何処かの軍需関係の
企業や軍関係の外郭団体、その他でも地方公共団体が拾い上げてくれます。
今の何処ぞの国の公務員と同じだと…。

例えば、55歳の大佐(兵科の場合)であれば、少将に進級することが無ければ、現役から
退くことになります。

現役のままでも、補職の命令がなければ待命となります。
待命と言うのは、俸給は支払われますが、職がない状態です。
待命期間は1年で、この間に補職が為されないと、休職となります。
この間に就職活動とかする訳で。

休職期間は2年で、これが過ぎると予備役に編入されます。
そして、現役定限年齢に達した日の翌3月31日に後備役に編入されます。

後備役の期間は6年で、それを過ぎると退役になります。
(1941年以降は予備役6年で後備役は無くなる)
なお、待命~休職は人によってまちまちで、この手続きを経ずに本人の願いによる
場合、あるいは健康状態や、人事上の都合で、直接予備役編入という場合もありま
した。
(159:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか?

派閥同士の対立は何処でも同じです。

特に山梨軍縮、宇垣軍縮の時の陸軍内部の対立は、山県有朋から連綿と続く長州閥の占める
陸軍中枢と、それに対抗するそれ以外の極端な保守派が対立していますが、この保守派の中
には、薩摩閥を多く抱えていました。

ちなみに、薩摩閥、長州閥の優遇というのは日露戦争以後、山県有朋の隠棲後は表向き影を
潜め、士官学校出の様々な出身地の人々が徐々に増えていっています。

海軍については、薩摩閥が多かったですが、こちらは西郷従道など薩摩出身者が部内の融和
に勤しんだため、対立が極端になるといったことは少なかったようです。
(159:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか?

陸軍は当初フランスをお手本にしてた。銃剣術もフランス式だったが、
西南戦争なんかやってみると、これがあまり役に立たない。
戸山学校などではこっそり日本の槍術を取り入れた日本式銃剣術を研究。
陸軍のお手本がドイツに変ったのを機にこれが採用された。
軍では「銃剣術」であったが、学校等では武道「銃剣道」として広がり、
戦後はこの武道としての銃剣道が残った、ということ。
(235:512)

38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね?

明治初年の陸軍創設の頃は、兵器は海外からの輸入に頼っていたので、海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました。
明治13年からは、基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため、以後、採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました。

明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは、元号を制定年度としています。
本来は、「○○年式」という呼称が正しいのですが、明治31~45年にかけては、その体裁が崩れ、三八式歩兵銃、
四五式榴弾砲という形で、「年式」省いた略称が喧伝されたケースもありました。

昭和期に入ると、制定年度で、呼称を付けるのは、大正期と紛れやすくなるため、陸軍では皇紀の下二桁を
冠することに切り替えました。それは、昭和元年の八六式から開始されています。
皇紀は昭和15年に2600年となりますが、昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式、海軍は零式とし、
以後は下一桁を以て兵器に冠しています。
(169:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。

葉書は兵士に対しては,一定枚数が配られ,その通信費はタダ,封書・航空便は内地と同じ金額を支払います.電報,書留,
現金書留はありませんが,貯金,為替は取り扱っています.
(176:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

将校は終身制なんですよね?

将校は終身官であり、退役しても退官しない限り軍人です。
退官は、処分などにより免官となる場合などに限られ、普通には無い訳で。
で、将校は、現役→予備役→後備役→退役という形で推移していきます。

兵役では、旧陸軍の場合、一般的に満20歳(1944年から19歳)から陸軍2年、海軍3年の期限で、
教育のため軍隊に入って軍の根幹足るべき者が現役、その現役の終わった者全員(軍残留者除く)
が予備役、これが陸軍5年4ヶ月、海軍4年あり、戦時には最優先で召集されます。
この予備役が終わった者全員は後備役となり、戦時は予備役が払底した後に召集を受けます。

但し、日華事変で後備兵役者が多数召集されて、予備役と区分する意味が無く、後備兵役の名で
自他共に老人扱いする弊を除くべく、1941年に予備役に統一されました。
後備兵役は、陸軍10年、海軍5年であり、1941年以降は、予備役として、現役を退いて後、陸軍15年、
海軍12年となっています。
(231:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍と先鋭的に対立していた海軍がなぜ独自の憲兵を持たず陸軍憲兵に部内警察業務を委託してたのですか?

憲兵は陸軍大臣に属する兵科ではありますが、海軍大臣の指揮をも受けます。
これは明治31年勅令第337号の憲兵条例に定められたものでした。
更に遡るなら、1881年(明治14年)3月11日の憲兵条例第一条で、海軍の取締も定められています。

海軍大臣の指揮を受けるのは、海軍軍人をも取り締まる為でしたが、この規程は内地限りのもので、
戦地には適用されないとして、海軍は太平洋戦争時、海軍が軍政を布いた地域に、「海軍特別警察隊」
を設置しました。

これは、占領地の軍事警察、日本軍に対するあらゆる言動の取締り、敵スパイ活動の防止、海軍軍人の
軍紀法律違反事件、非軍人日本人の犯罪行為などあらゆる情報を集め司令部に報告することを任務と
していました。
この組織は、1942年半ばから設置されましたが、設置に当っては、当然陸軍憲兵関係者の強い反対が
あったようです。

現地では、白地に赤字で「特警」と書いた腕章を捲き、いつも拳銃を持って巡回し、憲兵同様に現地人や
日本軍人にも恐れられています。
(131:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍と海軍ではなぜ用語の統一がされなかったんですか?

「用語」と言われても広範囲にわたるので、
「零式vs百式」程度のたわいないものから「動員vs出師準備」みたいな意思疎通不能のものまで様々ですが…。

機器や物資の呼称が陸海軍で食い違う原因の一つに「陸海軍御用達」の会社の存在があります。
たとえば陸軍寄りの川崎航空と海軍寄りの愛知航空、海軍寄りの三菱造船と陸軍寄りの三井造船
それぞれ陸海軍の要求に応えられるだけの大企業なので、海外企業と提携することも多く
コンセプトは同じでも呼称や仕組みが異なる機器が各企業でも生まれたりもします。
そんな企業に対し、退役陸海軍将校が役員として天下りしてくるので、
そのぶん軍と企業の癒着は強まり、陸軍専用会社・海軍専用会社の壁はますます厚くなり
技術交流も進めづらくなって、企業同士の意思疎通もうまくいかず、
名が異なる同じ機構が陸海軍に採用されるという悪循環が起きもするわけですが。
(225:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

機関銃中隊が無い部隊というのを聞いたのですが。

機関銃中隊は編成に存在します。
後方警備部隊でも編成表上にありますし、本土決戦用師団でも存在しています。

但し、資料にある時点が、派遣された先での編成というものであれば、機関銃中隊の欠落は十分考えられます。

と言うのも、日本の船舶輸送では、兵士は兵士、装備品は装備品、弾薬は弾薬という形で分けて
輸送していました。
欧米の場合は、兵士、装備品、弾薬、車輌などが或程度一定の比率で分けられていますが、これ
には無駄なスペースが出来てしまいます。
日本の船舶にはそんなに余裕がないので、出来るだけ、単一のものを輸送する傾向にありました。
で、なるべく、それに関連する人員も乗せるようにしています。

そんな時に、ある船舶が沈んだらどうなるか。
例えば、其処に機関銃中隊の装備が搭載されていたら、機関銃中隊諸共装備は失われる訳です。
フィリピン向け輸送船団ヒ81なんかそう言う典型例ですね。
(213:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍は自動小銃の有効性に気付いていなかったのですか?

自動火器の有効性について日本軍は、日清日露の戦闘で嫌と言う程経験して居り
小銃の自動化以前に歩兵装備としての軽便機関銃の開発を急ぎました。

ガーランド小銃の有効性以前に、軽機関銃等を豊富に装備した日本軍の自動火器は遥かに充実しており
火砲などの支援が得られない状況では、火力において日本軍は米軍を常に凌駕していたのが事実です。

兵站への半端ではない負担と、急遽数量を確保した為に多数の種類の弾薬を同時に運用せねばならなかった為に
弾薬不足が慢性化してしまった為に、弾薬の不足がより深刻化した事が、
戦争後半での火力不足の実情で、兵站さえまともであれば、火力では勝っていたのです。
(702:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

日本軍の磁気信管にはどういう問題があったの?

磁気信管は不発が多かった事があげられる。
要因としては電気技術、工作技術が現在とくらべて未熟であったためとしか言いようが無いけども、
とりわけ日本においては電線の絶縁技術不足が致命的だった。
現在では当たり前のリード線(電線)のビニル被覆(電線の皮)を日本では多く作れなかったので、
油紙や油を染ませた布を銅線に巻きつけることで絶縁被覆としていたけど、
ビニル被覆に比べると格段に絶縁性能が低くて、絶縁不良(ショート、短絡)による動作不良を多く起こした。
これは魚雷だけではなく、当時の日本のほぼ全ての機械に潜在する動作不良の要因だった。
(722:339)

旧軍兵士が死亡した場合、家族にはどうやって伝えられたの?

日本軍の兵士が戦場で死亡した場合、その戦死は、先ず電報(内報)で役場に伝えられる。

その内容は、兵事係から家族に通知されるが、正式な戦死公報は数ヶ月、長ければ数年かかる場合もあった。
戦死公報には、本人の姓名階級と本籍地に加え、死亡日時と場所と死亡原因が記述されている。

また、遺族に対しては、遺品並びに戦死の状況を記した戦死概況が手渡される事もあったが、
太平洋戦争末期には、戦死公報のみが送られている。
(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

二等兵から佐官クラスに出世することは可能ですか

少数だが、陸海軍とも、再下級兵から累進して、佐官になった人はいる
(俺初質スレ1024:950)
海軍の場合、戦前から開戦後しばらくまでは、兵隊上がりの最高位は特務大尉までで、
佐官は退役時に1日のみ少佐に特進するのと、戦死後の特進に限られていたかと
戦争中に中堅士官が足りなくなり、特務士官から、正規の少佐への道が開けたんじゃなかったかな
(俺初質スレ1024:952)

どうして旧日本軍(大日本帝国)に「空軍」が出来なかったのでしょうか?

独立空軍を作ろうにも、
太平洋戦線では洋上航空戦が中心なので海軍は独立空軍のために機材や人員を引き抜かれたくないだろうし、
かといって陸軍航空隊単独で独立空軍を作るほどの規模もないしその必要性も薄い
同じく洋上航空戦が重要だったアメリカだって戦後まで独立空軍作ってないしな
(俺初質スレ2049:863)
アメリカの場合、法制上独立してなかっただけで39年ごろから実質的に陸軍の管轄から離れてるよ

で、戦争がなければもっと早期に独立するはずだった
議会の反対論がかなり強かったので遅れる可能性もあったけど
(俺初質スレ2049:864-865)
日本もドイツがやってるからうちもやろうで陸軍は乗り気だったけど海軍が反対で流れた
(俺初質スレ2049:864-865)
もともと航空戦力は陸・海の支援火力にすぎないと言う考えが根本にあったからね。

今の自衛隊は陸・海・空が別れているが、これが必ずしもいいとも言えない。
例えば海自艦船が敵襲を受けて航空機支援を求めても、空自とは別組織なので意思決定が面倒

海自のお偉いさんが要支援と判断→空自のお偉いさんに支援要請
→空自のお偉いさんが要支援&支援可能と判断→支援命令

とお偉いさん2人の判断が必要になってしまう。
海自の隷下であれば海自の判断・作戦に従って動くので指揮命令が圧倒的にスムーズ
(俺初質スレ2049:868)

陸軍の士官学校や陸軍大学校は皇族や朝鮮の王室の人ならほぼ無試験で入れたみたいですが、彼らは入学してしまえば一般の入学生と同じようにスパルタ教育されたの?

皇族は別扱いで、無条件に主席卒業確定。
(俺初質スレ20501:241)
上級生にシバかれたりするのは確実に無い
皇族軍人は任官後も実務にあまり携わらない人の方が多いし
(俺初質スレ20501:242)
平時に外地に赴任しててもきな臭くなるとどこからともなく転属命令が出て、内地に戻れる。
(俺初質スレ20501:243)
北白川宮永久王みたいに大陸で事故死する宮家もいるから、一概にそうとも言えない
(俺初質スレ20501:244-245)

旧日本軍では銃(他の装備も?)は天皇から貸していただいたものなので壊れても携行しなければならないとされていたという記述を何処かで見ました。

でも、戦争映画などでは鹵獲した米軍の武器を使用しているシーンがあり、その際三八式歩兵銃などは持っていませんでした。
実際のところ、壊れたり弾切れの銃は捨ててもよかったんですか
ニューギニアで戦った砲兵の手記では、撤退のときに中隊長命令で38歩兵銃(弾薬切れ)を
崖下に投げ捨てる模様が描かれている
(俺初質スレ434:803)
兵全員が小銃持ってるわけじゃないし
故障したり吹っ飛んだりで銃がなくなる

平時なら部品ひとつでも無くせばリンチで下手したら自殺に追い込まれるが最前線で玉砕戦線じゃなんでもありです
(俺初質スレ434:804)




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